鯛、比目魚
一
素顔に口紅で
美
いから、その色に
紛
うけれども、可愛い
音
は、唇が鳴るのではない。お
蔦
は、
皓歯
に
酸漿
を含んでいる。……
「早瀬の
細君
はちょうど(
二十
)と見えるが三だとサ、その
年紀
で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と
四辺
近所は
官員
の多い、屋敷町の
夫人
連が
風説
をする。
すでに
昨夜
も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、
可
いのを
撰
って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、
隣家
の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と
刎
ねられて、利いた風な、と
口惜
がった。
面当
てというでもあるまい。あたかもその
隣家
の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で
佇
んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと
銀杏返
しのほつれた
鬢
を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。
コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。
ちょいと
吹留
むと、今は
寂寞
として、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も
居
らず、雀の影もささぬ。
鼠かと思ったそうで、
斜
に棚の上を
見遣
ったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。
四辺
を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその
幽
な
音
にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
聞き定めて、
「おや、」と云って、一段
下流
の板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから
駈
け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて
引
くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に
引懸
け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの
太陽
が、向うの井戸端の、柳の上から
斜
っかけに、
遍
く
射込
んで、
俎
の上に揃えた、
菠薐草
の根を、
紅
に照らしたばかり。
多分はそれだろう、
口真似
をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
眉を
顰
めながら、その癖
恍惚
した、迫らない
顔色
で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の
尖
で音を入れる。響に応じて、コロコロと
行
ったが、こっちは一吹きで控えたのに、
先方
は
発奮
んだと見えて、コロコロコロ。
これを聞いて、
屈
んで、板へ敷く
半纏
の
裙
を
掻取
り、膝に挟んだ
下交
の
褄
を
内端
に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の
前
の、下水の溜りに目を着けた。
もとより、
溝板
の
蓋
があるから、ものの形は見えぬけれども、
優
い
連弾
はまさしくその中。
笑
を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
と
莞爾
した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、
衣紋
を
軽
く
拊
ちながら、
「憎らしい、お源や…………」
来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、
圧
えて酸漿をまた吸った。
ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で
三味線
の胴をうつかと思われつつ、静かに
長
くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と
突込
んで長く引いた、遠くから威勢の
可
い声。
来たのは江戸前の魚屋で。
二
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、
小柄
の
可
い島田の女中が、
逆上
せたような
顔色
で、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
とお蔦は振向いて
低声
で
嗜
め、お源が
背後
から通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
目配せをすると、お源は
莞爾
して
俯向
いたが、ほんのり
紅
くした顔を勝手口から外へ出して路地の
中
を目迎える。
「
奥様
は?」
とその顔へ、
打着
けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を
揉
んで、手を振って
圧
えた処へ、
盤台
を肩にぬいと立った魚屋は、
渾名
を(
め組)と
称
える、名代の芝ッ
児
。
半纏は薄汚れ、腹掛の色が
褪
せ、三尺が
捻
じくれて、
股引
は縮んだ、が、盤台は
美
い。
いつもの
向顱巻
が、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって
飲
こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、
奥様
、へへへへへ。」
「お
止
しってば、
気障
じゃないか。お源もまた、」
と指の
尖
で、
鬢
をちょいと
掻
きながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た
奥様
が、江戸に在るものかね。」
「だって、ねえ、
めのさん。」
とお源は袖を擦抜けて、
俎板
の前へ
蹲
む。
「それじゃ
御新造
かね。」
「そんなお
銭
はありやしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へッ、」
と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、
天秤
を立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の
背
を上から見て、
「相かわらず
大
な尻だぜ、
台所充満
だ。
串戯
じゃねえ。
目量
にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」
「お前さんの
圧
ぐらい掛ります。」
「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
「
めの字、」
「ええ、」
「二階にお客さまが居るじゃないか、
奥様
はおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の
可
い……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない
旦
じゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
と
眦
の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に
頤
をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ
湿
やかに見えたので、
め組もおとなしく
頷
いた。
お源が横向きに口を出して、
「何があるの。」
「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず
旨
えものを
食
してやるのよ。黙って入物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ
無代価
で頂戴いたしますものでございます。
めのさんのお魚は、現金にも
月末
にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」
「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」
「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」
「あれ、見や、島田を
揺
ってら。」
「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」
「いかがでございますか、
婦人
の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」
三
「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
と云って、
め組の蓋を払った盤台を
差覗
くと、
鯛
の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその
鱗
に消えないのである。
俎板をポンと渡すと、目の下一尺の
鮮紅
、
反
を打って
飜然
と乗る。
とろんこの目には似ず、キラリと出刃を
真名箸
の
構
に取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
と腰を入れると腕の
冴
、
颯
と吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お
宜
しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
「
憚様
。お客は旦那様のお友達の
母様
でございます。」
めの字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに
見惚
れながら、お源が引取って口を入れる。
えらを一突き、ぐいと放して、
「
凹
んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、
めの公塩が廻り過ぎたい。」
「そういや、
めの字、」
とお蔦は片手を懐に、するりと
辷
る
黒繻子
の襟を引いて、
「
過日
頼んだ、
河野
さん
許
へ、その
後
廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」
「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお
邸
かい。」
「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、
昨日
も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」
「行かねえ。」
「ほんとうに、」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、お
前
、あん
獣
ア、」
お源が
慌
しく、
「
めのさん、」
「何だ。」
「
めのさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの
母様
じゃないか、気をお着けな。」
帽子をすっぽり亀の子
竦
みで、
「ホイ
阿陀仏
、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」
「いいえね、つい
一昨日
あたり
故郷
の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」
「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「と御維新
以来
、
江戸児
の親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申す
めの公も、江戸城を明渡しの、
落人
を
極
めた時分、二年越居た事がありますぜ。
馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから
私
が居た土地だ。
大概
江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。
聞きねえ。
過日
もね、お
前
、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ
行
くのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、
佳
い
魚
がなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。
脛
を
達引
け、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お
前
、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
お蔦は
莞爾
して、
「
せんこうッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
と
鰭
をばっさり。
四
「
可
いじゃねえか、お
前
、先公だから先公よ。何も野郎とも
兄弟
とも言ったわけじゃねえ。」
と庖丁の
尖
を危く
辷
らして、鼻の下を
引擦
って、
「すると何だ。
肥満
のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と
吐
しただろうじゃねえか。
ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、
憚
んながら
私
あ酒も
啖
わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの
前
だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら
退
けますよ。」
お源が俎板を直して向直る。と
面
を合わせて、
「はははははは、
今日
あ、」
「何かい、それで腹を立って
行
かないのかい。」
「そこはお前さんに免じて
肝
の虫を
圧
えつけた。
翌日
も廻ったがね、今度は
言種
がなお気に食わねえ。
今日はもうお
菜
が出来たから要らないよサ。
合点
なるめえじゃねえか。
私
が商う魚だって、品に因っちゃ
好嫌
えは
当然
だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを
勿体
ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの
なんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一
魚
が可哀相だ。
こっちはお
前
、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。
醜女
が
情人
を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が
背後
を向こうか。」
とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、
摺鉢
に伏せた
目笊
を取る。
「そらよ、こっちが
旦
の分。こりゃお源坊のだ。
奥様
は
あらが可い、煮るとも
潮
にするともして、
天窓
を
噛
りの、
目球
をつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
お蔦は
莞爾
して、
め組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
とお源は
柄杓
で、がたりと
手桶
の底を
汲
む。
「田舎ものめ、河野の邸へ
鞍替
しろ、朝飯に
牛
はあっても、
鯛
の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
手桶を
引立
てて、お源は腰を切って、出て、
溝板
を下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の
情人
が居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
と言ったばかり、こっちは忙がしい
顔色
で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
「
溝
の中に、はてな。」
印半纏
の腰を落して、溝板を見当に
指
しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目に
懸
りてえね。」
「お待ちよ、」
と目笊は
流
へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、
溝
の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく
酸漿
をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
カタカタカタ!
「
蛙
だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
「
朧月夜
の色なんだよ。」
得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
と
好事
に
蹲込
んで、溝板を取ろうとする、
め組は手品の玉手箱の
蓋
を開ける手つきなり。
「お止しよ、
遁
げるから、」
と言う処へ、しとやかに、
階子段
を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、
長閑
に
釣瓶
を
覆
したのである。
見知越
五
続いてドンドン
粗略
に下りたのは、名を
主税
という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、
溝
なる
連弾
を見届けようと、やにわにその蓋を払った
め組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を
退
いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を
屈
めて、立直った束髪は、
前刻
から
風説
のあった、河野の母親と云う
女性
。
黒の紋羽二重の
紋着
羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。
忰
が学士だ先生だというのでも、
大略
知れた
年紀
は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと
艶
が見えた。
背は高いが、
小肥
に肥った肩のやや怒ったのは、
妙齢
には御難だけれども、この位な年配で、
服装
が可いと威が備わる。それに焦茶の
肩掛
をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は
身躾
の一ツで、
貴婦人
方は、
菖蒲
が過ぎても遊ばさるる。
直ぐに
御歩行
かと思うと、まだそれから両手へ手袋を
嵌
めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと
扱
いた時、
襦袢
の裏の紅いのがチラリと
翻
る。
年紀
のほどを心づもりに知った
め組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと
頸
を
窘
めた処へ、
「まだ、花道かい?」
とお蔦が
低声
。
「
附際
々々、」
ともう一息
め組の首を
縮
める時、
先方
は格子戸に立かけた
蝙蝠傘
を手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ
沢山
だ。いよう!」
おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、
屹
と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。
め組はつかつかと二足三足、
「おやおやおや、」
調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
「
可訝
しいぜ。」
と急に威勢よく
引返
して、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの
母親
かね、静岡だって、
故郷
あ、」
「ああ。」
「
家
は
医師
じゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、
め組。」
とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
「へへへへへ、」
満面に
笑
を含んだ、
め組は
蓮葉
帽子の中から、
夕映
のような
顔色
。
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう
午飯
だろう、何だ御馳走は、」
と
覗込
んで、
「ははあ、
鯛
だな。」
「
鯛
とおっしゃいよ、見ッともない。」
とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのは
鯛
さ、
め組のに限っちゃ
鯛
よ、なあ、めい公。」
「違えねえ。」
「だって、
貴郎
は柄にないわ、
主公様
は大人しく
鯛魚
とおっしゃるもんです、ねえ、
めのさん。」
「違えねえ。」
主税は色気のない大息ついて、
「
何
にしろ、ああ腹が空いたぜ。」
「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を
食
らないもの。」
「違えねえ、
確
にアリャ、」
と、
め組は路地口へ伸上る。
六
「大分御執心のようだが、どうした。」
と、
め組のその素振に目を着けて、主税は
空腹
だというのに。……
「後姿に惚れたのかい。おい、もう
可
い加減なお婆さんだぜ。」
「だって
貴郎
にゃお婆さんでも、
め組には似合いな
年紀
ごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」
「だから、
確
だろうと思うんでさ。」
と
呟
いて
独
で飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、
「旦那、」
「
己
ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を
揺
る。
「え、何を。」
「文でも届けてくれじゃないか。」
「
御串戯
。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の
家
へ帰りそうな様子でしたかね。」
「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」
「
難有
え、」
額をびっしゃり。
「後を慕って、おおそうだ、と
遣
れ。」
「
行
くのかい、河野さんへ。」
「ちょっぴりね、」
「じゃ可いけれど。貴郎、」
と主税を見て
莞爾
して、
「めい公がね、また
我儘
を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」
「そうか。」
となぜか、主税は気の無い返事をする。
「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」
と荷を上げそうにするのを見て、
「待て、待て、」
「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ
昨日
のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、
皆
欲
がるンだから……」
「これ、」
旦那様苦い顔で、
「端近で何の
事
たい、野良猫に扱いやあがる。」
「だっ……て、」
「
め組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の
妨害
をする
婦
だ。」
「
肯
かないよ、めの字、沢山なんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」
「驚きますな。」
「私、もう障子を閉めてよ。」
「
め組、この
体
だ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、
四
寸ずつ
食
りまし。」
「おい、待てと云うに。」
「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」
「いや、
遣瀬
がねえ。」
と天秤棒を
心
にして、
め組は一ツくるりと廻る。
「お
菜
のあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」
と笑いながらお蔦を
睨
んで、
「なあ、
め組。」
「ええ、」
「これから河野へ
行
くんだろう。」
「三枚並で駈附けまさ。」
「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」
七
「その、河野へ行くに就いてだが、」
と主税は何か、言淀んで、
「何は、」
お蔦に目配せ、
「茶はないのか。」
「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に
叱言
を云う癖に、
貴郎
こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」
と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、
「さあ、」
め組は威勢よく、
「へい、跡は明晩……じゃねえ、
翌
の朝だ。」
「
待
なッてば、」
「可いよ、めのさん。」
「はて、どうしたら、」と首を振る。
「お前たちは、」
と主税は呆れた顔で
呵々
と笑って、
「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。
め組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、
己
が話があると言えば。
そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」
と口へつけて、指で飲む真似。
「と
行
る一件だ。」
「
め組に……」
「沢山だ、沢山だ。
私
なら、」
と声ばかり沢山で、
俄然
として蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの
構
になる。
「
不可
ません、もう飲んでるんだもの。この上
煽
らして御覧なさい。また
過日
のように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」
お蔦は半纏の袖を投げて、
婀娜
に酔ッぱらいを、拳固で見せて、
「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は
依怙地
なもんだ。」
「可いから、己が承知だから、」
「じゃ、
め組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを
退
いて頂戴よ、通れやしないわね。」
「ああ、もしもし、」
主税は身を
躱
して通しながら、
「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」
「知りませんよ。」
とつっと入る。
「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」
もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、
「今度八丁堀の
私
の内へ遊びに来ておくんなせえ。
一番
私がね、
嚊々左衛門
に酒を
強請
る呼吸というのをお目にかけまさ。」
「
女房
が寄せつけやしまい、第一
吃驚
するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から
猪
ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、
め組。」
と
下流
へかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦、」
と吃驚するほど真顔。
「お
前
さんや、
奥様
で、
私
に言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。
嚊々
を貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」
「
打附
けた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、
家内
で口を利いて
行
くようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、
膚合
の合わない処だ。
今来た、あの
母親
も、何のかのって云っているからな、もう
彼家
へは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯
奢
るから。」
とまめやかに言う。
八
皆まで聞かず、
め組は力んで、
「誰が、誰があんな
許
へ、
私
ア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」
「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」
「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの
母親
ッて奴を冷かしに出かける
肝
でさ。」
「そういう
料簡
だから、お前、南町御構いになるんだわ。」
と盆の上に茶呑茶碗……不心服な
二人
分……
焼海苔
に
はりはりは心意気ながら、極めて恭しからず
押附
ものに
粗雑
に持って、お蔦が台所へ
顕
れて、
「お客様は、
め組の事を、何か文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言分は
先方
にあったのよ。」
と盆を受取って押出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」
「貴郎のように意地
汚
ではありません。
め組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
と帽子を上へ抜上げると、元気に額の
皺
を伸ばして、がぶりと一口。
鶺鴒
の尾のごとく、左の
人指
をひょいと
刎
ね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと
舌舐
る。
主税はむしゃりと海苔を頬張り、
「
め組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、
種々
な事を
言
て、お
握飯
を
拵
えろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と
莞爾々々
、
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、
め組は商売がありますよ。
疾
くお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃ
がえんに
知己
があるようで、
真
に近所へ
極
が悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に
出入
りをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また
風説
によると、あの、魚屋の
出入
をする
家
は、どこでも工面が悪いって
事
たから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、
貴下
から……と先ずざっとこうよ。」
め組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、
小火
ぐらいには
吃驚
したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。
め組怒っちゃ
不可
い。」
「分った……」
と
唐突
に膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。
彼奴
、兇状持だ。」
「ええ―」
何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと
極
る。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
め組は、どこか当なしに
睨
むように目を据えて、
「それを、
私
ア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」
九
「ウイ、だから
私
が出入っちゃ、どんな事で
暴露
ようも知れねえという
肚
だ。こっちあ
台所
までだから、ちっとも気がつかなかったが、
先方
じゃ奥から見懸けたもんだね。
一昨日
頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
状
あ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、
笑
かしゃあがら。」
と大きに
気勢
う。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの
母様
がかい。」
とお蔦も真顔で
訝
った。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、
貴郎
、
真面目
で聞くことはないんだわ。
め組の云う兇状持なら、あの
令夫人
がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお
萩餅
を
拵
えたって、自分の
女房
を
敵
のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。
めの字、何か甘いものが
好
なんだろう。」
「いずれ、何か
隠喰
さ、
盗人上戸
なら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅
俳優
かい。」
「いんや、
馬丁
……貞造って……馬丁でね。
私
が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと
嘗
めたが、
病着
で、
の出るほど食ったんだ。」
主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、
め組、ほんとうかい。」
と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、
めの字、滅多なことは云うもんじゃありません、
他
の事と違うよ、お前、」
「あれ、
串戯
じゃねえ。これが嘘なら、
私
の
鯛
[#ルビの「てえ」は底本では「てい」]は
場違
だ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、
御覧
じろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に
大
な
榎
があって、榎
邸
と云や、お
前
、
興津
江尻まで聞えたもんだね。
今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の
奥様
で、その馬丁の
情婦
だ。
だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、
児
があらあ、児が。ああ、」
また一口がぶりと
遣
って、
はりはりを
噛
んだ歯をすすって、
「ねえ、大勢
小児
がありましょう。」
「南町の学士先生もその一
人
、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は
幾歳
だね。」
「六か、七だ。」
「
二十
とだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは
婦人
なんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど
確
な事はねえ。
私
ア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋
惣助
(本名)ばかりなりだ。
はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の
蓋
をした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。
鰒汁
とこいつだけは、命がけでも
留
められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、
毒薬
装
られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
と茶碗を
捻
くる。
「
厭
な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっと
精
しくその話を聞かせないか。」
井戸端から、
婦人
の
凧
が切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。
「
旦
、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」
矢車草
十
お源のその
慌
しさ、
駈
けて来た
呼吸
づかいと、早口の
急込
に
真赤
になりながら、直ぐに台所から居間を
突切
って、取次ぎに出る手廻しの、
襷
を外すのが
膚
を脱ぐような
身悶
えで、
「
真砂町
の、」
「や、先生か。」
真砂町と聞いただけで、主税は
素直
に
突立
ち上る。お蔦はさそくに身を
躱
して、ひらりと壁に
附着
いた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢的、お
妙
さんか。」
と
謂
うと
斉
しく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で
蹴覆
して、羽織の
紐
を
引掴
んで、横飛びに台所を消えようとして、
「赤いか、」
お蔦を見向いて
面
を撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う
目色
で、
「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。
「弱った。」と
頭
を
圧
える。
「朝湯々々、」と
莞爾
笑う。
「軍師なるかな、
諸葛孔明
。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。
ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、
め組の惣助、満面の
笑
に崩れた、とろんこの
相格
で、
「いよう、天人。」と向うを
覗
く。
「
不可
いよ、」
と
強
く云う、お蔦の声が
屹
としたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を
掻攫
って、
「失礼だわ。」
と
極
めつける。天下大変、
吃驚
して、黙って
天秤
の下へ潜ると、ひょいと盤台の
真中
へ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出て
行
く。
もう、玄関の、格子が
開
きそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「御覧、」と目配せする。
覗くは失礼と控えたのが、
遁腰
で水口から目ばかり出したと思うと、
反返
るように
引込
んで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
と裾を
捌
くと、何と思ったか空を望み、
破風
から出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ
飜然
と飛込む。
驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、
偏
に恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
と
優
い声、はッと花降る
留南奇
の薫に、お源は
恍惚
として顔を上げると、帯も、
袂
も、
衣紋
も、
扱帯
も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と
紅
咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に
孔雀
を見るような。
め組が
刎返
した流汁の
溝溜
もこれがために水澄んで、霞をかけたる
蒼空
が、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に
縋
れかし。
妙子は、有名な
独逸
文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
父様
は、この
家
の主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ
御主
に当る。さればこそ、嬢
様
と聞くと
斉
しく、朝から台所で
冷酒
のぐい
煽
り、魚屋と茶碗を合わせた、その
挙動
魔のごときが、
立処
に影を潜めた。
まだそれよりも
内証
なのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。
十一
妙子の手は、矢車の花の色に際立って、
温柔
な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく
微笑
み、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を
引掴
んで、
「あれ、お召ものが、」
と云う内に、
吾妻下駄
が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお
納戸
地に、浅黄と赤で、
撫子
と水の
繻珍
の帯腰、向う
屈
みに
水瓶
へ、
花菫
の
簪
と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は
一入
である。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の
香
がしてねえ、」と手を放すと、
揺々
となる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、
顔
酔
いて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく
莞爾
する。
お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、
溢
したの。やっぱり
悪戯
な小僧さん? 犬にばっかり
弄
っているんでしょう、私ン
許
のも
同一
よ。」
一廉
社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、
可
のよ、」
と
褄
は上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「
旨
くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
成程、そこまでは水口の
明
が取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。
颯
と明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
その時台所へ落着いて顔を出した、
主人
の主税と、妙子は
面
を見合わせた。
「
驚
かして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って
串戯
を言いながら、
瓶
なる花と
対丈
に、そこに娘が
跪居
るので、
渠
は謹んで板に片手を
支
いたのである。
「驚かしちゃ、私
厭
ですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」
「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に
見惚
れている。
「同じく頂戴が出来ますんで?」
「どうしようかしら。お茶を
食
るんなら
可
けれど、お酒を
飲
んじゃ、可哀相だわ。」
「え、酒なんぞ。」
「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
と
遁出
すような。後へするする
衣
の音。
階子段
の下あたりで、主税が思出したように、
「成程、今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」
十二
二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り
蒲団
。
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
主税は
更
って、
慇懃
に手を
支
いて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、
我儘
も言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、
喧嘩
もしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は
同一
でも
兵子帯
と
扱帯
ほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、
毛巾
を
便
にして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に
陽炎
が燃えるようなり。
「御無沙汰を致しまして済みません。
奥様
もお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……
飲酒
りますか。」
「
誰
か、と
同一
ように……やっぱり……」と
莞爾
。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目を
反
らす。
主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ
逆上
せますんですよ。
前刻
朝湯に参りました。」
「
父様
もね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
主税は胸を据えた
体
に、両膝にぴたりと手を置き、
「平に、
奥様
には御内分。
貴女
また、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては
不可
ませんよ。」
「ほんとうに
貴郎
の半分でも、父様が母様の言うことを
肯
くと可いんだけれど、学校でも
皆
が評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて
冷評
すわ。」
「結構じゃありませんか。」
「厭だわ、私は。」
「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を
召食
れば、それに越した事はありません。
後
にその筋から
御褒美
が出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、
牡丹餅
を買い……お茶番の孝女だ。」
と
大
に
擽
って笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。
「私は、もう帰ります。」
「
御串戯
をおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、
牡丹餅
だの。」
「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」
「まあ、御褒美を差上げましょう。」
と主税が引寄せる茶道具の、そこらを
視
めて、
「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「厭な人ね?」
と
唐突
に澄まして云う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が
伏
っているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下
嫌
だもの、父様も。」
「
天晴
れ御鑑定、
本阿弥
でいらっしゃる。」と
急須子
をあける。
「
誰方
なの?」
「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、
「学士の方じゃなくって、」
「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。
「その
母様
と云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、
細面
の、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」
「まったく。どうして貴女、」
「私の学校へ、参観に。」
新学士
十三
「
昨日
は
母様
が来て御厄介でした。」
と、今夜主税の机の
際
に、河野
英吉
が、まだ洋服の膝も崩さぬ
前
から、
「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」
と肩を
揺
って、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、
新
いだけに美しい若々しい
髯
を
押揉
んだ。ちと目立つばかり口が
大
いのに、似合わず声の優しい男で。
気焔
を吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云っても
可
いから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その
年紀
で、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも
大略
解る。酒に酔わずにアルコオルに
中毒
るような人物で。
年紀
は二十七。
従
五位
勲
三等、
前
の軍医監、同姓
英臣
の長男、七人の
同胞
の
中
に英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。
南町の邸は、
祖母
さんが監督に附いて、英吉が
主人
で、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに
桐楊
塾と題したのである。漢詩の
嗜
がある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義
審
ならず。
英吉に問うと、
素湯
を飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。
説を
為
すものあり、曰く、桐楊の
桐
は男児に較べ、
楊
は
令嬢
たちに
擬
えたのであろう。漢皇
重色思傾国
……
楊家女有
、と
同一
字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいは
然
らむ。が男の方は、桐に
鳳凰
、とばかりで出処が怪しく、
花骨牌
から出たようであるから、遂にどちらも
信
にはならぬ。
休題
、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓が
嬢
たちで、更に
憚
る処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ
烏金
の絶倍で、しばしば
かいがんに及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、
びきで、
あおたんの
掴
みだと思うと、
手八
の
蒔直
しで
夜泊
の、
昼流連
。祖母さんの命を
承
けて、妹連から注進櫛の歯を
挽
くがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。
「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」
親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い
挨拶
も、
母様
で、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何と
豪
いか、恐入ったろう、と
極
めつけるがごとくに聞える。
例
の調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、
「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」
机の前に
鉄拐胡坐
で、悠然と煙草を輪に吹く。
「しかし、君、その
自
から、何だろう。」
とその何だか、火箸で灰を
引掻
いて、
「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……
直
の妹なんざ、随分
脱兎
のごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」
と髯を
捻
る。
十四
「で、何かね、
母様
は、」
と主税は笑いながら、わざと
同一
ように母様と云って、
煙管
を
敲
き、
「しばらく御滞在なんですかい。」
「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に
凭掛
る。
「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから
真直
にお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」
「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。
「相変らず辛抱が
[#「辛抱が」は底本では「幸抱が」]出来ないか。」
「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。
賑
じゃあるし、料理が上手だからお
菜
も
旨
いし、君、
昨夜
は妹たちと一所に西洋料理を
奢
って貰った、僕は七皿喰った。ははは、」
と火箸をポンと灰に
投
て、仰向いて、
頬杖
ついて、片足を
鳶
になる。
「御馳走と云えば内へ来る
め組だが、」
皆まで聞かず、英吉は
突放
したように、
「ありゃ君、もう来なくッても可いよ。余り失礼な奴だと、母様が大変感情を害したからね、君から断ってくれたまえ。」
と真面目で云って、
衣兜
から
手巾
をそそくさ引張出し、口を
拭
いて、
「どうせ東京の魚だもの、誰のを買ったって
新鮮
いのは無い。たまに盤台の中で
刎
ねてると思や、
蛆
で
蠢
くか、そうでなければ
比目魚
の下に、手品の
鰌
が泳いでるんだと、母様がそう云ったっけ。」
め組が聞いたら、
立処
に汝の一命
覚束
ない、事を云って、けろりとして、
「静岡は口の奢った、旨いものを食う処さ。汽車の弁当でも
試
たまえ、東海道一番だよ。」
主税はどこまでも髯のある坊ちゃんにして、逆らわない気で、
「いや、何か、手前どもで、
め組のものを
召食
って、大層御意に叶ったから、是非寄越してくれと誰かが
仰有
るもんだから取あえず差立てたんだ。御家風を存じないでもなかったけれども、承知の上で、君がたってと云ったから、」
「僕は構わん。僕は構わんが、あの調子だもの、
祖母
さんや妹たちはもとよりだ。
故郷
から連れて来ている下女さえ
吃驚
したよ。母様は、僕を呼びつけて談じたです。あんなものに朋輩呼ばわりをされるような悪い事をしたか。そこいらの
芸妓
にゃ、魚屋だの、
蒲鉾
屋の職人、
蕎麦
屋の出前持の客が有ると云うから、お前、どこぞで一座でもおしだろう、とね、叱られたです。
僕は何、あれは通りもんです。早瀬の
許
へ行っても、
同一
く、今日は旨えものを食わせてやろう。居るか、と云った調子です、と云ったら、母様が云うにゃ、
当前
だ、早瀬じゃ、細君……」
と云いかけて、ぐっと
支
えたが、ニヤリとして、
「君、僕は
饒舌
りやしないよ。僕は決して饒舌らんさ。秘密で居ることを知ってるから、君の不利益になるような事は云わないがね、妹たちが知ってるんだ。どこかで聞いて来てたもんだから、ついね、」
と気の毒そう。
「まあ、可い、そんな事は構わないが、僕と懇意にしてくれるんなら、もうちっと君、
遊蕩
を控えて貰いたいね。
昨日
も君の母様が来て、つくづく若様の不始末を愚痴るのが、何だか僕が取巻きでもして、わッと浮かせるようじゃないか。
高利
を世話して、口銭を取る。酒を飲ませてお
流
頂戴。
切々
内へ呼び出しちゃ、
花骨牌
でも
撒
きそうに思ってるんだ。何の事はない、美少年録のソレ何だっけ、
安保箭五郎直行
さ。甚しきは
美人局
でも遣りかねないほど
軽蔑
していら。母様の口ぶりが、」
とややその調子が強くなったが、急に事も無げな
串戯口
、
「ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。」
「母様の来ている内は謹慎さ。」
と灰を掻きまわして、
「その代り、西洋料理七皿だ。」と火箸をバタリ。
十五
「じゃあ色気より食気の方だ、何だか
自棄
に食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。」
「済みやしないよ、七皿のあとが、
一銚子
、玉子に
海苔
と来て、
おひけとなると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が
突張
るです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。」
と甘えるような
身体
つき、座蒲団にぐったりして、横合から
覗
いて云う。
「何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……」
「いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。」
「お疑いなさるは御勝手さ。
癪
に障ればったって、恐い事、何あるものか、君の
母親
が何だ?」
と云いかけて、語気をかえ、
「そう云っちまえば、実も
蓋
もない。痛くない腹を探られるのは、僕だって
厭
だ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。」
「うむ、そりゃあれです、君に逢わない内は
疑
っていないでもなかったがね、」
あえて
臆面
は無い
容子
で、
「
昨日
逢ってから、そうした人じゃないようだ、と
頷
いていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。」
「じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、(
ようだ。)とまだ疑があるのか。」
「だってただ一面識だものね、三四
度
交際
って見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。」
「何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。」
と横を向いて、
微笑
んで、机の上の本を見た。何の書だか酒井蔵書の印が見える。真砂町から借用のものであろう。
英吉は、火鉢越に覗きながら、その段は見るでもなく、
「
年紀
は取ってるけれど、まだ見た処は若いよ。君、婦人会なんぞじゃ、後姿を時々姉と見違えられるさ。
で、何だ、そうやって人を見る明が有るもんだから、婿の選択は残らず母様に任せてあるんだ。取当てるよ。君、内の姉の婿にした医学士なんざ大当りだ。病院の立派になった事を見たまえな。」
「僕なんざ御選択に預れまいか。」
と気を、その書物に取られたか、木に竹を
接
いだような事を云うと、もっての外
真面目
に受けて、
「君か、君は何だ、学位は持っちゃおらんけれど、
独逸
のいけるのは僕が知ってるからね。母様の信用さえ得てくれりゃ、何だ。ええ君、妹たちには、もとより評判が可いんだからね、色男、ははは、」
と他愛なく
身体
中で笑い、
「だって、どうする。
階下
に居るのを、」
背後
を見返り、
「湯かい。見えなかったようだっけ。」
主税は
堪
えず
失笑
したが、向直って話に乗るように、
「まあ、可い加減にして、
疾
く一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ
遊蕩
も
留
みます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。」
「むむ、その事だがね。」
とぐったりしていた胸を起して、また手巾で口を拭いて、なぜか、
縞
のズボンを揃えて、ちゃんと
畏
まって、
「実はその事なんだ。」
「何がその事だ。」
「やっぱりその事だ。」
「いずれその事だろう。」
「ええ、知ってるのか。」
「ちっとも知らない、」
と
煙管
を取って、
「いや、真面目に真面目に、何か、心当りでも出来たかね。」
縁談
十六
時に河野がその事と言えば、いずれ
婦
に違いないが、早瀬はいつもこの人から、その
収紅拾紫
、
鶯
を鳴かしたり、蝶を
弄
んだりの件について、いや、ああ云ったがこれは何と、こう申したがそれは
如何
。無心をされたがどうしたものか、なるべくは断りたい、断ったら嫌われようか、嫌われては甚だ
不好
い。一体
恋
でありながら
金子
をくれろは変な工合だ、妙だよ。その意志のある処を知るに
苦
む、などと、※
[#「そろべくそろ」の合字、59-2]紅をさして、
蚯蚓
までも突附けて、意見? を問われるには恐れている。
誇るに西洋料理七皿をもってする、
式
のごとき若様であるから、
冷評
せば真に受ける、
打棄
って置けば
悄
げる、はぐらかしても乗出す。勢い可い加減にでも返事をすれば、すなわち期せずして
遊蕩
の顧問になる。
尠
からず悩まされて、自分にお蔦と云う
弱点
があるだけ、人知れず冷汗が
習
であったから、その事ならもう聞くまい、と手強く念を入れると、今夜はズボンの膝を
畏
っただけ大真面目。もっとも
馴染
の相談も
串戯
ではないのだけれども。特に
更
って、ついにない事、もじもじして、
「実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……」
「縁談だね、真面目な。」
珍らしそうに顔を見て、
「母様から御声懸りで、僕に相談と云う縁談の口は、当時心当りが無いが。ああ、」
と軽く膝を叩いた。
「
隣家
のかい。むむ、あれは
別嬪
だ。ちょいと高慢じゃあるが、そのかわり学校はなかなか出来るそうだ。」
英吉は
小児
のように
頭
を振って、
「ううむ、違うよ。」
「違う。じゃ誰だい。」
と落着いて尋ねると、慌てて
衣兜
へ手を
突込
み、肩を高うして、一ツ
揺
って、
「真砂町の、」
「真砂町

」
と聞くや否や、
鸚鵡返
しに力が入った。床の間にしっとりと露を
被
いだ矢車の花は、
燈
の
明
を
余所
に、暖か過ぎて障子を
透
した、富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しく
活
っている。
見よ、河野が座を、
斜
に避けた処には、
昨日
の袖の香を留めた、友染の花も、
綾
の霞も、畳の上を消えないのである。
真砂町、と聞返すと
斉
しく、
屹
とその座に目を注いだが、
驚破
と
謂
わば身をもって、影をも守らん意気組であった。
英吉はまた火箸を
突支棒
のようにして、
押立尻
をしながら、火鉢の上へ
乗掛
って、
「あの、酒井ね、君の先生の。あすこに娘があるんだね。」
「あるさ、」と云ったが、余り取っても着けないようで、我ながら冷かに聞えたから、
「知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、
脱落
はあるまいに。」
「
洋燈
台下暗しで、(と
大
に
洒落
れて、)さっぱり気が付かなかった。君ン
許
へもちょいちょい遊びに来るんだろう。」
「お成りがあるさ。僕には御主人だ。」
「じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。」
何か残惜く、かごとがましく、不平そうに謂ったのが、なぜ見せなかった、と
詰
るように聞えたので、早瀬は石を突流すごとく、
「縁が無かったんだろうよ。」
「ところがあります、ははは、」と、ここでまた相好とともに足を崩して、ぐたりと横坐りになって、
「思うに逢わずして思わざるに……じゃない。向うも来れば僕も来るのに、
此家
で逢いそうなものだったが、そうでなくって君、学校で見たよ。ああ、あの人の行く学校で、妙子さんの行く学校で。」
と、何だか話しに乗らないから、畳かけて云った。妙子、と早や名のこの男に知られたのを、早瀬はその人のために恥辱のように思って、不快な色が眉の根に浮んだ。
「どうして、学校で、」
とこの際わざと尋ねたのである。
母子
で参観したことは、もう心得ていたのに。
十七
「どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。
先
にから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃ
佳
いのが居ると云ったっけが、」
「じゃあその教頭、
媒酌人
も
遣
るんだな。」
と
舌尖
三分で切附けたが、一向に感じないで、
「遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。」
「怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と
緋縮緬
の交換だな。いや、可い
面
の皮だ。ずらりと並べて
選取
りにお目に掛けます、小格子の風だ。」
「可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、
媒酌
もしようじゃあないか。」
とこの人にして大警句。早瀬は恐入った体で、
「成程、」
「勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、」
と自若として、自分で云って、意気
頗
る
昂然
たりで、
「講堂で良妻賢母を
拵
えて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。」
「で何かね、」
早瀬は、斜めに開き直って、
「そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。」
「ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、
優美
で、品が良くって、
愛嬌
がある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかも
可
、学校も照陽女学校さ。」
と冷えた茶をがぶりと一口。浮かれの体とおいでなすって、
「はは、僕ばかりじゃない、第一母様が気に入ったさ。あれなら河野家の嫁にしても、まあまあ……恥かしくない、と云って、教頭に尋ねたら、酒井妙子と云うんだ。ちょっと、教員室で立話しをしたんだから、
委
いことは追てとして、その日は帰った。
すると
昨日
、母様がここへ訪ねて来たろう。帰りがけに、飯田町から
見附
を出ようとする処で、
腕車
を飛ばして来た、
母衣
の中のがそれだッたって、矢車の花を。」
と言いかけて、床の間を
凝
と見て、
「ああ、これだこれだ。」
ひょいと腰を
擡
げて、
這身
にぬいと手を伸ばした様子が、
一本
引抜
きそうに見えたので、
「河野!」
「ええ、」
「それから。おい、肝心な処だ。フム、」
乗って出たのに引込まれて、ト居直って、
「あの
砂埃
の中を水際立って、駈け抜けるように、そりゃ綺麗だったと云うのだ。立留って見送ると、この内の角へ車を下ろしたろう。
そろそろ
引返
したんです、母様がね。休んでいた車夫に、今のお嬢さんは真中の家へですか。へい、さようで、と云うのを聞いて帰ったのさね。」
と早口に
饒舌
って、
「美人だねえ。君、」とゆったり顔を見る。
「ト遣った工合は、僕が美人のようだ、厭だ。結婚なんぞ申込んじゃ、」と笑いながら、
大
に諷するかのごとくに云って、とんと肩を突いて、
「浮気ものめ。」
「浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。」
また甘えるように、顔を
正的
に差出して、
頤
を支えた指で、しきりに
忙
く髯を
捻
る。
早瀬はしばらく黙ったが、思わず
拱
いていた腕に解くと、
背後
ざまに机に
肱
、片手をしかと膝に
支
いて、
「貰うさ。」
「え。」
「お貰いなさい。」
「くれようか。」
「話によっちゃ、くれましょう。」
「
後継者
じゃないんだね。」
「勿論後継者じゃあない。」
「じゃ、まあ、話は出来るとして、」と、澄まして云って、今度は心ありげに早瀬の顔を。
「だが、何だよ、
私
ア」と云った調子が変って、
「
媒介人
は断るぜ、照陽女学校の教頭じゃないんだから。」
十八
そうすると英吉が、かねて心得たりの態度で、媒酌人は勿論、しかるべき人をと云ったのが、
其許
ごときに勤まるものかと、
軽
んじ
賤
しめたように聞えて、
「そりゃ、いざとなりゃ、教育界に名望のある道学者先生の叔父もあるし、また
父様
の幕下で、現下その筋の顕職にある人物も居るんだから、立派に遣ってくれるんだけれど、その君、媒酌人を立てるまでに、」
と手を揃えて、火鉢の上へ突出して、じりりと進み、
「
先方
の身分も確めねばならず、妙子、(ともう呼棄てにして)の品行の点もあり、まあ、学校は優等としてだね。酒井は
飲酒家
だと云うから、遺伝性の懸念もありだ。それは大丈夫としてからが、ああいう美しいのには有りがちだから、肺病の
憂
があってはならず、酒井の親属関係、妙子の交友の
如何
、そこらを一つ
委
しく聞かして貰いたいんだがね。」
主税は
堪
りかねて、ばりばりと
烏府
の中を突崩した。この暖いのに、河野が両手を
翳
すほど、火鉢の火は消えかかったので、彼は炭を継ごうとして横向になっていたから、背けた顔に稲妻のごとく
閃
いた額の筋は見えなかったが、
「もう一度聞こう、何だっけな。
先方
の身分?」
「うむ、先方の身分さ。」
「独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。」
「むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、」
「それから、」
「遺伝さ、」
「肺病かね、」
「親族関係、交友の
如何
さ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然に
疎
くなるです。それに母様が厳しく
躾
れば、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った
侠客
風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい
物費
も少くない。それにゃ、評判の
飲酒家
だし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。」
主税は黙って、茶を
注
いだが、強いて落着いた容子に見えた。
「何かね、持参金でも望みなのかね。」
「馬鹿を
謂
いたまえ。妹たちを縁附けるに、こちらから持参はさせるが、僕が結婚するに、いやしくも河野の世子が持参金などを望むものか。
君、僕の家じゃ、何だ、女の
児
が一人生れると、七夜から直ぐに積立金をするよ。それ立派に支度が出来るだろう。結婚してからは、その利息が化粧料、小遣となろうというんだ。自然嫁入先でも幅が利きます。もっともその金を、婿の名に書き
替
るわけじゃないが、河野家においてさ、一人一人の名にして保管してあるんだから、例えば婿が
多日
月給に離れるような事があっても、たちまち
破綻
を生ずるごとき不面目は無い。
という円満な家庭になっているんだ。で
先方
の財産は望じゃないが、余り困っているようだと、親族の関係から、つい迷惑をする事になっちゃ困る。娘の縁で、一時借用なぞというのは有がちだから。」
「酒井先生は
江戸児
だ!」
と
唐突
に一喝して、
「神田の
祭礼
に叩き売っても、娘の縁で借りるもんかい。河野!」
と
屹
と見た目の鋭さ。眉を
昂
げて、
「髯があったり、本を読んだり、お互の交際は窮屈だ。
撲倒
すのを野蛮と云うんだ。」
お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂
馥郁
として、
繻子
の襟の
烏羽玉
にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を
憚
って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える
気勢
もない。
石鹸
を巻いた
手拭
を持ったままで、そっと
階子段
の下へ行くと、お源は
扉
に
附着
いて、一心に聞いていた。
十九
「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。
当方
からお
給事
をしようと云うんじゃなし、第一欲しいと
仰有
ったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、
裸体
にして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。
私
あ第一、河野。世間の宗教家と
称
うる奴が、吾々を
捕
えて、罪の
児
だの、救ってやるのと、商売柄
好
な事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん
言種
だと思ってるんです。
今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の
身許検
べの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免
蒙
る。そのかわりだ、
半纏着
の附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」
と調子が砕けて、
「母様の
指揮
だろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを
見染
たんだ。」
「うう、まあ……」と
対手
の血相もあり、もじもじする。
「惚れてよ、可愛い、
可憐
いものなら、なぜ命がけになって貰わない。
結婚をしたあとで、
不具
になろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。
まあ、何は
措
いて、嫁の内の財産を
云々
するなんざ、
不埒
の
到
だ。万々一、
実家
の親が困窮して、都合に依って無心
合力
でもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつ
分
るんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」
と思い入った体で、煙草を持った手の
尖
がぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いて
首
だけ垂れていたが、かえって
襖
の外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。
何の話? と声のはげしいのを
憂慮
って、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りの
颯
と上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように
莞爾
して、忍んで段を上って、上り口の次の
室
の三畳へ、
欄干
を擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、
両人
には気が付かずに居るのである。
と河野は自分には
勢
のない、聞くものには張合のない
口吻
で、
「だが、母さんが、」
「母様が何だ。母様が
娶
うんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。
君の
一家
は、およそどのくらいな
御門閥
かは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。
昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」
と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、
「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ン
許
の妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。
揃って
容色
も
好
、また不思議に
皆
別嬪
だ。知ってるだろう。生れたての
嬰児
の時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、
妙齢
にするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」
主税は返す
言
もなく、これには否応なく
頷
かされたのである。
蓋
し事実であるから。
一家一門
二十
「それから、財産は
先刻
も
謂
った通り、一人一人に用意がしてある。病気なり、何なりは、父様も兄も本職だから注意が届くよ。その他は万事母様が預かって
躾
けるんだ。
好嫌
は別として、こちらで他に求める条件だけは、ちゃんとこちらにも整えてあるんだから、
強
ち身勝手ばかり謂うんじゃない。
けれども、品行の点は、疑えば疑えると云うだろう。そこはね、性理上も
斟酌
をして、そろそろ色気が、と思う時分には、妹たちが、まだまだ自分で、男をどうのこうのという
悪智慧
の出ない先に、親の
鑑定
で、婿を見附けて授けるんです。
否
も応も有りやしない。
衣服
の柄ほども文句を謂わんさ。謂わない
筈
だ、何にも知らないで授けられるんだから。しかし間違いはない、そこは母さんの目が高いもの。」
「すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと
不可
んのだね。」
「勿論さ、だから、
皆
円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、
直
の妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。
皆
食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、」
「妙に
選取
って揃えたもんだな。」
「うむ、それは父様の主義で、兄弟
一家
一門を揃えて、天下に一階級を形造ろうというんだ。なるべくは、銘々それぞれの収入も、一番の姉が三百円なら、次が二百五十円、次が二百円、次が百五十円、末が百円といった工合に長幼の等差を
整然
と附けたいというわけだ。
先ず行われている、今の処じゃ。そうしてその子、その孫、と次第にこの社会における地位を向上しようというのが理想なんです。例えば、今の
代
が学士なら、その次が博士さ、大博士さね。君。
謂って見れば、貴族院も、一家族で一党を立てることが出来る。内閣も一門で組織し得るようにという遠大の理想があるんだ。また幸に、父様にゃ孫も八九人出来た。
姪
を引取って教育しているのも三四人ある。着々として歩を進めている。何でも妹たちが人才を引着けるんだ。」
人事
ながら、主税は白面に
紅
を潮して、
「じゃ、君の妹たちは、皆学士を釣る餌だ。」
「餌でも可い、構わんね。藤原氏の為だもの。一人や二人
犠牲
が出来ても可いが、そりゃ大丈夫心配なしだ。親たちの目は曇りやしない。
次第々々に地位を高めようとするんだから、奇才俊才、傑物は
不可
ん。そういうのは時々失敗を遣る。望む処は凡才で間違いの無いのが可いのだ。正々堂々の陣さ、信玄流です。小豆長光を
翳
して旗下へ切込むようなのは、快は快なりだが、永久持重の策にあらず……
その理想における河野家の僕が中心なんだろう。その中心に
据
ろうという
妻
なんだから、
大
に慎重の態度を取らんけりゃならんじゃないか。詰り
一家
の
女王
なんだから、」
河野は、
渠
がいわゆる正々堂々として説くこと一条。その理想における根ざしの深さは、この男の口から言っても、例の愚痴のように聞えるのや、その落着かない腰には似ない、ほとんど動かすべからざる、確乎としたものであった。
「いや、よく解った、成程その主義じゃ、人の娘の体格検査をせざあなるまい。しかし私は
厭
だ! 私の娘なら断るよ、たとい御試験には及第を致しましても、」
と冷かに笑うと、河野は人物に
肖
ず、これには
傲然
として、信ずる処あるごとく、
合点
んだ笑い方をして、
「でも、条件さえ通過すれば、僕は
娶
うよ。ははは、きっと貰うね、おい、一本貰って行くぜ。」
と脱兎のごとく、かねて計っていたように、この時ひょいと立つと、肩を斜めに、
衣兜
に片手を突込んだまま、
急々
と床の間に立向うて、早や手が掛った、花の矢車。
片膝立てて、
颯
と色をかえて、
「
不可
いよ。」
「なぜかい?」
と済まして見返る。主税は、ややあせった気味で、
「なぜと云って、」
「はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。」
と突立ったまま、ニヤリとして、
「早瀬、君がどうかしているんじゃないか、ええ、おい、妙子を。」
二十一
冷
か、熱か、
匕首
、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようと
急
ったが、
咄嗟
に針を吐くあたわずして、主税は黙って
拳
を握る。
英吉は、ここぞ、と土俵に仕切った形で、片手に花の
茎
を
引掴
み、片手で
髯
を
捻
りながら、目をぎろぎろと……ただ冴えない光で、
「だろう、君、筒井筒振分髪と云うんだろう。それならそう云いたまえ、僕の方にもまた手加減があるんだ、どうだね。」
信玄流の敵が、かえってこの奇兵を用いたにも係らず、主税の答えは車懸りでも何でもない、極めて平凡なものであった。
「怪しからん事を云うな、
串戯
とは違う、大切なお嬢さんだ。」
「その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。」
「怪しからん事を云うなと云うのに。」
「じゃ確かい。」
「御念には及びません。」
「そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子を
秘
さんでも可いじゃないか。話が
纏
まりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の
女王
になるんだ。」
「幸か、不幸か、そりゃ知らん、が、私は厭だ。一門の繁栄を望むために、娘を餌にするの、嫁の体格検査をするの、というのは真平御免だ。惚れたからは、
癩
でも肺病でも構わんのでなくっちゃ、妙ちゃんの相談は決してせん。勿論お嬢は
瑕
のない玉だけれど、
露出
しにして河野家に御覧に入れるのは、平相国清盛に招かれて月が顔を出すようなものよ。」といささか云い得て濃い煙草を
吻
と
吐
いたは、正にかくのごとく、山の
端
の
朧気
ならん趣であった。
「なら可い、君に聞かんでも
余処
で聞くよ。」
と案外また英吉は
廉立
った様子もなく、争や勝てりの態度で、
「しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、」
「…………」
「君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、」
「…………」
「失敬、」
あわや抜き出そうとする。と床しい人香が、はっと襲って、
「
不可
ませんよ。」と半纏の襟を
扱
きながら、お蔦が
襖
から、すっと出て、英吉の肩へ手を載せると、
蹌踉
けるように振向く処を、入違いに床の間を
背負
って、花を
庇
って膝をついて、
「厭ですよ、私が活けたのが台なしになります。」
と
嫣然
として一笑する。
「だって、だって君、突込んであるんじゃないか、池の坊も遠州もありゃしない。ちっとぐらい抜いたって、あえてお手前が崩れるというでもないよ。」
とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の
目前
を、(子を
捉
ろ、子捉ろ。)の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。
「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」
「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」
主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、
「だってもう主のある花ですもの。」
「主がある!」と目を
る。
「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」
「それ見ろ、早瀬、」
「何だ、お前、」
「いいえ、
貴下
、この花を
引張
るのは、私を口説くのと
同一
訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」
と寄ると、英吉は一足引く。
「さあ、口説いて頂戴、」
と寄ると、英吉は一足引く。
微笑
みながら
擦
り寄るたびに、たじたじと
退
って、やがて次の間へ、もそりと出る。
道学先生
二十二
月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず
賑
かな。
書肆
文求堂をもうちっと
富坂寄
の大道へ出した
露店
の、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の
除
れた、けばの立った、
端摺
の
甚
い、三世相を開けて、
燻
ぼったカンテラの
燈
で見ている男は、これは、早瀬主税である。
何の事ぞ、酒井先生の
薫陶
で、少くとも外国語をもって家を
為
し、自腹で朝酒を
呷
る者が、今更いかなる必要があって、前世の
鸚鵡
たり、
猩々
たるを懸念する?
もっとも学者だと云って、天気の
好
い日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながら
嗅
ぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。
主税とても、ただ通りがかりに、
露店
の古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えばそれまでである。けれども、
渠
は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。
且つその
顔色
が、紋附の羽織で、
の厚い
内君
と、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と
歩行
っている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。
好男子世に処して、屈託そうな
面色
で、露店の三世相を繰るとなると、柳の下に
掌
を見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。
所以
ある
哉
、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の
機知
で、柔
能
く
強
を制することを得たのだから、
例
なら、いや、女房は持つべきものだ、と
差対
いで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。
本来だと、
朋友
が先生の令嬢を
娶
りたいに就いて、
下聴
に来たものを、聞かせない、と云うも
依怙地
なり、
料簡
の狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、
情婦
から来た
文殻
が
紛込
んだというので、紙屑買を
追懸
けて、慌てて
盗賊
と怒鳴り兼ねまい。こちの人
措
いて下さんせ、と
洒落
にも
嗜
めてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花を
持
せたのでも、河野
一家
に対しては、お蔦さえ、
如何
の感情を持つかが明かに解る。
それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。
そうでなくっても、惚れそうな
芸妓
はないか。新学士に是非と云って、
達引
きそうな朋輩はないか、と
煩
く尋ねるような英吉に、
厭
なこった、
良人
が手を
支
いてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ
引退
る。処へ、
幾条
も幾条も
家
中の縁の糸は両親で
元緊
をして、
颯
さらりと
鵜縄
に
捌
いて、娘たちに浮世の波を
潜
らせて、ここを先途と
鮎
を呑ませて、ぐッと手許へ
引手繰
っては、
咽喉
をギュウの、獲物を占め、
一門一家
の繁昌を企むような、ソンな勘作の
許
へお嬢さんを
嫁
られるもんか。
いいえ、私が
肯
かないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、
熱
い湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどの
勢
。
二十三
何が大丈夫だか、主税には
唐突
で、即座には
合点
しかねるばかり、お蔦の方の意気込が
凄
じい。
まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、
杖
を
支
いて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて
歩行
く
中
に、誰かの口で水を
注
せば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。
けれども、なぜか、
母子連
で学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを
観世物
にし、またされたようで
癪
に障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町
様
へ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろと
嘗
められる夢を見て、今夜にも寝ていて
魘
されそうで、お可哀相でなりません。
貴郎
油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に
附着
かれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――
もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫ではない、
臥蚕
である。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫の
厭
うべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。
で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに
岡惚
をしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の
令夫人
にして私が
追出
される方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。
この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく
頼母
しかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉も
例
になく顔を見せなかった。
と
一日
、
(早瀬氏は
居
らるるかね。)
応柄
のような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。
主税は、しかかっていた翻訳の
筆
を留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、
痘痕
のおあんなさいます、と一番
疾
く目についた人相を言ったので、直ぐ分った。
本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りが
可
ければと言って、
渾名
を名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……
傍
へ
羅馬
字で、L. Sakata.
すなわち歴々の道学者先生である。
渠
の道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その
痘痕
と、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。
謂
うまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、
前
の二人とも若死をして、
目下
のがまた顔色が近来、
蒼
い。
と云ってあえて君子の徳を
傷
けるのではない、が、要のないお
饒舌
をするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、
盞
の数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。
処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき
媒妁人
は少いから、
呉
も
越
も隔てなく口を利いて
巧
く
纏
める。従うて諸家の
閨門
に出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う
風説
を聞く。その袖を
曳
いたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の
余徳
であろう。もっとも出来た
験
はない。
蓋
しせざるにあらず
能
わざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。
於爰乎
、品行方正、
御媒妁人
でも食って
行
かれる……
二十四
道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くとも
め組が出入りをするような家庭? へ顔出しをする
筈
がない。と
一度
は
怪
んだが、
偶然
河野の叔父に、
同一
道学者
何某
の有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。
諸家お出入りの媒妁人、ある意味における
地者稼
の冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。
推
しものの
痘痕
は一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、
竈下
炭焼であるが、
身躾
よく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。
地
の透く髪を一筋
梳
に
整然
と櫛を入れて、髯の
尖
から小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。
さて、お初にお目に
懸
りまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、と
謂
わないばかりな
言
を、けろりとして世辞に云って、
衣兜
から御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく
中古
に
草臥
れても
同一
香
の香水で、
追
かけ追かけ
香
わせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯が
嫌
らしい手に短い
延
の銀
煙管
、何か目出度い薄っぺらな
彫
のあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、
寛悠
と構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。
甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。
それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼
躾方
第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たとい
が
葱臭
かろうが、
干鱈
の繊維が
挟
っていそうであろうが、お
楊枝
を、と云うは無礼に当る。
そこで、止むことを得ず、むずむずする口を
堪
える下から、直ぐに、スッとまたぞうろ風を入れて、でごわりまするに就いて、かような事は、余り正面から申入れまするよりと、考えることでごわりまする……と
掻
つまんで謂えば、自分はいまだ一面識も無いから、門生の主税から紹介をして貰いたいと言うのである。
南無三、橋は渡った、いつの間にか、お妙は試験済の合格になった。
今は表向に縁談を申込むばかりにしたらしい。それに、自分に紹介を求めるのは、英吉に反対した
廉
もあり、主税は
面当
をされるように
擽
たく思ったばかりか、少からず敵の機敏に、不意打を食ったのである。
いや、お断り申しましょう、英吉君に難癖のある訳ではないが、河野家の理想と言うものが根も葉も挙げて気に入らない。
余所
で紹介をお求めなさるなり、また酒井先生は紹介の有り無しで、客の
分隔
をするような人ではないから――
直接
にお話しなすって、御縁があれば
纏
る分。心に潔しとしない事に、名刺一枚御荷担は申兼ぬる、と若武者だけに
逸
ってかかると、その分は百も
合点
で、戦場往来の
古兵
。
取りあえず、スースーと歯をすすって、ニヤニヤと笑いかけて、何か令嬢お身の上に就いて、
下聴
をするのが、御賛成なかったとか申すことでごわりましたな。御説に因れば、好いた女なら
娼妓
でも(と少しおまけをして、)構わん、死なば諸共にと云う。いや、人生意気を重んず、(ト歯をすすって)で、ごわりまするが、世間もあり親もあり……
とこれから道学者の面目を発揮して、河野のためにその理想の、道義上完美にして非難すべき点の無いのを説くこと数千言。約半日にして一先ず日暮前に立帰った。ざっと半日居たけれども、飯時を避けるなぞは、さすがに馴れたものである。
二十五
客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々
自棄
気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。
そこを一つお考え直されて、と
言
を残して帰った後で、アバ大人が
媒妁
ではなおの事。とお妙の顔が
蒼
くなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が
可惜
がる大切なお
主
の娘、ならば身替りにも、と云う
逆上
せ方。すべてが浄瑠璃の三の
切
を手本だが、憎くはない。
さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら
奥様
まで、あんな
許
へは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ
不可
ません。ちょいと、羽織を着換えて、と
箪笥
をがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、
明日
め組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、
彼奴
が片思いになるように
鮑
がちょうど可い、と他愛もない。
馬鹿を云え、縁談の
前
へ立って、
讒口
なんぞ利こうものなら、
己
の方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にして
刎
ねられた、柳橋の策
不被用焉
。
また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、
母様
と云おうが、
父様
と云おうが、道義上あえて
差支
はない、かえって結構なくらいである。
そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。
困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦も
鬱
ぐ。
ここへ大いなる福音を
齎
らし来ったのはお源で。
手廻りの使いに
遣
ったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひし
勢
よく、
唯今
帰りました、あの、
御新造様
、大丈夫でございます。
明後日
出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の
掻巻
に、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。
この忠義ものは、二人の
憂
を憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の
売卜者
に
占
て貰った、と云うのであった。
対手
は学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い
断念
めものだ、と
謂
いましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ
発奮
みました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。
まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、
勿怪
な顔をして、いいえ、
誰方
のお年も存じません。お蔦は
腑
に落ちない容子をして、
売卜者
は、
年紀
を聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。
当前
よ、対手が学士でお前じゃ、と
堪
りかねて主税が云うのを聞いて、目を
って、しばらくして、ええ!
口惜
いと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。
二人は顔を見合せて、ようように
笑
が出た。
すぐにお蔦が、新しい半襟を
一掛
礼に遣って、その晩は市が栄えたが。
二三日
経
って、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、
令夫人
は御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。
二十六
仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう
謂
うつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、
久闊振
ではあり、
誰方
も留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は
馴染
が薄いから、
巻莨
の吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど
袂
を膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と
頓興
に馴々しく声を懸けた者がある。
玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして
眩
い日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその
車夫
。
おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、
痘痕
のある立派な旦那が。
来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。
終
にゃ、き様、お伴をするだろう、
懸
りつけの
医師
はどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう
賞
めて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が
極
りますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と
燥
いだ。
余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
曲角の漬物屋、ここいらへも
探偵
が入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお
饒舌
をする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに
睨
むと、腰かけ込んだ学生を
対手
に、そのまた金歯の目立つ事。
内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が
売卜
の前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに
鬱
ぐ。
もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
一日
措
いて、主税が自分
嘱
まれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、
頤
を撫でながら、じろじろ門札を
視
めていたのが、坂田礼之進。
早やここから歯をスーと吸って、
先刻
からお待ち申して……はちと変だ。
さては誰も
物申
に応うるものが無かったのであろう。
女中
は
外出
で? お蔦は隠れた。……
無人
で失礼。さあ、どうぞ、と
先方
は
編上靴
で手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、
癇癪紛
に、突然二階へ懸上る。段の下の
扉
の蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの
玉襷
、
長刀
小脇に
掻込
んだりな。
高箒
に
手拭
を
被
せたのを、柄長に構えて、
逆上
せた
顔色
。
馬鹿め、と
噴出
して飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
二階の
論判
一時
に余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を
芬
とさせ、居間から
顕
われたのはお蔦で、
艾
はないが、
禁厭
は心ゆかし、片手に煙草を
一撮
。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この
燃草
は
利
が可かった。
※
[#「火+發」、91-4]と煙が、むらむらと立つ
狼煙
を合図に、二階から降りる
気勢
。
飜然
路地へお蔦が
遁込
むと、まだその煙は消えないので、
雑水
を
撒
きかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。
二十七
それ
熟々
、史を
按
ずるに、城なり、陣所、戦場なり、
軍
は
婦
の出る方が大概
敗
ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
ゆえ
如何
となれば、お
厭
とあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、
貴方
から先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に
遣
ったら、邪魔をする
勿
であるから、御懸念無用と、男らしく
判然
答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
礼之進の方でも、酒井へ出入りの
車夫
まで
捜
を入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を
圧
えたのであろう。
讒口
は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、
纏
る縁も破ることは出来たのだったに。
ここで
賽
は河野の手に
在矣
。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
お蔦さえ、
憂慮
うよりむしろ
口惜
がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は
措
ても、
余所
ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく
疵
持足、思いなしで敷居が高い。
で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌
窺
いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
愚図々々
すれば、
貴郎
例
に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が
歯痒
がる。
勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。
内証
のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが
気怯
れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、
懐
い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ
後暗
さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから
一銚子
、と
莞爾
して仰せある、優しい顔が、
眩
いように
後退
して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、
噫
、
止
ぬる
哉
。
しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、
憂慮
しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
ちと、
恐怖
の形で、先ず玄関を
覗
いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。
奥様
は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、
女中
が、唯今すやすやと
御寐
になっていらっしゃいます、と云う。
悄々
玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた
女中
で、四ッ谷の方へ
縁附
いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる
筈
で、お夜食が済むと、奥方の
仰
に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
それでは私も
通
の方を、いずれ
後刻
、とこれを
機
に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の
午後
。
男金女土
二十八
主税は、礼之進が早くも二度の
魁
を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が
暴露
たために、先生が
太
く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を
拱
いて、そこともなく横町から通りへ出て、
件
の漬物屋の前を通ると、向う側がとある
大構
の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで
押揺
がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の
樹立
の
梢
へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
東へ、西へ、と置場処の
間数
を示した
標杙
が
仄白
く立って、車は一台も無かった。
真黒
な溝の縁に、野を
焚
いた跡の湿ったかと見える
破風呂敷
を開いて、
式
のごとき
小灯
が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、
明
の
果敢
さ。
三束
五束
附木
を並べたのを前に置いて、手を
支
いて、
縺
れ髪の
頸
清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、
踏反
って、
泣寐入
りに寐入ったらしい
嬰児
が懐に、膝に
縋
って
六歳
ばかりの男の子が、指を
銜
えながら往来をきょろきょろと
視
める
背後
に、母親のその
背
に
凭
れかかって、
四歳
ぐらいなのがもう一人。
一陣
風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで
哀
な
光景
。浮世の影絵が鬼の手の
機関
で、月なき辻へ映るのである。
さりながら、縁日の神仏は、
賽銭
の降る中ならず、かかる処にこそ、
影向
して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と
母子
の上に袖笠して、遠音に観世ものの
囃子
の声を打聞かせたまうらんよ。
健在
なれ、御身等、今若、牛若、
生立
てよ、と
窃
に河野の一門を
呪
って、主税は
袂
から
戛然
と音する松の葉を投げて、足
疾
くその前を通り過ぎた。
ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、
煙管
を逆に吹口でぴたり
戸外
を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人
店前
を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、
叱
、と
圧
えた者がある。
向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって
人集
り。
寂寞
したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
リボンも顔も
単
に白く、かすりの羽織が夜の
艶
に、ちらちらと蝶が行交う
歩行
ぶり、
紅
ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ
長
けて大人びて、愛らしいよりも
艶麗
であった。
風呂敷包を
左手
に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の
円髷
だけれども、
花簪
の下になって、脊が低い。渾名を
鮹
と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ
皺
の
夥多
しい
婦
で、主税が玄関に居た頃勤めた
女中
どん。
心懸けの
好
い、
実体
もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お
主
の娘に
引添
うて、身を固めて
行
く
態
の、その円髷の
大
いのも、かかる折から頼もしい。
煙草屋の店でくるくるぱちぱち、
一打
ばかりの
眼球
の中を、
仕切
て、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは
憚
って差控えた。
そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい
前
の年までは、自分が、ああして附いて出たに。
とリボンが
靡
いて、お妙は立停まった。
肩が離れて、
大
な白足袋の色新しく、
附木
を売る女房のあわれな
灯
に
近
いたのは円髷で。実直ものの丁寧に、
屈
み腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って
額
ずいた時、お妙の手の
巾着
が、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、
斉
く星を仰いだのである。
二十九
○
男金女土
大
に
吉
、子五人か九人あり衣食満ち
富貴
にして――
男金女土こそ大吉よ
衣食みちみち…………
と歌の方も衣食みちみちのあとは、
虫蝕
と、
雨染
みと、
摺剥
けたので分らぬが、上に、
業平
と小町のようなのが
対向
いで、前に
土器
を控えると、
万歳烏帽子
が五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
主税は、お妙の
背後
姿を見送って、風が染みるような懐手で、
俯向
き勝ちに薬師堂の方へ
歩行
いて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、
漫
に手に取って、相性の処を開けたのであった。
その英吉が、金の
性
、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が
美
い指の節から、
寅卯戌亥
と繰出したものである。
半吉ででもある事か、
大
に
吉
は、主税に取って、一向に
芽出度
ない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、
始
わるし、中程宜しからず、末
覚束
なしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に
蔓
らんずる根ざしが見えて容易でない。
すでに
過日
も、現に今日の
午後
にも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は
厭
、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
大道で話をするのが
可訝
ければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には
藪蕎麦
もある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その
女中
とても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も
仔細
も無かった。
お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは
冷評
しても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような
間
ではないに、ぬかったことをしたよ。
なぞと取留めもなく思い乱れて、
凝
とその大吉を
瞻
めていると、次第次第に
挿画
の殿上人に
髯
が生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ
凭
れかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い
唐突
の
笑声
は、当露店の亭主で、目を細うして、額で
睨
んで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
「
幾干
だい。」
とぎょっとした主税は、
空
で値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
と古帽子の
庇
から透かして、
撓
めつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と
天窓
から十倍に
吹懸
ける。
その時かんてらが
煽
る。
主税は思わず三世相を落して、
「
高価
い!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
「何だか知らんが、さんざ汚れて
引断
ぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が
整然
としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
と
引据
えるように
圧
えて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだって
廉
くはない。」
三十
亭主は膝を抱いて
反身
になり、禅の問答持って来い、という高慢な
顔色
で。
「半
価値
は
酷
うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ
引剥
して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ
一番
御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
と主税はその言い
種
が憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし
年紀
は
秘
したしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
片手を開いて、
肱
で
肩癖
の手つきになり、ばらばらと主税の
目前
へ
揉
み立てる。
憤然として
衝
と立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの
燻
った
明
を切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
同時に、
「要るものなら買って置け。」
と
のある、
凜
とした声がかかった。
主税は思わず身を
窘
めた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を
支
いて、片手で銀貨を
圧
えながら、きょとんと見上げる。
茶の
中折帽
を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。
黒斜子
に
丁子巴
の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、
裄短
な袖を投げた風采は、丈高く
痩
せぎすな肌に
粋
である。しかも上品に
衣紋
正しく、
黒八丈
の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、
[#「、」は底本では「。」]眉の秀でた、ただその
口許
はお妙に
肖
て、
嬰児
も
懐
くべく無量の愛の含まるる。
一寸見
には、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。
令夫人
は
許嫁
で、お妙は先生がいまだ
金鈕
であった頃の若木の花。
夫婦
の色香を分けたのである、とも云うが……
酒井はどこか小酌の
帰途
と覚しく、玉樹一人縁日の
四辺
を払って
彳
んだ。またいつか、人足もややこの
辺
に
疎
になって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、
露店
の
大傘
を圧している。
会釈をしてわずかに
擡
げた、主税の顔を、その威のある目で
屹
と見て、
「
少
いものが何だ、
端銭
をかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の
昂
ったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
呆気
に取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
とばかり
怯
えるように差出した三世相を、ものをも言わず
引掴
んで、
追縋
って跡に附くと、早や五六間
前途
へ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に
入用
なのじゃないのでございますから、はい、」
と最初の一喝に
怯気々々
もので、申訳らしく
独言
のように言う。
酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
「
用
らないものを、何だって価を聞くんだ。
素見
すのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と
俯向
いて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ
捻
くる。
少時
して、酒井はふと
歩
を停めて、
「早瀬。」
「はい、」
とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。
三十一
名を呼ばれるさえ嬉しいほど、
久闊
懸違
っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の
言
は、
太
く主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
これで突放されたようになって、思わず
後退
りすること三尺半。
この
前
の、原一つ越した横町が、先生の
住居
である。そなたに向って行くのに、従って
歩行
くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
酒井がずッと
歩行
き出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと
御帰宅
でございますか。」
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は
措
いても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足
引返
したが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、
酔醒
めだ。」と、
衣紋
を
揺
って、ぐっと袖口へ突込んだ、
引緊
めた腕組になったと思うと、
林檎
の綺麗な、
芭蕉実
の
芬
と薫る、
燈
の
真蒼
な、
明
い水菓子屋の角を曲って、
猶予
わず
衝
と横町の暗がりへ入った。
下宿屋の
瓦斯
は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪
気
でいらっしゃいますそうで、
不可
ませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお
寐
みだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ
縁附
いております、
先
のお
光
をお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、
娘
が
出歩行
くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
と少し
言
が和らいで来たので、主税は
吻
と
呼吸
を
吐
いて、はじめて持扱った三世相を
懐中
へ始末をすると、
壱岐殿坂
の
下口
で、急な不意打。
「お前の
許
でも
皆
健康
か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は
尋常事
でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を
僻耳
であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの
砲兵工廠
の夜の光景は、楽天的に
視
ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、
轟々
と
轟
く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が
真白
な滝のように横ざまに
漲
って路を塞いだ。
やがて、水道橋の
袂
に着く――酒井はその雲に
駕
して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い
巻莨
を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄
の光が、ぱらぱらと
暗
に散ると、
炬
のごとく輝く星が、人を乗せて
衝
と
外濠
を流れて来た。
電車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の
夜
、道学者坂田礼之進は、
渠
が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――
委
しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、
饒舌
ったり……と云うと
尾籠
になる。紳士貴婦人が互に
相親睦
する集会で、談政治に
渉
ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、
薔薇
薫じ星の輝く美的の会合、とあって、
おしめと
襷
を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、
小児
が泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、
馴染
の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の
明
い電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の
午後
。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
先哲曰く、時は黄金である。そんな
隙潰
しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、
更
めて
夫子自身
を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて
無銭
で手を握るのだ、と云ったものがある。世には
演劇
の見物の幹事をして、それを縁に、
俳優
と
接吻
する貴婦人もあると云うから。
もっともこれは、嘘であろう。が、会費を
衣兜
にして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
礼之進は
提革
に
掴
りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、
痘痕
を散らして、目を配って、
鬢
、
簪
、
庇
、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、
江戸児
はこの味を知るまい、と乗合の
婦
の移香を、
楽
みそうに、歯をスーと
遣
って、片手で
頤
を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、
俄然
として、
慄然
として、
膚
寒うして、腰が軽い。
途端に
引込
めた、
年紀
の若い
半纏着
の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの
膏汗
で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと
引掴
んだ。
道学先生の徳孤ならず、隣りに
掏摸
が居たそうな。
「…………」
と、わなないて、気が上ずッて、ただ
睨
む。
対手
は
手拭
も
被
らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、
頭
を下げて、
「御免なすって、」と盗むように
哀憐
を乞う目づかいをする。
「出、出しおろう、」
と震え声で、
「馬鹿!」と一つ
極
めつけた。
「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」
と革に
縋
ったまま、ぐったりとなって、
悄気
返った職人の
状
は、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分で
縊
ったようである。
「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕を
蠢
かして、
堪
えず、
握拳
を挙げてその
横頬
を、ハタと
撲
った。
「あ、
痛
、」
と横に身を
反
らして、泣声になって、
「
酷
、
酷
うござんすね……旦那、ア
痛々
、」
も一つ拳で、勝誇って、
「酷いも何も要ったものか。」
哄
と立上る
多人数
の影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に
革鞄
を抱きながら、車掌が甲走った早口で、
「御免なさい、何ですか、何ですか。」
三十三
カラアの
純白
な、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を
引捉
えて、出せ、出せ、と
喚
いているからには、その間の消息一目して
瞭然
たりで、車掌もちっとも
猶予
わず、むずと曲者の肩を
握
った。
「降りろ――さあ、」
と一ツしゃくり附けると、革を離して、
蹌踉
と
凭
れかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人
揉重
なって、車掌台へ
圧
されて出ると、
先
から、がらりと扉を開けて、
把手
に手を置きながら、中を
覗込
んでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。
御嶽山
を少し進んだ一ツ橋
通
を右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。
「少々お待ちを……」
と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息
急
いて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、
後退
りに身を
反
らせて、曲者を釣身に出ると、両手を
突張
って礼之進も続いて、どたり。
後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、
押取巻
いた。二人ばかり
婦
も交って。
外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに
捻向
いて、
硝子戸
から覗く中に、片足膝の上へ投げて、
丁子巴
の羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を
額深
く、ふらふら
坐眠
りをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を
いた瞳には、一点も
睡
そうな
曇
が無い。
惟
うに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄も
介
わず弁じられよう
恐
があるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
「
攫
られたのかい。」
「はい、」
と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、
脊高
く車掌台へ出かけて、ここにも立淀む
一団
の、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
主客顛倒
、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の
痘痕
は砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
あろう事か、あっと頬げたを
圧
えて
退
る、道学者の
襟飾
へ、
斜
かいに肩を
突懸
けて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと?
掏摸
だ、
盗賊
だと……クソを
啖
え。ナニその、
胡麻和
のような
汝
が
面
を
甜
めろい! さあ、どこに
私
が
汝
の紙入を
掏
ったんだ。
こっちあまた、
串戯
じゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、
踵
と大した違えは無えから、ははは、」
と夜の大路へ
笑
が響いて、
「
汝
の方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と
断念
めてよ。
難有
く思え、
日傭取
のお職人様が月給取に
謝罪
ったんだ。
いつ出来た規則だか知らねえが、
股
ッたア出すなッてえ、
肥満
った
乳母
どんが
焦
ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、
他様
の足を踏みゃ、
引摺下
される御法だ、と往生してよ。」
と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
また礼之進に
突懸
る。
三十四
「
掏
られた、
盗
られたッて、
幾干
ばかり台所の
小遣
をごまかして来やあがったか知らねえけれど、
汝
がその
面
で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
へん、
鈍漢
。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで
蟇口
が有るもんかい、
疾
くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
さあ、お目通りで、着物を
引掉
って
神田児
の
膚合
を見せてやらあ、汝が口説く
婦
じゃねえから、見たって目の
潰
れる
憂慮
はねえ、安心して
切立
の
褌
を拝みゃあがれ。
ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、
汝
、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
と酒井は快活に云って、
原
の席に帰った。
車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が
勢
なく戻って、がちゃりと
提革鞄
を一つ
揺
って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの
混々
揉むのを、通り過ぎ
状
に見て進む。
と
錦帯橋
の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと
繋
って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、
風説
とりどり。
あれは
掏摸
の
術
でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に
業
をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の
袂
へすっこかしにして、証拠が無いから
逆捻
じを遣るでございます、と
小商人
風の一分別ありそうなのがその
同伴
らしい
前垂掛
に云うと、こちらでは
法然天窓
の隠居様が、
七度
捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる
洋服
を着た方も、おかしな御仁でござりますよ。
此娘
の
貴下
、(と隣に腰かけた、孫らしい、
豊肌
した娘の膝を叩いて、)
簪
へ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この
娘
が恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを
堪
えていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、
大
な足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では
女子衆
が怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、
疾
の
前
、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も
乗客
が散らずに居りゃ、
私達
だって
関合
いは抜けませんや。
巡査
が来て、一応
検
べるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と
折革鞄
を抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の
親仁
に、尻上りに弁じたのである。
いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
あえて人の
憂
を見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として
悲
むほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の
風説
を、耳を澄まして聞き取りながら、
太
く憂わしげな
面色
で。
実際
鬱込
んでいるのはなぜか。
忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を
睨
むがごとくにしていることを。
三十五
鬱ぐも
道理
、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から
外濠線
に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の
住居
へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が
凜
として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、
罰利生
ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ
蹙
んで、
僥倖
そこでも
乗客
が込んだ、人蔭になって、
眩
い大目玉の光から、顔を
躱
わして
免
れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、
件
の
売卜者
の
行燈
が、
真黒
な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く
辺
から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、
吐胸
を
支
いたのは、お蔦の儀。
ひとえに御目玉の
可恐
いのも、何を
秘
そう
繻子
の帯に
極
ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の
跫音
は、聞覚えている。
その跫音が、他の跫音と共に、澄まして
音信
れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、
特
に、似たもの夫婦の
譬
、信玄流の沈勇の方ではないから、随分
飜然
と
露
れ兼ねない。
いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
あいにく
例
のように話しもしないで、ずかずか酒井が
歩行
いたので、とこう云う
間
もなかった、早や我家の路地が。
堪
りかねて、先生と、呼んで、
女中
が寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが
疾
いか、(お先へ、)は
身体
で出て、横ッ飛びに
駈
け抜ける内も、ああ、我ながら
拙
い言分。
(待て! 待て!)
それ、声が掛った。
酒井はそこで足を留めた。
屹
と立って、
(宵から
寐
るような内へ、邪魔をするは気の毒だ。
他
へ行こう、一緒に来な。)
で路が変って、先生のするまま、
鷲
に
攫
われたような思いで乗ったのが、この両国行――
なかなか道学者の
風説
に就いて、善悪ともに、自から思虜を
回
らすような余裕とては無いのである。
電車が
万世橋
の交叉点を
素直
ぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま
隅田川
へ
流罪
ものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
と観念の
眼
を閉じて
首垂
れた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
一場展開した広小路は、二階の
燈
と、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、
蒼
に、
萌黄
に、
紅
に、
寸隙
なく
鏤
められた、
綾
の幕ぞと見る程に、八重に
往来
う人影に、たちまち
寸々
と引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く
鞠
となって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
ここに一際夜の雲の
濃
やかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が
閃
く。
我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、
富貴竈
が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、
磨硝子
の軒の燈籠の、
媚
かしく
寂寞
して、ちらちらと雪の降るような数ある中を、
蓑
を着た
状
して、忍びやかに行くのであった。
柏家
三十六
やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと
明
い、
静粛
としながら
幽
なように、
三味線
の
音
が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒
大構
の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、
地
の濡れた、軒に
艶
ある、その横町の中程へ行くと、
一条
朧
な露路がある。
芸妓家
二軒の
廂合
で、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が
一木
、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと
彳
むと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を
銜
えた
態
で、すらすらと
靡
いている。
梅と柳の間を
潜
って、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の
婀娜
めくのを、
隣家
の背戸の、低い石燈籠がト
踞
んだ形で
差覗
く。
主税は
四辺
を見て立ったのである。
先生がその肩の
聳
えた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと
枝折戸
を叩くと、ばたばたと
跫音
聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
と派手な友染の模様が透いて、
真円
な顔を出したが、
燈
なしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の
前
の、丁子巴の紋を見ると、
莞爾々々
と笑いかけて、黙って
引込
むと、またばたばたばた。
程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が
颯
と
点
くのを合図に、中脊で
痩
ぎすな、
二十
ばかりの
細面
、薄化粧して眉の
鮮明
な、
口許
の
引緊
った
芸妓
島田が、わざとらしい堅気づくり。
袷
をしゃんと、前垂がけ、
褄
を取るのは知らない風に、庭下駄を
引掛
けて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、
黙言
で、はたと打った。これは、この
柏屋
の
姐
さんの、
小芳
と云うものの妹分で、
綱次
と聞えた
流行妓
である。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは
貯蓄
ったか。」
と
粗雑
に廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと
睨
んで、そっと上って、開けた障子へ
身体
は入れたが、敷居際へ
畏
まる。
酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して
入
り来る綱次に、
「どうだ、色男が
糶出
したように見えるか。」
とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう
目前
が利かないから、お茶を
挽
くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが
可
い。」
「
憚様
、お座敷は宵の口だけですよ。」
と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
主税は膝の
傍
へ置いたままなり。
友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は
引跨
ぐ体に
胡坐
の膝へ挟んで、口の
辺
を一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
と主税を見向いた。
「はい、」
とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、
面
を背けると
端
なく、
重箪笥
の前なる姿見。ここで
梳
る柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。
三十七
「お敷きなさいなね、
貴下
、
此家
へいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
と意気、文学士を呑む。この女は、主税が
整然
としているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして
支膝
で坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと
扱
く。
「茶を一ツ、熱いのを。」
酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
綱次は入口の低い
襖
を振返って、ト拝む風に、雪のような手を
敲
く。
「自分で
起
て。
少
いものが、不精を
極
めるな。」
「
厭
ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
と言いながら、人懐かしげに
莞爾
して、
「ねえ、早瀬さん。」
「で、ございますかな。」とようよう
膝去
り出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、
巻莨
に火を
点
けたが、お蔦が
物指
を当てた
襦袢
の袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。
「ちっと透かさないか、
籠
るようだ。」
「縁側ですか。」
「ううむ、」
と
頭
を
掉
ったので、すっと立って、
背後
の
肱掛窓
を開けると、辛うじて、雨落だけの
隙
を残して、
厳
しい、忍返しのある、しかも
真新
い黒板塀が見える。
「
見霽
しでも御覧なさいよ。」
と主税を振向いてまた笑う。
酒井が
凝
と、その塀を
視
めて、
「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」
と
擽
って、
独
で笑った。
「しかし山焼の跡だと見えて、真黒は
酷
いな。俺もゆくゆくは
此家
へ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」
そこへ友染がちらちら来る。
「お出花を、早く、」
「はあ、」
「熱くするんだよ。」
「これ、
小児
ばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。
民
はどうした、あれは
可
い。
小老実
に働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、
愛嬌
のある処で。」
「そんなに、若いのが
好
なら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」
これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。
「妙も近頃は
不可
くなったよ。奥方と
目配
をし合って、とかく銚子をこぎって
不可
ん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」
「
貴郎
には小児でも、もうお嫁入
盛
じゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの
天女
が、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」
「あの、
嬰児
をか、どこの坊やだ。」
「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの
年紀頃
じゃありませんか。」
と何でものう云ってのけたが、主税は
懐中
の三世相とともに胸に
支
えて
俯向
いた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
と云いかけて
莞爾
として、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
と横顔へ煙を吹くと、
「
引掻
いてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」と
呟
いて出ようとする。
「おい、
阿婆
は?」
「もう
寐
ました。」
「いや、
老人
はそう有りたい。」
座の白ける間は措かず、綱次はすぐに
引返
して、
「姉さんは、もう
先方
は出たそうですわ。」
云う間程なく、矢を射るような
腕車
一台、からからと
門
に着いたと思うと、
「
唯今
!」と車夫の声。
三十八
「そうかい。」
と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の
襖
音なく、すらりと
開
いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
瓜核顔
の、鼻の
準縄
な、目の
柔和
い、心ばかり
面窶
がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、
生際
の
可
い、洗い髪を
引詰
めた
総髪
の
銀杏返
しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の
艶
の涼しさ。撫肩の
衣紋
つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この
婦
の母親なら、芸者家の
阿婆
でも、早寝をしよう、と
頷
かれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
と主税の方へ挨拶して、
微笑
みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の
紋着
二枚
袷
、
藍気鼠
の半襟、
白茶地
に
翁格子
の博多の丸帯、古代模様空色
縮緬
の
長襦袢
、慎ましやかに、酒井に
引添
うた
風采
は、
左支
えなく
頭
が下るが、分けてその
夜
の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌
宜
う、」と会釈をする。
その時、先生
撫然
として、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
これに
一言句
あるべき処を、姉さんは
柔順
いから、
「お出花が冷くなって、」
と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある
肱掛窓
から、暗い雨落へ、ざぶりと
覆
すと、斜めに見返って、
「
大
な
湯覆
しだな、お前ン
許
のは。」
「あんな事ばかり云って、」
と、主税を見て
莞爾
して、白歯を染めても似合う
年紀
、少しも浮いた様子は見えぬ。
それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を
注
いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
酒井は
軽
く襟を
扱
いて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
と横目で見て、嬉しそうに
笑
を含む。
「いずれ
不漁
さ。」
と
打棄
るように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が
更
まった。
「ええ。」
「
先刻
の三世相を見せろ。」
一仔細
なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、
辞
むべき
数
ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の
下
に、先生の手に、もじもじと奉る。
引取
って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て
胆
を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい
面色
で、
覗込
んで、
「心当りでも出来たんですか。」
不答
。煙草の
喫
さしを灰の中へ邪険に
突込
み、
「何は、どうした。」
と
唐突
に聞かれたので、小芳は
恍惚
したように、酒井の顔を
視
めると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の
旨
い、景気の
可
い、」
いいいい本を
引返
して、
「
扱帯
で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
と
凝
と見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
と云って、喫いかけた
煙管
を忘れる。
主税は
天窓
から
悚然
とした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり
山手
になって容子を知らんが、相変らず
繁昌
か。」
三十九
小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に
堪
えて、酒井を
瞻
った顔が震えて、
「蔦吉さんはもう
落籍
ましたそうです。」
と言わせも果てずに、
「(そうです。)は
可怪
い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、
判然
謂
え、
落籍
たのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな
睫毛
が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を
留
めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、
姉妹
のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
姉さんとか、小芳さんとか云って、
先方
でも
落籍
祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、
の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に
記
いているだろう。その
婦
の行先が知れない奴があるものか。
知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、
己
のような
素一歩
と腐合おうと云う
料簡方
だから、はじめから
悧怜
でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は
不可
んな! 薄情は。薄情な奴は
俺
ら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
と
口惜
しく
屹
となる処を、酒井の剣幕が
烈
いので、
悄
れて声が
霑
んだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な
婦
の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、
貴郎
。だって、
先方
でも、つい
音信
をしないもんですから、」
「
先方
が
音信
をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。
行通
はしないでも、居処が分らんじゃ、
近火
はどうする! 火事見舞に町内の
頭
も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は
堪
りかねて、
「先生、」
と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
堀の内へでも
参詣
る時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
真蒼
になって、
「先生、」
「早瀬!」
と一声
屹
となって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を
捲
いて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、
素袷
のすッとこ
被
よ。
婦
は編笠を着て
三味線
を持った、その
門附
の絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を
胡乱
ついて、三世相の
盗人覗
きをするにゃ当るまい。
その間抜けさ加減だから、
露店
の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、
田舎漢
め!」
四十
主税はようよう、それも
唾
が乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、
午
だとか。」
と
串戯
のような警抜な詰問が出たので、いささか
言
が
引立
って、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
小芳はそっと酒井を見た。この
間
でも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を
検
べたのかい。」
果せる
哉
、礼之進が運動で、先生は早や平家の
公達
を御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、
瞼
が
颯
と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、
歴然
とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、
周章
なさんな。
僭上
だよ、無礼だよ、罰当り!
お前が、男世帯をして、いや、菜が
不味
いとか、
女中
が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、
可
いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が
独活
を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、
勿体
ない、一度先生が目を通して、綺麗に
装
ってあるのを、重箱のまま、
売婦
とせせり
箸
なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
よく、その
慈姑
が
咽喉
に詰って、
頓死
をしなかったよ。
無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
と大喝した。
主税は思わず居直って、
「邪魔を……
私
、
私
が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が
己
に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は
先方
の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
第一、
汝
のような間違った
料簡
で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、
合点
んでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、
痘痕
が、」
と色をかえて
戦
いた。主税はしかも
点々
と汗を流して、
「
他
の事とは違います、聞棄てになりません。
私
は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の
許
へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな
態
をしやあがって、
薄髯
の生えた
面
を、どこまで
曝
して
歩行
いているんだ。」
と火鉢をぐいぐいと
揺
って。
四十一
「あっちへ
蹌々
、こっちへ
踉々
、狐の
憑
いたように、俺の近所を、
葛西
街道にして、
肥料桶
の
臭
をさせるのはどこの奴だ。
何か、聞きゃ、河野の方で、妙の
身体
に
探捜
を入れるのが、不都合だとか、
不意気
だとか言うそうだが、」
噫
、礼之進が皆
饒舌
った……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
学位のある、立派な男が、大切な嫁を
娶
るのだ。念を入れんでどうするものか。
検
べるのは
当前
だ。芸者を
媽々
にするんじゃない。
また
己
の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と
裸体
で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
何が
可恐
い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、
渠等
の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、
癪
に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の
身体
を
秘
した日にゃ、
按摩
の勢揃ほど道学者輩が
杖
を突張って押寄せて、
垣覗
きを遣ったって、
黒子
一点
も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
とまた
屹
と見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を
圧
えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負
猪
でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
馬鹿野郎!
俺
ら弟子はいくらでもある、が
小児
の内から手許に置いて、
飴
ン棒までねぶらせて、妙と
同一
内で育てたのは、
汝
ばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
(世間に在るやつでごわります。飼犬に手を
噛
まれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。
馬鹿野郎、これ、」
と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの
鈍的
でもなかったが、天罰よ。先生の目を
眩
まして、
売婦
なんぞ引摺込む罰が当って、魔が
魅
したんだ。
嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、
向後
妙の名も言うな。
生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、
汝
の
面当
にも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
「
貴郎
、」
と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような
不埒
を働く。第一お前も、」
稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、
共謀
だ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。
藪入
に新橋を見た
素丁稚
のように
難有
いもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が
不便
を掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の
情婦
を難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、
俯向
いておれ。」
はっと
首垂
れたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
主税は手を
支
いて
摺
って出た。
「
先
、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
と
大呼吸
を胸で
吐
くと、
「黙れ! 生れてから、
俺
、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」
四十二
「お言葉を
反
しますようでございますが、」
主税は小芳の自分に対する情が
仇
になりそうなので、あるにもあられず
据身
になって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。
私
は覚悟がございます、
彼奴
に対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の
明
は、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。
己
に申訳が無くって、首を
縊
る覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
と
叱
して、調子を
弛
めて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその
盲目
だから悪い事を働いて、
一端
己の目を盗んだ気で
洒亜々々
としているんだ。
先刻
どうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、
言種
もあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何の
状
だ。
婆
が高利貸をしていやしまい、
主人
の留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は
暗
でも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、
婦
の下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、
内証
でする事は客の靴へ灸を据えるのさえ
秘
しおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ
叱言
を云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を
算
まして
讃
めてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」
これは、(
攫徒
)と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと
支
いた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
霹靂
のごとく、
「帰れ!」
小芳が思わず肩を
窘
める。
「早瀬さん、私、私じゃ、」
と声が消えて、小芳は
紋着
の袖そのまま、眉も残さず
面
を
蔽
う。
「いや、愛想の尽きた
蛆虫
め、往生際の悪い
丁稚
だ。そんな、しみったれた奴は
盗賊
だって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
これ、
姦通
にも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような
情実
でもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の
児
の始末をするにも、
鰹節
はつきものだ。
談
を附けて、手を切らして、綺麗に
捌
いてやろうと思って、お前の
許
へ行くつもりで、百と、二百は、
懐中
に心得て出て来たんだ。
この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする
料簡
じゃ、
汝
が家を
野天
にして、
婦
とさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。
口惜
しくば、おい、こうやって
馴染
の芸者を
傍
に置いて、弟子に
剣突
をくわせられる、己のような者になって出直して来い。
さあ、帰れ、帰れ、帰れ!
汚
わしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを
起
たんと
蹴殺
すぞ!」
「あれ、お
謝罪
をなさいまし。」と小芳が
楯
に、おろおろする。
主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」と
熟
と
瞻
めて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」
四十三
「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。
先刻
も云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ
己
が
追出
る、お前ともこれきりだから、そう思え。」
と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を
揺
った。小芳は
幼
いもののごとく、あわれに
頭
を
掉
って、厭々をするのであった。
「姉さん、」
と思込んだ顔を
擡
げた、主税は
瞼
を
引擦
って、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
「
貴女
は、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
と
更
めて、両手を
支
いて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ
連累
でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、
私
を御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
内に蔦吉が居るんだな。
もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
と
吻
と息を
吐
いたと思うと、声が
霑
む。
最早罪に伏したので、今までは
執成
すことも出来なかった小芳が、ここぞ、と
見計
って、初心にも、
袂
の先を
爪
さぐりながら、
「大目に見てお
上
なすって下さいまし。蔦吉さんも
仇
な気じゃありません。
決
して早瀬さんのお世帯の
不為
になるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な
妓
が
落籍祝
どころじゃありません、
貴郎
、
着換
も無くしてまで、借金の方をつけて、
夜遁
げをするようにして
落籍
たんですもの。
堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、
単衣
ぐらい縫えますって、この間も夜
晩
く私に逢いに来たんですがね。」
と
婀娜
な涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、と
拗
ねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに
土地
馴れないのに、
臆病
な妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に
附着
いて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
と空色の、
瞼
を染めて、浅く
圧
えた
襦袢
の袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
「
世迷言
を言うなよ。」
と
膠
もなく、
虞氏
が
涙
を
斥
けて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
「
行処
もございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お
見免
し下さいますれば、
私
の外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」と
半
云って
唾
が乾く。
「いや、
不可
ん、許しやしないよ。」
「そう
仰有
って下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、
私
は、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、
汝
が勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」
と
赫
となって、この時やや血の色が
眉宇
に浮んだ。
「女学校の教師をして、
媒妁
をいたしましたり……それよりか、
拾人
の無い、社会の
遺失物
を内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ
内証
で置いてやりますだけのことでございますから。」
「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」
四十四
折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った
帰花
の風情に見えた。輝く電燈の光さえ、
凩
の
対手
や空に月一つ、で光景が
凄
じい。
一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はた
爾
く閉されているように思って、友染は
簪
の花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、
小刻
に
襖
の際。
川千鳥がそこまで通って、チリチリ、と
音
が留まった。
杯洗
、
鉢肴
などを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べる
中
も、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、
悄
れて
俯向
いて、ならば直ぐに、
頭
が打つのを
圧
えたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に
打傾
いで、
熟
と見て出ようとする時、
「食うものはこれだけか。」
と酒井は笑みを含んだが、この際、
天窓
から塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で
慄然
と
萎
んで壁の暗さに消えて行く。
慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を
捌
いて、
慌
しげに来たのは綱次。
唯今の注進に、ソレと急いで、
銅壺
の
燗
を引抜いて、長火鉢の前を
衝
と立ち
状
に来た。
前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の
角通
しの
縮緬
、かわり色の
裳
を払って、
上下
対の
袷
の
襲
、
黒繻珍
に金茶で
菖蒲
を織出した丸帯、
緋綸子
の
長襦袢
、冷く絡んだ雪の
腕
で、
猶予
らう色なく、持って来た銚子を向けつつ、
「お酌、」
冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の
陽炎
に、電気の光が
和
いで、
朧々
と春に返る。
「まだ宵の口かい。」
「柏家だけではね。」と
莞爾
する。
「遠慮なく出懸けるが可い、しかし
猥褻
だな。」
「あら、なぜ?」
「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」
「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」
「いいえ、もう、」
主税は
猪口
を
視
むるのみ。
「お察しなさいよ。」
と先生にまたお酌をして、
「
御贔屓
の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」
「道理こそ、
鎖帷子
の
扮装
だ。」
「
錣
のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」
と
髢
に手を触る。
「いいえ、」
と云って、
言
の内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、
「おいしいものが、直ぐにあとから、」
「綱次姉さん、また電話よ。」
と廊下から
雛妓
の声。
「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、
直
き行って来ますから、
貴下
帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」
酒井は黙って
頷
いた。
「早瀬さん、
御緩
り。」
と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から
面
を背ける。
酒井は、杯を、つっと
献
し、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
と進ませ、肩を
聳
かして
屹
と見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、
別離
の杯にするか。」
「…………」
「それとも
婦
を思切るか。芳、
酌
いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
銚子を挙げて、
猪口
を取って、二人は顔を合せたのである。
四十五
その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を
愚図々々
しているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で
密
と
圧
えながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、
更
めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、
貴郎
。
ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに
仰有
るんですから、
貴下
もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
と促がされても立ちかねる、主税は後を
憂慮
うのである。
「蔦吉さんが、どんなに
何
したって、私が知らない顔をしていれば
可
かったのですけれど、思う事は誰も
同一
だと、私、」
と襟に
頤
深く、迫った
呼吸
の早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、
貴女
が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
と酒井の前を
庇
う気で、肩に
力味
を入れて云ったが、続いて言おうとする、
(貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も
糸瓜
もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、
婦
を連れて
駈落
をしかねない。短兵急に首を
圧
えて叩っ斬ってしまうのだ。
早瀬。」
と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、
婦
が怨んでも、泣いても可い。
憧
れ
死
に死んでも可い。先生の
命令
だ、切れっちまえ。
俺を棄てるか、婦を棄てるか。
むむ、この
他
に
言句
はないのよ。」
(どうだ。)と
頤
で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に
肱
をついた。
「婦を棄てます。先生。」
と
判然
云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の
猪口
と相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
物をも言わず、
背向
きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう
一杯
、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に
引添
うて
縋
り
状
に、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
と自分で雨戸を。
「それは
不可
ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の
褄
。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ
開
かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、
忙
く
巻莨
を吸うのであった。
二時
ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、
牡丹
の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と
酒気
のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に
渠
は姉さんと、手をしっかりと取り合った。
時に、
寂
りした横町の、とある軒燈籠の白い
明
と、板塀の黒い蔭とに
挟
って、
平
くなっていた、
頬被
をした伝坊が、一人、後先を
して、
密
と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の
背後
へ、……抜足で
急々
。
「もし、」
「…………」
「
先刻
アどうも。よく助けて下すったねえ。」
と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その
半纏着
。
誰が引く袖
四十六
土曜日は
正午
までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、
溌
と
麗
な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、
杜若
よりも紫である。
年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
阿嬢
は、
就中
活溌に、大形の紅入友染の
袂
の端を、藤色の八ツ口から
飜然
と
掉
って、何を急いだか飛下りるように、靴の
尖
を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履
穿
で急いで来て、
「ああ酒井様。」
と云う。優等生で、この
容色
であるから、寄宿舎へ
出入
りの
諸商人
も知らぬ者は無いのに、別けて
馴染
の
翁様
ゆえ、いずれ
菖蒲
と引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
と振向くと、小使は小腰を
屈
めて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
と友達も、
吃驚
したような顔で
すと、出口に一人、
駒下駄
を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの
道連
が、
斉
しく三方からお妙の顔を
瞻
って黙った。
この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、
翁様
がまた、そこらの口が
姦
いと察した気転か。
「何か、お父様へ
御託
づけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
と
莞爾
して、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
お妙はずんずん小使について廊下を
引返
しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の
許
を
擦
って見せた。
「応接
室
でござりますわ。」
教員室の前を通ると、
背後
むきで、丁寧に、風呂敷の
皺
を
伸
して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに
仰様
に寝て、
両肱
を空に、後脳を
引掴
むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った
婦
は、言わずとも、体操の師匠である。
行きがかりに目についた、お妙は直ぐに
俯目
になって、コトコト
跫音
が早くなった。
階子段
の裏を抜けると、次の次の、応接室の
扉
は、半開きになって、ペンキ塗の
硝子戸入
の、大書棚の前に、
卓子
に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の
燦爛
たる、
新
い
洋書
の中ほどを開けて読む、
天窓
の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(
蝦茶
と
緋縮緬
の交換だ。)と主税が憤った一人である。
この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、
留南奇
の薫
馥郁
としてと云う、創作的
文字
をここに
挟
み得ることを感謝しよう。勿論、その
香
の、二十世紀であるのは言うまでもない。
お妙は、
扉
に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
閑耕は、キラリ
目金
を向けて、じろりと見ると、目を細うして、
髯
の
尖
をピンと立てた、
頤
が円い。
「こちらへ、」
と
鷹揚
に云って、再び済まして書見に及ぶ。
お妙は扉に
附着
いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その
発奮
で目金が躍る。
頬桁
へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ
揉込
むと、
睫毛
を
圧
え込んで、驚いて、指の尖を
潜
らして、
瞼
を
擦
って、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」
四十七
もう
傍
へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、
熟
と立って、
臈
たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように
俯向
いているから、威勢に
怖
じて、
頭
も
得
上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、
笑
を含んでいるのである。
それは、それは愛々しい、
仇気
ない
微笑
であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を
肯
いて、
御前
へ
侍
わぬだけに、人の悪い、
与
し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ
不可
んですよ。」
時に教頭胸を
反
らして、
卓子
をドンと
拳
で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに
面
を合わせて、そのふっくりした
二重瞼
を、
臆
する色なく、円く
って、
「御用ですか。」
と云った風采、云い知らぬ品威が
籠
って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて
俯向
いた。
教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、
抑々
生れて以来
最初
である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない
筈
だが、と
更
めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の
嬢
は依然として気高いのである。
「酒井さん……」
声の
出処
が、倫理を講ずるようには
行
かぬ。
咽喉
が狂って震えがあるので、えへん! と
咳
いて、
手巾
で
擦
って、
四辺
を
したが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、
大
にその威厳を
恢復
し得て、
勢
に乗じて、
「
貴娘
に聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の
父様
の弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」
「知りません。」
と
素気
なく云った。
「知らない?」
と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、
「知らないですか。」
「ええ、
前
にからですもの。内の人と
同一
ですから、いつ頃からだか分りませんの。」
「貴娘は
幾歳
ぐらいから、交際をしたですか。」
「…………」
と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、
「交際って、私、
厭
ねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。
「内の人。」
「ええ、」と
猶予
わず
頷
いた。
「貴娘、そういう事を言っては
不可
ますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」
と口を開いてニヤリとする。
お妙はツンとして横を向いた、
眦
に
優
い怒が籠ったのである。
閑耕は、その背けた顔を
覗込
むようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、
「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の
許
へ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」
妙子は何にも言わなかったが、はじめて
眩
しそうに瞬きした。
小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は
頤
で教えて、
「何を、茶をくれい。」
「へい。」
「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」
四十八
扉
が閉ると、教頭
身構
を崩して、仰向けに笑い懸けて、
「まあ、お掛なさい、そこへ。
貴娘
のためにならんから、云うのだよ。」
わざわざ立って突着けた、椅子の
縁
は、
袂
に触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお
答礼
をしただけで、元の横向きに立っている。
「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を
顰
めて、談じつけるような調子に変って、
「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ
憚
るべき悪漢ですね。」
とのッそり手を伸ばして、
卓子
の上に散ばった新聞を撫でながら、
「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」
一言聞くと、
颯
と
瞼
を
紅
にして、お妙は友染の
襦袢
ぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
と問返した時、教頭は
傲然
として、卓子に
頤杖
を
支
く。
「ええ、」とばかりで、お妙は
俯向
いて、瞬きしつつ、
流眄
をするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様の
許
へ、
頃日
に参った事はないですかね。
或
は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
小さな声だったが
判然
と、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、
皓歯
で
噛
んだ。この時、この色は、瞼のその
朱
を奪うて、
寂
しく白く見えたのである。
「行かん
筈
はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、
秘
すのじゃないかね。」
「存じませんの。」
と
頭
を
掉
ったが、いたいけに、
拗
ねたようで、且つくどいのを
煩
さそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、
攫徒
の手伝いをする、
巾着切
の片割のような男ですぞ!」
簪
の花が
凜
として色が冴えたか気が籠って、
屹
と、教頭を見向いたが、その目の
遣場
が無さそうに、向うの壁に
充満
の、
偉
なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、
清
い瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
で、見ないんなら御覧なさい。
他
の二三の新聞にも
記
いてあるですが。このA……が一番
悉
しい。」
と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が
戦
いだ。
「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、
極
りが悪いかね。何、知らないんなら
宜
しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
と
太
く
侮
った語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九は
秘
すですもの。何で真相が解りますか。」
コツコツ廊下から
剥啄
をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、
反身
に伸びて、
「カム、イン、」と
猶予
わずに答えた。
この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
すなわち
扉
を細目に、先ず
七分立
の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の
竪
ネクタイ、
金剛石
の
針留
の光っただけでも、
天窓
から
爪先
まで、その日の
扮装
想うべしで、髪から油が
溶
けそう。
早や
得
も言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が
煽
る。
四十九
「失敬、失敬。」
とちと持上げて、浮かせ気味に物
馴
れた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の
背後
から、横顔をじろりと見る。
河野の調子の
発奮
んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学(と力を入れて、)の図書館に
検
べものをして、それから精養軒で
午飯
を食うて来た。これからまたH博士の
許
へ行かねばならん。」
と
忙
しそうに肩を
掉
って、
「君(とわざと
低声
で呼んで、)この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、
見知越
のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は
可訝
かろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」と
真
に余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、
過般
も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
同じ文字を
露
した大形の名刺の
芬
と薫るのを、
疾
く用意をしていたらしい、ひょいと
抓
んで、
蚤
いこと、お妙の
袖摺
れに出そうとするのを、
拙
い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
英吉は眼を
って、急いでその名刺と共に、両手を
衣兜
へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ
歩行
きに、ぐるりと地図を
背負
って、お妙の
真正面
へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ
擦
りつけて、清めた気で、くの字
形
に腕を出したは、短兵急に握手の
積
か、と見ると、
揺
がぬ黒髪に
自然
と
四辺
を
払
れて、
「やあ、はははは、失敬。」
と英吉大照れになって、後ざまに
退
って(おお、神よ。)と云いそうな
態
になり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、
皆
貴女を知っているのですよ。はあ……」
と
独
で
頷
いて、大廻りに
卓子
の端を廻って、どたりと、
腹這
いになるまでに、拡げた新聞の上へ
乗懸
って、
「何を話していたのだい。」
教頭をちょいと見れば、閑耕は額で
睨
めつけ、苦き顔して、その
行過
を
躾
めながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
「
貴娘
知らんのならお聞きなさい。
頃日
の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり
攫徒
に
掏
られたです。取られたと思うと、気が着いて、
直
に
其奴
を
引掴
えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに
猛
り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
「
撲
られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も
挙
らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、
打
たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
証拠は無かったが、
怪
むべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ
夜
の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は
袱紗
に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた
金子
を持っていたんだ。
ねえ、貴娘。
拘引
して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が
軽
しく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」
五十
「
攫徒
の名も新聞に出ているがね、何とか小僧
万太
と云うんだ。
其奴
の白状した処では、電車の中で掏った時、
大不出来
しに
打攫
まって、往生をしたんだが、
対手
が
面
を
撲
ったから、
癪
に障って
堪
らないので、ちょうど袖の下に
俯向
いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで
逆捻
に捻じたと云うんだね。
ところで、
まん直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、
晩
くなってから
胡乱
ついていると、うっかり出合ったのが、
先刻
、紙入れを
辷
らかした男だから、
金子
はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、
袂
を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ
不可
んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった
一時
でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、
盗人心
を持った時なら、浅草橋の
欄干
を
蹈
んで、
富貴竈
の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
と教頭は椅子をずらして、卓子を
軽
く打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
その筋じゃ、
直
きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた
筈
だ。しかしその申立てが、攫徒の
言
に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は
措
いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の
仔細
も無く済むにゃ済んだ。
真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ
憚
って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
河野にも
言
を分けて、
「
直接
に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな
盗賊
とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ
密々話
さ。」
誰も否とは云わんのに、独りで
嵩
にかかって、
「紙入を手から手へ
譲渡
をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は
流眄
もしなくなったので、果は遠慮なく
視
めていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
「
父上
に……聞いて……頂戴。」
とお妙は
口惜
しそうに、あわれや、うるみ声して云った。
二人
密
と目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず
貴嬢
の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
お妙は気を
張
つめんと勤むるごとく、
熟
と
瞶
る地図を的に、目を
って、
先刻
からどんなに
堪
えたろう。
得
忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。
五十一
いや、学士二人驚いた事。
「
貴娘
、どうしたんだ。」
と教頭が椅子から
突立
った時は、お妙は始からしっかり握った
袂
をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の
肱
を
円
く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
靴音高く
傍
へ寄ると、河野も
慌
しく立って来て、
「泣いちゃ
不可
ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちと
穏
でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
と
密
と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の
俯向
いた玉の
頸
へ、横から
徐々
と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を
戦
かしたが、教頭は見て見ぬ振の、
謂
えらく、今夜の会計は河野
持
だ。
途端にお妙が身動をしたので、
刎飛
ばされたように、がたりと
退
る。
「もう帰っても
可
いんですか。」
と顔を隠したままお妙が云った。これには返す
言
もあるまい。
「可いですとも!」
と教頭が言いも果てぬに、身を
捻
ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は
及腰
に追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては
不可
んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、
宜
いですかね、ね。」
急
いた声で
賺
すがごとく、顔を
附着
けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく
頷
いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、
安堵
の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って
扉
を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は
衝
と抜けて、顔に当てた袖を落した。
雨を帯びたる
海棠
に、廊下の
埃
は鎮まって、
正午過
の早や蔭になったが、打向いたる式台の、
戸外
は
麗
な日なのである。
ト
押重
って、
木
の実の
生
った
状
に顔を並べて、
斉
しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、
蛞蝓
の這うにこそ。
真砂町の
家
へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、
母様
御飯、と遣って、何ですね、
唯今
も言わないで、と
躾
められそうな処。
そうではなかった。
例
の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、
寝着
の上に、
縞
の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、
面窶
れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが
媚
かしい。
寝床の上に
端然
と坐って、膝へ
掻巻
の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに
蒲団
に敷いている。
これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た
跫音
で、
襖
の外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」
紫
五十二
お茶漬さらさら、
大好
な
鰺
の新切で御飯が済むと、
硯
を一枚、
房楊枝
を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた
扱帯
に
手拭
を挟んで、
金盥
をがらん、と提げて、黒塗に
萌葱
の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所
穿
を、雪の素足に
突掛
けたが、靴足袋を脱いだままの
裾短
なのをちっとも
介意
わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた
状
は、踊舞台の
潮汲
に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
お妙は玄関
傍
、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが
辷
りのある井戸
流
へ
危気
も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の
躾
が
可
いから、もう十一二の時分から
膚
についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは
馴染
で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、
釣瓶
へ唇を
押附
けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々
花片
が浮ぶのであった。
直
に桃色の
襷
を出して、袂を投げて
潜
らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の
絮
の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ
颯
とかかる、水が紫に、墨が散った。
宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を
刎
ねて
りはじめたが、何を
焦
れたか、ぐいと
引断
るように邪険である。
ト
構内
の長屋の前へ、
通勤
に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の
扮装
、何だか
衣兜
を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、
蝙蝠傘
さえ携えて、早瀬が
前後
を
しながら、
悄然
として入って来たが、梅の
許
なるお妙を見る……
「おお、」
と
慌
しい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
お妙はそれまで気がつかなかった。
呼
れて、手を
留
て主税を見たが、水を汲んだ
名残
か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく
言
なき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。
「また、水いたずらをしているんですね。」
と顔を
視
めて元気らしく、
呵々
と笑うと、
柔
い瞳が
睨
むように動き止まって、
「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」
「ああ、成程。」
と始めて金盥を
覗込
んで
俯向
いた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、
「御清書ですかい。」
「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。
明後日
学校へ持って行くのを、これから
描
くんだわ。」
「御手本は何です、
姉様
の顔ですか。」
「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」
と
莞爾
して、独りで
頷
いて、
「もっと可いもの、
杜若
に八橋よ。」
「から衣きつつ
馴
れにし、と云うんですね。」
と云いかけて
愁然
たり。
お妙は何の気もつかない、派手な
面色
して、
「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」
「可哀相に。」
と苦笑いをすると、お妙は真顔で、
「だって、主税さん、
先年
私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。
貴下
は、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」
とつけつけ云う。
「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」と
更
めて聞くと、心ありげに頷いて、
「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、
臈
たく生垣から、二階を振仰ぐ。
主税はたちまち思いついたように、
「お嬢さん、」と云うや否や、
蝙蝠傘
を投出すごとく、井の柱へ
押倒
して、
勢
猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、
「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ
突込
むほど
引掛
けたと思うと、お妙がものを云う
間
も無かった。手を早や金盥に突込んで、
「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」
五十三
「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から
雫
がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
と
躾
めるように云って、お妙は上衣を
引取
って、
露
に白い
小腕
で、羽二重で
結
えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように
癇性
で、寒の
中
も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は
可
いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に
被
せて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。
爪紅
と云って、貴娘、紅をさしたような
美
い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
ああ、これは、」
と
片頬笑
みして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから
可
くってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお
身代
に立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と
独言
のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、
明後日
お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「
翌日
は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
と雫を払った、硯は顔も映りそう。
熟
と見て振仰いで、
「その、
衣兜
にあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、
可笑
しいんです。え、顔に墨が
刎
ねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、
翌日
また日曜ね、
貴郎
の
許
へ遊びに行ってよ。」
水に映った主税の色は、
颯
と薄墨の暗くなった。あわれ、
仔細
あって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ
莟
が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」
と云う
口許
こそふくらなりけれ。主税の
背
は、
搾木
にかけて細ったのである。
ト見て、お妙が言おうとする時、からりと
開
いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを
肯
かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、
大跨
に
歩行
いて来て、
「早瀬さん、先生が、」
二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、
背後
へ廻って、足駄
穿
いたが
対丈
に、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
と骨も砕くる背に
被
いで、
戦
くばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
と
身動
きに眉を
顰
めて――長屋の窓からお
饒舌
りの
媽々
の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を
圧
えて、
爪立
って、
「厭な、どうして、こんなに
雲脂
が
生
きて?」
五十四
主税が大急ぎで、ト
引挟
まるようになって、格子戸を
潜
った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、
粗
かしいこと。」
まことに硯を持って入って、そのかわり
蝙蝠傘
と、その柄に引掛けた
中折帽
を忘れた。
後へ立淀んで、こなたを
覗
めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪
形
に
掉
って、格子を叩きながら、のそりと入った。
誰も居なくなると、お妙はその
二重瞼
をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横
歩行
きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に
背
をつけて、くるりと向をかえて
凭
れると、学校から帰ったなりの
袂
を取って、
振
をはらりと手許へ返して、
睫毛
の濃くなるまで
熟
と見て、
袷
と
唐縮緬
友染の
長襦袢
のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと
算
えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
ただし遣方が
仇気
ないから、まだ覗いている
件
の長屋窓の
女房
の目では、おやおや
細螺
か、
鞠
か、もしそれ
堅豆
だ、と思った、が、そうでない。
引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、
細
に一段ばかり有ることは言うまでもない。
お妙は、今朝学校へ出掛けに、
女中
が
味噌汁
を
装
って来る間に、膳の
傍
へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の
標語
で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、
引張
ったり、畳んだり、
太
く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した
女中
と入違いに、
洋燈
棚へついと
起
って、
剪刀
を袖の下へ
秘
して来て、
四辺
を
して、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり
裁縫
は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
母様
は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、
貴郎
、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は
他
に二三種も来るのだけれども、そんな事は
不関焉
。
で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
と書生はまた、内々はがき
便
見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ
先繰
になったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る
筈
の、三の面が一小間切抜いてあるので、
落胆
したが、いや、この
悪戯
、嬢的に
極
ったり、と
怨恨
骨髄に徹して、いつもより
帰宅
の遅いのを、玄関の障子から
睨
め
透
して待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と
済
したものだった。
それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、
多時
思入った風であったが、ばさばさと
引裂
いて、くるりと丸めてハタと向う見ずに
投
り出すと、もう一ツの柱の
許
に、その
蝙蝠傘
に掛けてある、主税の
中折帽
へ留まったので、
「憎らしい。」と顔を赤めて、
刎
ね飛ばして、
帽子
を取って、袖で、ばたばたと
埃
を払った。
書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、
「えへへへ。」
その時お妙は、主税の蝙蝠傘を
引抱
えて、
「どこへ
行
くの。」
「車屋へ大急ぎでございます。」
「あら、
父上
はお出掛け。」
「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」
はなむけ
五十五
媒妁人
は宵の口、
燈火
を中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。
「唯今は御使で、
特
にお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、
来客
かと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が
露出
。
「はははは、すなわち
御持
せのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、
偏
に御縁のごわりまする
兆
でごわりまするな、はあ、」
酒井も珍らしく威儀を正して、
「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、
巻莨
をぐっ、と抜く。
「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。
御勝
れ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、
私
もその、甚だ心配を
仕
りまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
と先生警抜なことを云って、
俯向
きざまに、灰を払ったが、
左手
を袖口へ
掻込
んで胸を張って煙を吸った。礼之進は、
畏
ったズボンの膝を、
張肱
の両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病の
原
じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、
事実
でな。何分御注意なさらんとなりません。」
と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
と重々しく
素引
きかけると、酒井は事も無げな
口吻
。
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と
頤
を揉んで、スーと云って、
「御令室の
思召
はいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、
貴下
より御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、
推着
けがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、
東京
に
逗留
いたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
と、意気込んで、スーと
忙
しく
啜
って、
「何か、
私
までも、それを承りまするに就いて、このな、胸が
轟
くでごわりまするが、」
と
熟
と見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
「
他
ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある
筈
はありませんが、ただ
不束
な娘ですから、」
「いや、いや、」
と頭を
掉
って、
大
に
発奮
み、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
時に
襖
に
密
と当った、
柔
な
衣
の
気勢
があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳
二室
で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から
上口
の六畳の方。
礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。
私
大願成就仕りましたような心持で。お
庇
を持ちまして、
痘痕
が栄えるでごわりまする。は、はは、」
道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。
五十六
望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう
纏
ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨
稜々
たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の
擽
ったさに、礼之進は、日一日
歩行
廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、
貴下
の
思召
は。」
ちっとも
猶予
らわずに、
「私に
言句
のあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は
小児
です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と
哺
めてやるような縁談ですから、
否
も応もあったもんじゃありません。」
と
小刻
に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
道学先生、
堪
りかねて、手を握り、膝を
揺
って、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、
他
にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「
住居
は飯田町ですが、」
と云う時、先生の肩がやや
聳
えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、
吃驚
する。
「
掏摸
一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
礼之進、苦り切った
顔色
で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
道学者はアッと痘痕、目を
円
かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は
入
らん。先生が
立処
に手を
曳
いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が
不可
い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
黙ってはいられない。
「しますると、その、」
と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて
憚
ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。
同一
家に
我儘
を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、
兄妹
のようか、
従兄妹
のようか、それとも師弟のようか、
主従
のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、
御媒酌人
、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの
料簡
でしょうか。」
と
串戯
のように云って、ちょっと
口切
ったが、道学者の呆れて口が利けないのに、
押被
せて、
「さっぱりとそうして下さい。」
五十七
「
貴下
、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする
思召
でごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
これにまた少なからず
怯
かされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は
許嫁
の方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお
在
なされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、
更
らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、
御串戯
で。御議論がちと
矯激
でごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も
怪
まんのです。
貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を
取極
める、と云うに、不思議はありますまい。
唐突
に
嫁入
らせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、
懊悩
だわ、
煩悶
だわ、
辷
った、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって
不可
んのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
と話は済んだように
莞爾
して、
「昔から
媒酌人
附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った
例
はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に
極
ったものです。」
「はあ、」
と云って、道学者は口を
開
いて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処に
拠
りますると、早瀬子は、何か、
芸妓
風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも
彼奴
の返事をお聞き下さい。
或
は、自分、妙を欲しいではないが、
他
なら知らず河野へは
嫁
っちゃ
不可
ん、と云えば、私もお
断
だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、
神仏
の
御託宣
と
同一
です。」
形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って
真赤
になり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、
更
めて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の
居
らるる路地を、
私
通りがかりに
覗
きますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ
引越
される、と聞きましたら、(引越すんじゃない、
夜遁
げだい。)と怒鳴ります
仕誼
で、一向その行先も分りませんが。」
先生
哄然
として、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも
暇乞
に来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
ああ、
媒酌人
には何がなる。黄色い
手巾
を忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を
支
いて、
畏
って落涙しつつ居たのである。夫人も
傍
に。
先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」
五十八
主税は心も
闇
だったろう、
覚束
なげな足取で、
階子壇
をみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、
一室
越し袋の口を開いたような
明
は
射
すが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。
さすがは酒井が注意して――早瀬へ
贐
、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく
余所
へ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。
酔ってはいないが、
蹌踉
と、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は
真暗
な穴へ落ちた
思
がして、がっくりとなって、
諸膝
を
支
こうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで
躊躇
している内に、座を立たれては恐多い、と心を
引立
てた腰を、自分で突飛ばすごとく、
大跨
に出合頭。
颯
と開いた
襖
とともに、
唐縮緬
友染の不断帯、格子の
銘仙
の羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ
年紀
の
長
けた姿。円い
透硝子
の笠のかかった、背の高い竹台の
洋燈
を、杖に
支
く形に持って、
母様
の
居室
から、
衝
と立ちざまの
容子
であった。
お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に
突伏
すがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の
台擦
れに、肩を細うして指の
尖
を揃えて坐る、
袂
が畳にさらりと敷く音。
こんな
慇懃
な挨拶をしたのは、二人とも二人には
最初
で。玄関の障子にほとんど裾の
附着
く処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。
と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、
燈火
のうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらと
揺
めいた。
「もう帰るの?」
と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の
俤
は、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
机に向った横坐りに、やや乱れたか
衣紋
を気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら
薄寒
そうで
風采
も沈んだのに、唇が
真黒
だったは、
杜若
を
描
く墨の、紫の
雫
を含んだのであろう、
艶
に
媚
めかしく、且つ寂しく、
翌日
の朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を
掠
めてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌
宜
う。」
「貴下も。」とただ一言、無量の
情
が籠ったのである。
靴を
穿
いて格子を出るのを、お妙は洋燈を
背
にして、
框
の障子に
掴
まって、
熟
と覗くように見送りながら、
「さようなら。」
と
勢
よく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで
朋達
と別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は
拗
ねた
状
に顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく
掌
で
擦
ったが、
背
を
捻
って、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の
彼方
の茶の間を覗くと、長火鉢の
傍
の釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの
女中
の有様。
ちょいと、風邪を引くよ、と
先刻
から、隣座敷の机に
恁
っかかって絵を
描
きながら、
低声
で気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが
疾
いか、
身動
ぎに端が解けた、しどけない
扱帯
の
紅
。
五十九
「
厭
よ、主税さん、
地方
へ行っては。」
とお妙の手は、井戸端の梅に
縋
ったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、
地方
へなんぞ行ってしまっては。」
主税は
四辺
を見たのであろう、
闇
の青葉に
帽子
が動いた。
「
直
き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」
「だって、
直
だって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」
「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は
引込
みます積りです。」
「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」
お妙は格子戸を出るまでは、
仔細
らしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きを
憚
るごとき、低い声ではなかったのが、ここで急に
密
りして、
「あの、
貴下
、
父様
に叱られて、内証の……奥さん、」
「ええ!」
「その方と別れたから、それで
悲
くなって
地方
へ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」
「…………」
「それならねえ、辛抱なさいよ。
母様
が、その方もお可哀相だから、
可
い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が
肯
いてくれますよ。」
「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙が
溢
れます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢が
覚
ましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の
越度
だけれど、
掏摸
と、どうしたの、こうしたの、という汚名を
被
ては、人中へは出られません。
先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間に
騒
しくなるばかりです。
卑怯なようですけれど、それよりは当分
地方
へ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、
果敢
ないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の
停車場
に着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんな
懐
い東京ですが、しばらく分れねばなりません。」
「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」
言
が途絶えると、音がした、
釣瓶
の
雫
が落ちたのである。
差俯向
くと、
仄
かにお妙の足が白い。
「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな
茅屋
の軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、
歓迎
をしますから、
貴娘
、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。
江尻も興津も
直
きそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を
賺
して云った。
「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんの
許
へ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。
口惜
しいわ、
攫徒
の仲間だの、巾着切の同類だのって、
貴郎
の事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ
不可
いって、学校の名誉に障るって云うのよ。
可
うござんす、
帰途
に直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点を
減
かれるから。そうすると、お友達に
負
るから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、(私も掏摸かい、見て頂戴。)と、貴下の二階に居て
讐
を取ってやりたかったに、残念だわねえ。」
と擦寄って、
「
地方
へ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩に
凭
れて、胸へ
縋
ったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を
指環
に
接
けた。
「忘れません。私は死んでも鬼になって。」
君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。
巣立の鷹
六十
「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」
十二時近い新橋
停車場
の、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、
め組の惣助。
手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。
大
な
支那革鞄
を横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の
折革鞄
、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、
伯林
の、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、
瓢箪
式に膝に引着け、あの右角の、三等待合の入口を、叱られぬだけに塞いで、樹下石上の身の構え、電燈の花見る
面色
、九分九厘に
飲酒
たり
矣
。
あれでは、我慢が仕切れまい、真砂町の井筒の
許
で、青葉落ち、枝裂けて、お嬢と分れて来る途中、どこで飲んだか、主税も陶然たるもので、かっと二等待合室を、入口から帽子を突込んで
覗
く処を、
め組は
渠
のいわゆる(こっち。)から呼んだので。これが
一言
でブーンと響くほど聞えたのであるから、その大音や思うべし。
「やあ、待たせたなあ。」
主税も、こうなると元気なものなり。
ドッコイショ、と荷物は置棄てに立って来て、
「待たせたぜ、先生、
私
あ九時から来ていた。」
「退屈したろう、気の毒だったい。」
「うんや、何。」
とニヤリとして、
半纏
の腹を開けると、腹掛へ
斜
っかいに、正宗の
四合罎
、ト内証で見せて、
「これだ、訳やねえ、退屈をするもんか。時々
喇叭
を
極
めちゃあね、」
と
向顱巻
の首を
掉
って、
「切符の
売下口
を見物でさ。ははは、
別嬪
さんの、お
前
さん、手ばかりが、あすこで、
真白
にこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、
見物
だね。
難有
え。はははは。」
「馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。」
と苦笑いをして
躾
めながら、
「
家
はすっかり片附いたかい、大変だったろう。」
「
戦
だ、まるで戦だね。だが、何だ、帳場の親方も来りゃ、
挽子
も手伝って、
燈
の
点
く
前
にゃ縁の下の
洋燈
の
破
れまで掃出した。何をどうして可いんだか、お
前
さん、みんな根こそぎ
敲
き売れ、と云うけれど、そうは行かねえやね。蔦ちゃんが、手を突込んだ糠味噌なんざ、
打棄
るのは
惜
いから、車屋の
媽々
に遣りさ。お仏壇は、蔦ちゃんが人手にゃ渡さねえ、と云うから、
私
は
引背負
って、一度内へ
帰
ったがね、何だって、お前さん、女人禁制で、蔦ちゃんに、
采
を
掉
せねえで、城を明渡すんだから、
煩
かしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に
引丸
めたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに
御新造
さんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。
ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の
肴屋
から、
鰹
はござってら、
鮪
の
活
の可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が
切味
をお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、
一
が出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は
鉢前
で、焚火で、
煮燗
だ。
さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけ
呼
で来た。薄暗い
台所
を覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。
彼奴
背負引
け。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶を
済
して、
帰
って来た、お源坊がお前さん、
一枚
着換えて、お
化粧
をしていたろうじゃありませんか。
蚤取眼
で
小切
を探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、
難有
え、大日如来、
己
が車に乗せてやる、いや、
私
が、と戦だね。
戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。
ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。お
前
さん、
有象無象
が声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」
六十一
「そこでお
前
さん、何だって、世帯をお
仕舞
えなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、
此家
の御夫婦に
夜遁
げなんぞさせるんじゃねえ、と
一番
しみったれた
服装
をして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。
銭金ずくなら、
め組がついてる、と鉄砲巻の皿を
真中
へ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、
御新造
の方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々
御尤
なんだから、一言もなしに、御新造も身を
退
いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、お
前
さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、
忍
けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、
柔順
に別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い
掏摸
が
遣損
なって、人中で
面
を
打
たれながら、お助け、と
瞬
するから、そこア男だ。
諾来
た、と頼まれて、紙入を隠してやったのが
暴露
たんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の
交際
が面倒臭くなったから、
引払
って駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて
退
かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、
皆
、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
と乗気になって、
め組の惣助、
停車場
で手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。
近火
のようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった
差配様
が、お
前
さん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度
払
を掛けて、縁側を
拭
き直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
私
は、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を
惜
がったから、
莟
を交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の
女房
とで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う
思入
で、城を明渡して来ましたがね。
世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」
と云いかけて、主税の
扮装
を、じろり。
「へへへ、今夜はお
前
さんも
着
ってるけれど。まあ、可いや。で何だ、
痘痕
の、お前さん、しかも
大面
の奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃
流行
るけれど、ありゃ
不躾
だね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お
飯粒
を
撒
いてやった、雀ッ子にだって
残懐
は
惜
いや、蔦ちゃんなんか、
馴染
になって、
酸漿
を鳴らすと鳴く、
流元
の
蛙
はどうしたろうッて
鬱
ぐじゃねえか。」
「止せよ、そんな事。」
と主税は帽子の前を下げる。
「まあさ、そんな中へ来やあがって、お
剰
に、空くのを待っていた、と云う
口吻
で、その上横柄だ。
誰の
癪
に障るのも
同一
だ、と見えて、
可笑
ゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、お
前
さん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、
聾
の真似をして、痘痕の極印を打った、
其奴
の
鼻頭
へ横のめりに耳を
突
かけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いた
家
か、と
喚
いたから、
私
ア
階子段
の下に、蔦ちゃんが
香
を隠して置いたらしい
白粉入
を引出しながら、空家だい! と怒鳴った。
吃驚
しやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、と
威
かすと、へへへ旦那、」
め組は極めて小さい声で、
「私ア高利貸だ、と思ったから……」
話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。
六十二
ちと黙ったか、と思うと、
め組はきょろきょろ
四辺
を見ながら、帰天斎が扱うように、
敏捷
く四合罎から
倒
にがぶりと
飲
って、
呼吸
も
吐
かず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その
痘痕
めい、
差配
はどこだと聞きゃあがる。
差配様
か、差配様は
此家
の
主人
が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った
顔色
をしやがって、家賃は
幾干
か知らんが、
前
にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お
前
さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、
情人
と世帯を持った
家
だ、
汝達
の手に渡すもんか。
め組の惣助と云う魚河岸の
大問屋
が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。
帰
れ、と
喚
くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
「
悪戯
をするじゃないか。」
「だって、お
前
さん、
言種
が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の
時
で
御覧
じろ、えて吉、存命は
覚束
ねえ。」
と図に乗って
饒舌
るのを、おかしそうに
聞惚
れて、夜の
潮
の、充ち満ちた構内に
澪標
のごとく千鳥脚を押据えて
憚
からぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった
渠等
の
傍
で、駅員が一名、
密
と寄って、中にも
め組の横腹の
辺
で
唐突
に、がんからん、がんからん、がんからん。
「ひゃあ、」と
据眼
に
呼吸
を引いて、たじたじと
退
ると、駅員は冷々然として
衝
と去って、入口へ向いて、がらんがらん。
主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それは
豪
い。」
惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、
串戯
じゃねえ、
二合半
が処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
荷物を
引立
てて来て、二人で改札口を出た。その
半纏着
と、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、
乗客
はただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
め組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ
覗
き越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
「
大束
を言うな、駈落の身分じゃないか。
幾干
だっけ。」
と横へ
反身
に
衣兜
を探ると、
め組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、
頭
を
掉
って、
「
不残
叩き売った道具のお
銭
が、ずッしりあるんだ。お
前
さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――
め組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――
馬丁
貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。
己
も捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
と
後退
って、向うざまに
顱巻
を占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
傍
へ来た駅員に、
突
のめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
主税は窓から立直る時、向うの隅に、
婀娜
な櫛巻の後姿を見た。ドンと
硝子戸
をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと
背
を向いた。
汽車出でぬ。
貴婦人
一
その翌日、神戸行きの急行列車が、
函根
の
隧道
を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、
卓子
は別であるが、一
人
外国の客と、
流暢
に
独逸
語を交えて、自在に談話しつつある青年の
旅客
があった。
こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ
頼母
しそうに、
熟
と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく
乗
かかった、かすりで揃の、
袷
と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の
児
に、極めて上手な、
肉叉
と
小刀
の扱い
振
で、
肉
を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。
見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は
白鷺
の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を
後
に走る。
函嶺
を絞る
点滴
に、
自然
浴
した貴婦人の
膚
は、滑かに玉を刻んだように見えた。
真白なリボンに、黒髪の
艶
は、
金蒔絵
の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに
牡丹
の花、
蕊
に金入の半襟、栗梅の紋お召の
袷
、薄色の
褄
を
襲
ねて、
幽
かに紅の入った黒地友染の
下襲
ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと
黒繻子
の丸帯に金泥でするすると引いた琴の
絃
、添えた模様の
琴柱
の
一枚
が、ふっくりと乳房を包んだ胸を
圧
えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の
縮緬
に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、
指環
の玉の、幾つか連ってキラキラ人の
眼
を射るのは、水晶の珠数を
爪繰
るに似て、非ず、浮世は今を
盛
の色。
艶麗
な
女俳優
が、子役を連れているような。
年齢
は、されば、その
児
の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも
二十
でも差支えはない。
婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、
少々
しい
口許
と、心の透通るような
眼光
を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、
小児
は手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくると
環
を
描
いた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔を
視
めて、
同一
ようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本の
兄
より、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。
その、不思議そうに瞳をくるくると
遣
った様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取って
彳
んだボオイさえ、
莞爾
した程であるから、当の外国人は
髯
をもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の
林檎
を
剥
きかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと
雷干
に、
菓物
を差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身を
捻
じざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、
「坊ちゃん、いらっしゃい。
好
いものを上げますとさ。」とその
言
を通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、
臆面
なく、
「アハアハ、」と小児が笑う。
青年は、
好事
にも、わざと自分の腰をずらして、今度は
危気
なしに両手をかけて、
揺籠
のようにぐらぐらと遣ると、
「アハハ、」といよいよ嬉しがる。
御機嫌を見計らって、
「さあ、お
来
なさい、お来なさい。」
貴婦人の底意なく
頷
いたのを見て、小さな靴を思う様
上下
に
刎
ねて、外国人の前へ
行
くと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から
捩取
ったように、目よりも高く差上げて、
覚束
ない口で、
「万歳――」
ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。
二
「今のは
独逸
人でございますか。」
外客
の、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の
英語
でないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。
青年は椅子をぐるりと廻して、
「僕もそうかと思いましたが、違います、
伊太利
人だそうです。」
「はあ、伊太利の、商人ですか。」
「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の
談話
は出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」
「理学者、そうでございますか。」
小児
の肩に手を懸けて、
「これの
父親
も、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」
さては理学士か何ぞである。
貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
雪踏
をずらす音がして、
柔
かな
肱
を、唐草の浮模様ある、
卓子
の
蔽
に曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どう
仕
りまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
とちょいと
天窓
を
掻
いて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と
遣
ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。
貴郎
は、」
と
莞爾
した
流眄
の
媚
かしさ。
熟
と見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと
硝子
越に顔の合ったのを、手招きして、
「
珈琲
を。」
「ああ、こちらへも。」
と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。
彼地
の文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな
貴女
、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(
日蝕
があるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど
皆既蝕
だ。)と云いましたが、まだ日本には、その
風説
がないようでございますね。
有っても一向
心懸
のございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、
支那
だか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き
懸
た処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
「
御串戯
おっしゃっては
不可
ません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
と
俯向
いて、
低声
になり、
「女
俳優
だ、と申しました。」
「まあ、」と
清
い目を
って、
屹
と
睨
むがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
「
沢山
、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、
室
が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「お
湯
。」
と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。
三
「静岡はどちらへお越しなさいます。」
貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、
旅籠屋
へ厄介になりますつもりで。」
もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
「
貴女
、静岡は
御住居
でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎
俳優
ですからお恥しゅう存じます。田舎も
貴下
、
草深
と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お
飯炊
の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
と
菫
色の
手巾
で、口許を
蔽
うて笑ったが、前髪に隠れない、
俯向
いた眉の美しさよ。
青年は
少時
黙って、うっかり
巻莨
を取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、
対手
が外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、
真
に失礼。」
と
真面目
に
謝罪
って、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、
河野
さん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
深く
頷
き、
「はい、」
「あら、河野は
私
どもですわ。」
と無意識に
小児
の手を取って、
卓子
から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、
揺
ぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬
主税
と云うものです。」
と青年は
衝
と椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に
莞爾
する。
主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その
女俳優
、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、
家
が気に入らない、と
仰有
って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、
蒼
くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時
更
めて、略式の会釈あり。
「
私
は英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの
令夫人
でいらっしゃいますか。……これはどうも。」
静岡県……
某
……校長、島山理学士の夫人
菅子
、英吉がかつて、
脱兎
のごとし、と評した
美人
はこれであったか。
足
一度
静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、
浅間
の森の
咲耶姫
に対した、草深の
此花
や、
実
にこそ、と
頷
かるる。河野一族随一の
艶
。その一門の富貴栄華は、
一
にこの夫人に因って代表さるると称して
可
い。
夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、
恬淡
、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。
たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。
兵児帯
でも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する
数
か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……
悉
く夫人の手に受取られて、
偏
にその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。
四
五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、
慈善市
の相談をするのもある。飽かず、
倦
まず、
撓
まないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、
実家
から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の
装
をもってして、小遣が自由になる。しかも
御衣勝
の
着痩
はしたが、玉の
膚
豊かにして、汗は
紅
の露となろう、
宜
なる
哉
、
楊家
の
女
、牛込南町における河野家の学問所、
桐楊
塾の楊の字は、菅子あって、
択
ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、
襲裏
の
上穿
草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて
一時
物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の
袂
に、
大巌山
の峰を
蔽
う、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から
娶
り得たと云う――新夫人の二人が、二つ
巴
の、巴川に渦を巻いて、お
濠
の水の
溢
るる
勢
。
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう
筈
がありませんが。」
主税のこの挨拶は、
真
に如才の無いもので。
熟々
視ればどこにか
俤
が似通って、水晶と
陶器
とにしろ、目の大きい処などは、かれこれ
同一
であるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような
婦人
はないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に
衣兜
から
燐寸
を出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、
小火
を見附けたほどの騒ぎ方で、
「
煙草
は
不可
んですな。」
「いや、これは。」主税は
狼狽
えて、くるりと廻って、そそくさ
扉
を開いて、隣の休憩室の
唾壺
へ突込んで、
喫
みさしを
揉消
して、
太
く恐縮の体で引返すと、そのボオイを
手許
へ呼んで、夫人は
莞爾々々
笑いながら
低声
で何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の
不出来
しを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから
最初
だ。」
と、半ば、
独言
を云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって
江戸子
の名誉なんですわ。」
ボオイが
剰銭
を持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
傍
へ来て腰を
屈
めて、
慇懃
に小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
と今度は主税が火の附くように
慌
しく
急
って云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと
黄金
の鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
(
女俳優
)と云いそうだったが、客が居たので、
「
女形
にお任せなさいまし。」
とすらりと立った丈高う、半面を
颯
と彩る、
樺
色の窓掛に、色彩
羅馬
の
女神
のごとく、
愛神
の手を片手で
曳
いて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、
沢山
お煙草を召上れ。」
と見返りもしないで先に立って、
件
の休憩室へ導いた。
背
に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が
聳
えて、主税は
大跨
に後に続いた。
窓の外は、裾野の
紫雲英
、
高嶺
の雪、富士
皓
く、雨紫なり。
五
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に
逗留
していたとの事。桜も過ぎたり、
菖蒲
の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この
小児
の
二年
姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分
実家
の医院においても、治療に
詮議
を尽したが、その
効
なく、一生の不幸になりそうな。
断念
のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその
帰途
だと云う。
もとよりその女の
児
に取って、
実家
の
祖父
さんは、当時の蘭医(昔取った
杵
づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、
盲目
の娘、(可哀相だわねえ、と
客観
的の
口吻
だったが、)今更大学へ行ったって、所詮
効
のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い
語
が交った。
夫がまた、随分自分には
我儘
をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、
艶
がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を
覗
いた。
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で
埋木
のような
心地
で心細くってならない処。夫が旅行で
多日
留守、この時こそと思っても、あとを預っている
主婦
ならなおの事、
実家
の手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、
盲目
の娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に
吻々
と笑う。
この談話は、主税が立続けに巻煙草を
燻
らす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
椅子と椅子と間が
真
に短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、
裳
は長く足袋に落ちても、腰の高い、
雪踏
の
尖
は
爪立
つばかり。汽車の
動揺
みに
留南奇
が散って、友染の花の乱るるのを、夫人は
幾度
も引かさね、引かさねするのであった。
主税はその盲目の
娘
と云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、
突然
客室の戸を開けようとして男の
児
が
硝子扉
に手をかけた時であった。――
銀杏返
しに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、
扉
を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、
被布
を着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を
引込
めて、首を
萎
めて、ぐったりして、その年増の膝に
凭
かかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の
病
い
娘
なのであった。
乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に
彼方
から
見透
くのを、主税は何か
憚
かって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、
太
くお
主
の
盲目
なのに同情したために、
自然
から気が映ってなったらしく、女の児と
同一
ように目を
瞑
って、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く
差俯向
いて、いささかも室の外を
窺
う
気色
は無かったのである。
かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には
太
く
倦
じた体で、夫人は
腕
を仰向けに窓に投げて、がっくり
鬢
を枕するごとく、果は腰帯の
弛
んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を
瞻
って、物打語るに疲れなかった。
草深辺
六
県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、
一時
は魔の
所有
に
寂寞
する、
草深町
は静岡の
侍小路
を、カラカラと
挽
いて通る、一台、
艶
やかな
幌
に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の
蹴込
み、友染の
背
当てした、高台細骨の車があった。
あの、
音
の冴えた、軽い車の
軋
る響きは……例のがお出掛けに違いない。
昨日
東京から帰った
筈
。それ、
衣更
えの姿を見よ、と小橋の上で
留
るやら、旦那を送り出して
引込
だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、
刎釣瓶
の手を休めるやら、女
連
が上も下も
斉
しく見る目を
聳
てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と
相角
の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の
令夫人
に
乗初
めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は
被物
なしに駈けるのであった。
ものの半時ばかり
経
つと、同じ
腕車
は、
通
の方から
勢
よく茶畑を走って、草深の町へ
曳込
んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る
女房
などは、若竹座へ乗込んだ
俳優
だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の
衝立
の蔭になって
差覗
いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を
演
るという新俳優の、あれは貫一に
扮
る誰かだ、と立騒いだ。
主税がまた
此地
へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、
薙放
しの
頭髪
も洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の
余波
は争われぬ。土地の透明な光線には、(
埃
だらけな洋服を着換えた。)酒井先生の
垢附
を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ
巴
の
紋着
の羽織の
中古
なのさえ、艶があって折目が
凜々
しい。久留米か、薩摩か、
紺絣
の
単衣
、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お
蔦
が心懸けたものであろう。
渠
は昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
仰いで、
浅間
の森の流るるを見、
俯
して、
濠
の水の走るを見た。たちまち
一朶
紅
の雲あり、夢のごとく
眼
を遮る。
合歓
の花ぞ、と心着いて、
流
の音を耳にする時、車はがらりと石橋に
乗懸
って、黒の
大構
の門に
楫
が下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
と門内へ駈け込んで、
取附
の格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を
屈
めて待つ。
冠木門
は、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
男の
児
が先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が
帽
を脱いで、
雨
あがりの松の
傍
を、緑の露に袖擦りながら、格子を
潜
って、土間へ入ると、天井には
駕籠
でも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、
後
の縁から
射
す明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、
衣
の色
朦朧
と、
俤
白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの
莞爾
して、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
ちょいと
車夫
に声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
口早に促されて、急いで上る、主税は
明
い外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に
打附
るのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で
捌
く
裳
の音。
七
市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの
慌
しさ、主税は足早に続く
咄嗟
で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて
昨日
汽車の中で、夫人を女
俳優
だと、外人に
揶揄
一番した、ああ、
祟
だ、と気が付いた。
気が付いて、
莞爾
とした時、
渠
の
眼
は
口許
に似ず鋭かった。
ちょうどその横が十畳で、
客室
らしい
造
だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
主税が
猶予
うと、
「あら、座敷を
覗
いちゃ
不可
ません、まだ散らかっているんですから、」
と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、
飛白
の紺も
鮮麗
に、部屋へ入っている夫人が、どこから
見透
したろうと驚いたその目の色まで、
歴然
と映っている。
姿見の前に、
長椅子
一脚、広縁だから、十分に
余裕
がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、
白粉
の
類
、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
薄萌葱
の窓掛を、
件
の
長椅子
と雨戸の
間
へ
引掛
けて、幕が明いたように、絞った
裙
が
靡
いている。車で見た
合歓
の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ
二本
三本
を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
地を
坤軸
から
掘覆
して、
将棊倒
に
凭
せかけたような、あらゆる峰を
麓
に
抱
いて、折からの
蒼空
に、雪なす袖を
飜
して、軽くその
薄紅
の合歓の花に乗っていた。
「結構な
御住居
でございますな。」
ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、
山繭縮緬
の
縞
の羽織を引掛けて、帯の
弛
い、無造作な
居住居
は、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った
箪笥
の前なる、鏡台の鏡の
裏
へ、その玉の
頸
に、
後毛
のはらはらとあるのが
通
って、
新
に薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも
籠
ったか、主税が坐ると
馥郁
たり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと
昨夜
は旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
と火箸を
圧
えたそうな白い手が、銅壺の湯気を
除
けて、ちらちらして、
「
昨夜
にも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の
難有
さが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると
不可
ないから………」
と
莞爾
笑って、
瞥
と見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前
雀羅
を張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で
払
を持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、
貴下
も詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、
可
い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
あの、
地方
の車だって
疾
いでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、
身化粧
をしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の
処
へ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような
咽喉
を仰向け、胸を
反
らした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の
直
きこっちの大きな
山葵
の看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、
沢山
喫
って頂戴、お煙草。
露西亜
巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっとも
喫
みませんから……」
八
それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を
焙
じる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ
沸
らぬ、と銅壺から湯を
掬
む
柄杓
の柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。
他愛
なく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って
見透
した風情は、この
夫人
の
艶
なるだけ、
中指
の
鼈甲
の
斑
を、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄を
投
り出した様子は、
世帯
の事には余り心を用いない、学生生活の
俤
が残った。
主税が、
小児
衆は、と尋ねると、二人とも
乳母
が連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った
報知
旁々
、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、
言句
は言わないまでも、苦い顔をして、
髯
の中から
一睨
み睨むに違いはないんですもの、
難有
くないわ。
母様
は自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと
経
つと帰って来ます。それまでは、私、
実家
へは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
と火鉢の縁に
肱
をついて、男の顔を
視
めながら、魂の抜け出したような
仇気
ないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
と主税がかえって心配らしく、
「
彼方
から、
誰方
かお
来
なさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。
義兄
(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、
頃日
は、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に
閉籠
って、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の
病
を治すより、国の病を治したい、と云う
大
な
希望
の人ですからね。
過年
、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、
父様
は、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに
掲
ったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
と不意に質問の矢が来たので、ちと、
狼狽
ついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と
気
もなく答える。
別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、
貴下
は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
と、なぜか
気競
って云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も
吐
かずに、番茶を
呷
る。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
夫人は薄笑いの目をぱっちりと、
睫毛
を裂いたように黒目勝なので
睨
むようにした。
「ちょいと、
吃驚
して。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
と振返りざまに
背後
向きに肩を
捻
じて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な
身動
きに、
下交
の
褄
が
辷
った。
そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、
翳
すがごとく開いて見せたは……
「や!
読本
を買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
「
冷評
しては
不可
ませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」
九
「あの、何?」
と
真
に打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「
直
き読めます、」
と読本を受取って、片手で
大掴
みに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
と
衝
と身を
退
いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
茶棚の
傍
の
襖
を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、
鞠子辺
の産らしい、十六七の
婢
どんが、
「ふァい、奥様。」と
訛
って云う。
聞いただけで、
怜悧
な菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、
厭
な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代
衆
でござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ
行
きましょうよ。」
衣紋
を直したと思うと、はらりと気早に立って、
踞
った
婢
の髪を、袂で払って、もう居ない。
トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
はて心得ぬ、これだけの
構
に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は
四辺
を
したが――後で知れた――留守中は、
実家
の
抱
車夫が夜
宿
りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに
往来
があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、
美濃安八
の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい
日中
は学校へ出ても、別に
仔細
は無かったろうに。
さて、夫人は、谷屋の手代というのを、
隣室
のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
主税は、夫人が
此室
を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を
辿
りつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と
串戯
を云ったものを。
「
室数
は幾つばかりあれば
可
くって?」
「何です、何です。」
余り
唐突
で解し兼ねる。
「
貴下
のお借りなさろうというお
家
よ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
夫人がした通りに、茶棚の
傍
の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、
苦笑
をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に
背
を
凭
たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた
肱
も
露
に夫人は頬を支えていた。
「朝から
戸迷
いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
と振向いた顔の、花の色は、
合歓
の影。
「へへへへへ」
と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。
鬱金
木綿の風呂敷に、浴衣地が
堆
い。
二人連
十
午後
、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ
砧
の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
門際の
流
に臨むと、
頃日
の雨で、用水が
水嵩
増して
溢
るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、
蒼
く
飜
って
竜
の躍るがごとく、
茂
の
下
を流るるさえあるに、大空から
賤機山
の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は
洋傘
をすぼめた。
と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の
靡
くように見えたのは、羽織なしの一枚
袷
という
扮装
のせいで、また着換えていた――この方が、姿も
佳
く、よく似合う。ただし
媚
しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
セルで足袋を
穿
いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って
邸
を
出掛
けに着換えたが、
膚
に、
緋
の
紋縮緬
の
長襦袢
。
二人の
児
の母親で、その燃立つようなのは、ともすると
同一
軍人好みになりたがるが、
垢
抜けのした、意気の
壮
な、色の白いのが着ると、汗ばんだ
木瓜
の花のように
生暖
なものではなく、雪の下もみじで
凜
とする。
部屋で、
先刻
これを着た時も、乳を
圧
えて
密
と袖を
潜
らすような、男に気を兼ねたものではなかった。
露
にその長襦袢に
水紅
色の紐をぐるぐると巻いた
形
で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と
莞爾々々
笑って、澄まして袷を
掻取
って、襟を合わせて、ト
背向
きに
頸
を
捻
じて、
衣紋
つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし
痒
そうに
天窓
を
引掻
いていたのを見ると、
「そんな邪険な
撫着
けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
と云うのを、聞かない振でさっさと
引込
もうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、
下〆
をしたばかりで、
衝
と寄って、ブラッシを
引奪
ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って
覗
き込むように瞳をためて顔を見た。
胸の
血汐
の通うのが、波打って、風に
戦
いで見ゆるばかり、
撓
まぬ
膚
の未開紅、この意気なれば二十六でも、
紅
の色は
褪
せぬ。
境内の桜の
樹蔭
に、静々、夫人の
裳
が留まると、早瀬が
傍
から向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お
誂
え通り、
皺
くちゃな
赤毛布
が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
と謹んで色には出ぬが、
午飯
に
一銚子
賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「
咽喉
が渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
茶店の婆さんというのが、
式
のごとく古ぼけて、ごほん、と
咳
くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人
子守女
に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
夫人が
彳
んでいて掛けないのを見て、早瀬は
懐中
から切立の
手拭
を出して、はたはたと
毛布
を払って、
「さあ、どうぞ、」
笑って云うと、夫人は婆さんを
背後
にして、悠々と腰を下ろして、
「
江戸児
は心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」
十一
「お止しなさいよ。
先刻
もあんなものを
食
ってさ、お腹を悪くしますから。」
と
低声
でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、
可懐
しいお茶屋から、わざと取寄せた
午飯
の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で
掻込
んだのを見て、その時は
太
く嬉しがった。
得てこれを
嗜
むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も
口惜
いが
不可
いそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘
宛
でございます。」
「私は鳩と遊びましょう。
貴下
は甘酒でも冷酒でも御勝手に
召食
れ。」
と前の
床几
に並べたのを、さらりと
撒
くと、
颯
と音して、揃いも揃って
雉子鳩
が、
神代
に島の
湧
いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
早瀬はその数を
算
えながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、
御覧
じまし、鳩の喜びますこと、
沢山
奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
と
合点
々々、ほたほた
笑
をこぼしながら甘酒を釜から
汲
む。
見る見るうち、輝く
玄潮
の
退
いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、
咄嗟
に
寂寞
とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、
蠢
いて出た者がある。
鼻の下はさまででないが、ものの
切尖
に
痩
せた
頤
から、耳の根へかけて
胡麻塩髯
が栗の
毬
のように、すくすく、
頬肉
がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の
皺
は小さな
天窓
を
揉込
んだごとく刻んで深い。色
蒼
く
垢
じみて、筋で
繋
いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を
支
いたが、さまで
容子
の
賤
しくない
落魄
らしい、五十
近
の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、
閉糸
の
断
れた、寝ン寝子を今時分。
藁草履
を
引摺
って、
勢
の無さは
埃
も
得
立てず、地の底に
滅入込
むようにして、正面から
辿
って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう
疎
くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、
眩
そうに細めた目に、あわれや、笑を
湛
えて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、
貞
さんか。」
と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は
屹
となって鋭く見た。
が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「
主
あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
思いの
他
、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた
小児
が
いやいやをすると
同一
に
縮
めた首を破れた寝ン寝子の襟に
擦
って、
「
埒明
かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が
除
れると云うので、」
と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて
俯向
いた。
「何より利くそうなが、主あ
飲
しったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、
大
な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
とがっくり首を
掉
って、
「
験
が見えぬじゃて。」
験
なきにはあらずかし、御身の
骸
は
疾
く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、
果敢
なくそこに立てるならずや。
ごほごほと
頷
き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は
手巾
で口を
圧
えながら、甘酒の茶碗を、
衝
と
傍
へ奪ったのである。
十二
「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、
効験
の無い事はあるまいが、
疾
く
快
うなろうと思いなさる
慾
で、
焦
らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、
主
、気の持ちように依るぞいの。」
と婆さんは
渠
を慰めるような、自分も
勢
の無いような事を云う。
病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は
病気
と張合う
勇
もないで、どうなとしてくれ、もう
投身
じゃ。人に由っては
大蒜
が
可
え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、
私
はこう見えても
癆咳
とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ
除
れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
愚痴のあわれや、繰返して、杖に
縋
った手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
と切なそうに顔を
獅噛
める。
「焦らっしゃる事よ、
苛
れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。
見霽
へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう
慄然
とする
慄然
とする、」
と重そうな
頭
を
掉
って、顔を横向きに杖を上げると、
尖
がぶるぶる震う。
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を
弾
いて
禁
めたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
物は言わず、
睡
るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、
蜻蛉
も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
と早瀬が調子高に呼んだ。
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、
蘇生
ったようになって、
「へい、」
「今の、
風説
ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
と、
威
しては
可
けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、
家
を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。
鷹匠町
辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「
廉
いのが
可
い、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと
圧
えて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お
幾干
ばかりなのをお捜しなされまするやら。」
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を
膝行
って出る。
「静岡じゃ、お米は一升
幾干
だい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
と婆さんを
避
けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は
後
へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と
堪
りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を
手巾
で半ば
蔽
いながら、茶店を境内へ
衝
と出る。
十三
どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた
草鞋穿
の
親仁
だの、日和下駄で
尻端折
り、高帽という
壮佼
などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際
鮮麗
で、青葉越に
緋鯉
の躍る池の水に、影も映りそうに
彳
んだが、
手巾
を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、
極
りが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
と澄ました顔で、
洋傘
を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとが
しっとり、中には、じめじめとするのさえある。……
夫人はちょいと
俯目
になって、
軽
くその
洋傘
を
支
いて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税
御供
仕
りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は
暢気
でしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、
貴下
は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは
堪忍
して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、
子守女
めらが、貴女が手巾をお
掉
りなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと
囃
して
遁
げましたぜ。」
ツンと横を向く、脊が
屹
と高くなった。
引
かなぐって、その手巾をはたと
地
に
擲
つや否や、
裳
を
蹴
て、
前途
へつかつか。
その時義経少しも騒がず、落ちた
菫
色の絹に風が
戦
いで、鳩の
羽
はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと
袂
に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず
俯向
いたが、直ぐに
大跨
に夫人の後について、
社
の廻廊を曲った所で
追着
いた。
「
夫人
。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、
夫人
、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……
不可
い、不可い。」
と口の
裡
で云って、
歩行
き歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更
独
じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の
直
は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が
住
れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
夫人はもとより口を開かぬ。
やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の
破
から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「
夫人
、」
「…………」
十四
少時
――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする
顔色
でもないが、腕を
拱
いた
態
で、夫人の一足後れに
跟
いて
行
く。
裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように
寂寞
して、空屋かと思えば、
蜘蛛
の巣を引くような糸車の音が
何家
ともなく
戸外
へ漏れる。
路傍
に石の古井筒があるが、欠目に
青苔
の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ
燥
いで、
流
も
乾
びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると
唸
くよう。はずれ掛けた羽目に、
咳止飴
と黒く書いた
広告
の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
振返って、来た方を見れば、町の入口を、
真暗
な
隧道
に
樹立
が塞いで、炎のように
光線
が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と
聳
え立って峰から
哄
と吹き下した。
かつ散る
紅
、
靡
いたのは、夫人の
褄
と軒の
鯛
で、鯛は
恵比寿
が
引抱
えた処の絵を、色は
褪
せたが
紺暖簾
に染めて掛けた、一軒(
御染物処
)があったのである。
廂
から突出した
物干棹
に、薄汚れた
紅
の
切
が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、
塵芥
で
埋
った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい
破屋
で、
煤
のふさふさと下った
真黒
な
潜戸
の上の壁に、何の
禁厭
やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの
狗
の、前脚を立てた姿が、
雨浸
に浮び出でて
朦朧
とお札の中に
顕
れて
活
るがごとし。それでも鬼が来て
覗
くか、楽書で
捏
ちたような雨戸の、節穴の下に
柊
の枝が落ちていた……鬼も
屈
まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて
物凄
い。
フト立留まって、この
茅家
を
覗
めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、
洋傘
を袖の下へ
横
えると、惜げもなく、髪で、
件
の暖簾を分けて、隣の紺屋の
店前
へ顔を入れた。
「御免なさいよ、
御隣家
の
屋
を借りたいんですが、」
「何でございますと、」
と、
頓興
な女房の声がする。
「家賃は
幾干
でしょうか。」
「ああ、貞造さんの
家
の事かね。」
余り思切った夫人の
挙動
に、
呆気
に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
と言って、
莞爾
して、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この
家
じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
さすがに夫人もこれは離れ
業
であったと見え、目のふちが
颯
となって、胸で
呼吸
をはずませる。
その燃ゆるような顔を
凝
と見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、
歩行
き出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし
極
が悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と
先刻
拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って
頷
いたばかりで、取るような、取らぬような、
歩行
きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が
斉
しく左右を見た。両側の
伏屋
の、ああ、どの軒にも怪しいお札の
狗
が……
貸小袖
十五
今来た郵便は、夫人の
許
へ、
主人
の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を
避
けた食卓の角の処に、さすがにまだ
端然
と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に
合歓
の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒
好
が、なぜか、夫人の居ない時は、
硝子杯
へ
注
ける口も苦そうに、差置いて、どうやら
鬱
ぐらしい。
襖
が
開
いた、と思うと、羽織なしの
引掛帯
、結び目が
摺
って、横になって、くつろいだ
衣紋
の、胸から、柔かにふっくりと高い、
真白
な線を、読みかけた
玉章
で斜めに仕切って、
衽下
りにその
繰伸
した手紙の片端を、北斎が描いた
蹴出
のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ
芸者
の風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
と崩るるように、ばったり坐って、
「上の
児
は、もう
原
っから
乳母
が
好
いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、
先刻
のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
と手紙を見い見い
忙
しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、
小児
が二人とも
母様
にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく
勢
。目の見えない
娘
は、
寂
しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を
押着
け、
躱
す顔の
耳許
へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに
鬢
が乱れて、面影も
痩
せたように、口のあたりまで振かかるのを
掻
い払うその白やかな手が、空を
掴
んで
悶
えるようで、(
乳母
来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。
乳母
が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような
俯目
の、顔を見ようとしないので、元気なく
微笑
みながら、娘の児の手を
曳
くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても
肯
かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
そこへ、しばらくして、郵便――だった。
すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、
煩
さそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ
膏
を絞られたわ。」
と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも
召喫
らないのね。お酌がなくっては
不可
いの、ちょいと
贅沢
だわ。ほほほほ、
家
も
極
まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、
徐々
失礼しましょう。」
と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、
可
いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る
母様
から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお
出
なすって、幸いお
知己
になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
と
掌
に巻き据えた手紙の上を、
軽
く一つとんと
拍
って、
「
母様
が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。
緩
り
召食
れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も
沸
してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも
颯
と流してから
喫
りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。
可
くって、」
念を入れて、やがて
諾
と云わせて、
「ああ、
昨日
も
一昨日
も、合歓の花の下へ来ては、晩方
寂
しそうに帰ったわねえ。」
十六
さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
机には、広げたままの新聞も幅をすれば、
小児
の
玩弄物
も乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。
湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、
庇間
を
一跨
ぎ、
据
風呂をこの
空地
から焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
そこに
踞
んでいた、例のつんつるてん鞠子の
婢
が、湯加減を聞いたが
上塩梅
。
どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、
台所
をぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の
設計
は、この邸に似ず古びていた。
小灯
の
朦々
と包まれた湯気の中から、
突然
褌
のなりで、下駄がけで出ると、
颯
と風の通る庇間に月が見えた。
廂
はずれに
覗
いただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、
裸身
に颯と
白銀
を
鎧
ったように二の腕あたり
蒼
ずんだ。
思わず打仰いで、
「ああ、お
妙
さん。」
俯向
いた肩がふるえて、
「お蔦!」
蹌踉
いたように母屋の羽目に
凭
れた時、
「早瀬さん、」と、つい
台所
に、派手やかな夫人の声で、
「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」
「
憚
り、」
と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球
紬
の書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、
桁短
に腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾が
摺
るのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ
婦物
。中形模様の
媚
かしいのに、
藍
の香が
芬
とする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝を
支
いて、鉄瓶を掛けながら、
「似合ったでしょう、
過日
谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して
寝衣
に着て頂戴。」
「むざむざ新らしいのを。」
と主税は袖を引張る。
「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」
「気味が悪い、」
「…………」
「もんですか。勿体至極もござらん。」
と
極
ったが、何かまだ物足りない。
「帯ですか。」
「さよう、」
「これを上げましょう。」
とすっと立って、
上緊
をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹
縮
。
「…………」
目を見合せ、
「
可
いわ、」
とはたと畳に落して、
「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」
主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の
客室
の前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや
跫音
のするまで
歩行
いた。
婢
が来て、ぬいと立って、
「
夫人
が言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」
「いや、
宜
しい。」
「はいい。」と念入りに返事する。
「いつも何時頃にお休みだい。」
と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の
傍
へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。
疾
い事、もう紙に
両個
。
「
一個
は
乳母
さんに、お前さんから、
夫人
に云わんのだよ。」
十七
寝たのはかれこれ一時。
膳は片附いて、火鉢の火の白いのが
果敢
ないほど、夜も更けて、
寂
と寒くなったが、話に実が
入
ったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、
褄
を引合せて肩で押して、灰の中へ
露
わな
肱
も落ちるまで、火鉢の
縁
に
凭
れかかって、
小豆
ほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間
歩行
き廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も
萎
えたようで、顔だけは、ほんのりした――
麦酒
は苦くて嫌い、と葡萄酒を
硝子杯
に二ツばかりの――
酔
さえ醒めず、黒目は大きく
睫毛
が開いて、艶やかに
湿
って、唇の
紅
が濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、
頭
に気が籠った様子で、
相互
の話を
留
めないのを、余り
晩
くなっては、また御家来
衆
が、変にでも思うと
不可
ませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、
幾度
促しても
肯入
れなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、
衣
の裏がするりと
辷
った時、薄寒そうに、がっくりと
頷
くと見ると、
早急
にフイと立つ……。
膝に
搦
んだ
裳
が落ちて、
蹌踉
めく袖が、はらりと、茶棚の
傍
の
襖
に当った。肩を引いて、胸を
反
らして、おっくらしく、
身体
で開けるようにして、
次室
へ入る。
板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、
真中
に透いた処がある。
乳母
が両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく
経
っても来なかった。
早瀬は灰に突込んだ
堆
い
巻莨
の吸殻を
視
めながら、ああ、
喫
んだと思い、ああ、
饒舌
ったと考える。
その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、
予等
が詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と
硝子杯
を火に
翳
してその
血汐
のごとき
紅
を眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う
機掛
から、エルテルは
後日
にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
早瀬は
悉
しく
懺悔
するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
義理から
別離
話になると、お蔦は、しかし二度
芸者
をする気は無いから、幸い
め組の
惣助
の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、
め組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、
銀杏返
しなら不自由はなし、
雛妓
の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは
肴屋
へ内弟子に入って当分
梳手
を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに
極
まった。この事は、酒井先生も御承知で、
内証
で飯田町の二階で、
直々
に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく
頷
いて、手ずから、小遣など、いろいろ
心着
があった、と云う。
それぎり、顔も見ないで、静岡へ
引込
むつもりだったが、
め組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、
旅籠
も人目を
憚
って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
(そんな時は、)
と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
(背中合わせで、別々に。)
翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして
夫人
に逢ったんだと。……
うつらうつら
十八
中途で
談話
に引入れられて
鬱
ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、
当初
から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお
飯
を
炊
てくれた
婦
は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、
噫
、と
喟然
として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と
流眄
にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は
繋
げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を
るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と
憐愍
はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお
許可
が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
出て来ない――夫人はどうしたろう。
がたがた音がした台所も、遠くなるまで
寂寞
して、耳馴れたれば今更めけど、
戸外
は
数
万の
蛙
の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、
天地
に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、
尽
く
調
があって、章と句と
斉
しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、
動揺
を造って、国が暗くなる
気勢
がする。
時に湯気の蒸した風呂と、
庇合
の月を思うと、一生の道中記に、荒れた
駅路
の夜の
孤旅
が思出される。
渠
は愁然として額を
圧
えた。
「どうぞお休み下さりまし。」
と例の
俯向
いた陰気な風で、敷居越に乳母が手を
支
いた。
「いろいろお使い立てます。」
と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と
頭
を下げた。
寝床はその、十畳の
真中
に敷いてあった。
枕許
に
水指
と、
硝子杯
を伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗
金蒔絵
の小さな棚を飾って、毛糸で編んだ
紫陽花
の青い花に、
玉
の
丸火屋
の
残燈
を包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
じろりと
視
めて、
莞爾
して、蒲団に乗ると、腰が沈む。
天鵝絨
の
括枕
を横へ取って、足を
伸
して
裙
にかさねた、
黄縞
の郡内に、桃色の絹の肩当てした
掻巻
を引き寄せる、手が
辷
って、ひやりと
軽
くかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
と云ったと思うと、隔ての
襖
の左右より、中ほどがスーと
開
いたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの
灯
も暗いから、
裳
はかくれて、
乳
の下の
扱帯
が見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし
辺
、宙に残って、消えずに
俤
に立つ。
主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと
いて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、
洋燈
を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と
小児
に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
早瀬は起上って、棚の
残燈
を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、
便所
があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の
婢
の寝た
裙
を通って、板戸を開けて、
台所
の片隅の
扉
から出て、小用を
達
して、手を洗って、
手拭
を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり
白粉
の
香
がする。
十九
寝室
へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は
勢
よく枕して目を閉じたが、枕許の
香
は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を
揺
って、
幽
な波を描いて恋を
囁
くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を
辿
って来て、
和
かに
面
を撫でる。
それを
掻払
うごとく、目の上を両手で
無慚
に
引擦
ると、ものの香はぱっと枕に
遁
げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、
引返
して、今度は
軽
く胸に乗る。
寝返りを打てば、袖の
煽
にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った
気勢
、
原
の
花片
に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が
一汐
高くなった。
快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、
先刻
(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ
歴々
と瞳に映る。
枕に手を
支
き、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、
残燈
の
隈
かと見えて、薄紫に畳を染めて、例の
菫
色の
手巾
が、
寂然
として落ちたのに心着いた。
薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、
萌黄
に敷いた畳の上に、
一簇
の菫が咲き競ったようになって、
朦朧
とした花環の中に、
就中
輪
の大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、
立処
に羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その
同一
処にちらちらする。
早瀬は、甘い、
香
しい、暖かな、とろりとした、春の野に
横
わる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん
這
になって、蒲団の裙に乗出しながら、
頬杖
を支いて、
恍惚
した
状
にその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と
斉
しく、花の匂が懐しくなったと見える。
やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一
寸
ばかり襖が……
開
……い……た。
と見ると、手巾の片端に、
紅
の
幻影
が
一条
、柔かに結ばれて、夫人の
閨
に、するすると
繋
っていたのであった。
菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて
縁
の糸と云う。禁断の
智慧
の
果実
と
斉
しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の
児
となるし、取って繋ぐものは悪魔の
眷属
となり、畜生の
浅猿
しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
いかに、この時。
隔ての襖が、より多く開いた。見る見る
朱
き
蛇
は、その燃ゆる色に黄金の
鱗
の絞を立てて、菫の花を
掻潜
った尾に、主税の手首を巻きながら、
頭
に婦人の
乳
の下を
紅
見せて
噛
んでいた。
颯
と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の
辺
が
露
に見えた。
残燈
はその枕許にも差置いてあったが、どちらの
明
でも、繋いだものの中は断たれず。……
ぶるぶる震うと、夫人はふいと
衾
を出て、胸を
圧
えて、
熟
と見据えた目に、閨の内を
して、
としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を

うごとく、
裳
も畳に
漾
ったが、ややあって、はじめてその怪い
扱帯
の我を
纏
えるに心着いたか、あ、と忍び音に、
魘
された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。
思いやり
二十
妙子は
同伴
も無しにただ一人、学校がえりの
態
で、八丁堀のとある路地へ入って来た。
通うその学校は、
麹町
辺であるが、どこをどう廻ったのか、
真砂町
の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で
温習
っている
三味線
も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを
ったお妙は、鶯の声を見る時と
同一
な可愛い顔で、路地に立って
わしながら、
橘
に井げたの紋、堀の内
講中
のお札を並べた、
上原
と姓だけの
門札
を
視
めて、
単衣
の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、
洋傘
を
支
いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに
覗
き込んだ顔を赤らめて、黙って
俯向
いて
俯目
になった。
口許
より
睫毛
が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
コトコトとその
洋傘
で、
爪先
の土を叩いていたが、
「御免なさい。」
とようよう云う、控え目だったけれども、
朗
に
清
しい、
框
の障子越にずッと
透
る。
中からよく似た、やや落着いた
静
な声で、
「はあ、
誰方
?」
お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に
極
めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、
吃驚
して顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った
気勢
に連れて、もの云う調子が
婀娜
になる。
と
真正面
に内を透かして、格子戸に目を
押附
ける。
「何ぞ御用。」
といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の
佳
い、しっとりした
縞
お召に、
黒繻子
の丸帯した
御新造
風の
円髷
は、見違えるように
質素
だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の
小芳
であった。
立身
で、框から外を見たが、こんな
門
には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで
支膝
になって、
「あいにく出掛けて
居
りませんが、
貴嬢
、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
瞳も離さないで視めたお妙が、
後馳
せに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
と指でも
圧
えず、
惜気
なく束髪の
鬢
を
掉
って、
「お師匠さんでなくっても
可
いんです。お弟子さんがお
在
なら、ちょいと結んで下さいな。」
縋
って頼むように
仇
なく云って、しっかり格子に
掴
まって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から
圧
えたのも気が附かぬか、
駒下駄
の先を、
逆
に半分踏まえて、
片褄蹴出
しのみだれさえ、忘れたように
瞻
って、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」
二十一
「いらっしゃいまし、」
と小芳が
太
く
更
まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の
上座
へ直されていたのである。
「
貴嬢
、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。
唯今
手拭を絞って差上げます。」
と
一斉
に云いかけられて、袖で胸を
煽
いでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私
極
が悪いから、それでもって、あの、」
と
袂
を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と
低声
でまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は
狼狽
てしまってさ。ほほほ、いうことも
前後
になるんですもの、まあ、御免なさいまし。
私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と
憂慮
しげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
「
沢山
、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、
臥
っておりますから、お
髪
はあげられませんでしょう。ですが、
御緩
くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
と擦寄って、うっかりと
見惚
れている。
上框
が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が
折曲
った処に、もう
一室
、障子は
真中
で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
向うは
余所
の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、
酔
だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も
蒼
い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれ
め組の
住居
、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
惣助の得意先は、皆、
渠
を称して恩田百姓と呼ぶ。註に
不及
、
作取
りのただ儲け、
商売
で儲けるだけは、飲むも
可
し、
打
つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、
資本
で買って、それから女房の
衣服
で打つ。
それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの
身上
へ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に
縮
まって、下げ
煙管
の投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を
引外
ずし、
沸立
った湯を
流
へあけて、溝の湯気の消えぬ間に、
笊蕎麦
で
一杯
を
極
めた。
その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の
疎末
さ。どこを見てもがらんとして、
間狭
な内には結句さっぱりして
可
さそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに
袂
を爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんの
許
だから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ
結
わなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行っても
可
いかい?」
小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
枕についた肩細く、半ば
掻巻
を藻脱けた姿の、
空蝉
のあわれな胸を、
痩
せた手でしっかりと、浴衣に
襲
ねた
寝衣
の襟の、はだかったのを切なそうに
掴
みながら、銀杏返しの
鬢
の崩れを、
引結
えた
頭
重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、
吻
と今
呼吸
をしたのはお蔦である。
二十二
お蔦は急に起上った
身体
のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ
術
なそうであった。
枕から透く、その細う
捩
れた
背
へ、小芳が、
密
と手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては
不可
いよ。」
「ああ、
難有
う、」
とようよう起直って、
顱巻
を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで
可笑
いわ、
気障
だねえ、ぐったりして。」
と
蓮葉
に云って、
口惜
しそうに力のない膝を
緊
め合わせる。
お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって
覗
いていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、
飜然
と縁を切って走込むばかりの
勢
――小芳の方が一目先へ御見の済んだ
馴染
だけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、
擦着
くように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで
凝
と
視
める。
肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
と余り白くて、血の通るのは
覚束
ない
頸
を下げて、手を
支
きつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と
急
って云う。
その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければ
直
きに寝ますよ。お嬢さん、
難有
う存じます。
貴嬢
、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よく
家
が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
小芳はまた今更感心したように
熟々
云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて
極
りが悪かったわ。探すのさえ
煩
かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」
「私たちが……」
「なぜでございますえ。」
と両方へ身を開いて、お妙を
真中
にして左右から、珍らしそうに顔を見ると、
俯向
きながら打微笑み、
「だって私は、ちっともお
金子
が無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」
お蔦がハッと
吐息
をつくと、小芳はわざと笑いながら、
「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」
となぜか、怨めしそうな、しかも
優
い目で
瞻
って、
「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」
「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」
と
仇気
なく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。
二人目と目を見合せて、
「
極
が悪い、お蔦さん。」
「姉さん、私は恥かしい。」
「もう……」
「ああ、」
思わず一所に同音に云った。
「写真なんか撮るまいよ、」――と。
二十三
お妙は時に、小芳の
背後
で、
内証
で袂を
覗
いていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、
「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。
だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者
衆
だから、ハイカラなものは
不可
いでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」
「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」
「まあ、」
と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、
「何を下すったい。」
「開けて見ても可いかね。」
「早く拝見おしなねえ。」
「あら! 見ちゃ
可厭
よ、
酷
いわ、小母さんは。」
と背中を
推着
いて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目の
敵
にして、小突く。
お蔦は病気で気も弱って、
「遠慮しましょうかね、」と
柔順
しく膝の上へ大事に置く。
「ほんとうに、お蔦さんは
羨
しいわねえ。」
とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から
緋天鵝絨
の小さな
蝦蟇口
を可愛らしく引出して、
「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。
沢山
あると可いけれど、
大
な銀貨(五十銭)が
三個
だけだわ。
先
の紙入の時は、お
紙幣
が……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」
と驚いたような顔をして、
「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」
小芳が
吃驚
したらしい顔を、お蔦は振上げた目で
屹
と見て、
「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」
「お礼を申上げます。」
と作法正しく、手を
支
いたが、柳の髪の品の
佳
さ。
頭
も
得
上げず、声が曇って、
「どうぞ、
此金
で、
苦界
が抜けられますように。」
その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく
発奮
んだ調子で、
「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」
「主税さんが好な色よ。」
と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。
「姉さん、」
と、お蔦は
俯向
いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う
染
るまでその半襟を
咽喉
に当てて、
頤
深く
熟
と
圧
えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。
「私が死んだら、姉さん、
経帷子
も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」
と云う下から、
桔梗
を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。
「ええ、お前さん、そんな、まあ、
拗
ねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を
資本
にして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」
と
串戯
らしく言いながら、
果敢
ないお蔦の姿につけ、
情
にもろく
崩折
れつつ、お妙を中に
面
を背けて、紛らす煙草の煙も無かった。
小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、
睫毛
を
幽
に振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに
診
て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ
顔色
。
お取膳
二十四
その時お妙の
言
というのが、余り案外であったのから、小芳は
慌
しく銀の小さな吸口を
払
いて
煙管
を棄てたのである。
「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」
と至って
真面目
で、
「まずいものを
内服
せて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては
不可
いの、と
種々
なことを云うんですもの。
そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」
小芳が(まあ。)と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうな
笑
を見せて、
「お嬢さん、その
貴嬢
、面白いことが無いんですもの、」と
勢
のない
呼吸
をする。
「主税さんに逢えば可いでしょう。」
「え、」
「貴女、逢いたいでしょう。」
二人が黙って
瞻
っても、お妙は目まじろぎもしないで、
「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。
絵のお清書をする時、
硯
を洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の
杜若
なんざ、もう私、
嬰児
が描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」
と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔は
撓
まず、声も
凜々
と冴えた。
「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、
極
が悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに
幾度
も九段まで来て止したの。
それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度
万世橋
で降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。
そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も
同一
電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんが
傍
へ来て
附着
いて
歩行
くんですもの。私、斬られるかと思って
可恐
かったわ、ねえ、お
臀
の
肉
が薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。
もう一生懸命にここへ来て、まあ、
可
かった、と思ってよ。
あのね、あの、」
と
蓐
の
綴糸
を引張って、
「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、
我儘
を云ってやるわ。だって、自分だって、
母様
が
不可
ないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。
貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっとも
肯
かないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも(厭だ。)とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」
と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、
「小母さんでも
可
うござんす。構わないで
家
へいらっしゃいよ。玄関の書生さんは
婦
のお客様をじろじろ見るから
極
が悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。
私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くような
大
な声を出したら、そしたらもう可いわ。
是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。
不可
いとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんが
寂
しがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに
可恐
らしくっても、あわれな話だと
直
きに泣くんですもの、きっと承知するわ。
そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びに
行
くから、そうしたらば、あの……」
と
蓐
の端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、
「貴女も、私を
可厭
がらないで、一所に遊んで頂戴よ。
前
に飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」
もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッと
面
を伏せた。
二十五
涙を払って、お蔦が、
「姉さん、私は浮世に未練が出た。また
生命
が
惜
くなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお
医師
にも懸りましょう、薬も
服
むよ。
お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」
と身をせめて、わなわな震える。
「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」
掻巻
の襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、
「ああ、勿体ない。そんなになすっては
不可
ません。
皆
がそうじゃないって言いますけれど、私は色のついた
痰
を吐きますから、大切なお
身体
に、もしか、
感染
でもするとなりません。」
覚悟した顔の色の、
颯
と桃色なが心細い。
「
可
いわ!」
「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」
と小芳を見て、
「何ぞ……」
と云うと、黙って
頷
く。
「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」
「今日は私に任かせておくれ。」
「いいえ、」
「
不可
ないよ、私がするんだよ。」
「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を
苛
めるものがあって、」
「無理ばっかり云う人だよ、私に
理由
があるんだから。」
「理由は私にだって有りますよ。あの、
過般
もお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円
紙幣
が三枚。勿体ないから、死んだらお
葬式
に使って欲しくって、お仏壇の
抽斗
へ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」
とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように
果敢
なく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
「
戸外
は暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも
洋傘
をさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が
好
かろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここで
皆
一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
とお蔦が
莞爾
。
「驚きましたねえ。」
と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
と
框
を下りる時、
褄
を取りそうにして、振向いた目のふちが
腫
ぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも
便
がないんですよ。
人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ
覗
いて、もう見落しはしなかろうか、と
隙
さえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
この頃じゃ
落胆
して、
勢
も張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」
二十六
お蔦は
蓐
に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が
褄
の
萎
えた、かよわい
状
は、物語にでもあるような。直ぐにその
裳
から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
紙入の中は、しばらく指の
尖
で掻探さねばならなかったほど、可哀相に
大切
に
蔵
って、小さく、
整然
と畳んで、浜町の
清正公
の出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や
隔心
も無く、十年の馴染のように、横ざまに
蓐
に
凭
れながら、
頸
を
伸
して、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また
掏賊
を助けたりなんか、
不可
ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
と寝転ぶようにして、
頬杖
ついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の
抽斗
を覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を
密
と見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。
懐中
へ、その酒井先生恩賜の
紙幣
の紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
戸外
を金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また
可訝
なものじゃないの、」
とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(
AB
横町。)と云う
標題
で、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃
渾名
してAB横町と
称
える。すでに阿部
郡
であるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が
戯
にしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが
煮焼
、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、
粋
な
兄哥
で、鼻唄を
唱
えばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で
或
学校に講師だった、そこで
知己
の小使が、便って来たものだそうだが、
俳優
の声色が上手で落語も
行
る。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分
御贔屓
である、と云う雑報の意味であった。
小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
話にその小使の事も交って、何であろうと三人が
風説
とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も
勢
に連れて
蹌踉
起きて出て、自慢の番茶の
焙
じ加減で、三人睦くお取膳。
お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が
刷毛
を持って、
颯
とお
化粧
を直すと、お蔦がぐい、と櫛を
拭
いて一歯入れる。
苦労人
が二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき
美麗
さを、飽かず
視
めて、小芳が
幾度
も
恍惚
気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、
御尤
もな次第だけれども、余り手放しで
口惜
いから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
いずれ両親には
内証
なんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって
引返
した小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に
縋
りついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の
夫人
だけれど、
産
……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、
身体
へ袖が触る
度
に、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
と、手を引入れて
引緊
めて、わっとばかりに声を立てると、思わず
熟
と抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、
癪
が起ると
不可
いよ。私たちは何の因果で、」
芸者なんぞになったとて、色も
諸分
も知抜いた、いずれ名取の
婦
ども、
処女
のように泣いたのである。
小待合
二十七
「こうこう、
姉
え、姉え、目を
開
いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸
前
の
肴屋
だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お
前
の方で惣菜は要らなくっても、
己
が方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
と
盤台
をどさりと横づけに、澄まして
天秤
を立てかける。
微酔
の
め組の惣助。
商売
の
帰途
にまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをする
度
に、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、
金子
の音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の
埃
を
払
いて通るぜ。」
とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、
装塩
のこなたへボカン。
声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、
推重
なると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
と
喚
いて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
と尻上りに云って、
外道面
の口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちの
姉
は話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく
面
だ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
行詰った鼻の下へ、
握拳
を
捻込
むように
引擦
って、
「
憚
んながらこう見えても、
余所行
きの
情婦
があるぜ。
待合
へ来て見繕いで
拵
えるような、べらぼうな
長生
をするもんかい。
おう、八丁堀の
めの字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん
許
だ。
柏屋
の
綱次
と云う美しいのが、
忽然
として
顕
れらあ。
どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
と変な手つき、にゅうと女中の
鼻頭
へ突出して、
「それとも
半纏着
は看板に障るから上げねえ、とでも
吐
かして見ろ。河岸から鯨を
背負
って来て、
汝
ン
許
で泳がせるぞ、浜町
界隈
洪水だ。地震より
恐怖
え、
屋体骨
は浮上るぜ。」
女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、
気障
な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引
[#「引」は小書き]。」
と
黄声
を発して、どさり、と廊下の壁に
打附
りながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
と廊下で別れて、一人が
折曲
って二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、
半股引
の薄汚れたので
大胡坐
。
「
御酒
をあがりますか。」
「何升お
燗
をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ
追
つく
[#「追つく」は底本では「追っく」]めえ。」
女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、
据眼
で首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。
大夫
前芸と
仕
って、一ツ滝の水を走らせる、」
とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。
鵯越
の逆落しと遣れ。
裏階子
から便所だ、便所だ。」
どっかの夜講で聞いたそうな。
二十八
手水
鉢の処へ
め組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと
[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」]
したが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある
一室
へのっそりと入って、
襖際
へ、どさりとまた
胡坐
になる。
女中が
慌
しく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
「
可
いじゃねえか、お
互
だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の
葬礼
に立つとってよ、町内が質屋で
打附
ったようなものだ。一ツ穴の狐だい。
己
あまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると
魘
されらあ。身分相当割床と遣るんだ。
棟割
に住んでるから、壁隣の
賑
かなのが頼もしいや。」
「
不可
ませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、
選好
んでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」
「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。
気障
は言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く
燗
けて来ねえよ。」
いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、
「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お
肴
は?」
「肴は
己
が盤台にあら。竹の皮に包んでな、
斑鮭
の鎌ン
処
があるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが
好
だったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して
帰
っても今日も食うめえ。」
と
独言
になって、ぐったりして、
「
媽々
に遣るんじゃ
張合
が無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」
女中は、気違かと
危
んで、
怪訝
な顔をしたが、試みに、
「そして綱次さんを掛けるんですか。」
「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも
馴染
でも
情婦
でもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の
室
で口説いてら、しかも二人がかりだ。」
「ちょっと、」
と留めて姉さんは興さめ顔。
「こっちは一人だ、今に来たら、お
前
も手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、(と聞く耳立てて)純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」
と、
襖
にどしんと
顔
を当てて、
「蟻の
戸渡
でいやあがらあ、べらぼうめ。」
「やかましい!」
隣の
室
から堪りかねたか
叱咤
した。
「地声だ!」
「あれ、」
と女中が留めようとする手も届かず、ばたり
め組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。
「この毛唐人めら、
汝
、どうするか見やあがれ。」
あッと云って、
真前
に縁へ
遁
げた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、
宮畑閑耕
の
胸
づくし、
釦
が
引
ちぎれて
辷
った手で、
背後
から抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。
此奴等
がこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、
痴
の色ばなしを冷かしといて、ゆっくり
撲
ろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、
私
がこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人
打挫
いておやんなせえ、お
打
ちなせえ、お打ちなせえ。
どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で
検
べるッて、……沙汰の限りだ。
むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った
獣
だ、盆に来て礼を云え。」
と突飛ばすと、閑耕の
匐
った
身体
が、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が
搦
んで
漾
う処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり
天窓
から豆を浴びせた。惣助
呵々
と笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」
道子
二十九
夫の
所好
で
白粉
は濃いが、色は淡い。淡しとて、
容色
の劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、
艶
を競い、美を誇る心が無いから、
日向
より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の
俤
はそれであった。
どの
姉妹
も活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、
芙蓉
は丈のびても物寂しく、さした紅も、
偏
えに
身躾
らしく、装った
衣
も、鈴虫の宿らしい。
いつも
引籠勝
で、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、
某
孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの
天幕
を臨時の運動場にしつらえて、
慈善市
を開く。
謂
うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも
謂
つべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、
推
してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために
宜
しからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
朝涼
の内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと
腕
に
靡
いて、
引緊
った白の
衣紋着
。車を彩る青葉の緑、
鼈甲
の
中指
に影が透く艶やかな
円髷
で、誰にも似ない
瓜核顔
、気高く
颯
と乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、
媚
かず
温柔
して、河野一族第一の品。
嗜
も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、
大店向
の
御新姐
らしい。はたそれ途中一土手
田畝道
へかかって、青田
越
に富士の山に対した景色は、
慈善市
へ出掛ける
貴女
とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、
突
かけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ
挽込
んで、
楫棒
は島山の門の、例の石橋の際に着く。
姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、
小児
達も、
乳母
も書生も居ないで、長火鉢の前に
主人
の理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の
鍋
が
掛
って、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
気軽なら
一番
威
かしても見よう処、姉夫人は少し腰を
屈
めて、縁から差覗いた、眉の
柔
な笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ
手巾
で半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
と
髯
のべったりした
口許
に
笑
は見せたが、御承知の
為人
で、どうとも
謂
わぬ。
姉夫人は、やっぱり
半分
隠れたまま、
「滝ちゃんや、
透
さんは。」
「
母様
が出掛けるんで、跡を追うですから、
乳母
が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。
平時
だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か
麩
を食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
「
先刻
出たです。」
なぜ待っててくれないのだろう、と云う
顔色
もしないで、
「ああ、もっと早く来れば
可
うござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お
来
えなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
と優しく云って
本意
なそう。一門の
中
に、この人ばかり、
一人
も小児を持たぬ。
三十
姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら
寂
しく、姉夫人も
言
なく、手を掛けていた柱を
背
に向直って、黒塀越に、雲切れがしたように
合歓
の散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が
蓋
を取った、がよっぽど
腹
が空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
と肉色の
絽
の
長襦袢
で、絽
縮緬
の
褄
摺
る音ない、するすると長火鉢の前へ行って、
科
よく
覗
いて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
と
銅壺
の湯を
注
して、
杓文字
で一つ軽く
圧
えて、
「お
装
け申しましょう、」と
艶麗
に云う。
「恐縮ですな。」
と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の
艶
も
溢
さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその
紗綾形
小紋の
紋着
で、
味噌汁
を
装
う
白々
とした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走(とチュウと吸って)これは
旨
い。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
その挨拶もせずに、理学士は
箸
もつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、
干杓
に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる
禁厭
ですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
と云った目のふちに、
蕾
のような
微笑
を含んでいたから。
「は、は、は、
串戯
でしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は
名代
も兼ねておりますから、
疾
く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに
叱言
を言われると
不可
ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の
許
へお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう
依怙地
もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の
義捐
なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を
弄
しておるでしょう、は、はは、」
と調子高に笑って、
厭
な顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
となぜか
俯向
いたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を
召食
りかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
絹足袋の、
静
な畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の
婢
も、旦那様の踏みしだいて出る
跫音
に、ひょっこり
台所
から顔を見せる。
「今日は、」
と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と
打魂消
て棒立ちになったは、
出入
りをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った
験
が無いので。
車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。
三十一
早瀬は、妹が連れて父の
住居
へも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う
壮佼
はどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と
籠勝
な道子は面白いものを見もし
聞
もしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような
心持
もして、早や大巌山が
幌
に近い、西草深のはずれの町、
前途
は直ぐに阿部の安東村になる――
近来
評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を
廻
らした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの
門構
、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも
五歩
は無い、
直
き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、
可訝
な顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の
綻
びた
広袖
のような
絣
の
単衣
でひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ
引返
す途中になるまで、
気疾
に引込んでしまったので、
左右
の
暇
も無く、姉夫人は鶴が山路に
蹈迷
ったような形で、机だの、
卓子
だの、算を乱した中を拾って通った。
菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、
立処
にこの部屋へお姿が
露
れますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の
傍
に坐り込んで、
煙草
を
喫
もうとして、
打棄
って、フイと立って蒲団を持出すやら、
開放
しましょう、と障子を
押開
いたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあると
宜
しいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞を
投
り出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまた
摺
すやら。なぜか見苦しいほど
慌
しげで、
蜘蛛
の
囲
をかけるように
煩
く夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、と
絶
ず
饒舌
ったのである。
「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」
とその
中
に落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸を
反
らして、片手で煙を払うような
振
をした。
早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の
背後
に
突立
っていたので、
上下
に顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人の
顔
は、
瞼
に色を染めたのである。
と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、
徐
に
巻莨
を取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝に
支
いた、肩が
聳
えた。
「
夫人
、貴女はこれから
慈善市
へいらしって、
貧者
のためにお働きなさるんですねえ。」
と沈んで云う。
顔を見詰められたので、
睫毛
を伏せて、
「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」
「お願いがございます。」
と
匐
るがごとく、主税がはたと両手を支いた。
余り意外な事の体に、答うる
術
なく、黙って
流眄
に見ていたが、果しなく
頭
も
擡
げず、突いた手に畳を
掴
んだ
憂慮
しさに、棄ても置かれぬ気になって、
「貴下、まあ、
更
まって何でございますの。」
とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、
遁腰
の膝を浮かせる。
「失礼な事を云うようですが、今日の
催
はじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなく
情
をお懸けになりますので、
旱
に雨を降らせると同様の手段。
萎
えしぼんだ草樹も、その
恵
に依って、
蘇生
るのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間
業
じゃ、なかなか焼石へ
如露
で振懸けるぐらいに過ぎますまい。」
三十二
「広く
行渉
るばかりを望んで、途中で
群消
えになるような情を掛けずに、その恵の露を
湛
えて、ただ一つのものの根に
灌
いで、名もない草の一葉だけも、
蒼々
と活かして頂きたい。
大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、
各々
御一人
宛
で、専門に、完全に、一
人
を救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。
余所
の子供の世話を焼く
隙
に、自分の
児
に風邪を
感
かせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を
勦
ってやって欲しいんですが、これじゃ
大掴
みのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。
ところが、差当り、今目の前に、貴女の
一雫
の涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。
この事に就きましては、
私
は夜の目も合わないほど心を苦めまして。」
とようよう少し落着いて、
「
前
から、貴女の
御憐愍
を願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には
軽々
しくお目に
懸
る事も出来ませんし、そうかと云って、
打棄
って置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、
実
に何とも思いがけない、不思議な
御光来
で、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。
どうぞ、その、
遍
く御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で
可
うございます、
私
の方へお
配分
なすってくださるわけには参りませんか。
御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に
被
ます。」
と
拳
を握り
緊
めて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると
微笑
に開けて、深切に、しかし
躾
めるような優しい調子で、
「お
金子
が御入用なんでございますか。」
と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、
直
にも帯の間へ
辷
って、
懐紙
の間から
華奢
な(
嚢物
)の
動作
である。道子はしばしば妹の口から
風説
されて、その
暮向
を知っていた。
ト早瀬の声に力が入って、
「
金子
にも何にも、
私
が、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
と襟を合わせて
面
を染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者は
他
にあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、
喧
しゅうございますから。」
……
差俯向
いて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては
不可
んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、
翌日
も待たないという容体なんです。
六十近い老人で、孫子はもとより、
親類
らしい者もない、
全然
やもめで、実際形影相弔うというその影も、
破蒲団
の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、
褥摺
れに摺切れているじゃありませんか。
日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、
夫人
の顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、
言
をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。
真暗
な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の
端
の月の光とも思って、一生の思出に、
莞爾
したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。
夫人
、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
「
直
きこの
安東
村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の
馬丁
をしたもので、……
夫人
、貴女の、実の……
御父上
……」
三十三
「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の
御父上
、
英臣
さんが、御出征中、貴女の
母様
が御宅の馬丁貞造と……」
早瀬はちょっと
言
を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に
飜然
と一葉、半紙に書いた女文字。その
玉章
の中には、恐ろしい毒薬が
塗籠
んででもあったように、
真蒼
になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、
頤
深く差入れた、
俤
を
屹
と視て、
「……などと云う
言
だけも、貴女方のお耳へ入れられる
筈
のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる
暇
もありません。
で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお
腹
にいらっしゃる間には、貴女の
母様
が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃
安八
の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお
在
なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を
食
んだ旧藩の御馬廻の
忰
で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の
奥様
と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ
惚気
を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、
児
をなくすという
恐
い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に
遁
げておくんなさい。お
肯入
れ無く、思切った
業
をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った
言種
をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが
凱旋
でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が
経
って、貴女は
九月児
でお
在
なさる。
が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な
連中
は、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。
名誉に、とお思いなすったか、それとも
最初
の御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の
御父上
だ。
貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお
残懐
で、お暇を頂いて、お邸を出たんです。
朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな
不了簡
が起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る
身体
、若い内から
僂麻質
があったそうで。
旁々
お邸を出るとなると、
力業
は出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、
阿母
を一人養わなければならないもんですから、奥さんが
手切
なり
心着
なり下すった
幾干
かの
金子
を
資本
にして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。
幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、
罰
は
覿面
だ。境内へ
多時
かかっていた、見世物師と
密通
いて、有金を
攫
って
遁
げたんです。しかも貴女、女房が
孕
んでいたと云うじゃありませんか。」
「まあ、」
と、夫人は我知らず嘆息した。
「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を
拵
えて、貸馬を
行
ったんですな。
貴女、それこそ
乳母
日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の
埒
に
掴
って、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった
鼓草
なんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。
阿母
が死んだあとで、段々馬場も寂れて、
一斉
に二
頭
斃死
た馬を売って、
自暴
酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、
粥
も薄くなる。やっと馬小屋へ根太を
打附
けたので雨露を
凌
いで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」
三十四
「
私
は不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人
危篤
なのでございます。
私でさえ、これは
一番
貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄
幾度
か病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お
最惜
い、と貞造が
頭
を
掉
ります。
道理
だと控えました。もっとも私も及ばずながら
医師
の世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお
在
なさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、
余所
ながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と
肯
きません。
清い者です。
人の悪い奴で御覧なさい、
対手
が貴女の
母様
で、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。
またちっとでも
強情
りがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を
掛
るような
考
があるんなら、私は誓って口は利かんのです。
そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで
噛
ったと言います――
その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を
喫
んで帰った事もあったんですが、それが
いいめを見せたんで、先頃からまたどッと
褥
に着いて、今は
断念
めた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、
現
に言うようになったんです。
容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と
対向
いでなくっては出来ますまい。
失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。
ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。
弥陀
の
白光
とも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、
屋中
真黒
に下った
煤
も、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。
そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――
夫人
。」
と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。
「貞造は、貴女の
実
の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」
「は……い。」
「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も
更
けると申しますから、人目を紛らすのに
仔細
ありません。得難い機会です。
私
がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」
と片手に
燐寸
を持ったと思うと、片手が
衝
と伸びて
猶予
らわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、
「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」
と
※
[#「火+發」、316-3]と火を
摺
ると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、
靡
きかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。
居坐
を直して、
更
まって、
「お連れ下さいまし、どうぞ。」
がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。
眩
いばかりの装いで、坐りもやらず、
「まあ、姉さん!」
私語
三十五
「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」
と菅子は立ったままで
急込
んで云う。
戸外
の暑さか、駈込んだせいか、
赫
と
逆上
せた顔の色。
胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、
「
先刻
から待っていたんですよ。」
「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」
「何ですねえ、邪険な、
和女
を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」
「私は用があるわ。」
「寄道をするんですか。」
「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」
とまだ坐りもせぬ。
主税は腕組をしながら、
「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」
「承わって参りましょうか。」
と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、
「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は
可
いけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」
と
見下
す顔を、斜めに振仰いだ、
蒼白
い姉の顔に、血が
上
って、
屹
となったが、寂しく笑って、
「ああ、そうね、私は
前
に参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」
とおとなしく云って、
端然
と会釈して、
「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。
「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」
「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」
と声に力が籠って、
「
種々
お話を伺いとう存じますけれども……」
「私も、
直
だわ。」
「待っていますよ。」
と優しい物越、
悄々
と出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を
蔽
にして、
密
とその
袂
の端を
圧
えた。
「さようなら!」
勢
よく引返すと、早や門の外を
轣轆
として車が行く。
「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」
菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、
朱鷺
色縮緬の
上〆
の端を
寛
めた、
辺
は昼顔の盛りのようで、
明
い部屋に
白々地
な、
衣
ばかりが
冷
しい蔭。
「久振だわね。」
「久振じゃないじゃありませんか。今の
言種
は何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、
傍
で聞いていられやしない。」
「だって事実だもの。病院に
入切
で居ながら、いつの
何時
には、姉さんが誰と話をしたッて事、
不残
旦那様御存じなの、もう
思召
ったらないんですからね。
それでも大事にして置かないと、院長は
家中
の稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お
庇様
で一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。
道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを
楽
みにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」
「何を云ってるんです、面白くもない。」
「今の様子ッたら何です、
厭
に
御懇
ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」
「可い加減になさい。
串戯
も、」
「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と
対向
いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」
「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」
三十六
しめやかな声で、夫人が――
「貴下……どうするのよ。」
「…………」
「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。
去年から
口説
通しなんだわ。貴下がはじめて、
静岡
へ来て、私と
知己
になったというのを聞いて、(精一杯
御待遇
をなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。
母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った
験
は無い。こちらから結婚を申込んで
刎
ねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。
兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が
遊蕩
過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、
自棄
気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
と一際
低声
で、
「ちょいと、いかな
事
ても小待合へなんぞ倒込むんですって。
監督
の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう
疾
くに兄さんへは
家
でお
金子
を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。
だってどこに転がっていたって、
皆
お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と
纏
ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、
遊蕩
も駄々で
可
かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが
堪
らないんだもの。
病院の
義兄
は養子だし、大勢の兄弟
中
に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは
家
でもほんとうに困るのよ。
早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って
肯
いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
と
圧
えるように口を入れて、
「
決
して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
事もなげに打笑って、
「それじゃ
反対
だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の
隣家
の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう
依怙地
に、さもしいお米の
価
を気にするようなことを言うんだろう。
ほんとうに
串戯
ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい
[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」]、
痩
せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、
身体
が
萎
むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
跪
いて、夫の足に
接吻
をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
机に
凭
れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、
屹
と居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に
欲
いと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、
夜
内を出るわけには
行
かず、お稽古に来たって、大勢
入込
みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
過日
何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、
蛙
の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、
扱帯
か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、
闇
か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて
串戯
云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を
拵
えさせたんだわ。
頭痛がしてならないから、十畳の
真中
へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
「
演劇
のようだ。」
と
低声
で笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける
言種
は、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。
掴
って、お渡んなさいなね。」
「
河童
じゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
――
更
って――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、(と
莞爾
して。)ほんとうはね、私……自ら
欺
むいているんだわ。家のために、自分の名誉を
犠牲
にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ
往来
をしているの。
でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、
乳母
にだって
面
を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、
悚然
してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで
瘠
せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、
他
の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の
歌留多
会時分から、有りもしない事でもありそうに
疑
っているようなの。もしかしたら、貴下私の
身体
はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
言い言い、
縋
るように言う。
「詰らん
言
を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず
拳
を握ったのを、我を
引緊
められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。
当前
だ、」
と自若として言うと、呆れたように、また……
莞爾
、
「貴下はどうしてそうだろう。」
三十八
「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を
食
わずとさえ云うんだ。貴女、」
と主税は澄まして言い懸けたが、
常
ならぬ夫人の目の色に口を
噤
んだ。菅子は
息急
しい胸を
圧
えるのか、
乳
の上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の
許
へ
令夫人
をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
だから貴女もそうなさい。
懊悩
も
煩悶
も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、
大不埒
を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
夫人はこれを
戯
のように聞いて、早瀬の
言
を露も
真
とは思わぬ様子で、
「
戯談
おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
「
暢気
で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を
背負
い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ
堪
えまさ。」
余
の事と、夫人は
凝
と
瞻
って、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて
逐電
でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を
極
めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ
真二
ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、
夫人
が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。
盗賊
は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、
放火
、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた
当前
じゃありませんか。
愚図々々
塗秘
そうとするから、卑怯未練な、
吝
な、了見が起って、
他
と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ
疾
くに――先生……には
面
は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の
亀鑑
ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
さすがに顔の色をかえて
屹
と
睨
むと、
頷
いて、
「同時に私だって、」
と笑って言う。
その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い
我儘
だよ。」
三十九
「貴下は始めからそうなんだわ。……
道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの
媒口
を利くのが
癪
に障るからって、(
攫徒
の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に
袂
へ入れて置いて
逆捩
を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで
宜
しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の
食詰者
です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
早瀬の胸のあたりに、
背向
きになって、投げ出した
褄
を、
熟
と見ながら、
「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」
と自から怪むがごとく
独言
つと、
「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と
同一
でしょう。」
「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、
譬
えにも島山に言われるもんですか。
島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、
汚点
がついて、系図が
汚
れるじゃありませんか。」
「すでに
云々
が有るんじゃありませんか。それを
秘
そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」
「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」
少し起返って、なお
背向
きに、
「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」
と
口惜
しそうに、
「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」
「ちっとも苦しめやしませんよ。」
「それだって、乱暴な事を言ってさ、」
「貴女が困っているものを、何も好き好んで
表向
にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の
身体
はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」
と言う顔を斜めに視て、
「ですから、そんな
打破
しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が
易
まって、良心の
呵責
を免れることが出来ますッて云うのにね。
肯
きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている
婦
の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」
「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」
「ああ、そうよ。」と
捩向
いて
清
く目を
く。
「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う
気障
な考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、
実家
の
両親
が大事だったり、
他
の娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。
お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も
打棄
って、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」
と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、
倦
じた調子で、
「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような
茅屋
で挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが
反対
だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に
仇
する
敵
だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、
慈善市
へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」
夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、
「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、
呟
いて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。
宵闇
四十
同
、日曜の
夜
の事で。
日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、
框
に腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、
洋燈
を
背後
に、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた
芒
も無し、絵でないから、一筆
描
きの月のあしらいも見えぬ。
ト
忌々
しいと言えば忌々しい、
上框
に、
灯
を背中にして、あたかも
門火
を焚いているような――その薄あかりが、格子戸を
透
して、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、
朦朧
と、
雨曝
の木目の高い、門の
扉
に映って、
蝙蝠
の影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また
明
くなる。
目も放さず、早瀬がそれを
凝
と
視
める内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて
礫
した波が、水の
面
に月輪を
纏
めた風情に、白やかな
婦
の顔がそこを
覗
いた。
門の
扉
が
開
くでもなしに……続いて雪のような
衣紋
が出て、それと
映合
ってくッきりと黒い
鬢
が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の
鮮麗
になったのは――道子であった。
門に立忍んで、
密
と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、
AB
横町の左右を
す趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と
莞爾
して云う。
姉夫人は、口を、畳んだ
手巾
で
圧
えたが、すッすッと息が
忙
しく、
「
誰方
も……」
「誰も。」
「小使さんは?」
ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで
難有
う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で
憩
むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、
好
い都合に、
点燈頃
の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが
貴下
、片々
蠣目
のようで、その
可恐
らしい目で、時々振返っては、あの、
幌
の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と
少時
立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
と
頭
を下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。
灯
の
点
きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に
言
も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと
不可
ません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、
夫人
。」
四十一
早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く
麗
しい姿を
視
めて、
「
宵暗
でも、
貴女
のその
態
じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女
手巾
を。」
と
慌
しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、
背後
から夫人の肩を
肩掛
のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を
萎
めたがなお見
好
げな。
懐中
からまた
手拭
を出して、夫人に渡して、
「
姉
さん
冠
りと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
と打傾いて、
髷
にちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を
被
って
俯向
けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る
鬢
の
馥
の、雪に梅花を伏せたよう。
主税は横から
右瞻左瞻
て、
「
不可
い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を
端折
って、そう、
不可
んな。
長襦袢
が
突丈
じゃ、やっぱり清元の
出語
がありそうだ。」
と口の
裡
に
独言
きつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「
厭
でございますね。」
「御免なさいよ。」
と言うが
疾
いか、早瀬の手は空を切って、体を
踞
んだと思うと、
「あれ、」
かっとなって、ふらふらと
頭
重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の
掌
には逸早く壁の隅なる
煤
を
掬
って、これを夫人の
脛
に塗って、穂にあらわれて
蔽
われ果てぬ、尋常なその
褄
はずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の
令夫人
とは見えやしない。」
と、框の
洋燈
を上から、フッ!
留南奇
を
便
に、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の
賤
が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方
遥
かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、
孤家
のそれと疑わるる。
名門の女子深窓に養われて、
傍
に夫無くしては、
濫
りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の
裡
、
蓋
し察するに
余
あり。
我は不義者の
児
なりと知り、父はしかも
危篤
の病者。逢うが別れの
今世
に、
臨終
のなごりを
惜
むため、
華燭
銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、
慈善市
の光を思うにつけても、横町の後暗さは
冥土
にも
増
るのみか。裾端折り、
頬被
して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。
辛
く乗切って
行
く先は……
実
の親の死目である。道子が心はどんなであろう。
大巌山の幻が、
闇
の
気勢
に目を
圧
えて、用水の音
凄
じく、地を
揺
るごとく聞えた時、道子は
俤
さえ、
衣
の色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を
歩行
きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと!
可
い
塩梅
に人通りもありませんから。」
人は無くて、軒を走る、怪しき
狗
が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、
燐火
となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
道子は声も

うように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「
真中
に恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
と
透
しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、
大
なる口のごとくに見えたのである。
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって
戦
きに音高く、
辿々
しく
四辺
に響いて、やがて
真暗
な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い
婦
は、
得
堪えず倒れたであろう、あたかもその
頸
の上に、例の白黒
斑
な
狗
が
踞
っているのである。
音訪
う間も無く、どたんと畳を
蹴
て立つ音して、戸を開けるのと、ついその
框
に
真赤
な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ
小洋燈
の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、
細面
の
壮佼
で、
巾狭
な
単衣
に三尺帯を尻下り、
粋
な
奴
を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を
掏損
こねた、
万太
と云う
攫徒
である。
はたと主税と
面
を合わせて、
「
兄哥
!」
「…………」
「
不可
えぜ。」と
仮色
のように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
衝
と入る。
袂
に
縋
って、
牲
の鳥の乱れ姿や、
羽掻
を
傷
めた袖を悩んで、
塒
のような戸を
潜
ると、
跣足
で下りて、小使、カタリと後を
鎖
し、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう
不可
えッて、今しがた帰ったんで。
私
あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
と飛び込むと、坐ると
同時
で、ただ
一室
だからそこが
褥
の、
筵
のような枕許へ膝を落して、
覗込
んだが、
慌
しく居直って、
三布蒲団
を持上げて、骨の
蒼
いのが
くッきり見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて
熟
としたが、
「奥さん、」
と
静
に呼ぶ。
道子が、取ったばかりの手拭を、
引摺
るように膝にかけて、
振
を繕う
遑
もなく、押並んで
跪
いた時、早瀬は
退
って向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、
種々
要るものを。」
「へい、
宜
うがす。」
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その
跣足
のまま飛んで出た。
と見れば、貞造の
死骸
の、恩愛に
曳
かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、
幽
に唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
手洋燈を
摺
らして出したが、
灯
が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、
破
子
の下に、汚れた
飯櫃
があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、
霑
をもった目を見据え、
現
の
面
で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった
蓋
を
辷
って、
呀
と云う間に、袖に
俯向
いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が
赫
と赤くなった。
この
明
で、貞造の顔は、活きて
眼
を開いたかと、
蒼白
た鼻も見えたが、
松明
のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら
引掴
んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に
茫
となって、その時座を避けようとする、道子の帯の
結目
を、
引断
れよ、と引いたので、横ざまに倒れた
裳
の
煽
り、
乳
のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、
膚
の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは
黒白
も分かず。阿部街道を戻り馬が、
遥
に、ヒイインと
嘶
く声。
戸外
で、犬の吠ゆる声。
「
可恐
い真暗ですね。」
品々を整えて、道の暗さに、
提灯
を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、

子に腰をかけて、
吻
として腕をさすっていた。――
猛虎肉酔初醒時
。
揩磨苛痒風助威
。
廊下づたい
四十三
家の業でも、気の弱い
婦
であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく
行
かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、
遍
く見舞うのが勤めであった。
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき
生来
の、
自
から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と
唸
ると云うが、まさかであろう。
で――この事たるや、夫の医学士、名は
理順
と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても
仔細
ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、
下階
の病室を済ました後、横田の
田畝
を左に見て、右に
停車場
を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、
雪洞
を手にした、
白衣
の看護婦を従えて、
真中
に院長夫人。雲を開いたように
階子段
を上へ、髪が見えて、肩、帯が
露
れる。
質素
な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の
夜
なぞは
寝衣
に着換えて、浅黄の
扱帯
という事がある。そんな時は、
寝白粉
の香も薫る、それはた異香
薫
ずるがごとく、患者は御来迎、と
称
えて随喜渇仰。
また実際、夫人がその
風采
、その
容色
で、看護婦を率いた
状
は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶
勝
れず、
円髷
も重そうに
首垂
れて、胸をせめて袖を
襲
ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、
悄然
と細って、何か目に見えぬ
縛
の八重の縄で、風に
靡
く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
扉
を
開放
した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から
真白
な月夜で、月の表には富士の
白妙
、裏は紫、海ある
気勢
。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと
明
くなって、ややあって、遥かに暗い
裏階子
へ消える
筈
のが、今夜は廊下の
真中
を、ト一列になって、
水彩色
の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ
引返
して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
と見ると
胡粉
で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
道子は
間
に立って、
徐
に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の
一団
。
ずッと離れて廊下を戻る。
道子は
扉
に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや
背屈
みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を
差覗
くと、表階子の
欄干
へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人
附着
いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。
四十四
寝台
に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を
仄
かに、顔を暗く、寝台に添うて
彳
んで、
心
を細めた
洋燈
のあかりに、その灰のような
面
を見たが、目は明かに開いていた。
ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく
睫毛
が震えたのである。
ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
「お
庇様
で。」
と
確
に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「
酷
いお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、
全
ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の
中旬
だそうで。」と
瞑
ったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、
皆
暑中休暇で帰って参りました。」
少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ
家
へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を
斜
に見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが
御危篤
のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの
面
さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
「なぜ? 貴下、」
と、
熟
と
頤
を据えて、
俯向
いて顔を見ると、早瀬はわずかに目を
開
いて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
と云う
呼吸
づかいが荒くなって、
毛布
を乗出した、薄い胸の、
露
わな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の
戦
くのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
早瀬は差置かれた胸の手に、
圧
し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その
苦
を払わんとするように、
痩細
った手で握って、
幾度
も口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
と
魚
の渇けるがごとく
悶
ゆる白歯に、傾く
鬢
からこぼるるよと見えて、
衝
と
一片
の花が触れた。
颯
となった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと
笄
の
艶
に光って、
雪燈
は仄かに玉のごとき
頸
を照らした。
これより
前
、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の
扉
が堅く
鎖
されると同時に、
裏階子
の上へ、ふと
顕
れた一
人
の
婦
があって、
堆
い前髪にも隠れない、鋭い瞳は、
屹
と長廊下を射るばかり。それが
跫音
を
密
めて来て、隣の
空室
へ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
――
同一
事が――同一事が……五晩六晩続いた。
四十五
妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の
白衣
が、
多時
宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の
小児
、
甥
だの、
姪
だのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の
一家
も来、ヴァイオリンが聞える、
洋琴
が鳴る、唱歌を唄う――この
人数
へ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ
去年
の秋縁着いてもう
児
が出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、
両親
がついて、かねてこれがために、清水
港
に、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、
興津
、
清見
寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の
設
が有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
さて母屋の方は、葉越に映る
燈
にも景気づいて、小さいのが
弄
ぶ花火の音、松の
梢
に富士より高く流星も上ったが、今は
静
になった。
壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて
退
った。
来たのは院長、医学士河野理順である。
ホワイト
襯衣
に、
縞
の
粗
い
慢
な
筒服
、上靴を
穿
いたが、ビイルを
呷
ったらしい。充血した顔の、額に
顱割
のある、
髯
の薄い人物で、ギラリと輝く
黄金縁
の目金越に、看護婦等を
睨
め着けながら、
「君たちは……」
と云うた
眼
が、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一
人
が
頭
を下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも
私
どもはお附き申しませんでございます。」と
爽
な声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては
豪
そうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
と尋ねた時、
衣兜
に両手を突込んで、肩を
揺
った。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。
「あれ、
主人
の
跫音
でございます。」
「院長ですか。」
道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
目も
尋常
ならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、
主人
は
酷
い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って
立窘
むと、
「
寝台
の下へお隠れなさい。
可
いから、」
とむっくと起きた、早瀬は
毛布
を
飜
して、夫人の裾を隠しながら、寝台に
屹
と身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が
物凄
く響いたのである。
理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、
忽然
として、母夫人が
立露
れて、
扉
に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと
圧
えて……曰く、
「院長。」
と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
燃ゆるがごとき嫉妬の
腕
を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて
退
いた。――
蛍
四十六
「
己
が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
酒井俊蔵ただ一人、
臨終
のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、
皆
居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、
致方
が無い。
断念
めなよ。」
と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に
縋着
いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
早瀬に
過失
をさすまいと思う己の目には、お前の影は
彼奴
に魔が
魅
しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は
敵
だ。
間
を
せいたって
処女
じゃない。
真
逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし
徹
したか。可哀相に。……今更卑怯な事は
謂
わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を
呪
えよ!
どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に
喰
ついても
恢復
って、
生樹
を裂いた己へ
面当
に、早瀬と手を引いて
復讐
をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
もう
不可
まいなあ。」
と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、
熟
と見て、
「
瘠
せたよ。
一昨日
見た時よりまた半分になった。――これ、目を
開
きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。
皆
居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の
情婦
は持余しているんだ、世の中は面倒さな。
あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが
不便
だから、
剣突
を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ
擦
って貰えないのは、お前たち何の因果だ。
さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、
昨夜
髪を
結
ったそうだ。ああ、島田が
好
く出来た、己が見たよ。」
と云う時、次の
室
で
泣音
がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その
真先
だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。
芸妓
島田は名誉の
婦
が、いかに、丹精をぬきんでたろう。
上らぬ枕を取交えた、
括蒲団
に
一
が沈んで、
後毛
の乱れさえ、
一入
の
可傷
さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
お蔦は恥じてか、見て
欲
かったか、肩を
捻
って、
髷
を真向きに、毛筋も透通るような
頸
を向けて、なだらかに掛けた
小掻巻
の膝の
辺
に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。
四十七
「似合った、似合った、ああ、島田が
佳
く出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
とじりりと膝を寄せて、その時、
颯
と薄桃色の
瞼
の
霑
んだ、冷たい顔が、夜の風に
戦
ぐばかり、
蓐
の
隈
に
俤
立つのを、縁から
明取
りの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、
厭
な色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、
め組が
継
の当った千草色の
半股引
で、縁側を膝立って来た――
婦
たちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の
傍
に、割膝で
畏
って、歯を
喰切
った
獅噛面
は、額に
蝋燭
の流れぬばかり、絵にある燈台鬼という
顔色
。時々病人の部屋が
寂
とするごとに、隣の女連の中へ、四ツ
這
に顔を出して、
(死んだか、)と聞いて、女房のお増に
流眄
にかけられ、
(まだか、)と問うて、また
睨
めつけられ、苦笑いをしては
引込
んで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が
据
らず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
と鼻声になっている
女房
に
剣呑
を食って、慌てて
遁込
む。
この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を
いて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
「
皆
居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の
室
へ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。
致方
が無い
断念
めな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より
豪
い男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も
確
だ、声も
大
い、酒も強い、借金も多い、男
振
もあれより
増
だ。女房もあり、
情婦
もあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、
情夫
と思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も
弥陀
も
何
も要らん、一心に男の名を
称
えるんだ。早瀬と称えて袖に
縋
れ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに
頸
を抱いた。
トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を
掴
んで、
「
咽喉
が苦しい、ああ、
呼吸
が出来ない。素人らしいが、(と
莞爾
して、)口移しに薬を飲まして……」
酒井は
猶予
らわず
[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」]、水薬を口に含んだのである。
がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに
恍惚
したが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
「
先
、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
酒井は、はらはらと落涙した。
おとずれ
四十八
病室の
寝台
に、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、
歩行
いて
厠
へ
行
かれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩
極
ったように見舞ってくれた道子が、
一昨日
の
夜
の……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、
扉
の外になると、もう自分でも足の
確
なのが分って、両側のそちこちに、白い
金盥
に
昇汞水
の薄桃色なのが、飛々の
柱燈
に見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も
爽然
して、通り過ぎた。
どこも寝入って、
寂
として、この二三日
[#「二三日」は底本では「三三日」]めっきり暑さが増したので、中には
扉
を明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような
裙
を出して、戸口に
横
わって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの
呻吟声
も聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
厠は
表階子
の
取附
きにもあって、そこは
燈
も
明
いが、風は
佳
し、廊下は冷たし、
歩行
くのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
ざぶり水を
注
けながら、見るともなしに、小窓の格子から
田圃
を見ると、月は
屋
の棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、
靄
のかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く
繞
って消えたのは、どこかの電燈が
閃
いて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
手水
と、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず
猶予
って
[#「猶予って」は底本では「猶了って」]、暗い中に、昼間
被
かえた自分の浴衣の白いのを、
視
めて
悚然
として
咳
をしたが、口の
裡
で音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、
赫
となって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が
大
な穴のように
真黒
なばかりで、別に何にも無い。
瓦を
噛
むように棟近く、
夜鴉
が、かあ、と鳴いた。
鳴きながら、伝うて飛ぶのを、
として仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
と見ると打向い遥か斜めなる、
渠
が病室の、半開きにして来た
扉
の前に、ちらりと見えた
婦
の姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
ぱたぱたと、我ながら
慌
しく
跫音
立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
バサリと音して、
一握
の綿が舞うように、むくむくと
渦
くばかり、枕許の棚をほとんど
転
って飛ぶのは、大きな、色の白い
蛾
で。
枕をかけて陰々とした、
燈
の間に、あたかも
鞠
のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の
天鵝絨
に似た西洋花の
大輪
があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬
嫌
が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――
水薬
の瓶に、ばさばさと当るのを、
熟
と
瞻
めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番
明
かった
燈
が、アワヤ消えそうになっている。
その時、
蛾
に向うごとく、
衝
と踏込む途端に、
「私ですよう引
[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、
蛾
がハタと落ちた。
はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで
握緊
めていた、左の
拳
に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一
尾
の
守宮
である。
はっと開くと、
雫
のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の
発奮
みに、
蹌踉
けて、片膝を
支
いたなり、口を開けて、
垂々
と
濺
ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を
擡
げて
睨
むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように
真赤
になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて
屹
と視た。
四十九
早瀬はその
水薬
の
残余
を
火影
に透かして、透明な液体の中に、
芥子粒
ほどの泡の、風のごとくめぐる
状
に、
莞爾
して、
「面白い!」
と、投げる様に言棄てたが、
恐気
も無く、一分時の前は炎のごとく
真紅
に狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、
飜
った腹の青い
守宮
を
摘
んで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、
同一
薬瓶があった。その
一個
を取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで
寝台
に上って、むずと
高胡坐
を組んだと思うと、廊下の方を
屹
と見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
と言うと
斉
しく、仰向けに寝て、
毛布
を胸へ。――
鶏
の声を聞きながら、大胆不敵な
鼾
で、すやすやと寝たのである。
暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を
差覗
いて、人知れず……立去った。
早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちて
破
れておりましたが。」
と注意をしたのは言うまでもなかった。
で、
新
い瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
その日
燈
の
点
くちと前に、早瀬は帯を
緊直
して、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お
庇様
でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、
種々
用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
と出掛けた
白衣
の、腰の
肥
いのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても
可
うございますと。」
馴染んでいるから、黙って
頷
いて室を出て、表階子の方へ
跫音
がして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間
経
ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた
忙
しく引返して、
発奮
に突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
と言う、
呼吸
も引かず、早瀬は目を
って茫然とした。
昨夜
の事の不思議より、今
目前
の光景を、かえって夢かと思うよう、
恍惚
となったも道理。
看護婦の白衣にかさなって、紫の
矢絣
の、色の薄いが
鮮麗
に、
朱緞子
に銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、
緋鹿子
の
背負上
げして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
ときょとんとして早瀬はひたと
瞻
めた。
「主税さん。」
と、一年越、
十年
も恋しく
百年
も
可懐
い声をかけて、看護婦の
傍
をすっと抜けて
真直
に入ったが、
「もう
快
くって?」
と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の
扇子
も共に、
差覗
くようにした。
「お嬢さん……」とまだ
としている。
「しばらくね。」
と
前
へ言われて、はじめて
吃驚
した顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。
五十
寝台
と椅子との狭い間、
目前
にその燃ゆるような帯が輝いているので、
辷
り下りようとする、それもならず。
蒼空
の星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。
貴女
。いつ。どの汽車で。」と、
一呼吸
に
慌
しい。
「今日の
正午
の汽車で、今来たわ。惣助ッて
肴屋
さんが一所なの。」
「ええ、
め組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
と言いかける、口の
莟
が動いたと思うと、
睫毛
が濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌てて
袂
を取って、
揉込
むように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、
振
が
飜
って、
朱鷺
色の
絽
の長襦袢の袖が落ちる。
「今そんな事を聞いちゃ、
厭
!」
と
突慳貪
なように云った。
勿
、問いそそこに人あるに、涙
得
堪えず、と言うのである。
看護婦は心得て、
「では、あの、お
言託
は。」
「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、
め組の奴は?」
「
停車場
で荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、
貴下
の
好
なお魚を持って来たのよ。病院なら
直
き分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。
皆
、そうやって思ってるのに、
貴下
は
酷
いわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」
とまた声が曇って、黙って
差俯向
いた主税を見て、
「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に
叱言
を言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてから
緩
りしましょうね。」
と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、
「
小刀
はあって?」
余り
唐突
な問だったから、口も利けないで……また目を
る。
「では、さあ、私の
元結
を切って頂戴。」
「
元結
を? お嬢さんの。」
「ええ、私の髪の、」
と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、
寝台
の端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は
俯向
いて、玉のごとき
頸
を差伸べ、
「お切んなさいよ、さあ、早くよ。
父上
も知っていてよ、
可
いんだわ。」
と美しく
流眄
に見返った時、危なく手がふるえていた。小刀の
尖
が、夢のごとく、元結を
弾
くと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりと
掉
ったので、
颯
と流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた
一握
の黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。
早瀬は氷を浴びたように
悚然
とした。
「お蔦さんに
託
ったの。あの、
記念
にね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」
と向う
状
に、椅子の
凭
に
俯伏
せになると、抜いて持った
簪
の、花片が、リボンを打って激しく揺れて、
「もうその
他
には逢えないのよ。」
お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと
練衣
の氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、
左手
を
密
と掛けながら、今はなかなかに
胴据
って、主税は、もの言う声も
確
に、
「亡くなったものの
髪毛
なんぞ。……
飛んでも無い。先生が
可
い、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをお
頭
へ入れて。御出世前の大事なお
身体
じゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」
と貴いものに触るように、
静
にその緑の
艶
を撫でた。
「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」
と勇ましく起直って、
「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」
日蝕
五十一
日盛りの
田畝道
には、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝から
蔀
を下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱には
病
ありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。
早朝
日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。
鶏卵
色に濁りを帯びて、果し無き
蒼空
にただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその
雛形
のごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――
風は
終日
無かった。
蒸々
と悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、
嬰児
の
泣音
も沈み、鶏の
羽
さえ羽叩くに
懶
げで、
庇間
にかけた
階子
に留まって、
熟
と中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間に
射
し入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、
身動
にも払われず、物蔭にも消えず、
細
かに濃く
引包
まれたかの
思
がして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にも
固
るか、とばかり次第に息苦しい。
白昼凝って、
尽
く太陽の黄なるを包む、
混沌
たる雲の
凝固
とならんず
光景
。万有あわや死せんとす、と忌わしき
使者
の早打、しっきりなく走るは
鴉
で。黒き
礫
のごとく、灰色の
天狗
のごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根を
畝
り、岩に躍り、
渚
に
飜
って、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に
充満
たり、何物の怪しき影ぞ、
円
なる
太陽
の光を
蔽
うやとて、大紅玉の悩める
面
を、
拭
い洗わんと、苛立ち、
悶
え、憤れる
状
があったが、日の午に近き
頃
には、まさにその力尽き、骨
萎
えて、また
如何
ともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せ
※
[#「さんずい+散」、367-14]きを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。
一
分
たちまち欠け始めた、日の二時頃、何の
落人
か
慌
しき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、
轟々
と田舎道を、清水港の方から久能山の
方
へ走らして通る、数八台。
真前
の車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の
操子
で、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。
一所に東京へと云うのを……
仔細
あって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。
お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、
め組の惣助、
婦
ばかりの
一群
には花籠に熊蜂めくが、
此奴
大切なお嬢の
傍
を、決して離れる事ではない。
これは
蓋
し一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとする
催
で。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちが
遁
げるのだと思ったろう。
共に清水港の別荘に居る、
各々
の夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へ
漕
ぎ寄せて、いずれもその愛人の
帰途
を迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。
小児
たち、
幼稚
いのは、
傅
、乳母など、
一群
に、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、
真前
に手を
拍
って賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は
就中
得意であった。
と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、(島山蝕)――とさえ
称
えたのである。
五十二
田を
行
く時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の
松葉牡丹
に、ちらちら一行の影がさした。
聯
る車は、薄日なれば
母衣
を払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹き
靡
かしたごとく、死したる風も
颯
と涼しく、
美女
たちの
面
を払って、久能の
麓
へ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。
蝕あり、変あり、兵あり、
乱
ある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を
穿
った抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸を
鎖
して、
蜻蛉
も飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、
寂然
としているのを見て、大夫人が、
「野蛮だね。」
と
嘲笑
って、車夫に
指揮
して、一軒店を開けさして、
少時
休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は
不残
帰す事にして、さて
大
なる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、
め組を後押えで、あの、石段にかかった。
が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。
これより
前
、相貌堂々として、何等か銅像の
揺
ぐがごとく、
頤
に
髯
長き一個の紳士の、
握
に
銀
の色の
燦爛
たる、太く
逞
き
杖
を
支
いて、ナポレオン帽子の
庇
深く、額に暗き
皺
を刻み、満面に
燃
るがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段を
攀
じて、松の
梢
に隠れたのがあった。
これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。
英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の
見霽
に上り着いて、
海面
が、高くその骨組の丈夫な双の肩に
懸
った時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に
千仞
の絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の
苫屋
を
透
し、枝には白き
渚
を掛け、緑に
細波
の葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松の
許
なる据置の腰掛に、長くなって、
肱枕
して、
面
を半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、
懐中
に入れて、枕した
頭
の
傍
に、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた
一個
の青年を見た。
と立向って、英臣が
杖
を前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔に
屹
と見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清く
瘠
せて、鶴のごとき早瀬主税。
英臣は
庇下
りに、じろりと
視
めて、
「
疾
かった、のう」と
鷹揚
に一ツ
頤
でしゃくる。
「御苦労様です。」
と、主税は仰ぐようにして云った。
「いや、ここで話しょうと云うたのは
私
じゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」
と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
早瀬は軽く
微笑
みながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
と腰掛けた
傍
を指で
弾
いた。
「や、ここで
可
え。話は
直
き分る。」と英臣は
杖
を脇挟んで、葉巻を
銜
えた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
と吸いつけた
唾
を吐く。
「ここで
極
て下さいましょうか。
過日
、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ
竜爪山
へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
と今の
諧謔
にやや怒気を含んで、
「
私
が
対手
じゃ、
立処
に解決してやる!」
「第一!」
と言った……主税の声は
朗
であった。
「
貴下
の奥さんを離縁なさい。」
隼
五十三
一言亡状
を極めたにも係わらず、英臣はかえって
物静
に聞いた。
「なぜか。」
「
馬丁
貞造と
不埒
して、お道さんを産んだからです。」
強いて
言
を落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をお
潰
しなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒を
装
ります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとく
汚
れ果てた。……最早や、
忰
の嫁を
娶
るのに、
他
の大切な娘の、身分系図などを
検
べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
就中
、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を
仕
りました申訳が無い、とお詫びなさい。
そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも
引込
むんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」
と帽子で、そよそよと胸を
煽
いだ。
時に蝕しつつある太陽を、いやが上に
蔽
い果さんずる修羅の
叫喚
の
物凄
く響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、
「発狂人!」
「ああ、
狂人
だ、が、
他
の気違は出来ないことを云って狂うのに、この
狂気
は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」
舌もやや釣る、唇を
蠢
かしつつ、
「で、
私
がその請求を
肯
かんけりゃ、
汝
、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を
吐
いたのである。
「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、
遣
ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」
英臣は辛うじて
罵
り得た。
「
騙
じゃのう、」
「騙ですとも。」
「
強請
じゃが。
汝
、」
「強請ですとも。」
「それで
汝
人間か。」
「畜生でしょうか。」
「それでも独逸語の教師か。」
「いいえ、」
「学者と言われようか。」
「どういたしまして、」
「酒井の門生か。」
「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」
「何、騙じゃ、」
「強請です。畜生です。そして河野家の
仇
なんです。」
「黙れ!」
と一喝、虎のごとき
唸
をなして、
杖
をひしと握って、
「無礼だ。黙れ、小僧。」
「何だ、小父さん。」
と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず
掉下
す得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、
呵々
と笑って、
「おい、
己
を、まあ、何だと思う。浅草
田畝
に巣を持って、観音様へ羽を
伸
すから、
隼
の
力
と
綽名
アされた、
掏摸
だよ、
巾着切
だよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」
五十四
「
己
が十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、
塒
を奥山へ出たと思いねえ。
蛙
の
面
へ
打
かけるように、仕かけの噴水が、
白粉
の禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、
洒亜
と出ていら。そこの釣堀に、四人
連
、皆洋服で、まだ酔の
醒
めねえ顔も見えて、帽子は
被
っても
大童
と云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。
釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の
鰌
だろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と
天窓
から呑んでかかって、中でも
鮒
らしい奴の
黄金鎖
へ手を懸ける、としまった! この腕を
呻
と握られたんだ。
掴
えて
打
ちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、
一睨
睨まれた時は、生れて、はじめて
縮
んだのさ。
こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの
越度
で、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ
同一所
の税関長、稲坂と云う法学士で、
大鵬
のような人物、ついて居た三人は下役だね。
後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で
馴染
の女に逢って、
(一所に
登楼
るぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は
情女
と遊ぶんだから、お前は次の
室
で待ってるんだ、と
名代
へ追いやって、
遊女
と寝たと云う豪傑さね。
それッきり、細君も
妬
かないが、旦那も
嫉気
少しもなし。
いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの
婦
も
同一
だ。
前
から居る下役の
媽々
ども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、
年紀
の若いのを
猜
んだやつさ。下女に鼻薬を飼って
讒言
をさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と
情交
があるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出て
行
け。)――と怒鳴り附けた。
誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。
どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人
業
じゃねえような、河野さん、貴下のお婿
様
連にゃ、こういうのは有りますまい。
己が
掴
ったのはその人だ。首を
縮
めて、鯉の
入
った籠を下げて、(
魚籃
)の
丁稚
と云う形で、ついて
行
くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで
歩行
いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と
掏摸
にも、
同一
ように、吸物膳。
女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ
少
かった――
縮緬
のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで
召食
れ、)と優しく言って下すった時にゃ、
己
あ始めて涙が出たのよ。
先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり
留
める気になったぜ、犬畜生だけ、
情
には
脆
いのよ。
法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に
攫
れよ。)と言われて、畳に
喰
ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、
翌日
の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を
真似
て、今でも
囀
る独逸語だ。
世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな
料簡方
だい。
可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、
一家
の
繁昌
とは何事だろう。
たまたま人間に生を受けて、しかも
別嬪
に生れたものを、一生にたった一度、
生命
とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、
盲鳥
を占めるように野郎の懐へ
捻込
んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
見たが可い、こう、
己
が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、
新粉
細工で
拵
えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
英臣の目は血走った。
五十五
「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の
児
を親勝手に縁附けるほど
惨
たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、
無垢
な
女
が、
頭
一ツ
掉
り得るものか。
羞含
んで、ぼうとなって、
俯向
くので話が
極
って、
赫
と
逆上
せた奴を車に乗せて、
回生剤
のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て
起
りゃ人の女房だ。
うっかり
他
と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が
繋
って、光った
態
でもして
歩行
けば、親達は
緋縅
の
鎧
でも着たように
汝
が肩身をひけらかすんだね。
娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい
味噌漉
を提げたって、玉の冠を
被
ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。
傍
の目からは
筵
と見えても、当人には
綾錦
だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ
入
っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
「
不埒
な奴だ?」
と
揺
いた英臣の髯の色、口を
開
いて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって
怯然
ともしねえ。
豪
い、と
讃
めりゃ
吃驚
するがね。
今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの
許
のような家風で、婿を持たした娘たちと、
情事
をするくらい、下女を
演劇
に連出すより、もっと
容易
いのは通相場よ。
こう、もう威張ったって仕ようがねえ。
恐怖
くはないと言えば、」
と
微笑
みながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を
栄
さそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。
己に毒薬を
装
らせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に
押附
けたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の
夥間
が、ちゃんと
材料
を上げていら。
やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。
そこを言うのだ。
児
よりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。
なぜ手をついて
懺悔
をしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して
名聞
のためには使いますまい。家柄を鼻にかけて
他
の娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。
小児
一人
犠牲
にして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって
謝
んねえな。」
五十六
面
も
触
らず
言
を継ぎ、
「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――
たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、
私
が先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな
賤
しい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、
憧
れ
死
をしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。
こう、お
前
たちにゃ限らねえ。世間にゃそうした
情無
え了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ
面当
に、河野の
一家
を
鎗玉
に挙げたんだ。
はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。
己
らそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの
悪丁稚
を、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、
似而非
道学者の坂田なんぞを見返そうと云った
江戸児
のお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは
安価
いものよ。
お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」
と丁寧に笑って言って、
「迷惑や気の毒を
勘酌
して巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お
前
、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、
巡査
ほどにも恐くはねえから、
言句
なしに往生するさ。
軍
に負けた、と思えば
可
かろう。
掏摸の指で
突
いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる
濛
を
穿
って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。
お前さん、さぞ
口惜
かろう。
打
ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた
生命
だから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも
寂
い事はねえ、女房が先へ行って待っていら。
お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が
絡
い
繞
って、その器に非ずして
濫
りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。
呪詛
われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」
と膝に手を置き、
片面
を、怪しきものの走るがごとく
颯
と暗くなった海に向けて、蝕ある
凄
き日の光に、
水底
のその悪竜の影に憧るる
面色
した時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。
英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく
緘黙
した。
一声高らかに
雉子
が
啼
くと、山は暗くなった。
勘助井戸の星を
覗
こうと、末の娘が
真先
に
飜然
と上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく
朦朧
として
露
われた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに
衣兜
から
短銃
を出して、
衝
と早瀬の胸を狙った。あわやと
抱
き留めた惣助は
刎倒
されて転んだけれども、
渠
危
し、と一目見て、道子と菅子が、身を
蔽
いに、
背
より、胸より、ひしと主税を
庇
ったので、英臣は、
面
を背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、
硝薬
の煙とともに、蝕する日の
面
を仰ぎつつ、この
傲岸
なる統領は、自からその脳を貫いた。
抱合って、目を見交わして、
姉妹
の
美人
は、身を
倒
に崖に投じた。あわれ、蔦に
蔓
に
留
まった、道子と菅子が色ある
残懐
は、滅びたる世の海の底に、
珊瑚
の砕けしに異ならず。
折から沖を
遥
に、光なき昼の星よと見えて、天に
連
った一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ
死骸
の
俤
に似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手を
翳
した。
その
夜
、清水港の旅店において、
爺
は山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやと
寐
たのを見て、お蔦の黒髪を
抱
きながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。
早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。
その文学士河野に
宛
てたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬を
擒
にしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、
謀
って情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をも
傷
けぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の
馬丁
と不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を
誘出
し得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜
蛾
が
燈
に
斃
ちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。
不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その
実否
を正すべく、これを口にすべからざる
底
の条件をもって、
咄嗟
に
雷
発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は
掏賊
だ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、
有
ゆる
辣手段
を弄して差支えないと信じた。
要はただ、君が家系
門閥
の誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我は
偏
に、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒を
惜
むとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。
英吉君、
能
うべくは、我意を体して、より
美
く、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意を
認
めてあった。
門族の栄華の雲に
蔽
われて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、
嗟嘆
して主税に聞くべく、その頭脳は
明
に、その
眼
は輝いたのである。
早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、
徒
を添えたるもの。
或
はおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。
明治四十(一九〇七)年一~四月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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「そろべくそろ」の合字
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59-2 |
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「火+發」
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91-4、316-3 |
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「さんずい+散」
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367-14 |