はしがき
一。太平洋の波に浮べる、この船にも似たる我日本の國人は、今や徒らに、富士山の明麗なる風光にのみ恍惚たるべき時にはあらざるべし。
光譽ある桂の冠と、富と權力との優勝旗は、すでに陸を離れて、世界の海上に移されたり。
この冠を戴き、この優勝旗を握らむものは誰ぞ。
他なし、海の勇者なり。海の勇者は即ち世界の勇者たるべし。
一。天長節の佳日に際し
子爵 伊東海軍大將
肝付海軍少將
伯爵 吉井海軍少佐
子爵 小笠原海軍少佐
上村海軍少佐
各位の清福を賀※
[#変体仮名し、はしがき-14]、つたなき本書のために、題字及び序文を賜はりし高意にむかつて、誠實なる感謝の意を表す。
一。上村海軍少佐の懇切なる教示と、嚴密なる校閲とを受けたるは、啻に著者の幸福のみにはあらず、讀者諸君若し此書によりて、幾分にても、海上の智識を得らるゝあらば、そは全く少佐の賜なり。
一。遙かに、獨京伯林なる、巖谷小波先生の健勝を祈る。
著者※[#変体仮名し、はしがき-20]るす
[#改ページ]
(海島冐檢奇譚)海底軍艦目次
第一回
海外の
日本人
子ープルス港の奇遇――大商館――濱島武文[#「濱島武文」は底本では「濱鳥武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
第二回
魔の
日魔の
刻
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
第三回
怪の
船
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
第四回
反古の
新聞
葉卷煙草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水兵――奇妙な新體詩――秘密の發明――二點鐘カーンカン
第五回 ピアノと
拳鬪
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の閉口――曲馬師の虎
第六回
星火榴彈
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な――三個の舷燈――船幽靈め――其眼が怪しい
第七回
印度洋の
海賊船
水雷驅逐艦か巡洋艦か――往昔の海賊と今の海賊――潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
第八回
人間の
運命
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
第九回
大海原の
小端艇
亞尼の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
第十回
沙魚の
水葬
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや/\變な味になりました――またも斷食
第十一回
無人島の
響
人の住む島か魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱はした――海軍士官の顏
第十二回
海軍の
家
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
第十三回
星影がちら/\
歡迎――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか/\面白いよ――三年の後
第十四回
海底の
造船所
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻――秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
第十五回
電光艇
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
第十六回
朝日島
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の紀念塔――成程妙案々々――其處だよ
第十七回
冐險鐵車
自動の器械――斬頭刄形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ帝國の萬歳を唱へませう
第十八回
野球競技
九種の魔球――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
第十九回
猛獸隊
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ/\の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
第二十回
猛犬の
使者
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
第二十一回
空中の
救ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
第二十二回
海の
禍
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
第二十三回 十二の
樽
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
第二十四回
輕氣球の
飛行
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く/\
第二十五回
白色巡洋艦
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの船は!
第二十六回
顏と
顏と
顏
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
第二十七回
艦長室
鼻髯を捻つた――夢ではありますまいか――私は何より嬉しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
第二十八回
紀念軍艦
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間の萬事は天意の儘です
第二十九回
薩摩琵琶
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
第三十回
月夜の
大海戰
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗大軍刀をブン/\と振廻した――大佐來! 電光艇來!―朝日輝く印度洋
目次終
[#改ページ]
第一回
海外の
日本人
ネープルス港の奇遇――大商館――濱島武文
[#「濱島武文」は底本では「
島武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
私が
世界漫遊の
目的をもつて、
横濱の
港を
出帆したのは、
既に
六年以前の
事で、はじめ
亞米利加に
渡り、それから
大西洋の
[#「大西洋の」は底本では「太西洋の」]荒浪を
横斷つて
歐羅巴に
遊び、
英吉利、
佛蘭西、
獨逸等音に
名高き
國々の
名所古跡を
遍歴して、
其間に
月を
閲すること二十
有餘箇月、
大約一
萬五
千里の
長途を
後にして、
終に
伊太利に
入り、
往昔から
美術國の
光譽高き、
其さま/″\の
奇觀をも
足る
程眺めたれば、
之より
我が
懷かしき
日本へ
歸らんと、
當夜十一
時半拔錨の
弦月丸とて、
東洋行の
船に
乘組まんがため、
國の
名港ネープルスまで
來たのは、
今から
丁度四
年前、
季節は
櫻散る
五月中旬の
或晴朗な
日の
正午時分であつた。
市街はづれの
停車塲から
客待の
馬車で、
海岸附近の
或旅亭に
着き、
部室も
定まり
軈て
晝餉もすむと
最早何も
爲る
事がない、
船の
出港までは
未だ十
時間以上。
長い
旅行を
行つた
諸君はお
察しでもあらうが、
知る
人もなき
異境の
地で、
車や
船の
出發を
待ち
暮すほど
徒然ぬものはない、
立つて
見つ、
居て
見つ、
新聞や
雜誌等を
繰廣げて
見たが
何も
手に
着かない、
寧そ
晝寢せんか、
市街でも
散歩せんかと、
思案とり/″\
窓に
倚つて
眺めると、
眼下に
瞰おろす
子ープルス灣、
鏡のやうな
海面に
泛んで、
出る
船、
入る
船[#「船」は底本では「般」]停泊つて
居る
船、
其船々の
甲板の
模樣や、
檣上に
飜る
旗章や、また
彼方の
波止塲から
此方へかけて
奇妙な
風の
商舘の
屋根などを
眺め
廻しつゝ、たゞ
譯もなく
考想へて
居る
内にふと
思ひ
浮んだ
一事がある。それは
濱島武文といふ
人の
事で。
濱島武文とは
私がまだ
高等學校に
居つた
時分、
左樣かれこれ十二三
年も
前の
事であるが、
同じ
學びの
友であつた。
彼は
私よりは四つ五つの
年長者で、
從て
級も
異つて
居つたので、
始終交るでもなかつたが、
其頃校内で
運動の
妙手なのと
無暗に
冐險的旅行の
嗜好なのとで、
彼と
私とは
指を
折られ、
從て
何ゆゑとなく
睦ましく
離れがたく
思はれたが、
其後彼は
學校を
卒業して、
元來ならば
大學に
入る
可きを、
他に
大望ありと
稱して、
幾何もなく
日本を
去り、はじめは
支那に
遊び、それから
歐洲を
渡つて、六七
年以前の
事、
或人が
佛京巴里の
大博覽會で、
彼に
面會したとまでは
明瞭だが、
私も
南船北馬の
身の
其後の
詳なる
消息を
耳にせず、たゞ
風のたよりに、
此頃では、
伊太利のさる
繁華なる
港に
宏大な
商會を
立てゝ、
專ら
貿易事業に
身を
委ねて
居る
由、おぼろながらに
傳へ
聞くのみ。
伊太利の
繁華なる
港といへば、
此處は
國中隨一の
名港子ープルス、
埠頭から
海岸通りへかけて
商館の
數も
幾百千、もしや
濱島は
此港で、
其商會とやらを
營んで
居るのではあるまいかと
思ひ
浮んだので、
實に
雲を
掴むやうな
話だが、
萬が一もと
旅亭の
主人を
呼んで
聽いて
見ると、
果然!
主人は
私の
問を
終まで
言はせず、ポンと
禿頭を
叩いて、
『オヽ、
濱島さん

よく
存じて
居ますよ、
雇人が一千
人もあつて、
支店の
數も十の
指――ホー、
其お
宅ですか、それは
斯う
行つて、あゝ
行つて。』と
口と
手眞似で
窓から
首を
突出して
『あれ/\、あそこに
見へる
宏壯な三
階の
家!』
天外萬里の
異邦では、
初對面の
人でも、
同じ
山河の
生れと
聞けば
懷かしきに、まして
昔馴染の
其人が、
現在此地にありと
聞いては
矢も
楯も
堪らない、
私は
直ぐと
身仕度を
整へて
旅亭を
出た。
旅亭の
禿頭に
教へられた
樣に、
人馬の
徃來繁き
街道を
西へ/\と
凡そ四五
町、
唯ある
十字街を
左へ
曲つて、三
軒目の
立派な
煉瓦造りの
一構、
門に
T. Hamashima, と
記してあるのは
此處と
案内を
乞ふと、
直ぐ
見晴しのよい
一室に
通されて、
待つ
程もなく
靴音高く
入つて
來たのはまさしく
濱島! 十
年相見ぬ
間に
彼には
立派な
八字髯も
生へ、
其風采も
餘程變つて
居るが
相變らず
洒々落々の
男『ヤァ、
柳川君か、これは
珍らしい、
珍らしい。』と
下にも
置かぬ
待遇、
私は
心から

しかつたよ。
髯は
生へても
友達同士の
間は
無邪氣なもので、いろ/\の
話の
間には、
昔倶に
山野に
獵暮して、
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、6-5]て
農家の
家鴨を
射殺して、
辛き
目に
出逢つた
話や、
春季の
大運動會に、
彼と
私とはおの/\
級の
撰手となつて、
必死に
優勝旗を
爭つた
事や、
其他さま/″\の
懷舊談も
出て、
時の
移るのも
知らなかつたが、ふと
氣付くと、
當家の
模樣が
何となく
忙がし
相で、
四邊の
部室では
甲乙の
語り
合ふ
聲喧しく、
廊下を
走る
人の
足音もたゞならず
速い、
濱島は
昔から
極く
沈着な
人で、
何事にも
平然と
構へて
居るから
夫とは
分らぬが、
今珈琲を
運んで
來た
小間使の
顏にも
其忙がしさが
見へるので、
若しや、
今日は
不時の
混雜中ではあるまいかと
氣付いたから、
私は
急に
顏を
上げ
『
何かお
急がしいのではありませんか。』と
問ひかけた。
『イヤ、イヤ、
决して
御心配なく。』と
彼は
此時珈琲を
一口飮んだが、
悠々と
鼻髯を
捻りながら
『
何ね、
實は
旅立つ
者があるので。』
オヤ、
何人が
何處へと、
私が
問はんとするより
先に
彼は
口を
開いた。
『
時に
柳川君、
君は
當分此港に
御滯在でせうねえ、それから、
西班牙の
方へでもお
廻りですか、それとも、
更に
歩を
進めて、
亞弗利加探險とでもお
出掛けですか。』
『アハヽヽヽ。』と
私は
頭を
掻いた。
『つい
昔話の
面白さに
申遲れたが、
實は
早急なのですよ、
今夜十一
時半の
船で
日本へ
皈る
一方なんです。』
『えい、
君も?。』と
彼は
眼を
見張つて。
『
矢張今夜十一
時半出帆の
弦月丸で?。』
『
左樣、
殘念ながら、
西班牙や、
亞弗利加の
方は
今度は
斷念しました。』と、
私がキツパリと
答へると、
彼はポンと
膝を
叩いて
『やあ、
奇妙々々。』
何が
奇妙なのだと
私の
審る
顏を
眺めつゝ、
彼は
言をつゞけた。
『
何んと
奇妙ではありませんか、これ
等が
天の
紹介とでも
云ふものでせう、
實は
私の
妻子も、
今夜の
弦月丸で
日本へ
皈國ますので。』
『え、
君の
細君と
御子息
』と
私は
意外に
※[#「口+斗」、8-11]んだ。十
年も
相見ぬ
間に、
彼に
妻子の
出來た
事は
何も
不思議はないが、
實は
今の
今まで
知らなんだ、
况んや
其人が
今本國へ
皈るなどゝは
全く
寢耳に
水だ。
濱島は
聲高く
笑つて
『はゝゝゝゝ。
君はまだ
私の
妻子を
御存じなかつたのでしたね。これは
失敬々々。』と
急はしく
呼鈴を
鳴らして、
入來つた
小間使に
『あのね、
奧さんに
珍らしいお
客樣が……。』と
言つたまゝ
私の
方に
向直り
『
實は
斯うなんですよ。』と
小膝を
進めた。
『
私が
此港へ
貿易商會を
設立た
翌々年の
夏、
鳥渡日本へ
皈りました。
其頃君は
暹羅漫遊中と
承つたが、
皈國中、
或人の
媒介で、
同郷の
松島海軍大佐の
妹を
妻に
娶つて
來たのです。これは
既に十
年から
前の
事で、
其後に
生れた
兒も
最早八歳になりますが、さて、
私の
日頃の
望は、
自分は
斯うして、
海外に
一商人として
世に
立つて
居るものゝ、
小兒丈けはどうか
日本帝國の
干城となる
有爲な
海軍々人にして
見たい、
夫につけても、
日本人の
子は
日本の
國土で
教育しなければ
從て
愛國心も
薄くなるとは
私の
深く
感ずる
所で、
幸ひ
妻の
兄は
本國で
相當の
軍人であれば、
其人の
手許に
送つて、
教育萬端の
世話を
頼まうと、
餘程以前から
考へて
居つたのですが、どうも
然る
可き
機會を
得なかつた。
然るに
今月の
初旬、
本國から
届いた
郵便によると、
妻の
令兄なる
松島海軍大佐は、
兼て
帝國軍艦高雄の
艦長であつたが、
近頃病氣の
爲めに
待命中の
由、
勿論危篤といふ
程の
病氣ではあるまいが、
妻も
唯一人の
兄であれば、
能ふ
事なら
自ら
見舞もし、
久ぶりに
故山の
月をも
眺めたいとの
願望、
丁度小兒のこともあるので、
然らば
此機會にといふので、
二人は
今夜の十一
時半の
弦月丸で
出發といふ
事になつたのです。
無論、
妻は
大佐の
病氣次第で
早かれ
遲かれ
歸つて
來ますが、
兒は
永く/\――
日本帝國の
天晴れ
軍人として
世に
立つまでは、
芙蓉の
峯の
麓を
去らせぬ
積です。』と、
語り
終つて、
彼は
靜かに
私の
顏を
眺め
『で、
君も
今夜の
御出帆ならば、
船の
中でも、
日本へ
皈つて
後も、
何呉れ
御面倒を
願ひますよ。』
此話で
何事も
分明になつた。それに
就けても
濱島武文は
昔ながら
壯快い
氣象だ、たゞ
一人の
兒を
帝國の
軍人に
養成せんが
爲めに
恩愛の
覊を
斷切つて、
本國へ
送つてやるとは
隨分思ひ
切つた
事だ。また
松島海軍大佐の
令妹なる
彼の
夫人にはまだ
面會はせぬが、
兄君の
病床を
見舞はんが
爲めに、
暫時でも
其良君に
別を
告げ、
幼き
兒を
携へて、
浪風荒き
萬里の
旅に
赴くとは
仲々殊勝なる
振舞よと、
心竊かに
感服するのである。
更に
想ひめぐらすと
此度の
事件は、
何から
何まで
小説のやうだ。
海外萬里の
地で、ふとした
事から
昔馴染の
朋友に
出逢つた
事、それから
私は
此港へ
來た
時は、
恰も
彼の
夫人と
令息とが
此處を
出發しやうといふ
時で、
申合せたでもなく、
同じ
時に、
同じ
船に
乘つて、
之から
數ヶ
月の
航海を
倶にするやうな
運命に
立到つたのは、
實に
濱島の
云ふが
如く、
之が
不思議なる
天の
紹介とでもいふものであらう、
斯う
思つて、
暫時或想像に
耽つて
居る
時、
忽ち
部室の
戸を
靜かに
開いて
入來つた
二個の
人がある。
言ふ
迄もない、
夫人と
其愛兒だ。
濱島は
立つて
『これが
私の
妻春枝。』と
私に
紹介せ、
更に
夫人に
向つて、
私と
彼とが
昔おなじ
學びの
友であつた
事、
私が
今回の
旅行の
次第、また
之から
日本まで
夫人等と
航海を
共にするやうになつた
不思議の
縁を
言葉短に
語ると、
夫人は『おや。』と
言つたまゝいと
懷かし
氣に
進み
寄る。
年の
頃廿六七、
眉の
麗はしい
口元の
優しい
丁度天女の
樣な
美人、
私は
一目見て、
此夫人は
其容姿の
如く、
心も
美はしく、
世にも
高貴き
婦人と
思つた。
一通りの
挨拶終つて
後、
夫人は
愛兒を
麾くと、
招かれて
臆する
色もなく
私の
膝許近く
進み
寄つた
少年、
年齡は八
歳、
名は
日出雄と
呼ぶ
由、
清楚とした
水兵風の
洋服姿で、
髮の
房々とした、
色の
くつきりと
白い、
口元は
父君の
凛々しきに
似、
眼元は
母君の
清しきを
其儘に、
見るから
可憐の
少年。
私は
端なくも、
昨夜ローマ府からの
車の
中で
讀んだ『
小公子』といふ
小説中の、あの
愛らしい/\
小主人公を
聯想した。
日出雄少年は
海外萬里の
地に
生れて、
父母の
外には
本國人を
見る
事も
稀なる
事とて、
幼き
心にも
懷かしとか、

しとか
思つたのであらう、
其清しい
眼で、しげ/\と
私の
顏を
見上げて
居つたが
『おや、
叔父さんは
日本人!。』と
言つた。
『
私は
日本人ですよ、
日出雄さんと
同じお
國の
人ですよ。』と
私は
抱き
寄せて
『
日出雄さんは
日本人が
好きなの、
日本のお
國を
愛しますか。』と
問ふと
少年は
元氣よく
『あ、
私は
日本が
大好きなんですよ、
日本へ
皈りたくつてなりませんの
[#「なりませんの」は底本では「なりせまんの」]、でねえ、
毎日/\
日の
丸の
旗を
立てゝ、
街で
[#「街で」は底本では「街て」]戰爭事をしますの、
爾してねえ、
日の
丸の
旗は
強いのですよ、
何時でも
勝つてばつかり
居ますの。』
『おゝ、
左樣でせうとも/\。』と
私は
餘りの
可愛さに
少年を
頭上高く
差し
上げて、
大日本帝國萬歳と
※[#「口+斗」、8-11]ぶと、
少年も
私の
頭の
上で
萬歳々々と
小躍をする。
濱島は
浩然大笑した、
春枝夫人は
眼を
細うして
『あら、
日出雄は、ま、どんなに

しいんでせう。』と
言つて、
紅のハンカチーフに
笑顏を
蔽ふた。
第二回
魔の
日魔の
刻
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
それから
談話にはまた
一段の
花が
咲いて、
日永の五
月の
空もいつか
夕陽が
斜に
射すやうにあつたので、
私は
一先づ
暇乞せんと
折を
見て『いづれ
今夜弦月丸にて――。』と
立ちかけると、
濱島は
周章て
押止め
『ま、ま、お
待ちなさい、お
待ちなさい、
今から
旅亭へ
皈つたとて
何になります。
久ぶりの
面會なるを
今日は
足る
程語つて
今夜の
御出發も
是非に
私の
家より。』と
夫人とも/″\
切に
勸めるので、
元來無遠慮勝の
私は、
然らば
御意の
儘にと、
旅亭の
手荷物は
當家の
馬丁を
取りに
使はし、
此處から
三人打揃つて
出發する
事になつた。
いろ/\の
厚き
待遇を
受けた
後、
夜の八
時頃になると、
當家の
番頭手代をはじめ
下婢下僕に
至るまで、
一同が
集つて
送別の
催をする
相で、
私も
招かれて
其席へ
連なつた。
春枝夫人は
世にすぐれて
慈愛に
富める
人、
日出雄少年は
彼等の
間に
此上なく
愛重せられて
居つたので、
誰とて
袂別を
惜まぬものはない、
然し
主人の
濱島は
東洋の
豪傑風で、
泣く
事などは
大厭の
性質であるから
一同は
其心を
酌んで、
表面に
涙を
流す
者などは
一人も
無かつた。イヤ、
茲に
只一人特別に
私の
眼に
止つた
者があつた。それは
席の
末座に
列つて
居つた
一個の
年老たる
伊太利の
婦人で、
此女は
日出雄少年の
保姆にと、
久しき
以前に、
遠き
田舍から
雇入れた
女の
相で、
背の
低い、
白髮の、
極く
正直相な
老女であるが、
前の
程より
愁然と
頭を
埀れて、
丁度死出の
旅路に
行く
人を
送るかの
如く、
頻りに
涙を
流して
居る。
私は
何故ともなく
異樣に
感じた。
『オヤ、
亞尼がまた
詰らぬ
事を
考へて
泣いて
居りますよ。』と、
春枝夫人は
良人の
顏を
眺めた。
頓て、
此集會も
終ると、十
時間近で、いよ/\
弦月丸へ
乘船の
時刻とはなつたので、
濱島の
一家族と、
私とは
同じ
馬車で、
多の
人に
見送られながら
波止塲に
來り、
其邊の
或茶亭に
休憇した、
此處で
彼等の
間には、それ/\
袂別の
言もあらうと
思つたので、
私は
氣轉よく
一人離れて
波打際へと
歩み
出した。
此時にふと
心付くと、
何者か
私の
後にこそ/\と
尾行して
來る
樣子、オヤ
變だと
振返る、
途端に
其影は
轉ぶが
如く
私の
足許へ
走り
寄つた。
見ると、こは
先刻送別の
席で、
只一人で
泣いて
居つた
亞尼と
呼べる
老女であつた。
『おや、お
前は。』と
私は
歩行を
止めると、
老女は
今も
猶ほ
泣きながら
『
賓人よ、お
願ひで
厶ります。』と
兩手を
合せて
私を
仰ぎ
見た。
『お
前は
亞尼とか
云つたねえ、
何の
用かね。』と
私は
靜かに
問ふた。
老女は
虫のやうな
聲で『
賓人よ。』と
暫時私の
顏を
眺めて
居つたが
『あの、
妾の
奧樣と
日出雄樣とは
今夜の
弦月丸で、
貴方と
御同道に
日本へ
御出發になる
相ですが、それを御
延べになる
事は
出來ますまいか。』と
恐る/\
口を
開いたのである。ハテ、
妙な
事を
言ふ
女だと
私は
眉を
顰めたが、よく
見ると、
老女は、
何事にか
痛く
心を
惱まして
居る
樣子なので、
私は
逆らはない
『
左樣さねえ、もう
延ばす
事は
出來まいよ。』と
輕く
言つて
『
然し、お
前は
何故其樣に
嘆くのかね。』と
言葉やさしく
問ひかけると、
此一言に
老女は
少しく
顏を
擡げ
『
實に
賓人よ、
私はこれ
程悲しい
事はありません。はじめて
奧樣や
日出雄樣が、
日本へお
皈りになると
承つた
時は
本當に
魂消えましたよ、
然しそれは
致方もありませんが、
其後よく
承ると、
御出帆の
時日は
時もあらうに、
今夜の十一
時半……。』といひかけて
唇をふるはし
『あの、あの、
今夜十一
時半に
御出帆になつては――。』
『
何、
今夜の
船で
出發すると
如何したのだ。』と
私は
眼を

つた。
亞尼は
胸の
鏡に
手を
當てゝ
『
私は
神樣に
誓つて
申しますよ、
貴方はまだ
御存じはありますまいが、
大變な
事があります。
此事は
旦那樣にも
奧樣にも
毎度か
申上げて、
何卒今夜の
御出帆丈けは
御見合せ
下さいと
御願ひ
申したのですが、
御兩方共たゞ
笑つて「
亞尼や
其樣に
心配するには
及ばないよ。」と
仰せあるばかり、
少しも
御聽許にはならないのです。けれど
賓人よ、
私はよく
存じて
居ります、
今夜の
弦月丸とかで
御出發になつては、
奧樣も、
日出雄樣も、
决して
御無事では
濟みませんよ。』
『
無事で
濟まんとは――。』と
私は
思はず
釣込まれた。
『はい、
决して
御無事には
濟みません。』と、
亞尼は
眞面目になつた、
私の
顏を
頼母し
氣に
見上げて
『
私は
貴方を
信じますよ、
貴方は
决してお
笑ひになりますまいねえ。』と
前置をして
斯う
言つた。
『
ウルピノ山の
聖人の
仰つた
樣に、
昔から
色々の
口碑のある
中で、
船旅程時日を
選ばねばならぬものはありません、
凶日に
旅立つた
人は
屹度災難に
出逢ひますよ。これは
本當です、
現に
私の
一人の
悴も、七八
年以前の
事、
私が
切に
止めるのも
聽かで、十
月の
祟の
日に
家出をしたばかりに、
終に
世に
恐ろしい
海蛇に
捕られてしまいました。
私にはよく
分つて
居ますよ。
奧樣とて
日出雄樣とて
今夜御出帆になつたら
决して
御無事では
濟みません、はい、
其理由は、
今日は五
月の十六
日で
魔の
日でせう、
爾して、
今夜の十一
時半といふは、
何んと
恐ろしいでは
御座いませんか、
魔の
刻限ですもの。』
私は
聽きながらプツと
吹き
出す
處であつた。けれど
老女は
少しも
構はず
『
賓人よ、
笑ひ
事ではありませぬ、
魔の
日魔の
刻といふのは、
一年中でも
一番に
不吉な
時なのです、
他の
日の
澤山あるのに、
此日、
此刻限に
御出帆になるといふのは
何んの
因果でせう、
私は
考へると
居ても
立つても
居られませぬ。
其上、
私は
懇意の
船乘さんに
聞いて
見ますと、
今度の
航海には、
弦月丸に
澤山の
黄金と
眞珠とが
積入れてあります
相な、
黄金と
眞珠とが
波の
荒い
海上で
集ると、
屹度恐ろしい
祟を
致します。あゝ、
不吉の
上にも
不吉。
賓人よ、
私の
心の
千分の
一でもお
察しになつたら、どうか
奧樣と
日出雄樣を
助けると
思つて、
今夜の
御出帆をお
延べ
下さい。』と
拜まぬばかりに
手を
合せた。
聽いて
見るとイヤハヤ
無※[#「(禾+尤)/上/日」、22-10]な
話!
西洋でもいろ/\と
縁起を
語る
人はあるが、
此老女のやうなのはまア
珍らしからう。
私は
大笑ひに
笑つてやらうと
考へたが、
待てよ、たとへ
迷信でも、
其主人の
身の
上を
慮ふこと
斯くまで
深く、かくも
眞面目で
居る
者を、
無下に
嘲笑すでもあるまいと
氣付いたので、
込み
上げて
來る
可笑さを
無理に
怺えて
『
亞尼!。』と
一聲呼びかけた。
『
亞尼! お
前の
言ふ
事はよく
分つたよ、
其忠實なる
心をば
御主人樣も
奧樣もどんなにかお
悦びだらう、けれど――。』と
彼女の
顏を
眺め
『けれどお
前の
言ふ
事は、みんな
昔の
話で、
今では
魔の
日も
祟の
日も
無くなつたよ。』
『あゝ、
貴方も
矢張お
笑ひなさるのですか。』と
亞尼はいと
情なき
顏に
眼を
閉ぢた。
『いや、
决して
笑ふのではないが、
其事は
心配するには
及ばぬよ、
奧樣も
日出雄少年も、
私が
生命にかけて
保護して
上げる。』と
言つたが、
亞尼は
殆んど
絶望極りなき
顏で
『あゝ、もう
無益だよ/\。』とすゝり
泣きしながら、
むつくと
立上り
『
神樣、
佛樣、
奧樣と
日出雄樣の
御身をお
助け
下さい。』と
叫んだ
儘、
狂氣の
如くに
走り
去つた。
丁度此時、
休憩所では
乘船の
仕度も
整つたと
見へ、
濱島の
頻りに
私を
呼ぶ
聲が
聽えた。
第三回
怪の
船
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色の檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
春枝夫人と、
日出雄少年と、
私とが、
多の
身送人に
袂別を
告げて、
波止塲から
凖備の
小蒸
船で、
遙かの
沖合に
停泊して
居る
弦月丸に
乘組んだのは
其夜十
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、25-2]ぎ三十
分。
濱島武文と、
他に
三人の
人は
本船まで
見送つて
來た。
此弦月丸といふのは、
伊太利の
東方
船會社の
持船で、
噸數六千四百。二
本の
煙筒に四
本檣の
頗る
巨大な
船である、
此度支那及び
日本の
各港へ
向つての
航海には、
夥しき
鐵材と、
黄金眞珠等少なからざる
貴重品を
搭載して
居る
相で、
其船脚も
餘程深く
沈んで
見えた。
弦月丸の
舷梯へ
達すると、
私共の
乘船の
事は
既に
乘客名簿で
分つて
居つたので、
船丁は
走つて
來て、
急はしく
荷物を
運ぶやら、
接待員は
恭しく
帽を
脱して、
甲板に
混雜せる
夥多の
人を
押分るやらして、
吾等は
導かれて
船の
中部に
近き一
等船室に
入つた。どの
船でも
左樣だが、
同じ
等級の
船室の
中でも、
中部の
船室は
最も
多く
人の
望む
所である。
何故かと
言へば
航海中船の
動搖を
感ずる
事が
比較的に
少ない
爲で、
此室を
占領する
爲には
虎鬚の
獨逸人や、
羅馬風の
鼻の
高い
佛蘭西人等に
隨分競爭者が
澤山あつたが、
幸にも
ネープルス市中で「
富貴なる
日本人。」と
盛名隆々たる
濱島武文の
特別なる
盡力があつたので、
吾等は
遂に
此最上の
船室を
占領する
事になつた。
加ふるに
春枝夫人、
日出雄少年の
部室と
私の
部室とは
直ぐ
隣合つて
居つたので
萬事に
就いて
都合が
宜からうと
思はるゝ。
私は
元來膝栗毛的の
旅行であるから、
何も
面倒はない、
手提革包一個を
船室の
中へ
投込んだまゝ
直ぐ
春枝夫人等の
船室へ
訪づれた。
此時夫人は
少年を
膝に
上せて、
其良君や
他の
三人を
相手に
談話をして
居つたが、
私の
姿を
見るより
『おや、もうお
片附になりましたの。』といつて
嬋娟たる
姿は
急ぎ
立ち
迎へた。
『なあに、
柳川君には
片附けるやうな
荷物もないのさ。』と
濱島は
聲高く
笑つて『さあ。』とすゝめた
倚子によつて、
私も
此仲間入。
最早袂別の
時刻も
迫つて
來たので、いろ/\の
談話はそれからそれと
盡くる
間も
無かつたが、
兎角する
程に、ガラン、ガラ、ガラン、ガラ、と
船中に
布れ
廻る
銅鑼の
響が
囂しく
聽えた。
『あら、あら、あの
音は――。』と
日出雄少年は
眼をまん
丸にして
母君の
優しき
顏を
仰ぐと、
春枝夫人は
默然として、
其良君を
見る。
濱島武文は
靜かに
立上つて
『もう、
袂別の
時刻になつたよ。』と
他の
三人を
顧見た。
すべて、
海上の
規則では、
船の
出港の十
分乃至十五
分前に、
船中を
布れ
廻る
銅鑼の
響の
聽ゆると
共に
本船を
立去らねばならぬのである。で、
濱島は
此時最早此船を
去らんとて
私の
手を
握りて
袂別の
言葉厚く、
夫人にも
二言三言云つた
後、その
愛兒をば
右手に
抱き
寄せて、
其房々とした
頭髮を
撫でながら
『
日出雄や、
汝と
父とは、
之から
長時の
間別れるのだが、
汝は
兼々父の
言ふやうに、
世に
俊れた
人となつて――
有爲な
海軍士官となつて、
日本帝國の
干城となる
志を
忘れてはなりませんよ。』と
言ひ
終つて、
少年が
默つて
點頭くのを
笑まし
氣に
打ち
見やりつゝ、
他の
三人を
促して
船室を
出た。
先刻は
見送られた
吾等は
今は
彼等を
此船より
送り
出さんと、
私は
右手に
少年を
導き、
流石に
悄然たる
春枝夫人を
扶けて
甲板に
出ると、
今宵は
陰暦十三
夜、
深碧の
空には一
片の
雲もなく、
月は
浩々と
冴え
渡りて、
加ふるに
遙かの
沖に
停泊して
居る三四
艘の
某國軍艦からは、
始終探海電燈をもつて
海面を
照して
居るので、
其明なる
事は
白晝を
欺くばかりで、
波のまに/\
浮沈んで
居る
浮標の
形さへいと
明に
見える
程だ。
濱島は
船の
舷梯まで
到つた
時、
今一
度此方を
振返つて、
夫人とその
愛兒との
顏を
打眺めたが、
何か
心にかゝる
事のあるが
如く
私に
瞳を
轉じて
『
柳川君、
然らば
之にてお
別れ
申すが、
春枝と
日出雄の
事は
何分にも――。』と
彼は
日頃の
豪壯なる
性質には
似合はぬ
迄、
氣遣はし
氣に、
恰も
何者か
空中に
力強き
腕のありて、
彼を
此塲に
捕へ
居るが
如くいとゞ
立去り
兼ねて
見へた。
之が
俗に
謂ふ
虫の
知らせとでもいふものであらうかと、
後に
思ひ
當つたが、
此時はたゞ
離別の
情さこそと
思ひ
遣るばかりで、
私は
打點頭き『
濱島君よ、
心豐かにいよ/\
榮え
玉へ、
君が
夫人と
愛兒の
御身は、
此柳川の
生命にかけても
守護しまいらすべし。』と
答へると
彼は
莞爾と
打笑み、こも/″\
三人と
握手して、
其儘舷梯を
降り、
先刻から
待受けて
居つた
小蒸
船に
身を
移すと、
小蒸
船は
忽ち
波を
蹴立てゝ、
波止塲の
方へと
歸つて
行く、
其仇浪の
立騷ぐ
邊海鳥二三
羽夢に
鳴いて、うたゝ
旅客の
膓を
斷つばかり、
日出雄少年は
無邪氣である
『あら、
父君は
單獨で
何處へいらつしやつたの、もうお
皈りにはならないのですか。』と
母君の
纎手に
依りすがると
春枝夫人は
凛々しとはいひ、
女心のそゞろに
哀を
催して、
愁然と
見送る
良人の
行方、
月は
白晝のやうに
明だが、
小蒸
船の
形は
次第々々に
朧になつて、
殘る
煙のみぞ
長き
名殘を
留めた。
『
夫人、すこし、
甲板の
上でも
逍遙して
見ませうか。』と
私は
二人を
誘つた。かく
氣の
沈んで
居る
時には、
賑はしき
光景にても
眺めなば、
幾分か
心を
慰むる
因ともならんと
考へたので、
私は
兩人を
引連れて、
此時一
番に
賑はしく
見えた
船首の
方へ
歩を
移した。
最早、
出港の
時刻も
迫つて
居る
事とて、
此邊は
仲々の
混雜であつた。
輕き
服裝せる
船丁等は
宙になつて
驅けめぐり、
逞ましき
骨格せる
夥多の
船員等は
自己が
持塲/\に
列を
作りて、
後部の
舷梯は
既に
引揚げられたり。
今しも
船首甲板に
於ける
一等運轉手の
指揮の
下に、はや一
團の
水夫等は
捲揚機の
周圍に
走せ
集つて、
次の一
令と
共に
錨鎖を
卷揚げん
身構。
船橋の
上にはビール
樽のやうに
肥滿した
船長が、
赤き
頬髯を
捻りつゝ
傲然と四
方を
睥睨して
居る。
私は
三々五々群をなして、
其處此處に
立つて
居る、
顏色の
際立つて
白い
白耳義人や、「コスメチツク」で
鼻髯を
劍のやうに
塗り
固めた
佛蘭西の
若紳士や、あまりに
酒を
飮んで
酒のために
鼻の
赤くなつた
獨逸の
陸軍士官や、
其他美人の
標本ともいふ
可き
伊太利の
女俳優や、
色の
無暗に
黒い
印度邊の
大富豪の
船客等の
間に
立交つて、
此目醒ましき
光景を
見廻しつゝ、
春枝夫人とくさ/″\の
物語をして
居つたが、
此時不意にだ、
實に
不意に
私の
背部で、『や、や、や、しまつたゾ。』と
一度に
※[#「口+斗」、32-5]ぶ
水夫の
聲、
同時に
物あり、
甲板に
落ちて
微塵に
碎けた
物音のしたので、
私は
急ぎ
振返つて
見ると、
其處では
今しも、二三の
水夫が
滑車をもつて
前檣高く
掲げんとした
一個の
白色燈――それは
船が
航海中、
安全進航の
表章となるべき
球形の
檣燈が、
何かの
機會で
糸の
縁を
離れて、
檣上二十
呎ばかりの
所から
流星の
如く
落下して、あはやと
言ふ
間に
船長が
立てる
船橋に
衝つて、
燈は
微塵に
碎け、
燈光はパツと
消える、
船長驚いて
身を
躱す
拍子に
足踏滑らして、
船橋の
階段を二三
段眞逆に
落ちた。
水夫共は『あツ』とばかり
顏の
色を
變た。
船長は
周章てゝ
起上つたが、
怒氣滿面、けれど
自己が
醜態に
怒る
事も
出來ず、ビール
樽のやうな
腹に
手を
當てゝ、
物凄い
眼に
水夫共を
睨み
付けると、
此時私の
傍には
鬚の
長い、
頭の
禿た、
如何にも
古風らしい
一個の
英國人が
立つて
居つたが、
此活劇を
見るより、
ぶるぶると
身慄して
『あゝ、あゝ、
縁起でもない、
南無阿彌陀佛!
此船に
惡魔が
魅て
居なければよいが。』と
呟いた。
えい。また
御幣擔ぎ!
今日は
何んといふ
日だらう。
勿論、
此樣事には
何も
深い
仔細のあらう
筈はない。つまり
偶然の
出來事には
相違ないのだが、
私は
何となく
異樣に
感じたよ。
誰でも
左樣だが、
戰爭の
首途とか、
旅行の
首途に
少しでも
變な
事があれば、
多少氣に
懸けずには
居られぬのである。
特に
我弦月丸は
今や
萬里の
波濤を
志して、
音に
名高き
地中海、
紅海、
印度洋等の
難所に
進み
入らんとする
其首途に、
船が
安全航行の
表章となるべき
白色檣燈が
微塵に
碎けて、
其燈光は
消え、
同時に、
此船の
主長ともいふべき
船長が
船橋より
墮落して、
心の
不快を
抱き、
顏に
憤怒の
相を
現はしたなど、
或意味からいふと、
何か
此弦月丸に
禍の
起る
其前兆ではあるまいかと、どうも
好い
心持はしなかつたのである。
無論此樣な
妄想は、
平生ならば
苦もなく
打消されるのだが、
今日は
先刻から
亞尼が、
魔の
日だの
魔の
刻だのと
言つた
言葉や、
濱島が
日頃に
似ぬ
氣遣はし
氣なりし
樣子までが、
一時に
心に
浮んで
來て、
非常に
變な
心地がしたので、
寧ろ
此塲を
立去らんと、
春枝夫人を
見返へると、
夫人も
今の
有樣と
古風なる
英國人の
獨言には
幾分か
不快を
感じたと
見へ
『あの
艫の
方へでもいらつしやいませんか。』と
私を
促しつゝ
蓮歩を
彼方へ
移した。
頓て
船尾の
方へ
來て
見ると、
此處は
人影も
稀で、
既に
洗淨を
終つて、
幾分の
水氣を
帶びて
居る
甲板の
上には、
月の
色も
一段と
冴渡つて
居る。
『
矢張靜かな
所が
宜う
厶いますねえ。』と
春枝夫人は
此時淋しき
笑を
浮べて、
日出雄少年と
共にずつと
船端へ
行つて、
鐵欄に
凭れて
遙かなる
埠頭の
方を
眺めつゝ
『
日出雄や、あの
向ふに
見える
高い
山を
覺えておいでかえ。』と
住馴れし
子ープルス市街の
東南に
聳ゆる
山を
指すと、
日出雄少年は
『
モリス山でせう、
私はよつく
覺えて
居ますよ。』とパツチリとした
眼で
母君の
顏を
見上げた。
『おゝ、それなら、あの
電氣燈が
澤山に
輝いて、
大きな
煙筒が五
本も六
本も
並んで
居る
處は――。』
『
サンガロー街――おつかさん、
私の
家も
彼處にあるんですねえ。』と
少年は
兩手を
鐵欄の
上に
載せて
『
父君はもう
家へお
皈りになつたでせうか。』
『おゝ、お
皈りになりましたとも、そして
今頃は、あの
保姆や、
番頭の
スミスさんなんかに、お
前が
温順しくお
船に
乘つて
居る
事を
話していらつしやるでせう。』と
言葉やさしく
愛兒の
房々せる
頭髮に
玉のやうなる
頬をすり
寄せて、
餘念もなく
物語る、これが
夫人の
爲めには、
唯一の
慰であらう。かゝる
優しき
振舞を
妨ぐるは、
心なき
業と
思つたから、
私は
態と
其處へは
行かず、
少し
離れてたゞ
一人安樂倚子の
上へ
身を
横へて、
四方の
風景を
見渡すと、
今宵は
月明かなれば、さしもに
廣き
ネープルス灣も
眼界到らぬ
隈はなく、おぼろ/\に
見ゆる
イスチヤの
岬には
廻轉燈明臺の
見えつ、
隱れつ、
天に
聳ゆる
モリス山の
頂にはまだ
殘の
雪の
眞白なるに、
月の
光のきら/\と
反射して
居るなど
得も
言はれず、
港内は
電燈の
光煌々たる
波止塲の
附近からずつと
此方まで、
金龍走る
波の
上には、
船艦浮ぶ
事幾百艘、
出る
船、
入る
船は
前檣に
白燈、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈の
海上法を
守り、
停泊まれる
船は
大鳥の
波上に
眠るに
似て、
丁度夢にでもあり
相な
景色!
私は
此樣な
風景は
今迄に
幾回ともなく
眺めたが、
今宵はわけて
趣味ある
樣に
覺えたので
眼も
放たず、それからそれと
眺めて
行く
内、ふと
眼に
止つた一つの
有樣――それは
此處から五百
米突ばかりの
距離に
停泊して
居る一
艘の
蒸
船で、
今某國軍艦からの
探海燈は
其邊を
隈なく
照して
居るので、
其甲板の
裝置なども
手に
取るやうに
見える、
此船噸數一千
噸位、
船體は
黒色に
塗られて、
二本煙筒に
二本檣、
軍艦でない
事は
分つて
居るが、
商船か、
郵便船か、
或は
他に
何等かの
目的を
有して
居る
船か
夫は
分らない。
勿論、
外形に
現れても
何も
審しい
點はないが、
少しく
私の
眼に
異樣に
覺えたのは、
總噸數一千
噸位にしては
其構造の
餘りに
堅固らしいのと、また
其甲板の
下部には
數門の
大砲等の
搭載て
居るのではあるまいか、
其船脚は
尋常ならず
深く
沈んで
見える。
今や
其二本の
烟筒から
盛んに
黒煙を
吐いて
居るのは
既に
出港の
時刻に
達したのであらう、
見る/\
船首の
錨は
卷揚げられて、
徐々として
進航を
始めた。
私は
何氣なく
衣袋を
探つて、
双眼鏡を
取出し、
度を
合せて
猶ほよく
其甲板の
工合を
見やうとする、
丁度此時先方の
船でも、
一個の
船員らしい
男が、
船橋の
上から
一心に
双眼鏡を
我が
船に
向けて
居つたが、
不思議だ、
私の
視線と
彼方の
視線とが
端なくも
衝突すると、
忽ち
彼男は
双眼鏡をかなぐり
捨てゝ、
乾顏に
横を
向いた。
其擧動のあまりに
奇怪なので
私は
思はず
小首を
傾けたが、
此時何故とも
知れず
偶然にも
胸に
浮んで
來た
一つの
物語がある。それは
忘れもせぬ
去年の
秋の
事で、
私が
米國から
歐羅巴へ
渡る
航海中で、ふと
一人の
英國の
老水夫と
懇意になつた。
其[#ルビの「その」は底本では「たの」]老水夫がいろ/\の
興味ある
話の
中で、
最も
深く
私の
心に
刻まれて
居るのは、
世に
一番に
恐ろしい
航路は
印度洋だとうふ
物語、
亞弗利加洲の
東方、
マダカッスル島からも
餘程離れて、
世の
人は
夢にも
知らない
海賊島といふのがある
相だ、
無論世界地圖には
見る
事の
出來ぬ
孤島であるが、
其處には
獰猛鬼神を
欺く
數百の
海賊が
一團體をなして、
迅速堅固なる七
艘の
海賊船を
浮べて、
絶えず
其邊の
航路を
徘徊し、
時には
遠く
大西洋の
[#「大西洋の」は底本では「太西洋の」]沿岸までも
船を
乘出して、
非常に
貴重な
貨物を
搭載した
船と
見ると、
忽ち
之を
撃沈して、
惡む
可き
慾を
逞ましうして
居るとの
話。
而して
歐米の
海員仲間では、
此事を
知らぬでもないが、
如何にせん、
此海賊團體の
狡猾なる
事は
言語に
絶えて、
其來るや
風の
如く、
其去るも
亦た
風の
如く。
海賊共は
如何にして
探知するものかは
知らぬが
其覬ひ
定める
船は、
常に
第一
等の
貴重貨物を
搭載して
居る
船に
限る
代りに、
滅多に
其形を
現はさぬ
爲と、
今一つには
此海賊輩は
何時の
頃よりか、
利をもつて
歐洲の
某強國と
結托して、
年々五千
萬弗に
近い
賄賂を
納めて
居る
爲に、
却つて
隱然たる
保護を
受け、
折ふし
其船が
貿易港に
停泊する
塲合には
立派な
國籍を
有する
船として、
其甲板には
該強國の
商船旗を
飜して、
傍若無人に
振舞つて
居る
由、
實に
怪しからぬ
話である。
私は
今、
二本煙筒二本檣の
不思議なる
船を
見て、
神經の
作用かは
知らぬがふと
思ひ
浮んだ
此話、
若しかの
老水夫の
言が
眞實ならば、
此樣な
船ではあるまいか、
其海賊船といふのは、
兎に
角氣味の
惡い
事だと
思つて
居る
内に、
怪の
船はだん/\と
速力を
増して、
我弦月丸の
左方を
掠めるやうに
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、41-4]る
時、
本船より
射出する
船燈の
光で
チラと
認めたのは
其船尾に
記されてあつた「
海蛇丸」の三
字、「
海蛇丸」とはたしかにかの
船の
名稱である。
見る/\
内に
波を
蹴立てゝ、
蒼渺の
彼方に
消え
去た。
『あゝ、
妙だ/\、
今日は
何故此樣に
不思議な
事が
續くのだらう。』と
私は
思はず
叫んだ。
『おや、
貴方如何かなすつて。』と
春枝夫人は
日出雄少年と
共に
驚いて
振向いた。
『
夫人!』と
私は
口を
切つたが、
待てよ、
今の
塲合に
此樣な
話――
寧ろ
私一個人の
想像に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、42-1]ぎない
事を
輕々しく
語つて、
此美はしき
人の、
優しき
心を
痛めるでもあるまい、と
心付いたので
『いや、
何でもありませんよ、あはゝゝゝ。』と
態と
聲高く
笑つた。
丁度此時、
甲板には十一
時半を
報ずる七
點鐘が
響いて、
同時にボー、ボー、ボーツと
恰も
獅子の
吼ゆるやうな
笛の
響、それは
出港の
相圖で、
吾等の
運命を
托する
弦月丸は、
遂に
徐々として
進航をはじめた。
第四回
反古の
新聞
葉卷烟草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水夫――奇妙な新體詩――秘密の大發明――二點鐘カヽン々々
灣口を
出づるまで、
私は
春枝夫人と
日出雄少年とを
相手に
甲板上に
佇んで、
四方の
景色を
眺めて
居つたが、
其内に
ネープルス港の
燈光も
微かになり、
夜寒の
風の
身に
染むやうに
覺えたので、
遂に
甲板を
降つた。
夫人と
少年とを
其船室に
送つて、
明朝を
契つて
自分の
船室に
歸つた
時、
八點鐘の
號鐘はいと
澄渡つて
甲板に
聽えた。
『おや、もう十二
時!』と
私は
獨語した。
既に
夜深く、
加ふるに
當夜は
浪穩にして、
船に
些の
動搖もなければ、
船客の
多數は
既に
安き
夢に
入つたのであらう、たゞ
蒸
機關の
響のかまびすしきと、
折々當番の
船員が
靴音高く
甲板に
往來するのが
聽ゆるのみである。
私は
衣服を
更めて
寢臺に
横つたが、
何故か
少しも
眠られなかつた。
船室の
中央に
吊してある
球燈の
光は
煌々と
輝いて
居るが、どうも
其邊に
何か
魔性でも
居るやうで、
空氣は
頭を
壓へるやうに
重く、
實に
寢苦しかつた。
諸君も
御經驗であらうが
此樣な
時にはとても
眠られるものではない、
氣を
焦てば
焦つ
程眼は
冴えて
胸にはさま/″\の
妄想が
往來する。
私は
思ひ
切つて
再び
起上つた。
喫烟室へ
行くも
面倒なり、
少し
船の
規則の
違反ではあるが、
此室で
葉卷でも
燻らさうと
思つて
洋服の
衣袋を
探りて
見たが一
本も
無い、
不圖思ひ
出したのは
先刻ネープルス港を
出發のみぎり、
濱島の
贈つて
呉れた
數ある
贈物の
中、四
角な
新聞包は、
若しや
煙草の
箱ではあるまいかと
考へたので、
急ぎ
開いて
見ると
果然最上の
葉卷! 『しめたり。』と
火を
點じて、スパスパやりながら
餘念もなく
其邊を
見廻して
居る
内、
見ると
今葉卷の
箱の
包んであつた
新聞紙。
『オヤ、
日本の
新聞だよ。』と
私は
思はず
取上げた。
本國を
出でゝから二
年間、
旅から
旅へと
遍歴して
歩く
身は、
折々日本の
公使館や
領事館で、
本國の
珍らしき
事件を
耳にする
外は、
日本の
新聞などを
見る
事は
極めて
稀であるから、
私は
實に
懷かしく
感じた。
急ぎ
皺を
延して
見ると、これは
既に一
年半も
前の
東京の
某新聞であつた。一
年半も
前といへば
私がまだ
亞米利加の
大陸に
滯在して
居つた
時分の
事で、
隨分古い
新聞ではあるが、
古くつても
何んでもよい、
故郷懷かしと
思ふ一
念に、
眼も
放たず
讀んでゆく
内、
忽ち
眼に
着いた一
段の
記事があつた。それは
本紙第二
面の
左の
如き
雜報であつた。
◎
櫻木豫備海軍大佐の行衞==
讀者は
記臆せらる
可し、
先年一
種の
強力なる
爆發藥を
發明し、つゞいて
浮標水雷、
花環榴彈等二三の
軍器に
有功なる
改良を
施したるを
以て、
海軍部内に
其人ありと
知られたる
豫備海軍大佐櫻木重雄氏は一
昨年英國に
遊び
歸朝以來深く
企つる
所あり、
驚く
可き
軍事上の
大發明をなして、
我國々防上に
貢獻する
處あらんと、
兼て
工夫慘憺の
由仄に
耳にせしが、
此度いよ/\
機熟しけん、
或は
他に
慮る
處ありてにや、
本月初旬横濱の
某商船會社より
浪の
江丸といへる一
大帆走船を
購ひ、
密かに
糧食、
石炭、
氣發油、
※卷蝋[#「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、46-5]、
鋼索、
化學用の
諸劇藥、
其他世人の
到底豫想し
難き
幾多の
材料を
蒐集中なりしが、
何時とも
吾人の
氣付かぬ
間に
其姿を
隱しぬ。
櫻木大佐が
其姿を
隱すと
共にかの
帆走船も
其停泊港に
在らずなり、
併せて
大佐が
年來の
部下として
神の
如く
親の
如くに
氏に
服從せる三十七
名の
水兵も
其姿を
失ひたりといへば、
想ふに
大佐は
暗夜に
乘じて、
竊かに
其部下を
引連れ
本邦をば
立去りしものならん、
此事は
海軍部内に
於ても
極めて
秘密とする
處にして、
何人も
其行衞を
知る
者なし、
只心當りとも
云ふ
可きは、
昨夕横濱に
入港せし
英國の
某郵船は四五
日前の
夜半、
北ボル子ヲ島附近にて
日本の
國旗を
掲げし一
大帆走船を
認めし
由にて、
其船の
形状等恰も
大佐の
帆走船に
似寄りたる
處あれば、
氏は
其航路を
取りて
支那海を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、47-3]ぎ
印度洋の
方面に
進みしにあらずやとの
疑あり、
元より
氏が
今回の
企圖は
秘中の
秘事にして、
到底測知し
得可きにあらざれども、
兎にも
角にも
非凡の
智能と
遠大の
目的とを
有する
氏の
事なれば、
何時意外の
方面より
意外の
大功績を
齎らして
再び
吾人の
眼前に
現はれ
來るやも
知る
可からず、
刮目して
待つ
可きなり。==
云々。
何等の
關係はなくとも、
斯かる
記事を
讀んだ
人は
多少心を
動かすであらう。
殊に
私は
櫻木海軍大佐とは
面識の
間柄で、
數年前の
事、
私がまだ
今回の
漫遊に
上らぬ
以前、ある
夏、
北海道旅行を
企てた
時、
横濱から
凾館へ
赴く
船の
中で、
圖らずも
大佐と
對面した
事がある。
其頃大佐は
年輩三十二三、
威風凛々たる
快男子で、
其眼光の
烱々たると、
其音聲の
朗々たるとは、
如何にも
有爲の
氣象と
果斷の
性質に
富んで
居るかを
想はしめた。
其人今や
新聞の
題目となつて
世人の
審る
旅路に
志したといふ、
其行先は
何地であらう、
其目的は
何であらう。
軍事上の
大發明――一
大帆走船――三十七
名の
水兵――
化學用藥品、
是等から
思ひ
合せると
朧ながらも
想像の
出來ぬ
事はない。
今や
世界の
各國は
互に
兵を
練り
武を
磨き、
特に
海軍力には
全力を
盡して
英佛露獨、
我劣らじと
權勢を
爭つて
居る、
而して
目今其權力爭議の
中心點は
多く
東洋の
天地で、
支那の
如き
朝鮮の
如きは
絶えず
其侵害を
蒙りつゝある、
此時に
當つて、
東洋の
覇國ともいふ
可き
我大日本帝國は
其負ふ
處實に
重く一
方東洋の
平和を
保たんが
爲め、
他方少くとも
我國の
威信を
存せんが
爲めには
非常の
决心と
實力とを
要するのである。
然るも
我國の
財源には
限あり、
兵船の
増加にも
限度あり、
國を
思ふの
士は
日夜此事に
憂慮し、
絶えず
此點に
向つて
策を
講じて
居る。
櫻木海軍大佐は
元來愛國慷慨の
人、
甞て
北海の
船で
面會した
時も、
談話爰に
及んだ
時、
彼はふと
衣袋の
底を
探つて、
昨夜旅亭の
徒然に
作つたのだと
言つて、一
篇の
不思議な
新體詩を
示された。
猛き
武人の
風流の
道は、また
格別に
可笑しいではないか。
其詩は
斯うだ。
月高く、
風は
寢れる
印度洋。
鏡の
如き
海の
面に。
俄に
起る
水けぶり。
鯨
は
吼え、
龍跳る※
[#感嘆符三つ、49-9]
見よ、
巨浪は
怒りて
天を

き。
黒雲低く
海に
埀る。
閃くは
電か、
轟くは
雷か。
砲火閃々、
砲聲殷々。
見よ、
硝煙の
裡をぬけ。
月の
光を
耻ぢ
顏に。
波濤を
蹴りて
數百の。
艨艟旗を
捲きて
北ぐ。
逃るゝ
鯨
、
追ひ
行く
飛龍!。
飛龍は
勇み
鯨
は。
青息ならぬ
黒烟を。
吐きて
影をば
隱しけり。
かの
鯨
ぞ、
天の
涯。 はた
地の
角に
至る
迄。
凡そ
波濤の
打つところ。
凡そ
珍寳の
在るところ。
山なす
浪を
船となし。
千里の
風を
帆となして。
跳梁跋扈厭き
足らぬ。 かの
歐洲の
聯合艦隊※
[#感嘆符三つ、50-8]
飛龍[#ルビの「ひりう」は底本では「ひりよう」]は
何ぞ、
東洋の。
鎖鑰を
握る
日出の。
光を
海に
輝かす。
其名も
高き
日本艦隊※
[#感嘆符三つ、50-10]
それ
日本は
東洋の。
飛龍に
似たる
一小邦。
それ
歐洲は、
鯨よりも。 はた

よりも
最猛き。
宇内を
睥睨む。
一大洲。
いぶかしや。
大は
破れて、
小は
勝つ。
何故ぞ
聽け。
敗將の
言ふところ。
彼れ
艦橋に
昇り
行き。
星を
仰ぎて
嘆ずらく。
我に
百萬の
巨艦あり。
雲霞の
如き
將士あり。
砲あり。
劔あり。
火藥あり。
何ぞ
恐れむ
日本海軍。
秋の
木の
葉の
散る
如く。
海屑となさん
勢に。
進むや、
英、
佛、
獨、
露艦。
思ひきや。
日本に
不思議の
魔力あり。
これ。
俄砲か。 あらず。
シエルブルの
水雷艇か。 あらず。
未だ
見ず。
未だ
聞かざる
大軍器※
[#感嘆符三つ、52-6]
風のごとく
來り。
風のごとく
去り。
鯱の
魚群を
追ふ
如く。
エレキの
物を
打つごとく。
見よ、
我艦隊を
粉韲く、
電光石火の
大魔力※
[#感嘆符三つ、52-9]
あゝ、
恐るべし。
恐るべし。
龍は
眠れる
日本海。
黒雲飛べる
東洋の。
空を
劈く
日の
光。
海に
潜める
大軍器※
[#感嘆符三つ、53-2]
と
言ふ
樣な
文句で、
隨分奇妙な、
恐らくは
新派先生一派から
税金を
徴收に
來さうな
詩ではあつたが、
月明に、
風清き
船の
甲板にて、
大佐軍刀の
柄を
後部に
廻し、
其朗々たる
音聲にて、
誦じ
來り
誦し
去つた
時には、
私は
思はず
快哉を
※[#「口+斗」、53-6]んだよ。
勿論、
其時は
別に
心にも
留めなかつたが、
今になつて
初めて
それと思ひ
當る
節の
無いでもない。
何は
兎もあれ
此反古新聞の
記事によると、
櫻木海軍大佐が
此秘密なる
旅行を
企てたのは
既に一
年半も
以前の
事で、
前にもいふ
通り
私がまだ
亞米利加の
[#「亞米利加の」は底本では「亞利利加の」]大陸を
漫遊して
居つた
時分の
事で、
其後、
私は
絶えず
旅から
旅へと
遍歴して
居つたので、
此珍聞を
知つたのも
今が
初てであるが、あゝ、
大佐は
其後如何にしたであらう、
遂に
其目的を
達して
再び
日本へ
歸つたであらうか。
櫻木海軍大佐は
其性質からいつても、かゝる
擧動に
出でたのは
大に
期する
所があつたに
相違ない。
爾してかれは一
度企てた
事は
其目的を
達するまでは
止まぬ
人であるから、
大佐が
再び
此世に
現はれて
來る
時には
必ず
絶大の
功績を
齎らして
來る
事は
疑もない、されば
櫻木大佐が
再び
日本へ
皈つたものとすれば、
其勳功は
日月よりも
明かに
輝きて、
如何に
私が
旅から
旅へと
經廻つて
居るにしても
其風聞の
耳に
達せぬ
事はあるまい、
然るに
今日まで
幾度か
各國市府の
日本公使館や
領事館を
訪づれたが、一
度もそれと
覺しき
消息を
耳にせぬのは、
大佐は
其行衞を
晦ましたまゝ
未だ
世に
現はれて
來ぬ
何よりの
證據。あゝ、
大佐は
其後何處に
如何して
居るだらうと
考へるとまた
種々の
想像も
沸いて
來る。
此時第二
點鐘カン、カンと
鳴る。(
(船中の號鐘は一點鐘より八點鐘まで四時間交代なり))
『おや、とう/\一
時になつた。』と
私は
欠伸した。
何時まで
考へて
居つたとて
際限のない
事、
且つは
此樣に
夜を
更かすのは
衞生上にも
極めて
愼む
可き
事と
思つたので
私は
現に
想像の
材料となつて
居る
古新聞をば
押丸めて
部室の
片隅へ
押遣り、
強いて
寢臺に
横つた。
初の
間は
矢張頭が
妙で、
先刻と
同じ
樣にいろ/\の
妄想が
消しても
消しても
胸に
浮んで
來て、
魔の
日魔の
刻――
亞尼の
顏――
微塵に
碎けた
白色檣燈――
怪の
船――
双眼鏡などが
更る/\
夢まぼろしと
腦中に
ちらついて來たが、
何時か
晝間の
疲勞に二
時の
號鐘を
聽かぬ
内に
有耶無耶の
夢に
落ちた。
第五回 「ピアノ」と
拳鬪
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の大閉口――曲馬師の虎
翌朝、
銅鑼の
鳴る
音に
驚き
目醒めたのは八
時三十
分で、
海上の
旭光は
舷窓を
透して
鮮明に
室内を
照して
居つた。
船中八
時三十
分の
銅鑼は
通常朝食の
報知である。
『や、
寢※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、56-7]ぎたぞ。』と
急ぎ
飛起き、
衣服を
更め、
櫛髮を
終つて、
急足に
食堂へ
出て
見ると、
壯麗なる
食卓の
正面には
船の
規則として
例のビール
樽船長は
威儀を
正して
着席し、それより
左右の
兩側に、
英、
佛、
獨、
露、
白、
伊等各國の
上等船客は
何れも
美々しき
服裝して
着席せる
其中に
交つて、
美はしき
春枝夫人と
可憐の
日出雄少年との
姿も
見えた。
少年は
私を
見るよりいと
懷かし
氣に
倚子から
立つて『おはよう。』とばかり
可愛らしき
頭を
垂れた。『
好朝。』と
私も
輕く
會釋して
其傍[#ルビの「かたはら」は底本では「からはら」]に
進み
寄り、
何となく
物淋し
氣に
見えた
春枝夫人に
眼を
轉じ
『
夫人、
昨夜は
御安眠になりましたか。』と
問ふと、
夫人は
微かな
笑を
浮べ
『イエ、
此兒はよく
眠りましたが、
私は
船に
馴れませんので。』と
答ふ。さもありぬべし、
雪を
欺く
頬の
邊、
幾分の
蒼色を
帶びたるは、たしかに
睡眠の
足らぬ
事を
證して
居る。
船中朝の
食事は「スープ」の
他冷肉、「ライスカレー」、「カフヒー」それに
香料の
入つた
美麗しき
菓子、
其他「パインアツプル」
等極めて
淡泊な
食事で、それが
濟むと、
日出雄少年は
何より
前に
甲板を
目指して
走つて
行くので、
夫人も
私も
其後に
續いた。
甲板へ
出て
見ると、
弦月丸は
昨夜の
間に
カプリ島の
沖を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、58-1]ぎ、
今は
リコシアの
岬を
斜に
見て
進航して
居る、
季節は五
月の
中旬、
暑からず
寒からぬ
時※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、58-3]、
加ふるに
此邊一
帶の
風光は
宛然たる
畫中の
景で、すでに
水平線上に
高く
昇つた
太陽は
燦爛たる
光を
水に
落して
金波洋々たる
海の
面には
白帆の
影一
點二
點、
其間を
海鴎の
長閑に
群り
飛んで
居る
有樣などは
自然に
氣も
心も
爽かになる
程で、
私は
昨夕以來のさま/″\の
不快の
出來事をば
洗ひ
去つた
樣に
忘れてしまつた。
春枝夫人もいと
晴々しき
顏色で、そよ/\と
吹く
南の
風に
鬢のほつれ
毛を
拂はせながら
餘念もなく
海上を
眺めて
居る。
日出雄少年は
特更に
子供心の
愉快で
愉快で
堪らない、
丁度牧塲に
遊ぶ
小羊のやうに
其處此處となく
飛んで
歩いて、
折々私の
側へ
走つて
來ては
甲板の
上に
裝置された
樣々の
船具について
疑問を
起し、
又は
母君の
腕にすがつて
遙かに
見ゆる
島々を
指し『あれは
子ープルスの
家の三
階から
見へる
エリノ島にその
儘です
事、
此方のは
頭の
禿げた
老爺さんが
魚を
釣つて
居る
形によく
似て
居ますねえ。』などゝいと
樂し
氣に
見えた。
日は
漸く
高く、
風は
凉しく、
船の
進行は
矢のやうである。
私は
甲板の
安樂倚子に
身をよせて
倩々と
考へた。
昨日までは
經廻る
旅路の
幾千
里、
憂き
時も
樂しき
時も
語らふ
人とては
一人もなく、
晨に
明星の
清しき
光を
望み、
夕に
晩照の
華美なる
景色を
眺むるにも
只一人、
吾と
吾心を
慰むるのみであつたが、
昨日は
圖らずも
天外萬里の
地で
我同胞にめぐり
逢ひ、
恰も
天のなせるが
如き
奇縁にて
今は
優美き
春枝夫人、
可憐なる
日出雄少年等と
同じ
船に
乘り
同じ
故國に
皈るとは
何たる
幸福であらう。
今度此弦月丸の
航海には
乘客の
數は五百
人に
近く
船員を
合せると七百
人以上の
乘組であるが、
其中で
日本人といふのは
夫人と
少年と
私との三
名のみ、
此不思議なる
縁に
結ばれし
三人は
之から
海原遠く
幾千里、ひとしく
此船に
運命を
托して
居るのであるが、
若し
天に
冥加といふものが
在るならば
近きに
印度洋を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-3]る
時も
支那海を
行く
時にも、
今日の
如く
浪路穩かに、
頓て
相共に
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-4]の
平安を
祝ひつゝ
芙蓉の
峯を
仰ぐ
事が
出來るやうにと
只管天に
祈るの
他はないのである。
ネープルス港から
海路數千
里、
多島海を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-7]ぎ、
地中海に
入り、
ポートセツトにて
石炭及び
飮料水を
補充して、それより
水先案内をとつて
スエスの
地峽を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-9]ぎ、
往昔から
世界第一の
難所と
航海者の
膽を
寒からしめた、
紅海一
名死海と
呼ばれたる
荒海の
血汐の
如き
波濤の
上を
駛つて、
右舷左舷より
眺むる
海上には、
此邊空氣の
不思議なる
作用にて、
遠き
島は
近く
見え、
近き
船は
却て
遠く
見え、
其爲に
數知[#ルビの「かずし」は底本では「かずす」]れず
不測の
禍を
釀して、
此洋中に
難破せる
沈沒船の
船體は
既に
海底に
朽ちて、
名殘の
檣頭のみ
波間に
隱見せる
其物凄き
光景を
吊ひつゝ、
進み
進んで
遂に
印度洋の
海口ともいふ
可き
アデン灣に
達し、
遙かに
ソコトラ島を
煙波縹茫たる
沖に
望むまで、
大約二
週間の
航路は
毎日毎日天氣晴朗で、
海波平穩で、十
數年來浪を
枕に
世を
渡る
水夫共も
未曾有の
好航海だと
語つた
程で、
從て
其間には
格別に
記す
程の
事もない。たゞ二つ三つ
記臆に
留つて
居るのは
斯る
平和の
間にも
不運の
神は
此船の
何處にか
潜伏んで
居つたと
見え、
船の
メシナ海峽を
出んとする
時、
一人の
船客は
海中に
身を
投げて
無殘の
最後を
遂げた
事と、
下等船客の
一支那人はまだ
伊太利の
領海を
離ぬ、
頃より
苦しき
病に
犯されて
遂に
カンデイア島と
セリゴ島との
間で
死亡した
爲に、
海上の
規則で
船長以下澤山の
船員が
甲板に
集つて
英國の一
宣教師の
引導の
下に
其死骸をば
海底に
葬つてしまつた
事と、
是等は
極めて
悲慘な
出來事であるが、
他に
愉快な
事も二つ三つ
無いでもない。
何處でも
長い
航海では
船中の
散鬱にと、
茶番や
演劇や
舞踏の
催がある。
殊に
歐洲と
東洋との
間は
全世界で
最も
長い
航路であれば
斯る
凖備は一
層よく
整つて
居る。
此弦月丸にも
屡其催があつて
私等も
折々臨席したが、
或夜の
事、
電燈の
光眩ゆき
舞踏室では
今夜は
珍らしく
音樂會の
催さるゝ
由で、
幾百人の
歐米人は
老も
若きも
其處に
集つて、
狂氣のやうに
騷いで
居る。
禿頭の
佛蘭西の
老紳士が
昔日の
腕前を
見せて
呉れんと
バイオリンを
採つて
彈くか
彈かぬに
歌の
曲をハツタと
忘れて、
頭撫で/\
罷退るなど
隨分滑※的[#「(禾+尤)/上/日」、62-10]な
事もあるが、
大概は
腕に
覺えの
歐米人の
事とて、いづれも
得意の
曲を
調べては
互に
天狗の
鼻を
高めて
居る。
私が
春枝夫人と
此席に
列つた
時には
丁度ある
年増の
獨逸婦人がピアノの
彈奏中であつたが、
此婦人は
極めて
驕慢なる
性質と
見えて、
彈奏の
間始終ピアノ
臺の
上から
聽集の
顏を
流盻に
見て、
折ふし
鵞鳥のやうな
聲で
唱ひ
出す
歌の
調べは
左迄妙手とも
思はれぬのに、
唱ふ
當人は
非常の
得色で、やがて
彈奏が
終ると
小鼻を
蠢かし、
孔雀のやうに
裳を
飜へして
席に
歸つた。
此次は
如何なる
人が
出るだらうと、
私は
春枝夫人と
語りながら一
方の
倚子に
倚りて
眺めて
居つたが、
暫時は
何人も
出ない、
大方今の
鵞鳥聲の
婦人の
爲めに
荒膽を
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、63-8]かれたのであらう。
忽ち
見る一
個の
英國人はつか/\と
私共の
前へ
進み
寄つて。
大聲に
『サア、
今度は
貴方等の
順番です、
日本の
代表者として
何かおやりなさい。』と
喚く、
滿塲は
一度に
拍手した。
「
南無三。」と
私は
逡巡した。
多の
白晢人種の
間に
人種の
異つた
吾等は
不運にも
彼等の
眼に
留つたのである。
私は
元來無風流極まる
男なので
此不意打にはほと/\
閉口せざるを
得ない。
春枝夫人も
頻りに
辭退して
居つたが
彼男も一
旦言ひ
出した
事とて
仲々後へは
退かぬ。
幾百の
人は
益々拍手する。
此時忽ち
私の
横側の
倚子で
頻りに
嘲笑つて
居る
聲、それは
例の
鷲鳥聲の
婦人だ。
『
何ね、いくら
言つたつて
無益でせうよ、
琴とか
三味線とか
私共は
見た
事もない
野蠻的な
樂器の
他は
手にした
事も
無い
日本人などに、
如何して
西洋の
高尚な
歌が
唱はれませう。』などゝ
態と
聽えよがしに
並んで
腰掛けて
居る
年の
若い
男と
耳語いて
居るのだ。
「
不埓な
女めツ」と
私は
唇を
噛んだ、が、
悲哉、
私は
其道には
全くの
無藝の
太夫。あゝ
此樣な
事と
知つたら
何故倫敦邊の
流行歌の
一節位いは
覺えて
置かなかつたらうと
悔んだが
追付かない、
餘りの
殘念さに
春枝夫人の
顏を
見ると、
夫人も
今の
嘲罵を
耳にして
多少心に
激したと
見へ、
柳の
眉微かに
動いて、
そつと私に
向ひ『
何かやつて
見ませうか。』といふのは
腕に
覺のあるのであらう、
私は
默つて
點頭くと
夫人は
靜に
立上り『
皆樣のお
耳を
汚す
程ではありませんが。』と
伴はれてピアノ
臺の
上へ
登つた。
忽ち
聽く
盤上玉を
轉ばすが
如き
響、ピアノに
神宿るかと
疑はるゝ、
其妙なる
調べにつれて
唱ひ
出したる
一曲は、これぞ
當時巴里の
交際境裡で
大流行の『
菊の
國の
乙女』とて、
筋は
日本の
美はしき
乙女の
舞衣の
姿が、
月夜に
セイヌ河の
水上に
彷徨ふて
居るといふ、
極めて
優美な、また
極めて
巧妙な
名曲の
一節、一
句は一
句より
華かに、一
段は一
段よりおもしろく、
天女御空に
舞ふが
如き
美音は、
心なき
壇上の
花さへ
葉さへ
搖ぐばかりで、
滿塲はあつと
言つたまゝ
水を
打つた
樣に
靜まり
返つた。
其調べがすむと、
忽ち
崩るゝ
如き
拍手のひゞき、一
團の
貴女神士ははやピアノ
臺の
側に
走り
寄つて、
今や
靜かに
其處を
降らんとする
春枝夫人を
取卷いて、あらゆる
讃美の
言をもつて、
此珍らしき
音樂の
妙手に
握手の
譽を
得んと

めくのである。かの
鵞鳥の
聲の
婦人は
口あんぐり、
眞赤になつて
眼を
白黒にして
居る、
定めて
先刻の
失言をば
後悔して
居るのであらう。
此夜のピアノの
響は、
今も
猶ほ
私の
耳に
殘つて、
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、66-7]の
出來事の
中で
最も
壯快な
事の一つに
數へられて
居るのである。
其他面白い
事も
隨分あつた。
音樂會の
翌々日の
事で、
船は
多島海の
沖にさしかゝつた
時、
多の
船客は
甲板に
集合つて
種々の
遊戯に
耽つて
居つたが、
其内に
誰かの
發起で
徒競走が
始つた。
今日、
世界で
最大な
船は
長さ二百三十ヤード、
即ち
町にして二
町を
超ゆるものもある、
本船の
如きも
其一で、
競走は
前部甲板から
後部甲板へと、
大約三百ヤード
許の
距離を四
回往復するのであるが
優勝者には
乘組の
貴婦人連から
美はしき
贈物があるとの
事で、
英人、
佛人、
獨逸人、
其他伊太利、
瑞西、
露西亞等の
元氣盛んなる
人々は
脛を
叩いて
跳り
出たので、
私もツイ
其仲間に
釣込まれて、一
發の
銃聲と
共に
無二
無三に
驅つたが、
殘念なるかな、
第一
着に
决勝點に
躍込んだのは、
佛蘭西の
豫備海軍士官とか
云へる
悽まじく
速い
男、
第二
着は
勤務のため
我日本へ
向はんとて
此船に
乘組んだ
伊太利の
公使館附武官の
海軍士官、
私は
辛じて
第三
着、あまり
面白くないので、
今度は一つ
日本男兒の
腕前を
見せて
呉れんと、うまく
相撲の
事を
發議すると、
忽ち
彌次連は
集まつて
來た。
彌次連の
其中から
第一に
私に
飛掛つて
來た一
人は、
獨逸の
法學士とかいふ
男、
隨分腕力の
逞ましい
人間であつたが、
此方は
多少柔道の
心得があるので、
拂腰見事に
極つて
私の
勝、つゞいて
來る
奴、
四人まで
投げ
倒したが、
第五
番目にのつそりと
現はれて
來た
露西亞の
陸軍士官、
身の
丈け六
尺に
近く
阿修羅王の
荒れたるやうな
男、
力任せに
私の
兩腕を
握つて
一振に
振り
飛ばさんず
勢、
私も
之には
頗る
閉口したが、どつこひ
待てよ、と
踏止つて
命掛けに
揉合ふ
事半時ばかり、
漸の
事で
片膝を
着かしてやつたので、
此評判は
忽ち
船中に
廣まつて、
感服する
老人もある、
切齒する
若者もあるといふ
騷ぎ、
誰いふとなく『
日本人は
鐵の一
種である、
如何となれば
黒く
且つ
堅固なる
故に。』などゝ
不思議なる
賞讃をすら
博して、一
時は
私の
鼻も
餘程高かつたが、
茲に一
大事件が
出來した、それは
他でもない、
丁度此船に
米國の
拳鬪の
達人とかいふ
男が
乘合せて
居つたが、
此噂を
耳にして
先生心安からず、『
左程腕力の
強い
日本人なら、一
番拳鬪の
立合ひをせぬか。』と
申込んで
來た。
私は
拳鬪の
仕合ひは
見た
事はあるが、まだやつた
事は一
度もない、
然し
斯く
申込まれては
男の
意地、どうなるものかと一
番立合つて
見たが
馴れぬ
業は
仕方がない、
散々な
目に
逢つて、
氣絶する
程甲板の
上に
投倒されて、
折角高まつた
私の
鼻も
無殘に
拗折られてしまつた。
春枝夫人は
痛く
心配して『あまりに
御身を
輕んじ
玉ふな。』と
明眸に
露を
帶びての
諫言、
私は
實に
殘念であつたが
其儘思ひ
止つた。一
時は
拳鬪のお
禮に
眞劍勝負でも
申込んで
呉れんかとまで
腹立つたのだが。
拳鬪の
翌日また
一騷動が
持上つた。それは
興行のためにと
香港へ
赴かんとて、
此船に
乘組んで
居つた
伊太利の
曲馬師の
虎が
檻を
破つて
飛び
出した
事で、
船中鼎の
沸くが
如く、
怒る
水夫、
叫ぶ
支那人、
目を
暈す
婦人もあるといふ
騷ぎで、
弦月丸出港のみぎりに
檣燈の
微塵に
碎けたのを
見て『
南無阿彌陀佛、
此船には
魔が
魅つて
居るぜ。』と
呟いた
英國の
古風な
紳士は
甲板から
自分の
船室へ
逃げ
込まんとて
昇降口から
眞逆に
滑落ちて
腰を
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、70-4]かした、
偶然にも
船の
惡魔が
御自分に
祟つたものであらうか。
虎は
漸の
事で
捕押へたが
其爲に
怪我人が七八
人も
出來た。
かゝる
樣々の
出來事の
間、
吾等の
可憐なる
日出雄少年は、
相變らず
元氣よく
始終甲板を
飛廻つて
居る
内に、ふと
リツプとか
云ふ、
英吉利の
極めて
剽輕な
老爺と
懇意になつて、
毎日々々面白く
可笑く
遊んで
居る
内、
或日の
事其老爺が
作へて
呉れた
菱形の
紙鳶を
甲板に
飛ばさんとて、
頻に
騷いで
居つたが、
丁度其時船橋の
上で、
無法に
水夫等を
叱付けて
居つた
人相の
惡い
船長の
帽子を、
其鳶糸で
跳飛ばしたので、
船長は
元來非常に
小八釜しい
男、
眞赤になつて
此方に
向直つたが、あまりに
無邪氣なる
日出雄少年の
姿を
見ては
流石に
怒鳴る
事も
出來ず、ぐと/″\
口の
中で
呟きながら、
其ビール
樽のやうな
身體を
轉ばして、
帽子の
後を
追ひかけた
話など、いろ/\
變つた
事もあるが、
餘り
管々しくは
記すまい。
かくて
吾等の
運命を
托する
弦月丸は、
アデン灣を
出でゝ
印度洋の
荒浪へと
進入つた。
第六回
星火榴彈
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な三個の船燈――海幽靈め――其眼が怪しい
荒浪高き
印度洋に
進航つてからも、
一日、
二日、
三日、
四日、と
日は
暮れ、
夜は
明けて、
五日目までは
何事もなく
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、71-12]つたが、
其六日目の
夜とはなつた。
私は
夕食後例のやうに
食堂上部の
美麗なる
談話室に
出でゝ、
春枝夫人に
面會し、
日出雄少年には
甲比丹クツクの
冐瞼旅行譚や、
加藤清正の
武勇傳や、また
私がこれ
迄の
漫遊中の
失策談などを
語つて
聽かせて、
相變らず
夜を
更かしたので、
夫人と
少年をば
其船室に
送り
込み、
明朝を
約して
其處を
去つた。
印度洋中の
氣※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、72-6]程變化の
激しいものはない、
今は五
月の
中旬、
凉しい
時は
實に
心地よき
程凉しいが、
暑い
時は
日本の
暑中よりも一
層暑いのである。
殊に
今宵は
密雲厚く
天を
蔽ひ、四
邊の
空氣は
變に
重々しく、
丁度釜中にあつて
蒸されるやうに
感じたので、
此儘船室に
歸つたとて、
迚も
安眠は
出來まいと
考へたので、
喫煙室に
行かんか、
其處も
暑し、
寧ろ
好奇ではあるが
暗夜の
甲板に
出でゝ、
暫時新鮮の
風に
吹かれんと
私は
唯一人で
後部甲板に
出た。
此時時計の
針は
既に十一
時を
廻つて
居つたので、
廣漠たる
甲板の
上には、
當番水夫の
他は一
個の
人影も
無かつた、
船は
今、
右舷左舷に
印度洋の
狂瀾怒濤を
分けて
北緯十
度の
邊を
進航して
居るのである。
ネープルス港を
出づる
時には
笑めるが
如き
月の
光は
鮮明に
此甲板を
照して
居つたが、
今は
日數も
二週あまりを
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、73-5]ぎて
眞の
闇――
勿論先刻までは
新月の
微かな
光は
天の
奈邊にか
認められたのであらうが、
今はそれさへ
天涯の
彼方に
落ちて、
見渡す
限り
黒暗々たる
海の
面、たゞ
密雲の
絶間を
洩れたる
星の
光の一二
點が
覺束なくも
浪に
反射して
居るのみである。
實に
物淋しい
景色※
[#感嘆符三つ、73-10] 私は
何故ともなく
悲哀を
感じて
來た。すべて
人は
感情の
動物で、
樂しき
時には
何事も
樂しく
見え、
悲しき
時には
何事も
悲しく
思はるゝもので、
私は
今、
不圖此悽愴たる
光景に
對して
物凄いと
感じて
來たら、
忽然樣々な
妄想が
胸裡に
蟠つて
來た、
今日までは
左程迄には
心に
留めなかつた、
魔の
日、
魔の
刻の
怪談。
白色檣燈の
落下、
船長の
憤怒の
顏。
怪の
船の
双眼鏡。さては
先日反古の
新聞に
記されてあつた
櫻木海軍大佐と
其帆走船との
行衞などが
恰も
今夜の
此物凄い
景色と
何等かの
因縁を
有するかのごとく、ありありと
私の
腦裡に
浮んで
來た。
『
無※[#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ。」と
私は
單獨で
叫んで
見た。
強いて
斯る
妄念を
打消さんとて
態と
大手を
振つて
甲板を
歩み
出した。
前檣と
後檣との
間を四五
回も
往復する
内に
其惡感も
次第/\に
薄らいで
來たので、
最早船室に
歸つて
睡眠せんと、
歩む
足は
今や
昇降口を一
段降つた
時、
私は
不意に一
種異樣の
響を
聽いた。
響は
遙かの
海上に
當つて、
極めて
微かに――
實に
審かしきまで
微ではあるが、たしかに
砲又は
爆裂發火信號の
響※
[#感嘆符三つ、75-1]
私は
ふいと
頭を
左方に
廻らしたが、
忽ち『キヤツ』と
叫んで
再び
甲板に
跳出た。
今迄は
少しも
心付かなかつたが、
唯見る、
我弦月丸の
左舷船尾の
方向二三
海里距つた
海上に
當つて、また一
度微な
砲聲の
響と
共に、タール
桶、
油樽等を
燃燒すにやあらん、
々たる
猛火海を
照して、
同時に
星火を
發する
榴彈二
發三
發空に
飛び、つゞいて
流星の
如き
火箭は一
次一
發右方左方に
流れた。
私は
實に
驚愕いたよ。
此邊は
印度洋の
眞中で、
眼界の
達する
限り
島嶼などのあらう
筈はない、まして
約一
分の
間隙をもつて
發射する
火箭及び
星火榴彈は
危急存亡を
告ぐる
難破船の
夜間信號※
[#感嘆符三つ、75-11]
『やア、
大變だ/\。』と
叫びつゝ
私は
本船の
右舷左舷を
眺めた。
船には
當番水夫あり。
海上に
起る千
差萬別の
事變をば一も
見遁すまじき
筈の
其見張番は
今や
何をか
爲すと
見廻はすと、
此時右舷の
當番水夫は
木像の
如く
船首の
方に
向つたまゝ、
今の
微な
砲聲は
耳にも
入らぬ
樣子、あらぬ
方を
眺めて
居る。
左舷の
當番水夫は
今や
確に
星火迸り、
火箭飛ぶ
慘憺たる
難破船の
信號を
認めて
居るには
相違ないのだが、
何故か
平然として
動ずる
色もなく、
籠手を
翳して
其方を
眺めて
居るのみ。
『
當番水夫!
何を
茫然して
居るかツ※
[#感嘆符三つ、76-8]』と
叫んだまゝ、
私は
身を
飜して
船長室の
方へ
走つた。
勿論、
船に
嚴然たる
規律のある
事は
誰も
知つて
居る、たとへ
霹靂天空に
碎けやうとも、
數萬の
魔神が一
時に
海上に
現出れやうとも、
船員ならぬ
者が
船員の
職權を
侵して、
之を
船長に
報告するなどは
海上の
法則から
言つて、
到底許す
可からざる
事である。
私も
其を
知らぬではない、けれど
今は
容易ならざる
急變の
塲合である、一
分一
秒の
遲速は
彼方難破船のためには
生死の
堺界かも
知れぬ、
加ふるに
本船右舷の
當番水夫は
眼あれども
眼無きが
如く、
左舷の
當番水夫は
鬼か
蛇か、
知つて
知らぬ
顏の
其心は
分らぬが、
今は
瞬間も
躊躇すべき
塲合でないと
考へたので、
私は
一散に
走つて、
船橋の
下部なる
船長室の
扉を
叩いた。
『
船長閣下、
起き
玉へ、
難破船がある!
難破船がある!』と
叫ぶと、
此時船長は
既に
寢臺の
上に
横つて
居つたが、『
何んですか。』とばかり
澁々起上つて
扉を
開いた。
私はツト
進み
入り
『
船長閣下、
越權ながら
報告します、
本船左舷後方、三
海里許距つた
海上に
當つて
一個の
難破船がありますぞ。』
『
難破船
あはゝゝゝゝ。』と
船長は
大聲に
笑つた。
驚愕くと
思ひきや、
彼はいと
腹立たし
氣に
顏を
顰めて
『
難船? それは
何ですか、
本船には
絶えず
[#「絶えず」は底本では「絶えす」]海上を
警戒る
當番水夫があるです、
敢て
貴下を
煩はす
筈も
無いです。』
『
無論です、けれど
本船の
當番水夫は
眼の
無い
奴に、
情の
無い
奴です、
一人は
茫然して
居ます、
一人は
知つて
知らぬ
顏をして
居ます。
船長閣下、
早く、
早く、
難破船の
運命は一
分一
秒の
遲速をも
爭ひますぞ。』
『いけません!』と
船長は
冷かに
笑つた。
『
貴下は
海上の
法則を
知りませんか、たとへ
如何な
事があらうとも
船員以外の
者が
其に
嘴を
容れる
權利が
無いです、また
私は
貴下から
其樣な
報告を
受ける
義務が
無いです。』と
彼は
右手を
延して
卓上の
葉卷を
取上た。
私は
迫込み
『
理屈を
申すぢやありません、
私の
越權は
私が
責任を
負ひます。
貴下は
信じませんか、
今現に
難破船が
救助を
求て
居るのを。』
『
信じません、
信ぜられません。』と
船長は
今取上げた
葉卷を
腹立たし
氣に
卓上に
投げ
返して
『
當番水夫からは
何等の
報告の
無い
内は
决して信じません。
况んや
此樣平穩な
海上に
難破船などのあらう
筈は
無い、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、79-6]なツ。』
『
無※[#「(禾+尤)/上/日」、79-7]なツ。』と
私は
勃然としてしまつた。
日頃から
短氣は
私の
持病、
疳癪玉が
一時に
破裂したよ。
『
無い、
無い、
無いとは
何です、
私は
今現に
目撃して
來たのです。』
『はゝゝゝゝ。
何を
目撃しましたか。はゝゝゝゝ。』と
彼は
空惚けて
大聲に
笑つた。
私は
實に
腹の
中から
返つたよ。
序だから
言つて
置くが、
私は
初め
此船に
乘組んだ
時から
一見して
此船長はどうも
正直な
人物では
無いと
思つて
居つたが
果して
然り、
彼は
今、
多少の
勞を
厭ふて
他船の
危難をば
見殺しにする
積だなと
心付いたから、
私は
激昂のあまり
『
何を
見たもありません、
本船左舷後方の
海上に
當つて
星火榴彈に
一次一發の
火箭、それが
難破船の
信號である
位を
知りませんか。』
『
其樣事は
承る
必要もありません。』と
船長は
鼻で
笑ひつゝ
『それは
大方貴下の
眼の
誤りでせうよ。うふゝゝゝ。』
『
眼の
誤り
之は
怪しからん、
私にはちやんと
二個の
眼がありますぞ。』
『
其眼が
怪しい、
海の
上ではよく
眩惑されます、
貴下は
屹度流星の
飛ぶのでも
見たのでせう。』とビール
樽のやうな
腹を
突出して
『いや、よしんば
其が
眞個の
難破信號であつたにしろ、
此樣平穩な
海上で
難破するやうな
船は
全く
我等海員の
仲間以外です、
何も
面倒な
目を
見て
救助に
赴く
義務は
無いのです。』と
言つて
空嘯き
笑つた
最早問答も
無益と
思つたから、
私は
突然船長を
船室の
外へ
引出した
『あれが
見えませんか、あれが、あの
悲慘なる
信號の
光を
見て
何とも
感じませんか。』とばかり、
遙かに
指す
左舷船尾の
海上。
私は『あツ。』と
叫んだまゝ
暫時開いた
[#「開いた」は底本では「開たい」]口も
塞がらなかつたよ。
審かしや。
今から
二分三分前までは
確に
閃々と
空中に
飛んで
居つた
難破信號の
火光は
何時の
間にか
消え
失せて、
其處には
海面より
數十
尺高く
白色球燈輝き、
船の
右舷左舷と
覺ぼしき
處に
緑燈、
紅燈の
光が
ぼんやりと
見ゆるのみである。
前檣に
白燈、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈は
言ふ
迄もない、
安全航行の
信號※
[#感嘆符三つ、81-11]
『はゝあ、
或程、
星火榴彈に
一次一發の
火箭、
救助を
求むる
難破船の
信號がよく
見えます、
貴下の眼は
仲々結構な
眼です。』と
意地惡き
船長は
ぢろりッと
私の
顏を
睨んだか、
私は
一言も
無いのである。
然し
實に
奇怪な
事ではないか、
今安全信號燈の
輝いて
居る
邊の
海上には、
確實に
悲慘なる
難破船の
信號が
見えて
居つたのに。さては
船長の
言ふがごとく
私の
眼の
誤りであつたらうか。
否、
否、
如何考へても
私は
白、
緑、
紅の
燈光を
星火榴彈や
火箭と
間違へる
程惡い
眼は
持つて
居らぬ
筈。して
見ると
先刻の
難破船信號は、
何時の
間にか
安全航行の
信號に
變つたに
相違ない。さて/\
奇妙な
事だと、
私は
暫時五里霧中に
彷徨ふた。
船長は
一時は
毒々しく
私の
顏を
眺めて
嘲笑つて
居つたが
此時稍や
眞面目になつて
其光の
方を
眺めつゝ
『
然し
妙だぞ、
今月の
航海表によると、
今頃此航路を
本船の
後を
追ふて
斯く
進航して
來る
船は
無い
筈だが。』と
小首を
傾けたが
忽ちカラ/\と
笑つて
『あゝ
分つた/\、
畜生巧くやつてるな、
此前あの
邊で
沈沒した
トルコ丸の
船幽靈めが、まだ
浮び
切れないで
難破船の
眞似なんかして
此船を
暗礁へでも
僞引寄せやうとかゝつて
居るんだな、どつこい、
其手は
喰はんぞ。』と
呟きながら
私に
向ひ
『だが
[#「だが」は底本では「だか」]先刻は
確實に
救助を
求むる
難破船の
信號が
見えましたか。』と
眉に
唾した。
可笑しい
樣だが
船乘人にはかゝる
迷信を
抱いて
居る
者が
澤山ある、
私は
相手にせず
簡單に
『
左樣、
確に
救助を
求むる
難破の
信號!。」と
答へて、
彼が『うむ、いよ/\
違ない、
船幽靈メー。』と
單獨でぐと/\
何事をか
言つて
居るのを
聽き
流しながら、
猶よく
其海上を
見渡すと、
今眼に
見ゆる
三個の
燈光は、
决して
愚なる
船長の
言ふが
如き、
怨靈とか
海の
怪物とかいふ
樣な
世に
在り
得可からざる
者の
光ではなく、
緑、
紅の
兩燈は
確に
船の
舷燈で、
海面より
高き
白色の
光は
海上法に
從ひ
甲板より二十
尺以上高く
掲げられたる
檣燈にて、
今や、
何等かの
船は、
我が
弦月丸の
後を
追ふて
進航しつゝ
來るのであつた。
第七回
印度洋の
海賊
水雷驅逐艦か巡洋艦か――昔の海賊と今の海賊――海底潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
私が
一心に
見詰めて
居る
間に、
右舷に
緑燈、
左舷に
紅燈、
甲板より二十
尺以上高き
前檣に
閃々たる
白色燈を
掲げたる
一隻の
船は、
印度洋の
闇黒を
縫ふてだん/″\と
接近して
來た。
今、
我が
弦月丸は一
時間に十二三
海里の
速力をもつて
進航して
居るのに、
其後を
追ふて
斯くも
迅速に
接近して
來るとは、
實に
非常の
速力でなければならぬ。
今の
世に、かくも
驚く
可き
速力をもつて
居る
船は、
水雷驅逐艦か、
水雷巡洋艦の
他はあるまい、あの
燈光の
主體は
果して
軍艦の
種類であらうか。
軍艦の
種類ならば
何も
配慮するには
及ばないが――
若しや――
若しや――と
私は
ふと或事を
想起した
時、
思はずも
戰慄したよ。
未だ
其の
船の
船體も
認めぬ
内から、
斯る
心配をするのは
全く
馬鹿氣て
居るかも
知れぬが、
先刻からの
奇怪の
振舞を
見ては、どうも
心が
安くないのである、
第一に
遙か/\の
闇黒なる
海上に
於て、
星火榴彈を
揚げ、
火箭を
飛ばして
難破船の
風體を
摸擬つたなど、
船長は
單に
船幽靈の
仕業で
御坐るなどゝ、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、85-11]な
事を
言つて
居るが
其實、かの
不思議なる
難破船の
信號は、
現世に
存在得べからざる
海魔とか
船幽靈とかよりは
百倍も
千倍も
恐怖るべき
或者の
仕業で、
何か
企圖つる
所があつて、
我が
弦月丸を
彼處の
海上へ
誘引き
寄せやうとしたのではあるまいか、
實に
印度洋の
航海程世に
恐るべき
航海はない、
颶風や、
大強風や、
咫尺を
辨ぜぬ
海霧や、
其他、
破浪、
逆潮浪の
悽まじき、
亂雲、
積雲の
物凄き、
何處の
航海にも
免かれ
難き
海員の
苦難ではあるが、
特に
此印度洋では
是等の
苦難の
外に、
今一個最も
恐怖る
可き『
海賊船の
襲撃』といふ
禍がある。
往昔から
此洋中で、
海賊船の
襲撃を
蒙つて、
悲慘なる
最後を
遂げた
船は
幾百千艘あるかも
分らぬ。
人の
談話では
今は
往昔程海賊船の
横行ははげしくは
無いが、
其代り
往昔の
海賊船は
一撃の
下に
目指[#ルビの「めざ」は底本では「あざ」]す
貨物船を
撃沈するやうな
事はなく、
必ず
其船をもつて
此方に
乘掛け
來り、
武裝せる
幾多の
海賊輩は
手に/\
劔戟を
振翳しつゝ、
彼方の
甲板から
此方へ
乘移り、
互に
血汐を
流して
勝敗を
爭ふのであるから、
海賊勝てば
其後の
悲慘なる
光景は
言ふ
迄もないが、
若し
此方強ければ
其賊輩を
鏖殺にする
事も
出來るのである。けれど
今日に
於ては、
海賊も
餘程狡猾になつて、かゝる
手段に
出づる
事は
稀で、
加ふるに
海底潜水器の
發明があつて
以來、
海賊船は
多く
其發明を
應用して、
若し
漫々たる
海洋の
上に
金銀財寳を
滿載せる
船を
認めた
時には、
先づ
砲又は
衝角をもつて
一撃の
下に
其船を
撃沈し、
後に
潜水器を
沈めて
其財寳を
引揚げる
相である。
勿論、
今日に
於ても
潜水器の
發明は
未だ
充分完全の
度には
進んで
居らぬから、
此手段とて
絶對的に
應用する
事の
出來ぬのは
言ふ
迄もない。
即ち
現今に
於て
最も
精巧なる
潜水器でも、
海底五十
米突以下に
沈んでは
水の
壓力の
爲めと
空氣喞筒の
不完全なる
爲に、
到底其用を
爲さぬのであるから、
潜水器を
用ゆる
海賊船は、
常に
此點に
向つて
深く
意を
用ゐ、
狂瀾逆卷く
太洋の
面に
於て、
目指す
貨物船を
撃沈する
塲所は
必ず
海底の
深さ五十
米突に
足らぬ
島嶼の
附近か、
大暗礁又は
海礁の
横つて
居る
塲所に
限つて
居る
相だ。
今、
私は
黒暗々たる
印度洋の
眞中に
於て、わが
弦月丸の
後を
追ふかの
奇怪なる
船を
見てふと
此樣事を
想ひ
出した。
讀者諸君よ
笑ひ
玉ふな、
私の
配慮は
餘りに
神經的かも
知れぬが、
然し
以上の
物語と、
今から
數分以前にかの
船が
本船右舷後方の
海上に
於て
不思議にも
難破信號を
揚げた
事とで
考へ
合せると
斯る
配慮の
起るのも
無理はあるまい。
私は
印度洋の
海底の
有樣は
精密くは
知らぬが
此洋全面積は
二千五百※方哩[#「一/力」、88-10]、
深き
所は
底知れぬが、
處々に
大暗礁又は
海礁が
横つて
居つて、
水深五十
米突に
足らぬ
所もある
相な。して
見ると
私でなくとも、
此樣な
想像は
起るであらう、
今、
本船の
後を
追ふかの
奇怪の
船は
或は
印度洋の
大惡魔と
世に
隱れなき
海賊船で、
先刻遙か/\の
海上で、
星火榴彈を
揚げ、
火箭を
飛して、
救助を
求むる
難破船の
眞似をしたのは、あの
邊の
海底は
何かの
理由で
水深左程深からず、
我が
弦月丸を
撃沈して
後に
潜水器を
沈めるに
便利の
宜かつた
爲ではあるまいか、
本船の
愚昧[#ルビの「おろか」は底本では「おろな」]なる
船長は『
船幽靈めが、
難破船の
眞似なんかして、
此船を
暗礁へでも
誘引き
寄せやうとかゝつて
居るのだな。』と
延氣な
事を
言つて
居つたが、
其實船幽靈ならぬ
海賊船が、あの
邊の
暗礁へ
我船を
誘引き
寄せやうと
企圖て
居つたのかも
知れぬ。
偶然にも
我が
弦月丸は
斯る
信號には
頓着なく、ずん/″\と
其進航を
續けた
爲め、
策略破れた
海賊船は、
今や
他の
手段を
廻らしつゝ、
頻りに
我船の
後を
追及するのではあるまいか、
不幸にして
私の
想像が
誤らなければ
夫こそ
大變、
今本船とかの
奇怪なる
船との
間は
未だ一
海里以上は
確に
距つて
居るが、あの
燈光のだん/\と
明亮くなる
工合で
見ても、
其船脚の
悽まじく
速い
事が
分るから、
頓て
本船に
切迫するのも十
分か十五
分の
後であらう。あゝ、
海賊船か、
海賊船か、
若しもあの
船が
世界に
名高き
印度洋の
海賊船ならば、
其船に
睨まれたる
我弦月丸の
運命は
最早是迄である。たとへ
我船が
全檣に
帆を
張り
蒸
機關の
破裂するまで
石炭を
焚いて
逃げやうとも
如何で
逃げ
終うする
事が
出來やう。
勿論、かの
船は
私の
想像するが
如き
海賊船であつたにしろ、
左樣無謀には
本船を
撃沈するやうな
事はあるまい、
印度洋の
平均水深は一
千八
百三十
尋、
其樣な
深い
所で
輕々しく
本船を
撃沈した
處で、
到底かの
船の
目的を
達する
事は
出來まいから。けれど、
彼方天魔鬼神を
欺く
海賊船ならば
一度睨んだ
船をば
如何でか
其儘に
見遁すべき。
事面倒と
思はゞ、
昔話に
聞く
海賊船の
戰術を
其儘に、
鋭き
船首は
眞一文字に
此方に
突進し
來つて、
手に/\
劍戟を
振翳せる
異形の
海賊輩は
亂雲の
如く
我が
甲板に
飛込んで
來るかも
知れぬ。
若し
然なくば
隱見出沒、
氣長く
我船の
後を
追ふ
内、
本船が
何時か
海水淺き
島嶼の
附近か、
底に
大海礁の
横る
波上にでも
差懸かつた
時、
風の
如く
來り、
雲の
如く
現はれ
出でゝ、一
撃の
下に
其處に
我が
船を
撃沈する
積かも
知れぬ。
斯う
考へると
實に
底氣味の
惡いも/\、
私は
心の
底から
寒くなつて
來た。
兎角する
程に
怪の
船はます/\
接近し
來つて、
白、
紅、
緑の
燈光は
闇夜に
閃めく
魔神の
巨眼のごとく、
本船の
左舷後方約四五百
米突の
所に
輝いて
居る。
私は
胸を
跳らせつゝ
我が
甲板の
前後左右を
眺めた。
例のビール
樽船長は
此時私の
頭上に
當る
船橋の
上に
立つて、
頻りに
怪の
船の
方向を
見詰めて
居つたが、
先刻遙か/\の
海上に
朦乎と
三個の
燈光を
認めた
間こそ、
途方も
無い
事を
言つて
居つたものゝ、
最早斯うなつては
其樣な
無※[#「(禾+尤)/上/日」、92-4]な
事は
言つて
居られぬ。
『はてさて、
妙だぞ、あれは
矢ツ
張
船だわい、して
見ると
今月の
航海表に
錯誤があつたのかしらん。』と
言ひつゝ、
仰いで
星影淡き
大空を
眺めたが
『いや、いや、
如何考へても
今時分あんな
船に
此航路で
追越される
筈はないのだ。』と
見る/\
内に
不安の
顏色が
現はれて
來た。
此時はすでに
澤山の
船員等は
此處彼處から
船橋の
邊を
指して
集つて
來た。いづれも
愕いた
樣な、
審るやうな
顏で、
今やます/\
接近し
來る
怪の
船の
燈光を
眺めて
居る。
『
實に
不思議だ――あの
船脚の
速い
事は――』と
右手の
時辰器を
船燈の
光に
照して
打眺めつゝ、
眤と
考へて
居るのは
本船の
一等運轉手である。つゞいて
『
何會社の
船だらう。』
『
商船だらうか、
郵便船だらうか。』
『いや、
軍艦に
相違ない。』
『
軍艦にしても、あんなに
速い
船脚は
新式巡洋艦か、
水雷驅逐艦の
他はあるまい。』と二
等運轉手、
非番舵手、
水夫、
火夫、
船丁に
至るまで、
互に
眼と
眼を
見合せつゝ
口々に
罵り
騷いで
居る。
彼等の
中には、
先刻の
不思議な
信號を
見た
者もあらう、また
見ぬ
者もあらう。
怪の
船は
遂に
我が
弦月丸と
雁行になつた。
船橋の
船長は
右顧左顧、
頻りに
心安からず
見えた。
我が
一等運轉手は
急はしく
後部甲板に
走つたが、
忽ち
一令を
掛けると、
一個の
信號水夫は、
右手に
高く
白色球燈を
掲げて、
左舷船尾の「デツキ」に
立つた。
之れは
海上法に
從つて、
船の
將に
他船に
追越されんとする
時に
表示する
夜間信號である。
然るに
彼方怪の
船は
敢て
此信號には
應答へんともせず、
忽ち
見る
其甲板からは、
一導の
探海電燈の
光閃々と
天空を
照し、つゞいて
サツとばかり、
其眩ゆき
光を
我が
甲板に
放げると
共に、
笛一二
聲、
波を
蹴立てゝます/\
進航の
速力を
速めた。
見る/\
内に
怪の
船の
白色檣燈は
我が
弦月丸の
檣燈と
並行になつた――
早や、
彼方の
右舷の
緑燈は
我が
左舷の
紅燈を
尻眼にかけて、一
米突――二
米突――三
米突――
端艇ならば
少くも
半艇身以上我が
船を
乘越した。
此時!
私は
如何にもして、かの
怪の
船の
正體を
見屆けんものをと、
身を
飜して
左舷船首に
走り、
眼を
皿のやうにして
其船の
方を
見詰めたが、
月無く、
星影も
稀なる
海の
面は、百
米突――二百
米突とは
距たらぬのに
黒暗々として
咫尺を
辨じない。
加ふるに
前檣々頭に
一點の
白燈と、
左舷の
紅燈は
見えで、
右舷に
毒蛇の
巨眼の
如き
緑色の
舷燈を
現せる
他は、
船橋にも、
甲板にも、
舷窓からも、
一個の
火影を
見せぬかの
船は、
殆んど
闇黒に
全體を
包まれて
居つたが、
私の
一念の
屆いて
幾分か
神經の
鋭くなつた
爲か、それとも
瞳の
漸く
闇黒に
馴れた
爲か、
私は
辛じて
其燈光の
主體を
認め
得た
途端、またもや
射出す
彼船の
探海電燈、
其邊は。
パツと
明るくなる、
私は
一見して
卒倒するばかりに
愕き
叫んだよ
『
海蛇丸※
[#感嘆符三つ、95-12] 海蛇丸※
[#感嘆符三つ、95-12]』と。
讀者諸君は
未だ
御記臆だらう。
我が
弦月丸が
將に
子ープルス港を
出發せんとした
時、
何故ともなく
深く
私の
眼に
留つた
一隻の
怪の
船を。
噸數一千
噸位、
二本烟筒に
二本檣、
其下甲板には
大砲小銃等を
積めるにやあらん。
審かしき
迄船脚の
深く
沈んで
見えた
其船が、
今や
闇黒なる
波浪の
上に
朦朧と
認められたのである。
『
紛ふ
方なき
海蛇丸※
[#感嘆符三つ、96-6]』と
私は
再び
叫んだ。あゝ、
海蛇丸は
前には
子ープルス港にていと
奇怪しき
擧動をなし、
其時、
我が
弦月丸よりは
數分前に
港を
發して、かくも
迅速なる
速力を
有てるにも
拘らず、
今や
却て
我が
船の
後を
追ふて
來るとは、
之が
單に、
偶然の
出來事とのみ
言はれやうか? ? ?
然るに
此時まで、
海蛇丸は
別に
害意ありとも
見えず、たゞ
其甲板からは
絶えず
[#「絶えず」は底本では「絶えす」]探海電燈の
閃光を
射出して、
或は
天空を
照し、
或は
其光を
此方に
向け、
又は
海上の
地理形况等を
探るにやあらん、
我が
弦月丸が
指して
行く
航路の
海波を
照しつゝ、ずん/″\と
前方に
駛り
去つた。
本船は
今は
却て
其後を
追ふのである。
稍や十
分も
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、97-4]ぎたと
思ふ
頃二船の
間は
餘程距たつた。
私は
思はず
一息ついた、『
矢張無益の
心配であつたか』と
少しく
胸撫でおろす、
其時、
私は
ふと心付いたよ、
先刻までは
極めて
動搖平穩であつた
我が
弦月丸は
何時の
間にか
甲板も
傾くばかり
激しき
動搖を
感じて
居るのであつた。
眺めると
闇黒なる
右舷左舷の
海上は
尋常ならず
浪荒く、
白馬の
如き
立浪の
跳るのも
見える。
印度洋とて
千尋の
水深ばかりではない、
斯く
立浪の
騷いで
居るのは、
確に
其邊に
大暗礁の
横つて
居るとか、
今しも
我が
弦月丸の
進航しつゝある
航路の
底は
一面の
大海礁で
蔽はれて
居るのであらう。
大暗礁!
大海礁! たとへ
船を
坐礁る
程でなくとも、
此邊の
海底の
淺い
事は
分つて居る※
[#感嘆符三つ、98-2]
はツと
思つたが、
此時忽ち
我が
弦月丸の
前甲板に
尋常ならぬ
叫聲が
聽えた。
私は
跳上つて
眼を
放つと、
唯見る、
本船々首正面の
海上に、
此時まで
閃々たる
光は
絶えず
海の
八方を
照しつゝ
既に
一海里ばかり
駛り
去つた
海蛇丸は、
此時何故か
探海電燈の
光パツと
消えて、
突然船首を
轉廻すよと
見る
間に、さながら
疾風電雷の
如く
此方に
突進して
來た。
『や、や、や、や、や。』と
私の
胸は
警鐘を
亂打するやうである。
更に
驚愕いたのは、
船橋の
船長、
後甲板の
一等運轉手、
二等運轉手、
三等運轉手[#「三等運轉手」は底本では「三運等轉手」]、
水夫、
火夫、
見張番、
一同顏色を
失つて、
船首甲板の
方へ
走つて
來た。
眞正面から
突進して
來る
海蛇丸と、
我が
弦月丸との
距離は
最早一千
米突に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-2]ぎない。
廣い
樣でも
狹いのは
船の
航路で、
千島艦と
ラーヴエンナ號事件の
實例を
引く
迄もなく、
少しく
舵機の
取方を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-3]つても、
屡々驚怖すべき
衝突を
釀すのに、
底事ぞ、
怪の
船海蛇丸は、
今や
我が
弦月丸の
指して
行く
同じ
鍼路をば
故意と
此方に
向て
猛進して
來るのである、一
分、二
分、三
分の
後は
一大衝突を
免かれぬ
運命※
[#感嘆符三つ、99-6]
船長も
一等運轉手も
度を
失つて、
船橋を
驅け
上り、
驅け
降り、
後甲板に
馳せ、
前甲板に
跳り
狂ふて、
聲を
限りに
絶叫した。
水夫。
火夫、
船丁等の
周章狼狽は
言ふ
迄もない、
其内に
乘客も
※半[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-9]睡眠より
醒めて、
何事ぞと
甲板に
走り
出でんとするを、
邪魔だ/\と
昇降口の
邊より
追返さんと

く二三
船員の
聲も
聽える。
本船は
連續に
爆裂信號を
揚げ、
非常
笛を
鳴らし、
危難を
告ぐる
號鐘は
割るゝばかりに
響き
渡つたけれど、
海蛇丸は
音もなく、ずん/\と
接近して
來るばかりである。
本船の
舵手は
狂氣の
如くなつて、
鍼路を
右に
左に
廻轉したが
何の
甲斐も
無い。
此方
角短聲一發、
鍼路を
右舷に
取れば、
彼方海蛇丸も
左舷の
紅燈隱れて
鍼路を
右に
取り、
此方短聲二發鍼路を
左舷に
廻らせば、
彼方も
亦た
左舷の
紅燈現はれて
鍼路を
左に
取る。
最早疑ふ
事は
出來ぬ、
海蛇丸は
今や
立浪跳つて
海水淺き、
此海上で
我が
弦月丸を
一撃の
下に
撃沈せんと
企圖てゝ
居るのだ。
『
衝突だ!
衝突だ!
衝突だ!』と
百數十の
船員等は
夢中になつて
甲板上を
狂奔した。
此時既に
本船を
去る
海蛇丸の
距離は
僅かに二
百二三十
米突以内※
[#感嘆符三つ、100-10]
一等運轉手と
船長とは
血眼になつて
一度に
叫んだ
『
全速力後退!
後退!
後退!』
同時に
角短聲三發、
蒸
機關の
響ハッタと
更まつて、
逆に
廻旋する
推進螺旋の
邊、
泡立つ
波は
飛雪の
如く、
本船忽ち二十
米突――三十
米突も
後退したと
思つたが、
此時すでに
遲かつた、
今や
我が
弦月丸の
側面前方、
約百
米突以内に
接迫し
來つた
海蛇丸は、
忽然[#ルビの「こつぜん」は底本では「こぜん」]其船首を
左方に
廻轉するよと
見る
間に、
其鋭き
衝角は
恰も
電光石火の
如く、
本船の
中腹目撃けてドシン※
[#感嘆符三つ、101-6]
弦月丸は
萬山の
崩るゝが
如き
響と
共に
左舷に
傾斜いた。
途端に
起る
大叫喚。
二百の
船員が
狂へる
甲板へ、
數百の
乘客が
一時に
黒雲の
如く
飛出したのである。
風の
如く、
電光の
如く
來りし
海蛇丸[#ルビの「かいだまる」は底本では「かいたまる」]は、また、
風の
如く、
電光の
如く、
黒暗々たる
波間に
隱れてしまつた。
天空には
星影一
點、二
點、
又た三
點、
風死して
浪黒く、
船は
秒一秒と、
阿鼻叫喚の
響を
載せて、
印度洋の
海底に
沈んで
行くのである。
第八回
人間の
運命
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
あゝ
人間の
運命程不思議な
者はない。
此珍事のあつた
翌日は
私は、
日出雄少年と
唯二人で、
長さ卅
呎にも
足らぬ
小端艇に
身を
委ねて、
水や
空なる
大海原を
浪のまに/\
漂[#ルビの「たゞよ」は底本では「たゝよ」]つて
居るのであつた。
言ふ
迄も
無く、
弦月丸は
其時無限の
恨を
飮んで、
印度洋の
海底に
沈沒せしめられたのである。
風軟かに、
草みどりなる
陸上の
人は、
船の
沈沒などゝ
聞けば、
恰も
趣味ある
出來事の
樣に
思はれて、
或は
演劇に、
或は
油繪に、
樣々なる
事をして
其悲壯なる
光景を
胸裡に
描かんとして
居るが、
私の
如く
現在其難に
臨んで、
弦月丸が
悲慘なる
最後を
遂ぐるまで、
其甲板に
殘つて
居つた
身は、
今更其始終を
懷想しても
身の
毛の
彌立つ
程で、とても
詳しい
事を
述立てるに
忍びぬが、
是非に
語らねばならぬ
其大略だけを
茲に
記して
置かう。
海蛇丸が
我弦月丸の
右舷に
衝突して、
風の
如く
其形を
闇中に
沒し
去つた
後は、
船中は
鼎の
沸くが
樣な
騷[#ルビの「さわぎ」は底本では「さわき」]であつた。
泣く
聲、
喚く
聲、
哀に
救助を
求むる
聲は、
悽まじき
怒濤の
音と
打交つて、
地獄の
光景もかくやと
思はるゝばかり。あらゆる
防水の
方便は
盡されたが、
微塵に
打碎かれたる
屹水下からは
海潮瀧の
如く
迸入つて、
其近傍には
寄り
附く
事も
出來ない。十
臺の
喞筒は、
全力で
水を
吐出して
居るが
何の
效能もない。六千四百
噸の
巨船もすでに
半は
傾き、
二本の
煙筒から
眞黒に
吐出す
烟は、
恰も
斷末魔[#ルビの「だんまつま」は底本では「たんまつま」]の
苦悶を
訴へて
居るかのやうである。
『もう
無益だ/\、とても
沈沒は
免かれない。』と
船員一同はすでに
本船の
運命を
見捨てたのである。
私は
此時まで
殆んど
喪心の
有樣で、
甲板の
一端に
屹立つた
儘、
此慘憺たる
光景に
眼を
注いで
居つたが、ハツと
心付いたよ。
『
春枝夫人、
日出雄少年は
如何して
居るだらう。』と
私は
宙を
飛んで
船室の
方に
向つた。
昇降口のほとり、
出逢ひがしらに、
下方から
昇つて
來たのは、
夫人と
少年とであつた。
不時の
大騷動に、
愕き
目醒めたる
春枝夫人は、かゝる
焦眉の
急にも
其省愼を
忘れず、
寢衣を
常服に
着更へて
居つた
爲めに、
今漸く
此處まで
來たのである。
見るより
私は
『
夫人、
大事變が/\。』
『
何か
起りましたか、
暗礁へでも?』と
夫人の
聲は
沈んで
居つた。
『
暗礁どころか、ま、
早く/\。』と
私は
引立てるやうにして
夫人を
伴ひ、
喫驚して
眼を

つて
居る
少年をば、ヒシと
腕に
抱へて
甲板を
走つた、
餘りに
人の
立騷いで
居る
邊は、
却て
危險の
多いので、
吾等三人は
全く
離れて、ずつと
船首の
海圖室の
側に
身を
寄せた。
此塲合に
第一に
私の
胸をうつたのは、
此航海のはじめ
ネープルス港を
出づる
時、
濱島に
堅く
約して、
夫人と
其愛兒との
身の
上は、
私の
生命に
懸けてもと
堅く
請合つた
事、
今、
此危急の
塲合に
臨んで、
私の
身命は
兎もあれ、
此二人丈[#ルビの「だ」は底本では「た」]けは
如何しても
救はねばならぬのだ。
船は
秒一秒に
沈んで
行く、
甲板の
叫喚はます/\
激しくなつた。
終に「
端艇下せい。」の
號令は
響いて、
第一の
端艇は
波上に
降下つた。
此時私は
春枝夫人を
見返つたのである。
『いざ、
夫人、
避難の
用意を。』と。すべて
海上の
規則として、
斯る
塲合に
第一に
下されたる
端艇は
一等船客のため、
第二が
二等船客、
第三が
三等船客、
總ての
船客の
免れ
去つた
後に、
猶殘る
端艇があれば、
其時はじめて
船員等の
避難の
用に
供せらるゝのである。で
私は
今第一
端艇の
下ると
共に、
吾等一等船客たるの
權利をもつて、
春枝夫人と
日出雄少年とを
誘つたのである。
勿論私は
不束ながらも
一個の
日本男子であれば、
其國の
名に
對しても、
斯る
[#「斯る」は底本では「斯か」]塲合に
第一に
逃出す
事は
出來ぬのである。
然し、
春枝夫人と
日出雄少年とは
私が
[#「私が」は底本では「私か」]堅く
友に
保證して
居る
人、
且は
纎弱き
女性と、
無邪氣なる
少年の
身であれば、
先づ
此二人をば
避難せしめんと
頻に
心を
焦てたのである。
然るに
私の
苦心は
全く
無益であつた。
第一端艇の
波上[#ルビの「はじやう」は底本では「はしやう」]に
浮ぶや
否なや、
忽ち
數百の
人は、
雪崩の
如く
其處へ
崩れかゝつた。
我先に
其端艇に
乘移らんと、
人波うつて
閙く
樣は、
黒雲の
風に
吹かれて
卷返すやうである。
『
夫人、とてもいけません。』と二三
歩進んだ
私は
振返つた。とても/\、あの
狂氣のやうに
立騷いで
居る
多人數の
間を
分けて、
此柔弱き
夫人と
少年とを
安全に
端艇に
送込む
事が
出來やう? あゝ
人間はいざと
云ふ
塲合には、
恥辱も
名譽もなく、
斯く
迄生命の
惜しい
者かと、
嘆息と
共に
眺めて
居ると、
更に
奇怪なるは、
其端艇に
身を
投じたる
一群の
人、それは
一等船客でもなく、
二等船客でもなく、
實に
此船の
最後まで
踏止る
可き
筈の
水夫、
火夫、
舵手、
機關手、
其他一團の
賤劣なる
下等船客で、
自己の
腕力に
任せて、
他を
突除け
蹴倒して、
我先にと
艇中に
乘移つたのである。
『あゝ、
何たる
醜態ぞ。」と
私はあまりの
事に
撫然とした。
春枝夫人は
私の
後方に、
愛兒をしかと
抱きたる
儘、
默然として
言もない、けれど
流石に
豪壯なる
濱島武文の
妻、
帝國軍人松島海軍大佐の
妹君程あつて、
些も
取亂したる
姿のなきは、
既に
其運命をば
天に
任せて
居るのであらう。かゝる
殊勝なる
振舞を
見ては、
私は
猶默つては
居られぬ。
『えゝ、
無責任なる
船員!
卑劣なる
外人!
海上の
規則は
何の
爲ぞ。』と
悲憤の
腕を
扼すと、
夫人の
淋しき
顏は
私に
向つた、
沈んだ
聲で
『いえ、
誰人も
命の
助かりたいのは
同じ
事でせう。』と
言つて、
瞳を
轉じ
『でも、あの
樣に
澤山乘つては
端艇も
沈みませうに。』といふ、
我身の
危急をも
忘れて、
却つて
仇し
人の
身の
上を
氣遣ふ
心の
優しさ、
私は
聲を
勵まして
『
夫人、
其樣な
事處でありません、
貴女と
少年とは
如何しても
助らねばなりません、
私が
濟まない/\。』と
叫んで
見渡すと
此時第二の
端艇も
下りた、
第三の
端艇も
下りた、けれど
其附近は
以前にも
増す
混雜で、
私は
[#「私は」は底本では「私ば」]たゞ
地團太を
踏むばかり。ふと
眼に
入つたのは、
今、
此船の
責任を
双肩に
擔へる
船長が、
卑劣にも
此時、
舷燈の
光朦朧たるほとりより、
天に
叫び、
地に
泣ける、
幾百の
乘組人をば
此處に
見捨てゝ、
第三の
端艇に
乘移らんとする
處。
『ひ、ひ、
卑怯者!。』と
私は
躍起になつた、
此處には
春枝夫人の
如き
殊勝なる
女性もあるに、
彼船長の
醜態は
何事ぞと
思ふと、もう
默つては
居られぬ、
元より
無益の
業ではあるが、せめての
腹愈しには、
吾鐵拳をもつて
彼の
頭に
引導渡して
呉れんと、
驅出す
袂を
夫人は
靜に
留めた。
『もう
何事も
爲さりますな。
妾も、
日出雄も、
此儘海の
藻屑と
消えても、
决して
未練に
助からうとは
思ひませぬ。』と
白※薇[#「薔」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、110-1]のたとへば
雨に
惱めるが
如く、しみ/″\と
愛兒の
顏を
眺めつゝ
『けれど、
天の
惠があるならば、
波の
底に
沈んでも
或は
助かる
事もありませう。」と
明眸に
露を
湛えて
天を
仰いだ。
忽ち、
暗澹たる
海上に、
不意に
大叫喚の
起つたのは、
本船を
遁れ
去つた
端艇の
餘りに
多人數[#ルビの「たにんずう」は底本では「たにんず」]を
載せたため一二
艘波を
被つて
沈沒したのであらう。
『オー、
無殘に。』と
春枝夫人は
手巾に
面を
蔽ふた。
『あれは
自業自得です。』と
私は
冷笑を
禁じ
得なかつた。
弦月丸の
運命は
最早一
分、二
分、
甲板には
殘る
一艘の
端艇も
無い、
斯くなりては
今更何をか
思はん、せめては
殊勝なる
最後こそ
吾等の
望である。
『
夫人!。』と
私は
靜に
夫人を
呼かけた。
『
何事も
天命です、
然し
吾等は
此急難に
臨んでも、
我日本の
譽を
傷けなかつたのがせめてもの
滿足です。』と
語ると、
夫人も
微かにうち
點頭き、
俯伏して
愛兒の
紅なる
頬に
最後の
接吻を
與へ、
言葉やさしく
『
日出雄や、お
前は
今此災難に
遭つても、
ネープルスで
袂別の
時に
父君の
仰つしやつたお
言葉を
忘れはしますまいねえ。』と
言へば、
日出雄少年は
此時凛乎たる
面を
擧げ
『
覺えて
居ます。
父樣が
私の
頭を
撫でゝ、お
前は
日本人の
子といふ
事をばどんな
時にも
忘れてはなりませんよ、と
仰しやつた
事でせう。』
夫人は
思はず
涙をはら/\と
流し
『
其事、お
前と
母とは、
之が
永遠の
別となるかも
知れませんが、
幸ひにお
前の
生命が
助つたなら、
之から
世に
立つ
時に、
始終其言葉を
忘れず、
誠實の
人とならねばなりませんよ。』と
言終つた
時、
怒濤は
早や
船尾の
方から
打上げて
來た。
最早最後と、
私は
眼を
放つて
四邊を
眺めたが、
此時ふと
眼に
止つたのは、
左舷の
方に
取亂されてあつた二三
個の
浮標、
端艇に
急いだ
人々は、かゝる
物には
眼を
留めなかつたのであらう。
私は
急ぎ
取上げた。
素早く
一個を
夫人に
渡し、
今一個を
右手に
捕へて『
日出雄さん。』とばかり
左手に
少年の
首筋を
抱へた
時、
船は
忽ち、
天地の
碎くるが
如き
響と
共に
海底に
沒し
去つた。
泡立つ
波、
逆卷く
潮、
一時は
狂瀾千尋の
底に
卷込まれたが、
稍暫して
再び
海面に
浮上つた
時は
黒暗々たる
波上には六千四百
噸の
弦月丸は
影も
形もなく、
其處此處には
救助を
求むる
聲たえ/″\に
聽ゆるのみ、
私は
幸に
浮標を
失はで、
日出雄少年をば
右手にシカと
抱いて
居つた。けれど
夫人の
姿は
見えない『
春枝夫人、々々。』と
聲を
限りに
呼んで
見たが
應がない、
只一度遙か/\の
波間から、
微かに
答のあつた
樣にも
思はれたが、それも
浪の
音やら、
心の
迷ひやら、
夫人の
姿は
遂に
見出す
事が
出來なかつたのである、
私は
幼少の
頃から、
水泳には
極めて
達して
居つたので、
容易に
溺れる
樣な
氣遣はない、
日出雄少年を
抱き
一個の
浮標を
力に、
一時ばかり
海中に
浸つて
居つたが、
其内に
救助を
求むる
人の
聲も
聽えずなり、
其身も
弦月丸の
沈沒した
處より
餘程遠かつた
樣子、
不意に
日出雄少年が『あら
黒い
物が。』と
叫ぶので、
愕いて
頭を
上げると、
今しも
一個の
端艇が
前方十四五ヤードの
距離に
泛んで
居る、
之は
先刻多人數が
乘つた
爲に、
轉覆した
中の
一艘であらう。
近づいて
見ると
艇中には
一個の
人影もなく、
海水は
艇の
半ばを
滿して
居るが、
何は
兎もあれ
天の
助と
打よろこび、
少年をば
浮標に
托し、
私は
舷側に
附いて
泳ぎながら、
一心に
海水を
酌出し、
曉の
頃になつて
漸く
水も
盡きたので、
二人は
其中に
入り、
今は
何處と
目的もなく、
印度洋の
唯中を
浪のまに/\
漂流つて
居るのである。
第九回
大海原の
小端艇
亞尼の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
恐しき
一夜は
遂に
明けた。
東の
空が
白んで
來て、
融々なる
朝日の
光が
水平線の
彼方から、
我等の
上を
照して
來るのは
昨日に
變らぬが、
變り
果てたのは
二人の
境遇である。
昨日までは、
弦月丸の
美麗なる
船室に
暮して、
目醒むると
第一に
甲板に
走り
出て、
曉天の
凉しき
風に
吹かれながら、いと
心地よく
眺めた
海の
面も、
今の
身にはたゞ
物凄く
見ゆるのみである。
眼界の
達する
限り
煙波渺茫たる
印度洋中に、
二人の
運命を
托する
此小端艇には、
帆も
無く、
櫂も
無く、たゞ
浪のまに/\
漂つて
居るばかりである。
今更昨夜の
事件を
考へると
全く
夢の
樣だ。
『あゝ、
何故此樣な
不運に
出逢つたのであらう。』と
私は
昨夜海に
浸つて、
全濡になつた
儘、
黎明の
風に
寒相に
慄へて
居る、
日出雄少年をば
[#「日出雄少年をば」は底本では「日出雄少年をは」]膝に
抱上げ、
今しも、
太陽が
暫時浮雲に
隱れて、
何となく
薄淋しくなつた
浪の
面を
眺めながら、
胸の
鏡に
手を
措くと、
今度の
航海は
初から、
不運の
神が
我等の
身に
跟尾つて
居つた
樣だ。
出港のみぎり
白色檣燈の
碎けた
事、メシナ
海峽で、
一人の
船客が
海に
溺れた
事等、
恰も
天に
意あつて、
今回の
危難を
豫知せしめた
樣である。イヤ
其樣な
無※[#「(禾+尤)/上/日」、116-2]な
事もあるまいが、
子ープルスの
埠頭で、
亞尼が
泣いて
語つた
事は、
不思議にも
的中した。
勿論、
魔の
日魔の
刻の
因縁などは
信ぜられぬが、
老女が
最後の
一言、『
弦月丸には、
珍らしく
澤山の
黄金と
眞珠とが
搭載されて
居ます、
眞珠と
黄金とが
夥しく
海上で
[#「海上で」は底本では「海上て」]集合と
屹度恐る
可き
祟があります。』との
豫言は、
偶然にも
其通りになつて、
是等の
寳物があつたばかりに、
昨夜は
印度洋の
惡魔と
世にも
恐る
可き
大海賊の
襲撃を
蒙り、
船は
沈み、
夫人は
行衞を
失ひ、
吾等も
何時救はるゝといふ
目的もなく、
浪に
揉まるゝ
泡沫のあはれ
果敢き
運命とはなつた。
斯う
考へると
益々氣が
沈んで、
生た
心地もしなかつた。
此時、
太陽は
雲間を
洩れて
赫々たる
光を
射出した。
日出雄少年は
頑是なき
少年の
常とてかゝる
境遇に
落ちても、
昨夜以來の
疲勞には
堪兼ねて、
私の
膝に
凭れた
儘、スヤ/\と
眠りかけたが、
忽ち
可憐の
唇を
洩れて
夢の
聲
『あゝ、おつかさん/\、
貴女は
私を
捨てゝ
何處へいらつしやるの――オ、オ、
子ープルスの
街と
富士山との
間に、ま、ま、
奇麗な
橋が――オヤ、おとつさんが
私の
名を
呼んでいらつしやるよ。』と
少年は、
今は
夢の
間、
懷かしき
父君母君に
出逢つて
居るのである。
あゝ、
彼が
最愛の
父濱島武文は、
遙なる
子ープルスで、
今は
如何なる
夢を
結んで
居るだらう、
少年が
夢にもかく
戀ひ
慕ふ
母君の
春枝夫人は、
昨夜海に
落ちて、
遂に
其行方を
失つたが、
若し
天に
非常の
惠があるならば
萬に一つ
無事に
救はれぬとも
限らぬが、
其儘海の
藻屑と
消えて、
其魂が
天に
歸つたものならば、
此後吾等は
運命よく
無事に
助かる
事があらうとも、
日出雄少年は
夢の
他は、またと
懷かしき
母君の
顏を
見る
事が
出來ぬであらう、
斯う
考へると、
私は
無限に
哀しくなつて、はふり
落つる
涙が
日出雄少年の
顏にかゝると、
少年は
愕いて
目を
醒した。
私の
涙に
曇る
顏を
見て
『あら、
叔父さんは
如何かして。』
私はハツと
心付いたので、
態と
大聲に
笑つて
『なに、
日出雄さんが
眠つてしまつて、
餘り
淋しいもんだから、
大きな
欠伸をしたんだよ。』
少年は
瞼をこすりつゝ、
悄然と
艇の
中を
見廻した。
誰でも
左樣だが
非常な
變動の
後、
暫時夢に
落ちて、
再び
醒めた
時程、
心淋しいものはないのである。
少年齡漸く八
歳、
此悲境に
落ちて、
回顧してあの
優しかりし
母君の
姿や、
ネープルスで
別れた
父君の
事などを
懷ひ
浮べた
時は、まあどんなに
悲しかつたらう、
今、
一片のパンも
一塊の
肉もなき
此みじめな艇中を
見廻して、
再び
[#「再び」は底本では「再ひ」]私の
顏を
眺めた
姿は、
不憫とも
何とも
言はれなかつた。
懷中時計は
海水に
濡されて、
最早物の
用には
足らぬが、
時は
午前の十
時と十一
時との
間であらう、
此時不圖心付くと、
今迄は、たゞ
浪のまに/\
漂つて
居るとのみ
思つて
居つた
端艇が、
不思議にも
矢のやうな
速力で、
東北の
方から
西南の
方へと
流れて
居るのであつた。(
(磁石は無いが方角は太陽の位置で分る))
私は
一時は
喫驚したが、よく
考へると、これは
何も
不思議でない、
今迄それと
心付かなかつたのは、
縹渺たる
大洋の
面で、
島とか
舟とか
比べて
見る
物がなかつたからで、これはよく
有る
事だ。して
見ると、
我が
端艇は、
何時の
間にか
印度洋で
名高い
大潮流に
引込まれたのであらう。
私は
何となく
望のある
樣に
感じて
來たよ。
思ふに
此潮流は
ラツカデヴ群島の
方面から、
印度大陸の
西岸を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、120-2]ぎて、
マダカツスル諸島の
附近より、
亞弗利加の
南岸に
向つて
流れて
行くものに
相違ない、すると
其間には
船に
見出されるとか、
何國かの
貿易港へ
漂着するとか、
兎角して
救助を
得られぬ
事もあるまいと
考へたのである。
然し、
世の
中の
萬事は
左樣幸運く
行くかどうだか。
此潮流の
指して
行く、
亞弗利加の
沿岸及び
南太平洋邊には、
隨分危險な
所が
澤山ある、
却て
食人國とか、
海賊島の
方へでも
押流されて
行つたら、
夫こそ
大變!
然し、
何と
考へたからとて
奈何なるものか。たゞ
天命!
天命!
此時今迄は
晴朗であつた
大空[#ルビの「おほぞら」は底本では「おほそら」]は、
見る/\
内に
西の
方から
曇つて
來て、
熱帶地方で
有名な
驟雨が、
車軸を
流すやうに
降つて
來た。
海の
面は
瀧壺のやうに
泡立つて、
酷いも
酷くないも、
私と
少年とは、
頭を
抱へて、
艇の
底へ
踞つてしまつたが、
其爲に、
昨夜海水に
浸されて、
今漸く
乾きかけて
居つた
衣服は、
再び
びつしよりと
濡れてしまつた。あゝ
天は
何とて
斯く
迄無情なると、
私は
暫時眞黒な
雲を
睨んで、
只更怨んだが、
然し
後に
考へると、
世の
中の
萬事は
何が
禍となり、
何が
幸福となるか、
其時ばかりでは
分らぬのである。
此驟雨があつたばかりに、
其後深く
天の
恩惠を
感謝する
時が
來た。
頓て
雨が
全く
霽れると
共に、
今度は
赫々たる
太陽は、
射る
如く
吾等の
上を
照して
來た。
印度洋中雨後の
光線はまた
格別で、
私は
炒り
殺されるかと
思つた。
其時第一に
堪難く
感じて
來たのは
渇の
苦、
茲だ
禍變じて
幸となると
言つたのは、
普通ならば、
漂流人が、
第一に
困窮するのは
淡水を
得られぬ
事で、
其爲に十
中八九は
斃れてしまうのだが、
吾等は
其難丈けは
免かれた。
先刻瀧のやうに
降注いだ
雨水は、
艇底に
一面に
溜つて
居る、
隨分生温い、
厭な
味だが
[#「味だが」は底本では「味だか」]、
其樣事は云つて
居られぬ。
兩手に
掬つて、
牛のやうに
飮んだ。
渇の
止まると
共に
次には
飢の
苦、あゝ
此樣な
事と
知つたら、
昨夜海中に
飛込む
時に、「ビスケツト
[#「ビスケツト」は底本では「ピスケツト」]」の
一鑵位いは
衣袋にして
來るのだつたにと、
今更悔んでも
仕方がない、
斯うなると
昨夜の
暖な「スープ」や、
狐色の「フライ」や、
蒸氣のホカ/\と
立つて
居る「チツキンロース」などが、
食道の
邊にむかついて
來る。そればかりか、
遠い
昔に、
燒肉が
少し
焦げ
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、122-8]ぎて
居るからと
怒鳴つて、
肉叉もつけずに
犬に
喰はせてしまつた
一件や、「サンドウイツチ」は
職工の
辨當で
御坐るなどゝ
贅澤を
云つて、
車の
窓から
投出した
事などを
懷想して、つくづくと
情なくなつて
來た。
然し
此日は、
無論空腹の
儘に
暮れて、
夜は
夢の
間も、
始終食物の
事を
夢て
居るといふ
次第、
翌日になると
苦さは
又一倍、
少年と
二人で
色青ざめて、
顏を
見合はして
居るばかり、
果は
艇舷の
材木でも
打碎いて、
粉にして
飮まんかとまで、
馬鹿な
考も
起つた
程で、
遂に
日は
暮れ、
船底を
枕に
横つたが、
其夜は
空腹の
爲に
終夜眠る
事が
出來なかつた。
苦しき
夜は
明けて、
太陽はまたもや
現はれて
來たが、
私は
最早起直つて
朝日の
光を
拜する
勇氣も
無い、
日出雄少年は
先刻より
半身を
擡げて、
海上を
眺めて
居つたが、
此時忽ち
大聲に
叫んだ。
『
巨大な
魚が!
巨大な
魚が!』
第十回
沙魚の
水葬
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや/\變な味になりました――またも斷食
少年の
聲に
飛起き
海上を
眺めた
私は
叫んだ。
『
沙魚の
領海!
沙魚の
領海!』
沙魚の
領海とは
隨分奇妙な
名稱だが、
實際印度洋中マルダイブ群島から
數千里南方に
當つて、
斯る
塲所のあるといふ
事は、
甞て
或地理書で
讀んだ
事があるが、
今、
吾等の
目撃したのは
確かにそれだ。
小は四五
尺より
大は二三
丈位いの
數※[#「一/力」、124-5]の
沙魚が、
群をなして
我端艇の
周圍に
押寄せて
來たのである。
此魚族は、
極めて
性質の
猛惡なもので、
一時に
斯く
押寄せて
來たのは、
疑もなく、
吾等を
好き
餌物と
認めたのであらう。
私も
其群を
見て
忽ち
野心が
[#「野心が」は底本では「野心か」]起つた。
今かく
空腹を
感じて
居る
塲合に、あの
魚を一
尾捕へたらどんなに
嬉しからうと
考へたが、
網も
釣道具も
無き
身のたゞ
心を
焦つばかりである。
此時不意に、
波間から
跳つて、
艇中に
飛込んだ
一尾の
小魚、
日出雄少年は
小猫の
如く
身を
飜して、
捕つて
押へた。『に、
逃しては。』と
私も
周章てゝ、
其上に
轉びかゝつた。
此時の
嬉しさ!
見ると一
尺位いの
鰺で、
巨大なる
魚群[#ルビの「ぎよぐん」は底本では「ぎよぐく」]に
追はれた
爲[#ルビの「ため」は底本では「た」]に、
偶然にも
艇中に
飛込んだのである。
天の
賜と
私は
急ぎ
取上げた。
實は、
少年と
共に、
只一口に、
堪難き
空腹を
滿したきは
山々だが、
待てよ、
今此小さい
魚を、
周章てゝ
平げたとて
何になる、
農夫は
如何に
飢ても、
一合の
麥[#ルビの「むぎ」は底本では「むき」]を
食はずに
地に
播いて
一年の
策をする、
私も
此小さい
魚を百
倍にも
二百倍にもする
工夫の
無いでもない、よし
此小鰺で、あの
巨大な
沙魚を
釣つてやらうと
考へたので、
少年に
語ると
少年も
大賛成、
勿論釣道具は
無いが、
幸にも
艇中には
端艇を
本船に
引揚げる
時に
使用する
堅固なる
鐵鎖と、それに
附屬して
鉤形の「
Hook」が
殘つて
居つたので、それを
外して、
鉤に
只今の
小鰺を
貫いてやをら
立上つた。
天涯渺茫たる
絶海の
魚族は、
漁夫の
影などは
見た
事もないから、
釣れるとか
釣れぬとかの
心配は
入らぬ、けれど
餘りに
巨大なるは、
端艇を
覆へす
懼があるので
今しも
右舷間近に
泳いで
來た三四
尺の
沙魚、『
此奴を。』と
投込む
餌の
浪に
沈むか
沈まぬに、
私は『やツ。しまつた。』と
絶叫したよ。
海中の
魚族にも、
優勝劣敗の
數は
免かれぬと
見へ、
今小い
沙魚の
泳いで
[#「泳いで」は底本では「泳いて」]居つた
波の
底には、
驚く
可き
巨大の一
尾が
居りて、
稻妻の
如く
躰を
跳らして、
只一
口に
私の
釣ばりを
呑んでしまつたのだ。
忽ち、
潮は
泡立ち、
波は
逆卷いて、
其邊海嘯の
寄せた
樣な
光景、
私は
一生懸命に
鐵鎖を
握り
詰めて、
此處千番に
一番と
氣を
揉んだ。もとより
斯る
巨魚の
暴れ
狂ふ
事とてとても、
引上げる
[#「引上げる」は底本では「引上ける」]どころの
騷でない、
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、126-10]てば
端艇諸共海底に
引込まれんず
有樣、けれど
此時此鐵鎖が
如何して
放たれやうぞ、
沙魚が
勝つか、
私が
負けるか、
釣れると
釣れぬは
生死の
分れ
目、
日出雄少年は
眼をまんまるにして、
此凄まじき
光景を
眺めて
居つたが、
可憐の
姿は
後から
私を
抱き
『オヽ、
危い
事!
危い
事!。』と
叫ぶ。
『なに、なに、
大丈夫!
大丈夫!。』と
私は
眞赤になつて
仁王の
如く
屹立つた。
兎角する
間に
今迄は、
其邊を
縱横に
暴廻つて
居つた
沙魚は、
其氣味惡き
頭を
南方に
向けて、
恰も
矢を
射るやうに
駛り
出した。
端艇も
共に
曳かれて、
疾風のやうに
駛るのである。
私はいよ/\
必死だ。
『さあ、
斯うなつたら
逃す
事でないぞ。』と
最早腹の
空しい
事も、
命の
危險な
事も、
悉皆忘れてしまつた。
兎角して
約三
時間ばかりは、
狂ひ
走る
沙魚のために
曳かれて、いつしか
潮の
流をも
脱し、
沙魚の
領海からはすでに十四五
海里も
距つたと
思ふ
頃、
流石に
猛惡なる
魚も
遂に
疲勞れ
斃れて、
其眞白なる
腹部を
逆に
海面に
泛んだ。ほつと
一息、
引上げて
見ると、
思つたより
巨大な
魚で、
殆んど
端艇の
二分の
一を
塞いでしまつた。
『まあ、
醜い
魚です
事。』と
少年は
氣味惡相に、
其堅固なる
魚頭を
叩いて
見た。
『はゝゝゝゝ。
酷い
目に
逢つたよ。
然しこれで
當分餓死する
氣遣はない。』と
私は
直ちに
小刀を
取出した。
勿論沙魚といふ
魚は
左程美味なものではないが、
此塲合には
いくら喰つても
喰足らぬ
心地。
『
日出雄さん、
餘りやると
胃を
損じますよ。』と
氣遣顏の
私さへ、
其生臭い
肉を
口中充滿に
頬張つて
居つたのである。
此大漁獲があつたので、
明日からは
餓死の
心配はないと
思ふと、
人間は
正直なもので、
其夜の
夢はいと
安く、
朝の
寢醒も
何時になく
胸穩であつた。
其翌日は、
漂流以來はじめて
少し
心が
落付いて、
例の
雨水を
飮み、
沙魚の
肉に
舌皷打ちつゝ、
島影は
無きか、
船の
煙は
見へぬかと
始終氣を
配る、けれど
此日は
何物も
眼を
遮るものとてはなく、
其翌日も、
空しく
蒼渺たる
大海原の
表面を
眺むるばかりで、たゞ
我端艇は
沙魚の
爲に
前の
潮流を
引出だされ、
今は
却て
反對流とて、
今度は
西南から
東方に
向ひ、
マルヂヴエ群島の
邊から
南方に
向つて
走るなる、
一層流勢の
速い
潮流に
吸込まれて
居ると
覺つた
時、
思はず
驚愕の
聲を
發した
事と、
甞て
物の
本で
讀んだ
夥しき
鯨の
群を
遙の
海上に
眺めた
事の
他は、
何の
變つた
事もない。
勿論、
今の
境涯とて
决して
平和な
境涯ではないが、すでに
腹に
充分の
力があるので、
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、129-11]る
日よりは
餘程元氣もよく、
赫々たる
熱光の
下、
日出雄少年は
私の
顏を
見詰めて『おや/\、
叔父さんは
何時の
間にか、
黒奴になつてしまつてよ。』と
自分の
顏は
自分には
見えず、
昨日の
美少年も、
今は
日に
燒け、
潮風に
吹かれて、
恰も
炭團屋の
長男のやうになつた
事には
氣の
付かぬ
無邪氣さ、
只更私の
顏を
指し
笑つたなど、
苦しい
間にも
隨分滑※[#「(禾+尤)/上/日」、130-5]な
話だ。
其日も
暮れ、
翌日は
來つたが
矢張水や
空なる
大洋の
面には、
一點の
島影もなく、
船の
煙も
見えぬのである。
然るに
茲に
一大事件が
起つた。それは
他でもない、
吾等が
生命の
綱と
頼む
沙魚の
肉がそろ/\
腐敗し
始めた
事である。
最初から
多少此心配の
無いでもなかつたが、
兎に
角、
世に
珍らしき
巨大の
魚の、
左樣容易に
腐敗する
事もあるまいと
油斷して
居つたが、
其五日目の
朝、
私はふとそれと
氣付いた。
然し
今の
塲合何も
言はずに
辛抱して
喰つたが、
印度洋の
炎熱が、
始終其上を
燒く
樣に
照して
居るのだから
堪らない、
其晝食の
時、
一口口にした
無邪氣の
少年は、
忽ち
其肉を
海上に
吐き
出して、
『おや/\、どうしたんでせう、
此魚は
變な
味になつてよ。』と
叫んだのは、
實に
心細い
次第であつた。
夕方になると、
最早畢世の
勇氣を
振つても、とても
口へ
入れる
心は
出ぬ。さりとて
此大事な
生命の
綱を、むさ/″\
海中に
投棄てるには
忍びず、なるべく
艇の
隅の
方へ
押遣つて、またもや四五
日前のあはれな
有樣を
繰返して
一夜を
明したが、
翌朝になると、ほと/\
堪えられぬ
臭氣、
氣も、
魂も、
遠くなる
程で、
最早此腐つた
魚とは
一刻も
同居し
難く、
無限の
恨を
飮んで、
少年と
二人で、
沙魚の
死骸をば
海底深く
葬つてしまつた。
サア、これからは
又々斷食、
此日も
空しく
暮れて
夜に
入つたが、
考へると
此後吾等は
如何になる
事やら、
絶望と
躍氣とに
終夜眠らず、
翌朝になつて、
曉の
風はそよ/\と
吹いて、
東の
空は
白んで
來たが、
最早起上る
勇氣もない、『えい、
無益だ/\、
糧食は
盡き、
船は
見えず、
今更たよる
島も
無い。』と
思はず
叫んだが、
不圖傍に
日出雄少年が
安らかに
眠つて
居るのに
心付き、や、
詰らぬ
事をと、
急ぎ
其方を
見ると
少年は、
今の
聲に
驚き
目醒め、むつと
起きて、
半身を
端艇の
外へ
出したが、
忽ち
驚き
悦の
聲で
『
島が!
島が!
叔父さん、
島が!
島が!。』
『
島がツ。』と
私も
蹴鞠のやうに
跳起きて
見ると、
此時天全く
明けて、
朝霧霽れたる
海の
面、
吾が
端艇を
去る
事三海里ばかりの、
南方に
當つて、
椰子、
橄欖の
葉は
青
と
茂つて、
磯打つ
波は
玉と
散る
邊、
一個の
島が
横つて
居つた。
第十一回
無人島の
響
人の住む島か、魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱した――海軍士官の顏
此島は、
遠くから
望むと、
恰も
犢牛の
横つて
居る
樣な
形で、
其面積も
餘程廣い
樣だ。
弦月丸の
沈沒以來十
數日間は、
青い
空と、
青い
波の
外は
何一つも
眺めた
事のない
吾等が、
不意に
此島を
見出した
時の
嬉しさ、
翅あらば
飛んでも
行きたき
心地、けれど
悲しや、
心付くと
吾端艇には
帆もなく、
櫂も
無い。
近い
樣でも
海上の三
里は
容易でない、
無限の
大海原に
漂つて
居つた
間こそ、
島さへ
見出せば、
直ちに
助かる
樣に
考へて
居つたが、
仲々左樣は
行かぬ。まご/\して
居れば
再び
何處へ
押流されてしまうかも
分らぬ。
今は
躊躇しては
居られぬ
塲合、
私は
突如眞裸になつて
海中へ
跳込んだ
[#「跳込んだ」は底本では「跳込んた」]、
隨分覺束ない
事だが、
泳ぎながらに、
端艇をだん/″\と
島の
方へ
押して
行かんとの
考、
艇中からは
日出雄少年、
楓のやうな
手で
頻りに
波を
掻分けて
居る、
此樣事で、
舟は
動くか
動かぬか、
其遲緩さ。けれど
吾等の
勞力は
遂に
無益とならで、
漸の
事で
島に
着いたのは、かれこれ
小半日も
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134-5]てから
後の
事、
僅か
三里の
波の
上を、
六時間以上とは
甚だ
遲い
速力ではあるが、それでも
私は
死ぬ
程辛苦かつた。
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134-7]る十
有餘日の
間、よく
吾等の
運命を
守護して
呉れた
端艇をば、
波打際にとゞめて
此島に
上陸して
見ると、
今は五
月の
中旬すぎ、
翠滴らんばかりなる
樹木は
島の
全面を
蔽ふて、
遙か
向ふは、
野やら、
山やら、
眼界も
屆かぬ
有樣。
吾等の
上陸した
邊は
自然の
儘なる
芝原青々として、
其處此處に、
名も
知れぬ
紅白さま/″\の
花が
咲亂れて、
南の
風がそよ/\と
吹くたびに、
陸から
海までえならぬ
香氣を
吹き
送るなど、たゞさへ
神仙遊樂の
境、
特に
私共は、
極端なる
苦境から、
此極端なる
樂境に
上陸した
事とて、
初めは
自ら
夢でないかと
疑はるゝばかり。さあ
斯うなると
今迄張詰めて
居つた
氣も
幾分か
緩んで
來て、
疲勞も
飢も
感じて
來る。
斯程の
島だから、
何か
食物の
無い
事もあるまいと
四方を
見渡すと、
果して二三
町距つた
小高い
丘の
中腹に、
一帶の
椰子、バナヽの
林があつて、
甘美しき
果實は
枝も
垂折れんばかりに
成熟して
居る。
二人は
宙飛ぶ
如く
驅付けて、
喰ふた
喰はぬは
言ふ
丈け
無益、
頓て
腹も
充分になると、
次に
起つて
來た
問題は、
一躰此島は
如何なる
島だらう、
見渡す
處、
隨分巨大な
島の
樣だが、
世界輿地圖の
表面に
現はれて
居るものであらうか、
矢張印度洋中の
孤島だらうか、それともズツト
東方に
偏して、
ボル子オ群島の一つにでも
屬して
居るのではあるまいか。
氣※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、135-12]の
工合や、
草木の
種類などで
觀ると、
亞弗利加の
沿岸にも
近い
樣な
氣持もする。
然し
此樣な
事は
如何に
考へたとて
分る
筈のものでない、それよりは
此島は
元來無人島か、
否かゞ
一大問題だ、
無人島ならばそれ/\
別に
覺悟する
處もあるし、よし
人の
住居して
居る
島にしても、
懼る
可き
野蠻人の
巣窟でゞもあればそれこそ
一大事、
早速遁出す
工夫を
廻らさねばならぬ、それを
知るには
兎も
角も
此島を
一周して
見なければならぬと
考へたので、
少年と
手を
携へてそろ/\と
歩み
出した。
島の
一周といつて、
此島はどの
位い
廣いものやら、また
道中に
如何なる
危險があるかも
分らぬが、
此處に
漠然として
居つて、
島の
素性も
分らず
氣味惡く
一夜を
明すよりは
勝だと
考へたので、
之より
足の
續かん
限り
日の
暮るゝ
迄進んで
見る
積りだ。
先づ
進行の
方向を
定めねばと、
吾等は
林の
間を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、136-12]ぎて
丘の
絶頂に
登つた。
眺望すると、
北の
一方は
吾等が
渡つて
來た
大洋で、
水天髣髴として
其盡る
所を
知らず、
眼下に
瞰おろす
海岸には、
今乘捨てゝ
來た
端艇がゆらり/\と
波に
揉まれて、
何時の
間に
集つて
來たか、
海鳥の
一簇が
物珍らし
相に
其周圍を
飛廻つて
居る。
東と
西と
南の
三方は
此島の
全面で、
見渡す
限り
青々とした
森つゞき、
處々に
山もある、
谷も
見える、また

か/\の
先方に
銀色の
一帶の
隱見して
居るのは、
其邊に
一流の
河のある
事が
分る。
私は
此光景を
見て
實に
失望した、
見渡した
所此島の
模樣は
疑もなき
無人島! かく
全島が
山と、
森と、
谷とで
蔽はれて
居つては、
今更何處へと
方向を
定める
事も
出來ぬのである、
之からあんな
深山幽谷に
進入するのは、
却て
危險を
招くやうなものだから、
島の
探險は
一先づ
中止して、
兎も
角も
再び
海岸に
皈らんと
踵を
廻らす
途端、
日出雄少年は
急に
歩を
停めて
『あら、あの
音は?。』と
眼を

つた。
『
音?。』と
私も
思はず
立止つて
耳を
濟すと、
風が
傳て
來る
一種の
響。
全く
無人島と
思ひきや、
何處ともなく、トン、トン、カン、カン、と
恰も
谷の
底の
底で、
鐵と
鐵とが
戞合つて
居るやうな
響。
『
鐵槌の
音!。』と
私は
小首を
傾けた。
此樣な
孤島に
鍛冶屋などのあらう
筈はない、
一時は
心の
迷かと
思つたが、
决して
心の
迷ではなく、
寂莫たる
空にひゞひて、トン、カン、トン、カンと
物凄い
最早疑はれぬ。けれど
私は
心付くと、
響の
源は
决して
近い
所ではなく、
四邊がシーンとして
居るので
斯く
鮮かに
聽えるものゝ、
少くも三四
哩の
距離は
有るだらう、
何は
兎もあれ
斯る
物音の
聽ゆる
以上は、
其處に
何者かゞ
居るに
相違ない、
人か、
魔性か、
其樣な
事は
考へて
居[#ルビの「を」は底本では「をら」]られぬ、
兎に
角探險と
覺悟したので、そろ/\と
丘を
下つた。
丘を
下つて
耳を
澄すと、
響は
何んでも、
島の
西南に
當つて
一個の
巨大な
岬がある、
其岬を
越えての
彼方らしい。
いよ/\
探險とは
决心したものゝ、
實は
薄氣味惡い
事で、
一體物音の
主も
分らず、また
行く
道にはどんな
災難が
生ずるかも
分らぬので、
私は
萬一の
塲合を
慮つて、
例の
端艇をば
波打際にシカと
繋止め、
何時危險に
遭遇して
遁げて
來ても、
一見して
其所在が
分るやうに、
其處には
私の
白シヤツを
裂いて
目標を
立て、
勢を
込めて
少年と
共に
發足した。
海岸に
沿ふて
行く
事七八
町、
岩層の
小高い
丘がある、
其丘を
越ゆると、
今迄見えた
海の
景色も
全く
見えずなつて、
波の
音も
次第/\に
遠く/\。
此時少年は
餘程疲勞れて
見えるので、
私は
肩車に
乘せて
進んだ。
誰でも
左樣だが、
餘りにシーンとした
處では、
自分の
足音さへ
物凄い
程で、とても
談話などの
出來るものでない。
斯る
島の
事とて、
路などのあらう
筈はなく、
熊笹の
間を
掻分けたり、
幾百千年來積り
積つて、
恰も
小山のやうになつて
居る
落葉の
上を
踏んだり、また
南半球に
特有の
黄乳樹とて、
稍にのみ
一團の
葉があつて、
幹は
丁度天幕の
柱のやうに、
數百間四方規則正しく
並んで
居る
奇妙な
林の
下を

つたりして、
道の
一里半も
歩んだと
思ふ
頃、
一個の
泉の
傍へ
來た。
清らかな
水が
滾々と
泉み
流れて、
其邊の
草木の
色さへ
一段と
麗はしい、
此處で
一休憩と
腰をおろしたのは、かれこれ
午後の五
時近く、
不思議なる
響は
漸く
近くなつた。
日出雄少年は、
其泉の
流に
美麗なる
小魚を
見出したとて、
魚を
追ふに
餘念なき
間、
私は
唯ある
大樹の
蔭に
横つたが、いつか
睡魔に
襲はれて、
夢となく
現となく、いろ/\の
想に
包まれて
居る
時、
不意に
少年は
私の
膝に
飛皈つた。『
大變よ/\、
叔父さん、
猛獸が/\。』と
私の
肩に
手を
掛けて
搖り
醒す。
『
猛獸がツ。』と
私は
夢から
飛起きた。
少年の
指す
方を
眺めると
如何にも
大變!
先刻吾等の
通※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、141-6]して
來た
黄乳樹の
林の
中より、
一頭の
猛獸が
勢鋭く
現はれて
來たのである。
『
猛狒!。』と
私の
身の
毛は
一時に
彌立つたよ。
世に
獅子が
猛烈だの、
狼が
兇惡だのといつて、
此猛狒ほど
恐ろしい
動物はまたとあるまい、
動物園の
鐵の
檻の
中に
居る
姿でも、
一見して
戰慄する
程の
兇相、それが
此深林の
中で
襲來したのだから
堪らない。
私はハツト
思つて
一時は
遁出さうとしたが、
今更遁げたとて
何の
甲斐があらう、もう
絶體絶命と
覺悟した
時、
猛狒はすでに
目前に
切迫した。
身長七
尺に
近く、
灰色の
毛は
針の
如く
逆立ち、
鋭き
爪を
現はして、スツと
屹立つた
有樣は、
幾百十年の
星霜を
此深林に
棲暮したものやら
分らぬ。
猛惡なる
猴の
本性として、
容易に
手を
出さない、
恰も
嘲る
如く、
怒るが
如く、
其黄色い
齒を
現はして、
一聲高く
唸つた
時は、
覺悟の
前とはいひ
乍ら、
私は
頭から
冷水を
浴びた
樣に
戰慄した、けれど
今更どうなるものか。
私は
日出雄少年を
背部に
庇護つて、キツと
猛狒の
瞳孔を
睨んだ。すべて
如何なる
惡獸でも、
人間の
眼光が
鋭く
其面に
注がれて
居る
間は、
决して
危害を
加へるものでない、
其眼の
光が
次第々々に
衰へて、
頓て
茫乎とした
虚を
窺つて、
只一息に
飛掛るのが
常だから、
私は
今喰殺されるのは
覺悟の
前だが、どうせ
死ぬなら
徒は
死なぬぞ、
斯く
睨合つて
居る
間に、
先方に
卯の
毛の
虚でもあつたなら、
機先に
此方から
飛掛つて、
多少の
痛さは
見せて
呉れんと
考へたので、
眼を
放たず
睥睨して
居る、
猛狒も
益々猛く
此方を
窺つて
居る、
此九死一生の
分れ
目、
不意に、
實に
不意に、
何處ともなく
一發の
銃聲。つゞいて
又一發[#ルビの「いつぱつ」は底本では「いつはつ」]、
猛狒は
思ひがけなき
二發の
彈丸に
射られて、
蹴鞠のやうに
跳上つた。
吾等も
喫驚して
其方を
振向くと、
此時、
吾等の
立てる
處より、
大約二百ヤード
許離れた
森の
中から、
突然現はれて
來た
二個の
人がある。
『や、や、
日本人!
日本人!。」と
少年も
私も
驚愕と
喜悦に
絶叫したよ。
實に
夢ではあるまいか。
現はれ
來つた
二個の
人は
紛ふ
方なき
日本人で、
一人[#ルビの「ひとり」は底本では「ひいり」]は
色の
黒々とした
筋骨の
逞ましい
水兵の
姿、
腰に
大刀を
横へたるが、キツと
此方を
眺めた、
他の
一人は、
威風凛々たる
帝國海軍士官の
服裝、
二連銃の
銃身を
握つて
水兵を
顧見ると、
水兵は
勢鋭く五六
歩此方へ
走り
近づく、
此時二發の
彈丸を
喰つた
猛狒は
吾等を
打捨てゝ、
奔馬の
如く
馳せ
向ひ、
一聲叫ぶよと
見る
間に、
電光の
如く
水兵の
頭上目掛けて
飛掛つた。
水兵ヒラリと
身を
躱すよと
見る
間に、
腰の
大刀は
※手[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、144-5]も
見せず、
猛狒の
肩先に
斬込んだ。
猛狒怒つて
刀身を
双手に
握ると、
水兵は
焦つて
其胸先を
蹴上げる、
此大奮鬪の
最中沈着なる
海軍士官は
靜かに
進み
寄つて、
二連銃の
筒先は
猛狒の
心臟を
狙ふよと
見えしが、
忽ち
聽ゆる
一發の
銃聲。七
尺有餘の
猛狒は
苦鳴をあげ、
鮮血を
吐いて
地上に
斃れた。
私と
少年とは
夢に
夢見る
心地。
韋駄天の
如く
其傍に
走り
寄つた
時、
水兵は
猛獸に
跨つて
止めの
一刀、
海軍士官は
悠然として
此方に
向つた。
私は
餘りの
嬉しさに
言もなく、
其人の
顏を
瞻めたが、
忽ち
電氣に
打たれたかの
如く
愕き
叫んだよ。
『やあ、
貴方は
櫻木海軍大佐
。』
大佐も
愕然として
私の
顏を
見詰めたが
『や、
貴下は――。』と
言つた
儘、
暫時言葉もなかつたのである。
櫻木海軍大佐! 々々々。
此人の
名は
讀者諸君の
御記臆に
存して
居るか
否か。
私が
子ープルス港を
出港のみぎり、
圖らずも
注意を
引いた
反古新聞の
不思議なる
記事中の
主人公で、
既に
一年半以前に
或秘密を
抱いて、
部下卅七
名の
水兵等と
一夜奇怪なる
帆走船に
乘じて、
本國日本を
立去つた
人、
其人に
今や
斯かる
孤島の
上にて
會合するとは、
意外も、
意外も、
私は
暫時五里霧中に
彷徨したのである。
第十二回
海軍の
家
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
櫻木海軍大佐は
暫時して
口を
開いた。
『
實に
意外です、
君が
此樣な
絶島へ――。』といひつゝ、
染々と
吾等兩人の
姿を
打瞻め
『
此處は
印度洋もズツト
南方に
偏した
無人島で、
一番に
近い
マダカツスル群島へも
一千哩以上、
亞細亞大陸や、
歐羅巴洲までは、
幾千幾百哩あるか
分らぬ
程で、
到底尋常では
人の
來るべき
島ではありませんが。』といと
審かし
氣なる
顏。
『イヤ、
全く
意外です。』と
私は
進寄つた。
斯る
塲合だから、
勿論委しい
事は
語らぬが、
船の
沈沒から
此島へ
漂着までの
大略を
告げると、
大佐も
始めて
合點の
色、
『
其樣な
事だらうとは
想ひました、
實に
酷い
目にお
逢になりましたな。』と、
今しも
射殺したる
猛狒の
死骸に
眼を
注いで
『
實は
先刻急に
思ひ
立つて、
此兵曹と
共に
遊獵に
出たのが、
天幸にも
君等をお
助け
申す
事になつたのです。』と
言ひながら、
大空を
仰ぎ
見て。
『いろ/\
委しい
事を
承りたいが、
最早暮るゝにも
近く、
此邊は
猛獸の
巣窟ともいふ
可き
處ですから、
一先づ
我が
住家へ。』と
銃の
筒を
擡げた。
私は
話の
序に、
日出雄少年の
事をば
一寸語つたので、
大佐は
凛たる
眼を
少年の
面に
轉じ
『おゝ、
可愛らしい
兒ですな。』と
親切に
其頭を
撫でつゝ、
吾等の
傍に
勇ましき
面して
立てる
水兵を
顧み
『これ、
武村兵曹、
此少年を
撫恤つてあげい。』
言下に
武村と
呼ばれたる
兵曹は、つと
進寄り
威勢よく
少年を
抱上げて
『ほー、
可愛らしい
少年だ、サア
私の
頭へ
乘つた/\。』と
肩車に
乘せて、ズン/\と
前へ
走り
出[#ルビの「だ」は底本では「た」]した。
櫻木海軍大佐等の
住へる
家までは、
此處から
一哩程ある
相だ。
此時ふと心に
思つたのは、
先刻から
鐵の
響の
發する
處は
其處ではあるまいか、
行く
道中、
大佐はさま/″\の
事を
私に
問ひかけた。けれど、
私は
大佐の
今の
境遇に
就いては、
一言も
問を
發しなかつた。
差當つて
尋ねる
必要も
無く、また
容易ならざる
大佐の
秘密をば、
輕率に
問ひかけるのは、
却て
禮を
失すると
思つたからで。
然し
先夜の
反古新聞の
記事から
推及して、
大佐が
今現に
浮世の
外なる
此孤島に
在る
事、また
今も
聽ゆる
鐵の
響などから
考へ
合はせると
朧ながらもそれと
思ひ
當る
節の
無いでもない。
櫻木海軍大佐は
今[#ルビの「いま」は底本では「いは」]や
此島中に
身を
潜めて
[#「身を潜めて」は底本では「身をを潜めて」]兼て
企つるといふ、
軍事上の
大發明に
着手して
居るのではあるまいか。
讀者諸君も
恐らく
此邊の
想像は
付くだらう。
猛狒と
大奮鬪の
塲所から
凡そ七八
町も
歩んだと
思ふ
頃、
再び
海の
見える
所へ
出た。それから、
丘陵二つ
越え、
一筋の
清流を
渡り、
薄暗い
大深林の
間を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、149-7]ぎ、
終に
眼界の
開くる
所、
大佐の
家を
眺めた。
大佐の
家は、
海面より
數百尺高き
斷崖の
上に
建られ、
前は
果しなき
印度洋に
面し、
後は
美麗なる
椰子の
林に
蔽はれて
居る。
勿論、
此樣な
絶島の
事だから、
决して
立派な
建築ではない、けれど
可なり
巨大な
板家で、
門には
海軍の
家と
筆太に
記され、
長き、
不恰好な
室が
何個も
並んで
見へるのは、
部下卅七
名の
水兵等と
同居の
爲だらう。
二階に
稍や
體裁よき
三個の
室、
其一室の
窓に、
白い
窓掛が
風に
搖いで
居る
所は、
確に
大佐の
居間と
思はるゝ。
吾等が
其家に
近づいた
時、
日出雄少年を
肩にした
武村兵曹は
一散に
走つて
行つて、
快活な
聲で
叫んだ。
『サア、
皆の
水兵出た/\、
大佐閣下のお
皈りだよ、それに、
珍らしい
賓人と、
可愛らしい
少年とが
御坐つた、
早く
出て
御挨拶申せ/\。』
聲に
應じて、
家に
殘つて
居つた
一團の
水兵は
一同部室から
飛んで
出た。いづれも
鬼神を
挫がんばかりなる
逞ましき
男が、
家の
前面に
一列に
並んで、
恭しく
敬禮を
施した。
武村兵曹は
彼等の
仲間でも
羽振りよき
男、
何か
一言二言いふと、
勇ましき
水兵の
一團は、
等しく
帽を
高く
飛して、
萬歳を
叫んだ、
彼等は
其敬愛する
櫻木大佐の
知己たる
吾等が、
無事に
此島に
上陸したる
事を
祝して
呉れるのであらう。
大佐は
此樣を
見て
微笑を
泛べた。
『
實に
感謝に
堪えません。』と
私は
不測に
涙の
流るゝを
禁じ
得なかつた。
無邪氣なる
日出雄少年は
眼を
まんまるにして、
武村兵曹の
肩上で
躍ると。
快活なる
水兵の
一群は
其周圍を
取卷いて、『やあ、
可愛らしい
少年だ、
乃公にも
借せ/\。』と
立騷[#ルビの「たちさわ」は底本では「ちちさわ」]ぐ、
櫻木大佐は
右手を
擧げて
『これ、
水兵、
少年は
痛く
疲勞て
居る、あまり
騷いではいかぬ』と
打笑みつゝ
『それより
急ぎ
新客の
部室の
仕度をせよ、
部室は
二階の
第二號室――
余の
讀書室を
片付けて――。』と。
斯く
命じ
終つた
大佐は、
武村兵曹の
肩から
日出雄少年を
抱き
寄せ、
私に
向つて
『
一先づ
私の
部室へ。』と
前に
立つた。
導かるゝまゝに
入込んだのは、
階上の
南端の
一室で、十
疊位いの
部室、
中央の
床には
圓形のテーブルが
据へられ、
卓上には、
地球儀や
磁石の
類が
配置され、
四邊の
壁間には
隙間も
無く
列國地圖の
懸けられてあるなど、
流石に
海軍士官の
居室と
見受けられた。
大佐の
好遇にて、
此處で、
吾等は
水兵等が
運んで
來た
珈琲に
咽を
霑ほうし、
漂流以來大に
渇望して
居つた
葉卷煙葉も
充分に
喫ひ、また
料理方の
水兵の
手製の
由で、
極めて
形は
不細工ではあるが、
非常に
甘味い
菓子に
舌皷打ちつゝ、
稍や十五
分も
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、152-10]たと
思ふ
頃、
時計は
午後の
六時を
報じて、
日永の五
月の
空も、
夕陽西山に
舂くやうになつた。
此時大佐は
徐かに
立上り、
私に
向ひ
『
吾等は
之より
一定の
職務があるので、
暫時失敬、
君等は
後に
靜に
休息し
玉へ、
私は八
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、153-3]再び
皈つて
來て、
晩餐をば
共に
致しませう。』と
言ひ
殘して
何處ともなく
立去つた。
後へ
例の
快活なる
武村兵曹がやつて
來て、
武骨なる
姿に
似ず
親切に、
吾等の
海水に
染み、
天日に
焦されて、ぼろ/\になつた
衣服の
取更へやら、
洗湯の
世話やら、
日出雄少年の
爲には、
特に
小形の「フランネル」の
水兵服を、
裁縫係の
水兵に
命ずるやら、いろ/\
取計らつて
呉れる、
其間に、
大佐より
命令のあつた
吾等の
居室の
準備も
出來たので、
其處に
導かれ、
久々にて
寢臺の
上へ
横つた。はじめの
間は
日出雄少年も
私も
互に
顏を
見合せては
此不思議なる
幸運をよろこび、
大佐等の
懇切なる
待遇を
感謝しつゝ、いろ/\と
物語つて
居つたが、
何時か十
數日以來の
烈しき
疲勞の
爲めに、
知らず/\
深き
夢に
落ちた。
第十三回
星影がちら/\
歡迎――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか/\面白いよ――三年の後
それから
幾時間眠つたか
知らぬが、
不意に
私の
枕邊で
『サア、
賓客、もう
暗くなりましたぜ、
大佐閣下もひどくお
待兼で、それに、
夕食の
御馳走も
悉皆出來て、
料理方の
浪三めが、
鳥の
丸燒が
黒焦になるつて、
眼玉を
白黒にして
居ますぜ。』と
大聲に
搖醒すものがあるので、
愕いて
目を
醒すと、
此時日は
全く
暮れて、
部室の
玻璃窓を
透して、
眺むる
海の
面には、
麗はしき
星影がチラ々々と
映つて
居つた。
私を
呼醒したのは
快活なる
武村兵曹であつた。
其右手に
縋つて、
可憐なる
日出雄少年はニコ/\しながら
『
叔父さん、
私はもう
顏を
洗つて
來ましてよ。』と、
睡醒に
澁る
私の
顏を
仰いだ。オヤ/\、
少年にまで
寢太郎と
見られたかと、
私は
急ぎ
清水に
顏を
淨め、
兵曹の
案内に
從つて
用意の
一室へ
來て
見ると、
食卓の
一端には、
櫻木大佐は二三の
重立つた
水兵を
相手に、
談話に
耽つて
居つたが、
吾等の
姿を
見るより、
笑を
此方に
向け
『
武村が、とう/\
御安眠を
妨害しましたね。』と、
水兵に
命じて
二個の
倚子を
近寄せた。
食卓の
對端には、
武村兵曹他三名の
水兵が
行儀よく
列び、
此方には、
日出雄少年を
中に
挿んで、
大佐と
私とが
右と
左に
肩を
並べて、
頓て
晩餐は
始まつた。
洋燈の
光は
煌々と
輝いて、
何時の
間にか、
武骨なる
水兵等が、
優しい
心で
飾立てた
挿花や、
壁間に『
歡迎』と
巧妙に
作られた
橄欖の
緑の
葉などを、
美くしく
照して
居る。かゝる
孤島の
事だから、
御馳走は
無いがと
大佐の
言譯だが、それでも、
料理方の
水兵が
大奮發の
由で、
海鼈の
卵子の
蒸燒や、
牡蠣の
鹽
や、
俗名「イワガモ」とかいふ
此島に
澤山居る
鴨に
似て、
一層味の
輕い
鳥の
丸燒などはなか/\の
御馳走で、
今の
私の
身には、
世界第一のホテルで、
世界第一の
珍味を
供せられたよりも
百倍も

しく
感じた。
晩餐後、
喫茶がはじまると、
櫻木大佐をはじめ
同席の
水兵等は、ひとしく
口を
揃へて『
御身が
此島へ
漂着の
次第を
悉しく
物語り
玉へ。』といふので、
私は
珈琲を
一口飮んで、
徐ろに
語り
出した。
先づ、
私が
世界漫遊の
目的で、
横濱の
港を
出港した
事から、はじめ
米國に
渡り、それより
歐羅巴諸國を
遍歴した
次第。
伊太利の
國子ープルス港で、
圖らずも
昔の
學友、
今は
海外貿易商會の
主人として、
巨萬の
富を
重ねて
居る
濱島武文に
邂逅ひ、
其處で、
彼が
妻なる
春枝夫人と
其愛兒日出雄少年とに
對面なし、
不思議なる
縁につながれて、
三人は
日本へ
皈らんと、
弦月丸に
同船した
事、
出帆前、
亞尼といへる
御幣擔ぎの
伊太利の
老女が、
船の
出帆が
魔の
日魔の
刻に
當るとて、
切に
其夜の
出發を
止めた
事。
怪の
船の
双眼鏡一件、
印度洋上の
大遭難の
始末、
其時春枝夫人の
殊勝なる
振舞、さては
吾等三人が
同時に、
弦月丸の
甲板から
海中に
飛込んだのに
拘らず、
春枝夫人のみは
行方知れずなつた
事、それより
漂流中いろ/\の
艱難を
經て、
漸く
此島へ
漂着した
迄の
有樣を
脱漏もなく
語ると、
聽く
人、
或は
驚き、
或は
嘆じ、
武村兵曹は
木像のやうになつて、
眼を
巨大くして、
息をも
吐かず
聽いて
居る、
其他の
水兵も
同じ
有樣。
語り
終つた
時、
櫻木海軍大佐は
靜かに
顏を
上げた。
『
實に、
君の
經歴は
小説のやうです。』と
言つた
儘、
暫時私の
顏を
瞻めて
居つたが、
物語の
中でも、
春枝夫人の
殊勝なる
振舞には、
少[#ルビの「すく」は底本では「すな」]なからず
心を
動かした
樣子。
特に
櫻木大佐は、
春枝夫人の
令兄なる
松島海軍大佐とは、
兄弟も
及ばぬ
親密なる
間柄で、
大佐がまだ
日本に
居つた
頃は
始終徃來して、
其頃、
乙女であつた
春枝孃とは、
幾度も
顏を
合した
事もある
相で、
今其美はしく
殊勝なる
夫人が、
印度洋の
波間に
見えずなつたと
聞いては、
他事と
思はれぬと、そゞろに
哀を
催したる
大佐は、
暫時して
口を
開いた。
『けれど、
私は
常に
確信して
居ます、
天には
一種の
不思議なる
力があつて、
身も
心も
美くしき
人は、
屡々九死の
塲合に
瀕しても、
意外の
救助を
得る
事のあるものです。』と
言ひながら
今しも
懷かしき
母君の
噂の
出でたるに、
逝にし
夜の
事ども
懷ひ
起して、
愁然たる
日出雄少年の
頭髮を
撫でつゝ
『
私はどうも
春枝夫人は、
其後無事に
救はれた
樣に
想はれる。
此樣な
事を
云ふと
妙だが、
人は
[#「人は」は底本では「人はは」]一種の
感應があつて、
私の
如きは
昔からどんな
遠方に
離れて
居る
人でも、『あの
人は
未だ
無事だな』と
思つて
居る
人に、
死だ
例はないのです。それで、
私は
今、
春枝夫人が
波間に
沈んだと
聞いても、どうも
不幸なる
最後を
遂げられたとは
思はれない、
或は
意外の
救助を
得て、
子ープルスなる
良君の
許へ
皈つて、
今頃は
却て、
君等の
身の
上を
憂慮て
居るかも
知れませんよ。』と
言葉を
切つて、
淋し
相に
首項垂れて
居る
日出雄少年の
項に
手を
掛け
『それに
就けても、
惡む
可きは
海賊船の
振舞、かゝる
惡逆無道の
船は、
早晩木葉微塵にして
呉れん。』と、
明眸に
凛乎たる
光を
放つと、
聽く
日出雄少年は、プイと
躍立つて。
『
眞個に/\、
海軍の
叔父さんが
海賊船を
退治するなら、
私は
敵の
大將と
勝負を
决しようと
思ふんです。』
『
其處だツ、
日本男兒の
魂は――。』と
木像のやうに
默つて
居つた
武村兵曹は
不意に
叫んだ。
『
其時は、
此武村新八郎が
先鋒ぢや/\。』と
威勢よくテーブルの
上を
叩き
廻すと、
皿は
跳つて、
小刀は
床に
落ちた。それから、
例の
魔の
日魔の
刻の
一件に
就いては、
水兵一同は
私と
同じ
樣に、
無※[#「(禾+尤)/上/日」、160-9]な
話だと
笑つてしまつたが、
獨櫻木大佐のみは
笑はなかつた。
無論、
縁起的には、
其樣な
事は
信ぜられぬが、かの
亞尼とかいへる
老女は、
何かの
理由で、
海賊船が
弦月丸を
狙つて
居る
事をば、
豫め
知つて
居つたのかも
知れぬ。それが
或事情の
爲めに
明言する
事も
出來ず、さりとて
主家の
大難を
知らぬ
顏に
打※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、161-2]るにも
忍びで、かくは
縁起話に
托言けて、
其夜の
出發を
止めたのかも
知れぬ。と
語つた。
成程斯う
聽いて
見れば、
私も
思ひ
當る
節の
無いでもない。また、
海賊船海蛇丸の
一條については、
席上いろ/\な
話があつた。
大佐の
語る
處によると、
海賊島云々の
風聞も
實際の
事で、
其海賊仲間と
或強國との
間に、
一種の
密約の
存して
居る
事も、
海事に
審しき
船員社會には、
殆ど
公然の
秘密となつて
居る
由。かゝる
惡魔はどうしても
塵殺しなければならぬと、
水兵等一同の
意氣組。
さてまた、
弦月丸沈沒の
間際に、
船長をはじめ
船員一同の
醜態は、
聽く
人愕き
怒らざるなく、
短氣の
武村兵曹は
眼を
光らして
『やあ/\、
呆れた
人間共だ、
其樣な
臆病な
船長なんかは、
逃げたとてどうせ
六な
事はあるまい、
波でも
喰つて
斃死つてしまつたらうが、
※一[#「一/力」、162-2]生きてゞも
居やうものなら、
此武村新八が
承知しねえ、
世間の
見懲に、
一ツ
横ツ
腹でも
蹴破つて
呉れようかな。』と
怒鳴る。
大佐は
笑ひ、
水兵等は
腕を
叩き、
日出雄少年と
私とは
爽快に
顏を
見合はした。
斯る
物語に
不知不測夜を
更し、
頓て
私の
遭難實談も
終ると、
櫻木大佐は、
此時稍や
面を
改めて
私に
向つた。
『
今迄のお
話で、
君が
此島へ
漂着の
次第は
分つたが、さて
此後は
如何になさる
御决心です。』
决心如何といふのは、
吾等兩人かゝる
絶島に
漂着した
今、
無理にも
本國へ
皈りたいか、
又は
或便宜を
得るまで、
大佐等と
此島に
滯在する
覺悟があるかとの
問だと
私は
考へたので、
無論、
一日も
速かに
日本へ
皈りたいのは
山々だが、
前後の
事情を
察すると、
今此人に
向つて、
其樣な
我儘は
言はれぬのである。で
私は
簡單に
『たゞ
天命と、
大佐閣下とに、
吾等の
運命を
委ぬるのみです。』と
答へると、
大佐は
暫時小首を
傾けたが
『
然らば、
君等は
或時期まで、
此島に
滯在せねばなりません。』と
斷乎と
言放つた。
私は
默つて
點頭いた。
大佐は
言をつゞけ
『
實に
致し
方が
無いのです。
勿論君が
御决心で、
運命を
全く
天に
任せて、
再び
小端艇で、
印度洋の
波を
越えて、
本國へお
皈りにならうと
仰つしやれば、
仕方がありませんが、
私は
决して、
其樣な
無法な
事を
望みません、
其他の
手段では、
到底今日や
明日に、
此島を
出發する
方法もありませんから、
止むを
得ず、
或時期までは、
吾等の
一行と
共に、
此絶島に
御滯在の
外はありません。』
『それは
覺悟の
前です。』と
私は
答へて
『たゞ
無用なる
吾等が、
徒らに
貴下等を
煩はすのを
憂ふるのみです。』と
語ると、
大佐は
急ぎ
其言を
遮り
『いや/\、
私は
却て、
天外※里[#「一/力」、164-6]の
此樣な
島から、
何時までも、
君等に
故郷の
空を
望ませる
事を
情なく
感ずるのです。』と
嘆息しつゝ
『あゝ、
此樣な
時に、せめて
浪の
江丸が
無難であつたらば。』と
武村兵曹の
顏を
見た。
浪の
江丸とは、
例の
反古新聞に
記されて
居つた
名で、はじめ、
大佐の
一行を
此島へ
搭せて
來た
一大帆前船、あゝ、あの
船も、
今は
何かの
理由で、
此海岸にあらずなつたかと、
私は
窓の
硝子越しに
海面を
眺めると、
星影淡き
波上には、一二
艘淋し
氣に
泛んで
居る
小端艇の
他には、
此大海原を
渡るとも
見ゆべき
一艘の
船もなかつた。
武村兵曹は
腕を
組んで
『さあ、
斯うなると
惜しい
事をした。
浪の
江丸さへ
無事であつたら、
私が
巧く
舵をとつて、
直ぐに
日本まで
送つてあげるのだが、
此前の
大嵐の
晩に、とうとう
磯に
打上げられて、めちや/\になつて
仕舞つたから、
今更何といふても
仕方が
無い。』と
言ひつゝ
少年に
向ひ
『だが、
此島も
仲々面白いよ、
魚も
澤山釣れるし、
獅子狩も
出來るし、
今に
皈りたく
無くなるよ。』
大佐は
苦笑しながら
『
誰が、
此樣な
離れ
島に
永住を
望むものか。』とばかり、
私に
向ひ
『
然し、
何事も
天命です。けれど
君よ、
决して
絶望し
玉ふな。
吾等は
何時か、
非常の
幸福を
得て、
再び
芙蓉の
峯を
望む
事が
出來ませう――イヤ
確信します、
今より
三年の
後は
屹度其時です。』と
言放つて、
英風颯々、
逆浪岩に
碎くる
海邊の、
唯ある
方角を
眺めた。
第十四回
海底の
造船所
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
其翌朝日出雄少年と
私とが
目醒めたのは八
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、166-10]で
櫻木海軍大佐は、
武村兵曹をはじめ
一隊の
水兵を
引卒れて、
何處へか
出去つた
後であつた。
朝餉を
運んで
來た
料理方の
水兵は、
大佐が
外出の
時の
言傳だとて、
左の
如く
語つた。
『
大佐は、
今朝も
定れる
職務に
參るが、
昨夜は
取紛れて
語らず、
今朝は
猶ほ
御睡眠中なれば、
此水兵を
以て
申上げるが、
此住家の十
町以内なれば、
何處へ
行かるゝも
御自由なれど、
其以外は、
猛獸毒蛇等の
危害極めて
多ければ、
决して
足踏みし
玉ふな、
大佐は
夕刻に
皈つて、
再び
御目にかゝる
可し。』との
注意。
私も
少年も、
今猶ほ十
數日以來の
疲勞を
感じて
居るので、
其樣に
高歩きする
氣遣はないが、まして
此注意があつたので、
一層心を
配り、
食後は、
日記を
書いたり、
少年と
二人で、
海岸の
岩の
上から
果しなき
大海原を
眺めたり、
家の
後の
椰子林で、
無暗に
美しき
果實を
叩き
落したり、または
家に
殘つて
居つた
水兵に
案内されて、
荒磯のほとりで、
海鼈を
釣つたりして、
一日を
暮してしまつた。
夕日の
沈む
頃、
櫻木大佐も
武村兵曹も、
痛く
疲れて
皈つて
來たが、
終日延氣に
遊んだ
吾等兩人の
顏の、
昨日よりは
餘程勝れて
見へるとて、
大笑ひであつた。
此夜も
夜更まで
色々の
快談。
翌朝、
私はまだ
大佐の
外出前だらうと
思つて、
寢床を
離れたのは
六時頃であつたが、
矢張大佐等は、
今少し
前に
家を
出たといふ
後、また
※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、168-6]かつたりと、
少年と
二人で、
二階の
窓に
倚つて
眺めると、
此時、
朝霧霽るゝ
海岸の
景色。
此家を
去る
事十
數町の
彼方に、
一帶の
灣がある、
逆浪白く
岩に
激して
居るが、
其灣中、
岩と
岩とが
丁度屏風のやうに
立廻して、
自然に
坩※[#「堝」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、168-9]の
形をなして
居る
處、
其處に
大佐の
後姿がチラリと
見えた。
『あら、
海軍の
叔父さんは、あの
岩の
後へ
隱れておしまいになつてよ。』と、
日出雄少年は
審かし
氣に
私を
瞻めた。
私は
默然として、
猶も
其處を
見詰めて
居ると、
暫時して
其不思議なる
岩陰から、
昨日も
一昨日も
聽いた、
鐵の
響が
起つて
來た。
午前十
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、169-3]になると、
武村兵曹丈け
一人ヒヨツコリと
皈つて
來て
『サア、
之から
獅子狩だ/\。』と
勇勸めるのを、
私は
漸の
事で
押止めたが、
然らば
此島の
御案内をといふので、それから、
山だの、
河だの、
谷の
底だの、
深林の
中だの、
岩石が
劍のやうに
削立つて
居る
荒磯の
邊だのを、
兵曹の
元氣に
任せて
引廻はされたので、
酷く
疲れてしまつた。
此遊歩の
間、
武村兵曹の
命ずる
儘に、
始終吾等の
前になり、
後になつて、
豫め
猛獸毒蛇の
危害を
防いで
呉れた、
一頭の
猛犬があつた。
名は
稻妻といつて、
櫻木大佐の
秘藏の
犬の
由、
形は
犢牛程巨大く、
毛の
眞黒な、
尾のキリヽと
卷上つた、
非常に
逞ましき
犬で、それが
痛く
日出雄少年の
氣に
入つて、
始終『
稻妻や/\。』と、
一處になつて
走廻つて
居る
内に、いつか
仲がよくなつて、
夕刻、
家に
歸つた
時も、
稻妻は
此可憐なる
少年と
戯れつゝ、
思はず
二階まで
驅上つて、
武村兵曹に
箒で
追出された
程で、
日出雄少年は
此犬の
爲めに、
晩餐の
美味しい「ビフステーキ」を、
其儘窓から
投げてやつてしまつた。
さて、
其翌日になると、
日出雄少年は、
稻妻といふ
好朋友が
出來たので、
最早私の
傍にのみは
居らず、
朝早くから
戸外に
出でゝ、
波青く、
沙白き
海岸の
邊に、
犬の
脊中に
跨つたり、
首に
抱着いたりして、
餘念もなく
戯れて
居るので、
私は
一人室内に
閉籠つて、
今朝大佐から
依頼された、
或航海學の
本の
飜譯にかゝつて
一日を
暮してしまつた。
此飜譯は、
仕事の
餘暇、
水兵等に
教授の
爲にと、
大佐が
餘程以前から
着手して
居つたので、
殘り
五分の
一程になつて
居つたのを、
徒然なるまゝ、
私が
無理に
引受けたので、
其飜譯の
全く
終つた
頃、
大佐は
例の
樣に、
夕暮の
海岸を
一隊の
水兵と
共に
歸つて
來た。
昨夜も、
一昨夜も、
夕食果てゝ
後は
部室の
窓を
開放して、
海から
送る
凉しき
風に
吹かれながら、さま/″\の
雜談に
耽るのが
例であつた。
今宵もおなじ
樣に、
白い
窓掛の
搖ぐほとりに
倚子を
並べた
時、
櫻木大佐は
稍や
眞面目に
私に
向つて。
『
今夜は
更つて、
少しお
話し
申す
事がある。』と
私の
顏を
凝視めた。
更つての
話とは
何事だらうと、
私も
俄かに
形を
改めると、
大佐は
吸殘りの
葉卷をば、
窓の
彼方に
投げやりて、
靜かに
口を
開いた。
『
柳川君、
私は
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、171-12]る
日黄乳樹の
林の
邊で、
圖らずも
君等の
急難をお
助け
申した
時から、
左樣思つて
居つたのです。
稀にも
人の
來べき
筈のない
此樣な
離れ
島へ、
偶然とはいへ、
昔馴染の
君の
見へたのは、
全く
天の
導のやうなもので、
之から
數年間、
同じ
家に、
同じ
月を
眺めて
暮すやうな
運命になつたのも、
何かの
因縁でせう。
私に
一個の
秘密がある、
此秘密は
私と、
私の
腹心の三十七
名の
水兵と、
帝國海軍部内の
某々有司の
他には、
誰も
知つて
居る
者は
無いのです、また、
决して、
他に
洩すまじき
秘密ですが、
今斯くなつて
同じ
境遇に、
長き
月日を
暮す
間には、
何時か
君等の
前に、
其事の
表顯ずには
終るまい。』
斯く
言ひかけて、
大佐は
靜かに
眼をあげ
『
君も
私が
何んの
爲に
此島へ
來たか、
今や
何を
爲しつゝあるやに
就いて、
多少の
御考察はあるでせう。』
さてこそ、と、
私は
片唾を
飮んだ。
『
朧ながら、
或想像を
描いて
居ります。』と
答へると、
大佐は
打點頭き
『
此秘密は、
實に
私の
生命です。
今は
數年の
昔、
君は
御記臆ですか、
船の
甲板で、
私が
奇妙なる
詩を
吟じ、また、
歐洲列國の
海軍力の
増加と、
我國の
現况とを
比較して、
富の
度より、
機械學の
進歩上より、
我國は
今日の
如く、
啻に
數艘の
軍艦の
多くなつた
位や、
區々たる
軍器の
製造にも、
多く
彼等の
後を
摸傚して
居る
樣では、
到底東洋の
平和を
維持し、
進んで
外交上の
一大權力を
握る
事は
覺束ない、
一躍して、
歐の
上に、
米の
上に、
位する
樣になるには、
茲に
一大决心を
要する。
即ち
震天動地の
軍事上の
大發明をなして、
其發明は
軍機上の
大秘密として、
我國にのみ
特にあり、
他邦には
到底見るべからず、
歐米諸國も
之ある
限りは、
最早日本に
向つて
不禮を
加ふる
可からずとまで、
戰慄恐懼する
程の
大軍器の
發明を
要すると
申した
事を、かの
時は、
君も
單に
快哉と
叫んだのみ、
私も
一の
希望として、
深く
胸の
奧に
潜めて
居つたが、
其後幾年月の
間、
苦心に
苦心を
重ねた
結果、
一昨年の十一
月三十
日、
私が
一艘の
大帆走船に、
夥しき
材料と、卅七
名の
腹心の
部下とを
搭載て、はる/″\
日本を
去り、
今や
此無人島に
身を
潜めて
居るのは、
全く、
兼て
企つる、
軍事上の
一大發明に
着手して
居るのです――。
左樣、
不肖ながら、
此櫻木が
畢世の
力を
盡して、
我帝國海軍の
爲めに、
前代未聞の
或有力なる
軍器の
製造に
着手して
居るのです。』
果然!
果然! と
私は
胸を
跳らせた。
大佐は
言をつゞけ
『
此邊の
事は、
本國でも
人の
風評に
上り、
君にも
幾分の
御想像は
付いたらうが、
果して
如何なる
發明であるかは、
其物の
全く
竣成する
迄は、
誰も
知つて
居る
者はない、
私は
外國の
軍事探偵や、
其他利己心多き
人々の
覬覦から、
完全に
其秘密を
保たんが
爲めに、
自ら
此樣な
孤島に
身を
忍ばせて、
其製造をも
極めて
内密にして
居る
次第だが――。』と
言ひかけて、
言葉に
一段の
力を
込め
『けれど
柳川君よ、
君は
不思議にも、
天の
導のやうに、
我等の
仲間に
入つて
來ました。
今前後の
事情より
考へ、また
君の
人物を
信ずるので、
若し、
君に
確固たる
約束があるならば、
今日に
於て、
此大秘密を、
君に
明言して
置く
事の、
寧ろ
得策なるを
信ずるのです。』
『え、
私に、
其大秘密を――。』と、
私は
倚子から
立上つた。
大佐は
沈重なる
聲で
『
左樣、
私は
君を
確信します、
若し
君は
我等の
同志の
士として、
永久に
此の
秘密を
守る
事を
約束し
玉はゞ、
請ふ
誠心より
三度天に
誓はれよ。』
私は
猶豫もなく、
堅き
誓を
立てると、
大佐はツト
身を
起して
私の
手を
握り
『
誓は
形式です。けれど
愛國の
情深き
君は、
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、176-4]つても
此秘密をば、
無用の
人に
洩し
玉ふな。』
『
斷じて/\、たとへ
此唇が
裂かるゝとも。』と
私は
斷乎として
答へた。
大佐は
微笑を
帶びて
私の
顏を
眺めた。さて
其秘密は
如何なる
物にや、
此夜はたゞ
誓に
終つて、
詳密なる
事は、
明日、
其秘密の
潜められたる
塲所に
於て、
實物に
就て、
明白に
示さるゝとの
事、
此夜は
其儘寢床に
横つたが、いろ/\の
想像に
驅られて、
深更まで
夢に
入る
事が
出來なかつた。
人間は
勝手なもので、
私は
前夜は
夜半まで
眠られなかつたに
係らず、
翌朝は
暗い
内から
目が
醒めた。五
時三十
分頃、
櫻木大佐は
武村兵曹を
伴つて、
私の
部室の
戸を
叩いた。
之より
其秘密なる
塲所へ
出掛けるのである。
三人は
家を
出で、
朝霧深き
海岸を
北へと
進んだ。
武村兵曹は
猛犬の
稻妻を
從へて、
常に
十歩ばかり
前へ
進むので、
私と
大佐とは
相並んで
歩んだが、
一言も
無い。あゝ、
其秘密なる
發明とは
何であらう。
有力なる
軍器と
云へば、
非常なる
爆發力を
有する
彈丸の
種類かしら、それとも、
一種の
魔力を
有する
大砲の
發明であらうか。イヤ/\、
大佐の
口吻では、もつと
有力なる
發明であらうと、
樣々の
想像を
描いて
居る
内に、
遂に
到着したのは、
昨曉、
大佐の
後影をチラリと
認めた
灣中の
屏風岩の
邊、
此處で、
第一に
不思議に
感じたのは、
此屏風形の
岩は、
遠方から
見ると、
只一枚丈け
孤立して
居るやうだが、
今、
其上へ
登つて
見ると、
三方四方に
同じ
形の
岩がいくつも
重り
合つて、
丁度羅馬古代の
大殿堂の
屋根のやうな
形をなし、
其下は
疑もなき
大洞窟で、
逆浪怒濤が
隙間もなく
四邊に
打寄するに
拘らず、
洞窟の
中は
極めて
靜謐な
樣子で、
吾等の
歩む
毎に、
其跫音はボーン、ボーン、と
物凄く
響き
渡つた。
屏風岩の
上を二十ヤードばかり
進むと、
正面に
壁のやうに
屹立つたる
大巖石の
中央に、
一個の
鐵門があつて、
其鐵門の
前には、
武裝せる
當番の
水兵が
嚴肅に
立つて
居つたが、
大佐等の
姿を
見るより、
恭しく
敬禮を
獻げた。
近づいて
見ると、
鐵門の
上部には、
岩に
刻まれて「
秘密造船所」の五
字が
意味あり
氣に
現はれて
居つた。
第十五回
電光艇
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
武村兵曹は
腰なる
大鍵を
索つて、
鐵門の
扉と
開いた。
『
此處が
秘密の
塲所の
入口です。』と
櫻木海軍大佐は
私を
顧見た。
此時はまだ
工事も
始まらぬと
見へ、
例の
鐵の
響も
聽えず、
中はシーンとして、
凄い
程物靜かだ。
私は
二人の
案内に
從つて、
鐵門を

つたが、はじめ十
歩ばかりの
間は
身を
屈めて
歩む
程で、
稍や
廣くなつたと
思ふと、
直ぐ
前には、
岩に
刻んで
設けられた
險しい
階段がある、
其階段を
降り
盡すと、
眞暗になつて、
恰も
墜道のやうに
物淋しい
道を、
武村兵曹が
即座に
點じた
球燈の
光に
照して、
右に
折れ、
左に
轉じて、
凡そ百四五十ヤードも
進むと、
岩石が
前と
後に
裂け
離れて、
峽をなし、
其間を
潮が
矢の
如く
洞外から
流れ
入り、
流れ
去つて
居る。
峽上には
一筋の
橋があつて、それを
渡ると
又た
鐵の
扉だ。
武村兵曹は
前と
同じ
樣に
其扉を
押開くと、
同時にサツと
射込む
日の
光、
疑もない、
扉の
彼方は
明るい
所だ、
兵曹はプツと
球燈を
吹消す、
途端に、
櫻木大佐は
私に
向ひ
『
此處です。』と
一言を
殘して、
先づ
鐵門を

つた、
私もつゞいて
其中に
入ると、
忽ち
見る、
此處は、
四方數百間の
大洞窟で、
前後左右は
削つた
樣な
巖石に
圍まれ、
上部には
天窓のやうな、
巨大な
岩の
裂目があつて、
其處から
太陽の
光は
不足なく
洞中を
照してをるのである。
耳を
傾けると、
何處ともなく
鼕々と
浪の
音の
聽ゆるのは、
此削壁の
外は、
怒濤逆卷く
荒海で、
此處は
確に
海底數十尺の
底であらう。
此塲の
光景のあまりに
天然に
奇體なので、
私は
暫時、
此處は
人間の
境か、それとも、
世界外の
或塲所ではあるまいかと
疑つた
程で、
更に
心を
落付けて
見ると、
總ての
構造は
全く
小造船所のやうで、
宏大なる
洞窟の
中は
數部に
分たれ、
船渠、
起重機、
製圖塲等の
整備はいふ
迄もなく、
錬鐵塲には
鎔解爐あり、
大鐵槌あり、
鑄物塲には
造型機、
碎砂機を
具へ、
旋盤塲には
縱削機、
横削機、
平鉋盤、
鑽孔機の
配置よろしく、
製罐塲には
水壓打鋲機あり、
工作塲には
屈撓器、
剪斷機あり。
圓鋸機、
帶形鋸機のほとりには、
角材、
鐵材山の
如く、
其他、
空氣壓搾喞筒、
電氣力發機等の
緻密なる
機械より、
銀鑞、
白鑞、タール
綱、マニラ
綱、
帆縫糸、
撚糸、
金剛砂布、
黒鉛、
氣發油、
白絞油、ラジーン
塗具、
錆色塗具、
銅板、
鐵板、
鋼板、
亞鉛塊、ガツタバーカー
板、エボナイト
板、
硝子板、
硝子管、
舷窓用厚硝子、
螺旋鋲、
鋼
鋲、
眞鍮鑄鋲、
石絨衞帶、
彈心衞帶等に
至るまで、よくも
斯る
絶島にかく
迄整然たる
凖備の
出來た
事よと
怪しまるゝばかりで、これ
等の
諸機械諸材料は、すべて二
年以前に、
櫻木大佐が
大帆船浪の
江丸に
搭載して、
此島に
運搬し
來つたもので、
今はそれ/″\
適當の
位置に
配置されて、すでに
幾度の
作用をなした
形跡は
歴然と
見える。
此時忽ち
私の
眼に
留つたのは
此不思議なる
洞中造船所の
中央に
位して、
凹凸の
岩の
形が
自然に
船臺をなしたる
處、
其處に
今や
工事中の、
一種異樣の
船體が
認められたのである。
『これが、
私の
秘密に
製造しつゝある、
海底戰鬪艇です。』と、
櫻木海軍大佐は
徐ろに
右手を
擧げて、
其船體を
指した。さてこそ、と
私は
胸を
跳らしつゝ
其船躰を
熟視したが、あゝ、
世に
斯くも
不思議なる、
斯くも
強堅なる、
船艦がまたとあらうか、
私は
其外形を
一見したばかりで、
實に
其船形の
巧妙不思議なるに
愕いたが、
更に
大佐に
導かれて、
今は
既に二
年有餘の
歳月を
費して、
船體半ば
出來上つた
海底戰鬪艇の
内部に
入り、
具に
上甲板、
下甲板、「ウオター、ウエー」、「ウ井ング、パツセージ」、
二重底、
肋骨材等諸般の
構造を
眺め、また
千變萬化なる
百種の
機關の
説明を
聽いた
時は、
殆んど
之が
人間の
業かと
疑はるゝばかりで、
吾知らず
驚嘆の
叫聲を
發する
事を
禁じ
得なかつた。あゝ、かくも
神變不可思議なる
海底戰鬪艇は、
今や
此秘密なる
洞中の
造船所に
於て、
櫻木海軍大佐の
指揮の
下に、
夜を
日に
繼いで
製造されつゝあるのであるが、
此猛烈なる
戰艇が、
他日首尾よく
竣工して、
我大日本帝國の
海軍の
列に
加つた
時には、
果して
如何なる
大影響を
世界の
海軍に
及ぼすであらうか。
私は
斷言する、
鷲の
如く
猛く、
獅子の
如く
勇ましき
列國の
艦隊が
百千舳艫を
並べて
來るとも、
日章旗の
向ふ
處、
恐らくば
風靡せざる
處はあるまいと。
敬愛する
讀者諸君よ、
私は
今、
此驚く
可く
懼る
可き
海底戰鬪艇の
構造について、
詳しき
説明を
試みたいのだが、それは
櫻木海軍大佐の
大秘密に
屬するから
出來ぬ。たゞ、
其秘密を
侵さゞる
範圍内に
於て
略言すると、
此海底戰鬪艇は
全艇の
長さ百三十
呎六
吋、
幅員は
中部横斷面に
於て二十二
呎七
吋、
艇の
形は、
恰も
南印度の
蠻人が、
一撃の
下に
巨象を
斃し、
猛虎を
屠るといふ
投鎗の
形に
髣髴として、
其兩端は
一種[#ルビの「いつしゆ」は底本では「しつしゆ」]奇妙の
鋭角をなして
居る、
此鋭角の
度が、
艇の
速力に
關して、
極めて
緊要なる
特色の
相である。
艇の
上部艇首の
方に
位して、
一個の
橢圓形の
觀外塔が
設けられて、
塔上には、
一本の
信號檣の
他には
何物も
無く、
其一端には
自動開閉の
鐵扉が
設けられて、
艇の
將に
海底に
沈まんとするや、
其扉は
自然に
閉ぢ、
艇の
再び
海面に
浮ばんとするや、
其扉は
忽然として
自ら
開くやうになつて
居る。
艇の
全體は
盡く
金屬を
以て
構成せられ、
觀外塔、
上甲板、
兩舷側はいふ
迄もなく、
舵機室、
發射室、
艇員居室等、すべて
一種堅強なる
裝甲をもつて
保護されて
居る、
此裝甲は
現今專ら
行はれて
居る
ハーベー式の
堅硬法を
施したる
鋼板若くは
白銅鋼板等よりは、
數層倍の
彈力性と
抵抗力を
有する
或新式裝甲板にて、
櫻木海軍大佐が
幾星霜の
間、
苦心に
苦心を
重ねた
結果、
六種の
或金屬の
合成は、
現世紀に
於ける
如何なる
種類の
彈丸又は
水雷等をもつて
突撃し
來るとも、
充分之に
抵抗し
得て
餘りありと
信じて、
其新式合成裝甲板を、
此海底戰鬪艇の
各要部に
應用したのである。
此艇の
外形は
以上の
如くであるが、さて
海底戰鬪艇が
敵艦を
轟沈するには、
如何なる
方法に
依るかといふに、それは
二種の
異つたる
軍器の
作用に
依るのである。
今は
工事中であるから、
明瞭に
知る
事は
出來ぬが、
其一種は
艇の
前端に
裝置されたる
極めて
強硬なる、また
極めて
不思議なる「
衝角」
一名「
敵艦衝破器」と
呼ばれたる
軍器で、
此衝角は
世の
常の
甲鐵艦又は
巡洋艦等に
裝置されたものとは
痛く
異りて、
其形は
三尖形の
極めて
鋭利なる
角度を
有し、
艇の
前方十七
呎以上に
突出して、
其鋭利なる
三尖衝角は
艇内發動機の
作用にて、
一秒時間に三百
廻轉の
速力をもつて、
絞車の
如く
廻旋するのであるから、
此衝角の
觸るゝ
所、十四
吋半以上の
裝甲を
有する
鐵艦の
他は、
殆んど
粉韲せられざるものは
有るまいと
思はるゝ、
然し
此三尖衝角は、
此海底戰鬪艇に
左程著るしい
武器ではない、
更に
驚く
可きは、
艇[#ルビの「てい」は底本では「てん」]の
兩舷に
裝置されたる「
新式併列旋廻水雷發射機」で、
此水雷發射機の
構造の、
如何に
巧妙不可思議なるやは、
細密なる
機械製圖等をもつて
説明しなければとても
解らぬが、
先づ
此發射管の
裝置されたる
秘密室には、
一面の
明鏡があつて、
電流の
作用と、二百三十
個の
反射鏡の
作用とによつて、
居ながら
海上海底の
光景を
觀測する
事を
得べく、
自動照凖器をもつて
潮流の
速力を
知り、
波動の
方向を
定め、
海戰既に
始まらは、
艇は
逆浪怒濤の
底を
電光の
如く
駛る、
其間に
立つて、
明鏡に
映る
海上海底の
光景を
眺めつゝ、
白晝ならば
單に
水雷方位盤を
動かすのみ、
夜戰ならば
發火電鑰を
一牽して、
白色、
緑色の
強熱電光を
射出し、
照星照尺を
定めて、
旋廻輪を
一轉すると、
忽ち
電鈴鳴り、
發射框動いて、一
分間に七十八
個の
魚形水雷は、
雨の
如く、
霰の
如く
發射せらるゝのである。
此魚形水雷は、
其全長僅かに二
呎三
吋、
最大直徑三
吋に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、178-12]ぎず、
之を
今日の
海戰に
專ら
行はるゝ
保氏魚形水雷に
比すると、
其大さは七
分の一にも
足らぬが、
氣室、
浮室、
尾片等の
設備整然として、
殊に
其頭部に
裝填せられたる
爆發藥は、
普通魚形水雷の
頭部綿火藥百七十五
斤に
相當して、千四百
碼の
有效距離を四十一
節の
速力をもつて
駛行する
事が
出來るのであるから、
砲聲轟々、
硝煙朦朧たる
海洋の
戰に、
海底戰鬪艇龍の
如く、
鯱の
如く、
怒濤を
蹴つて
駛走しつゝ、
明鏡に
映る
海上の
光景を
展眸して、
發射旋廻輪の
一轉又一轉、
敵艦右舷に
來れば
右舷の
水雷之を
轟沈し、
敵艦左舷に
見ゆれば
左舷の
水雷之を
粉韲するの
有樣は、
殆んど
眼にも
留らぬ
活景であらう。
新式水雷發射管の
構造と、
其猛烈なる
作用とは
略右の
如くであるが、
更に
海底戰鬪艇の
全部を
見渡すと、
艇は
中央の
軍機室より
前後十
敷個に
區劃されて、
海圖室もある、
操舵室もある、
探海電燈室もある。
殊に
浮沈室と
機關室とは
此艇の
最も
主要なる
部分ではあるが、
此事に
就いては
殘念ながら
私の
誓に
對して
一言も
明言する
事は
出來ぬ。たゞ
一寸洩して
置くが、
此艇百種の
機關の
作用を
宰る
動力は
世の
常の
蒸氣力でもなく
電氣力でもなく、
現世紀には
未だ
知られざる
一種の
化學的作用で、
櫻木大佐が
幾年月の
間苦心に
苦心を
重ねたる
結果、
或秘密なる十二
種の
化學藥液の
機密なる
分量の
化合は、
普通の
電氣力に
比して、
殆んど三十
倍以上の
猛烈なる
作用を
起す
事を
發見し、
其を
此艇の
總の
機關に
適用したので、
艇の
進行も、
三尖衝角の
廻旋も、
新式水雷發射機の
運轉も、すべて
此秘密なる
活動力によつて
支配されて
居るのである。
以上で、
吾が
敬愛する
讀者諸君は
髣髴として、
此艇の
構造と
其驚くべき
戰鬪力について、
或想像を
腦裡に
描かれたであらう。
最早煩縟しくいふに
及ばぬ、
此不思議なる
海底戰鬪艇は、
今日世界萬國の
海軍社會に
於て、
互に
其改良と
進歩とを
競ひつゝある
海底潜行艇の
一種である。
然り、
海底潜行艇の
一種には
相違ないが、
然し
私は
單に
此軍艇をば
潜行艇と
呼ぶのみを
以ては
滿足しない、
何となれば
現今歐米諸國の
發明家等は、
毎年のやうに
新奇なる
潜行艇を
發明したと
誇大に
吹聽するものゝ、
其多數は、「
水バラスト」とか、
横舵、
縱舵の
改良とか、
其他排氣啣筒や、
浮沈機等に
尠少ばかりの
改良を
加へたのみで、
其動力は
常に
石油發動力にあらずば、
電氣力と
定まり、
艇形は
葉卷烟草形に
似て、
推進螺旋の
翅の
不思議に
拗れたる
有樣など、
例も
シー、エヂスン氏等の
舊套を
摸傚するばかりで、
成程海中を
潜行するが
故に
潜水艇の
名は
虚僞ではないにしても、
從來の
實例では、
是等の
潜行艇は
海水の
壓力の
爲めと
空氣の
缺乏の
爲に
海底六
呎以下に
沈降するものは
稀で、一
時間以上の
潜行を
持續するものは
皆無といふ
有樣。されば
今世紀に
於て
最も
進歩發達[#ルビの「はつたつ」は底本では「はつだつ」]して
居ると
稱せらるゝ
佛國シエルブル造船所の
一等潜行艇でも、
此二個の
缺點のある
爲に
充分の
働作も
出來ず、
首尾よく
敵艦に
接近しながら、
屡々速射砲等をもつて
反對に
撃沈される
程で、とても、
我が
櫻木海軍大佐の
破天荒なる、
此海底戰鬪艇とは
比較する
事も
出來ぬのである。
今、
此新奇なる
海底戰鬪艇は、
艇底に
設けられたる
自動浮沈機の
作用で、
海底三十
呎乃至五十
呎迄の
深さに
沈む
事を
得べく、
空氣は、
普通の
氣蓄器又は
空氣壓搾喞筒等に
依る
事なく、
艇の
後端に
裝置されたる
或緻密なる
機械の
作用にて、
大中小幾百條とも
知れず、
兩舷より
海中に
突出されたる、
亞鉛管及銅管を
通じて、
海水中より
水素酸素を
分析して
大氣[#ルビの「たいき」は底本では「だいき」]筒中に
導き、
吸鍔棹に
似たる
器械の
上下するに
隨つて、
新鮮なる
空氣は
蒸氣の
如く
一方の
巨管から
艇内に
吹出され、
艇内の
惡分子は、
排氣喞筒によつて
始終艇外に
排出せられるから、
艇は
些も
空氣の
缺乏を
感ずる
事なく、十
時間でも二十
時間でも、
必要に
應じて
海底の
潜行を
繼續する
事が
出來るのである。
速力は
一時間に
平速力五十六
海里、
最速力百〇七
海里。かくも
驚くべき
速力を
有するのは
全く
艇の
形體と、
蒸氣力よりも
電氣力よりも
數十倍強烈なる
動力による
事は
疑を
容れぬが、
殊に
艇尾兩瑞に
裝置されたる
六枚の
翅を
有する
推進螺旋の
不思議なる
廻轉作用の
與つて
力ある
事を
記臆して
貰はねばならぬ。
讀者諸君、
私は
此秘密なる
海底戰鬪艇の
構造については、
最早説明の
筆を
止めるが、
今の
世は
愚か、
後の
世にも
稀にも
見出し
難き
此軍艇が
他日其船渠を
離れて
世界の
海上に
浮んだ
時には、
果して
如何なる
驚愕と
恐怖とを
※國[#「一/力」、193-1]の
海軍社會に
與へるであらうか。
世に
若し
怪物といふ
者があるならば、
此軍艇こそ
確に
地球の
表面に
於て、
最も
恐るべき
大怪物として、
永く
歐米諸國の
海軍社會の
記臆に
留るであらう。
私は
斷言する、
此海底戰鬪艇が
一度逆浪怒濤を
蹴つて
縱横無盡、
隱見出沒の
魔力と
逞しうする
時には、たとへ
百の
艦隊、
千の
大戰鬪艦が
彈丸の
雨を
降らして
對つたとて、とても
此艇の
活動を
妨げる
事は
出來ぬのである。
少し
海軍の
事に
通じた
人は
誰でも
知つて
居る、すでに
海水中十四
呎以下に
沈んだる
或物に
向つては、
世界最強力の
ガツトリング機砲でも、
カ子ー砲でも、
些少の
打撃をも
加ふる
事が
出來ぬのである。
况んや
此海底戰鬪艇は、
波威に
沈降する
事三十
呎乃至五十
呎、
其潜行を
持續し
得る
時間は
無制限であるから、
一度此軍艇に
睥睨まれたる
軍艦は、
恰も
昔物語の
亞剌比亞の
沙漠の
大魔神に
魅られたる
綿羊のごとく、
遁れんとして
遁るゝ
能はず、
鬪はんか、
速射砲も
ガツトリング砲も
到底力及ばぬ
海底の
此大怪物を
奈何せん。
此方海底戰鬪艇は、
我に
敵抗する
艦隊ありと
知らば、
戰鬪凖備を
整ふる
間も
疾しや
遲しや、
敵艦若し
非裝甲軍艦ならば、
併列水雷發射機を
使用する
迄もなく、かの
驚くべき
三尖衝角を
絞車の
如く
廻旋して、
一撃突進、
敵艦を
粉韲する
事を
得可く、
敵艦若し十四
吋以上の
裝甲軍艦ならば、
艇は
逆浪怒濤の
底を
電光の
如く
駛航しつゝ、
鏡に
映る
敵情を
察して、
發射廻旋輪の
一轉又一轉右舷左舷より
發射する
新式魚形水雷は一
分時間に七十八
發。
今三十
隻[#ルビの「せき」は底本では「きせ」]の
一等戰鬪艦をもつて
組織されたる
一大艦隊と
雖も、
日出でゝ
鳥鳴かぬ
内に、
滅盡する
事が
出來るであらう。
あゝ、
海底戰鬪艇!
海底戰鬪艇!
此驚くべく、
恐るべき
一軍艇は
今や
我が
大日本帝國の
海軍の
列に
加はらんが
爲めに、
此絶島の
不思議なる
海底の
造船所内に
於て、
櫻木海軍大佐の
指揮の
下に、
秘かに
製造[#ルビの「せいざう」は底本では「せいさう」]されつゝあるのである。
讀者諸君!
私は
此海底戰鬪艇[#ルビの「かいていせんとうてい」は底本では「かていせんとうてい」]が
他日首尾よく
竣工して、
翩飜[#「翩飜」は底本では「翻飜」]たる
帝國軍艦旗[#ルビの「ていこくぐんかんき」は底本では「ていこぐんかんき」]を
艇尾に
飜しつゝ、
蒼波漫々たる
世界の
海上に
浮んだ
時、
果して
如何なる
戰爭に
向つて
第一に
使用され、また
如何に
目醒ましき
奮鬪をなすやは
多く
言ふ
必要もあるまいと
考へる。
さても、
私が
櫻木海軍大佐と
武村兵曹の
案内に
從つて、
海底戰鬪艇の
縱覽を
終つて
後、
再び
艇外に
出でたのは、かれこれ
二時間程後であつた。それより
洞中の
造船所内を
殘る
隈なく
見物したが、ふと
見ると、
洞窟の
一隅に、
岩が
自然に
刳られて、
大なる
穴倉となしたる
處、
其處に、
嚴重なる
鐵の
扉が
設けられて、
扉の
表面には
黄色のペンキで「
海底戰鬪艇の
生命」なる
數字が
記されてあつた。
『
之は
何ですか。』と
私が
問ふと
大佐は
言葉靜かに
『
此倉庫には
前申した、
海底戰鬪艇の
動力の
原因となるべき
重要の
化學藥液が、十二の
樽に
滿されて
藏められてあるのです。
實に
此藥液の
樽こそ、
海底戰鬪艇の
生命ともいふべき
物です。』と
答へた。
此他猶ほ、
見もし
聞もしたき
事は
澤山あつたが、
時刻は
既に八
時に
近く、
艇の
邊には
既に
夥多の
水兵が
集つて
來て、
最早工作の
始まる
模樣、
且つは、
海岸の
家には、
日出雄少年は
只一人で
定めて
淋しく、
待兼て
居る
事だらうと、
思つたので、
私は
大佐に
別を
告げて、
此處を
立去る
事に
决した。たゞ
此秘密造船所を
出づる
前に、
一言聽きたきは、
海底戰鬪艇の
竣成の
期日と、
此艇の
如何に
命名されるかとの
點である。
大佐は
私の
問に
對して、
悠々と
鼻髯を
捻りつゝ
『
若し
不時の
天變が無ければ、
今より
二年九ヶ
月目、
即ち
之から
三度目の
記元節を
迎ふる
頃には、
試運轉式を
擧行し、
引續いて
本島を
出發して、
懷かしき
芙蓉の
峯を
望む
事が
出來ませう。』と
答へ、
艇の
名に
就いては
斯う
言つた。
『
實[#ルビの「じつ」は底本では「じ」]は、
電光艇と
命名する
積です。』
電光艇!
電光艇[#ルビの「でんくわうてい」は底本では「でんこくうてい」]!
如何に
其實に
相應しき
名よと、
私は
感嘆すると、
大佐は
言をつゞけ
『
此艇名は、
我が
敬慕する
山岡鐵舟先生の
詩より
採つたのです。』
『
鐵舟先生の
詩?。』と
私は
小首を
傾けたが、
忽ち
心付いた。
『
電光影裏斬春風、
此詩ですか。』
『それです』と
大佐は
莞爾と
打笑みつゝ
『
他日我が
海底戰鬪艇が、
帝國軍艦旗を
飜して、
千艇※艦[#「一/力」、197-12]の
間に
立つの
時、
願[#ルビの「ねがは」は底本では「ねがほ」]くば
其名の
如く、
神速に、
且つ
猛烈ならん
事を
望むのです。』
此談話が
叔ると、
私は
大佐に
別を
告げ、
武村兵曹に
送られて、
前の
不思議なる
道を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、198-4]ぎて、
秘密造船所の
外へ
出た。
第十六回
朝日島
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の記念塔――成程妙案/\――其處だよ
秘密造船所を
出た
私は、
鐵門のほとりで
武村兵曹に
別れ、
猛犬の
稻妻を
從へて
一散走り、
頓て
海岸の
家へ
皈つて
見ると、
日出雄少年は
只一人で、
淋し
相に
門口の
椰子の
樹の
木蔭に
立つて
居つたが、
私の
姿を
見るより
走り
寄り
『あゝ、
叔父さん、
私はどうせうかと
思つたのです、
起床て
見ると、
叔父さんは
居ないし、
稻妻も
何處かへ
行つてしまつたんですもの。』と
不平顏。
『おゝ、
可愛相に/\。』と
私は
胸に
抱寄せた。
成程私が
今朝未明に
櫻木大佐等と
共に
家を
去つたのは、
未だ
少年が
安らかなる
夢を
結んで
居つた
間で、
其後に
目醒めた
彼は、
例とちがひ
私の
姿も
見えず、また
最愛の
稻妻も
居らぬので、
定めて
驚き
且つ
淋しく
感じた
事であらうと
私は
不測に
不憫になり
『あのね、
日出雄さん、
叔父さんは
故意と
日出雄さんに
淋しい
目を
見せたのでは
無いのだよ。
今朝行つた
處は
暗い
道だの
危ない
橋だのが
澤山あつて、
大佐の
叔父さんや
此叔父さんのやうに、
成長な
人でなければ
行けない
處、
日出雄さんの
樣に
小さい
人[#ルビの「ひと」は底本では「ひど」]が
行くと、
屹度泣きたくなる
程恐い
處なんだから、
默つて
行つたのだよ。』と
言ふと、
日出雄少年は
眼を
擦つて
『
私は、どんな
恐い
處でも
泣かなくつてよ。』
『
泣かない

それは
強い! けれど
今は
危いからいけません、
追付け
成長なつたら、
大佐[#ルビの「たいさ」は底本では「たいた」]の
叔父さんも
喜んで
連れて
行つて
下さるでせう。サ、サ、それよりは
稻妻も
歸つて
來たから、
例の
樣に
海濱へでも
行つて、
面白く
遊んでお
出で。』といふと
日出雄少年は
忽ち
機嫌麗はしく、
今私の
話した
眞暗な
道や、
危い
橋の
事について
聞きた
相に
顏を
上げたが、
此時、
丁度猛犬稻妻が
耳を
垂れ
尾を
掉つて、
其傍へ
來たので、
忽ち
犬の
方に
氣を
取られて
『
稻妻! お
前何處へ
行つたの、さあ、
之から
競走だよ。』と、
私の
膝から
跳つて、
犬の
首輪に
手をかけて、
一散に
磯打つ
浪の
方へ
走り
出した。
私は
家に
歸り、それより
終日室内に
閉籠つて、
兼てより
企てゝ
居つた
此旅行奇譚の、
今迄の
部分の
編輯に
着手して
本書第三回の「
怪の
船」の
邊まで
認めかけると、
日は
暮れ、
日出雄少年も
稻妻と、
一日四方八方を
走り
歩いた
爲に
酷く
疲れて
歸つて
來て、
私の
膝[#ルビの「ひざ」は底本では「ひだ」]に
恁れた
儘、
二人暮れ
行く
空の
景色を
眺めて
居る
頃、
櫻木大佐、
武村兵曹、
他一隊の
水兵は
今日の
業を
終つて、
秘密造船所から
皈つて
來た。
例の
事だが、
此日の
晩餐は
特に
私の
爲には
愉快であつたよ。
何故となれば
昨日までは、
如何に
重要な
事にしろ、
櫻木大佐が
或秘密をば
其胸に
疊んで
私に
語らぬと
思ふと、
多少不快の
感の
無いでもなかつたが、
今は
秘密造船所の
事も、
海底戰鬪艇の
事も
盡く
分り、
且つは
我が
敬愛する
大佐は、
斯る
大秘密をも
明に
洩す
程、
私を
信任して
居るかと
思ふと、
嬉しさは
胸に
滿ち
溢れて、
其知遇を
感ずる
事益々深きと
共[#ルビの「とも」は底本では「とき」]に、
私の
心を
苦しめるのは、たゞ
如何にして
此厚意に
酬いんかとの
一念。たとへ
偶然とはいへ、
此離れ
島に
漂着して、
斯く
大佐の
家に
住み、
大佐をはじめ
武村兵曹其他の
水兵等に
一方ならず
世話になつて
居る
身は、
彼等が
毎日/\
其職務のために
心身を
碎いて
居るのを、
徒らに
手を
拱いて
見て
居るに
忍びぬ。
如何なる
仕事でも、
私の
力に
叶ふ
相當の
義務を
盡したいと
考へたので、
私は
膝を
進めた。
『
大佐よ、
私も
既に
此島の
仲間となつた
今は、
貴下等の
毎日/\の
勞苦をば、
徒らに
傍觀して
居るに
忍びません、
何んでもよい。
鐵材の
運搬役でも、
蒸
機關の
石炭焚きでも
何んでもよいから、
海底戰鬪艇の
竣成するまで、
私を
然るべき
役に
遠慮なく
使つて
下さい。』と
熱心に
語つたが、
大佐は
輕く
點頭くのみで
『ナニ、ナニ、
决して
其樣な
心配は
御無用です、
君と
日出雄少年とは
此島の
賓客であれば、たゞ
食つて
寢て、
自由な
事をして、
電光艇の
竣成する
日まで、
氣永く
待つて
居れば
夫れでよいのです。』と
微笑を
帶びて
『
海底戰鬪艇の
製造には、
極めて
細密なる
設計が
出來て、
一人の
不足をも
許さぬ
代りに、
一人も
増加する
必要がないのです、ちやんと三十三
名の
水兵が
或年月の
間働いて、
豫定通りに
竣功する
手續になつて
居ますから、
君も
少年もたゞ
遊んで
居ればよいのです。』といふ。
大佐の
心では、
吾等兩人が
意外の
椿事の
爲めに、
此樣な
孤島へ
漂着して、
之から
或年月の
間、
飛ぶに
羽なき
籠の
鳥、
空しく
故國の
空をば
眺めて
暮すやうな
運命になつたのをば、
寧ろ
不憫と
思つて
居るのであらう。けれど
私は
默つては
居られぬ。
『イヤ、
左樣では
無いです、
若し
秘密造船所の
仕事に
私の
必要が
無いなら、
料理方でもやります/\。』と
决然言放つと、
此時まで
食卓の
一方に、
默つて
私の
顏を
眺めて
居つた
武村兵曹は、
突然顏を
突出して。
『うむ、
恰好事がある/\。』と
例の
頓狂聲
『
貴方に
料理方だなんて、
其樣な
馬鹿らしい
事が
出來ますか。』と
言ひかけて
櫻木大佐に
眼を
轉じ
『
大佐閣下、
好機會です、
例の
一件、
此島に
紀念塔を
建てる
事を
依頼しては
如何でせう。』
大佐はポンと
掌[#ルビの「たなごゝろ」は底本では「たなじゝろ」]を
叩いた。
『
其事!
余も
丁度考へて
居つた
處だ。』と
私に
向ひ
『
若し、
君が
強いて
或仕事を
望み
玉ふならば。』と
徐ろに
語り
出す
大佐の
言によると。
元來此孤島は
前にも
云ふ
樣に、
未だ、
世界輿地圖の
表面には
現はれて
居らない
程で、
櫻木大佐の
一行が、
初めて
發見した
迄は
全くの
無人島で、
何國の
領地とも
定つて
居らぬ
處だから、
國際法上から
言つても「
地球上に、
新に
發見されたる
島は、
其發見者が
屬する
國家の
支配を
受く」との
原則で、
當然大日本帝國の
新領地となるべき
處である。そこで、
大佐は
今より
二年以前、
其一行と
共に
此海岸[#ルビの「かいがん」は底本では「がいがん」]に
上陸した
時に、
先づ
第一に
此島の
名を「
朝日島」と
命じ、
永久に
大日本帝國の
領土たる
可き
事を
宣言し、それより
以來、
朝日輝く
日の
御旗は、
絶えず
海岸の
一方の
岬頭に
飜て
居るが、さて
熟々と
考へるに、
大佐等が
此島に
上陸したそも/\の
目的は、
秘密なる
海底戰鬪艇を
製造するが
爲で、
艇の
竣成と
共に、
早晩此處を
立去らねばならぬのである
[#「立去らねばならぬのである」は底本では「去立らねばならぬのである」]。
無論、
立去つた
後でも、
永久に
日本帝國の
領土であるべき
事は
疑を
容れぬが、
茲に
頗る
憂慮に
堪えぬのは、
今や、
眼を
放つて
天下の
形勢を
眺むるに、
歐米諸國は
寸尺の
土地と
雖も
自己の
領分となさんと
競爭ひ、
若し
茲に、
一個の
無人島でもあつて、
些かにても
國家の
支配權が
完全に
及んで
居らぬと
見るときは
最早國際法の
原則も
何もあつたもので
無い、
知つても
知らぬ
顏[#ルビの「かほ」は底本では「なほ」]に、
先占の
人が
立てたる
旗をば
押倒して、
自國の
國旗を
飜し、
詰る
所は
大紛爭を
引起して、
其間に
多少の
利益を
占めんと
企てゝ
居る、
實に
其狡猾なる
事言語に
絶する
程だから、
今櫻木大佐は
公明正大に
此島を
發見し、
名けて
朝日島[#ルビの「あさひとう」は底本では「ちさひとう」]と
呼び、
之よりは
我大日本帝國の
領地である
事を
表示する
爲に、
幾本の
日章旗を
海岸に
飜して
置いても、
一朝此處を
立去つた
後の
事は、
少からず
氣遣はれるのである。
無論、
絶海の
孤島であれば、
三年や
五年の
間に
他國の
侵犯を、
蒙るやうな
事はあるまいが、
安心のならぬは
現に
弦月丸の
沈沒の
結果、
偶然にも
此島に
漂着した
吾等兩人の
實例に
照しても、
櫻木大佐の
一行が、
功成り
此處を
立去つた
後に、
何時他國人が
入替つて、
此島に
上陸せまいものでもない、
貪慾飽く
事を
知らぬ
歐米人が、
※一[#「一/力」、207-4]にも
其後此處に
上陸したなら
夫こそ
大變、
何百本の
日章旗が
立つて
居つたにしろ、
其樣な
事には

はぬ、
忽ち
日章旗は
片々に
引裂かれて、
代つて
獅子や
鷲章の
旗が、
我物顏に
此島を
占領する
事であらう。
元より
紛議も
葛藤も
恐るゝ
所でない、
正理は
我にあるのだが、
然し
※里[#「一/力」、207-8]の
波濤を
距てたる
絶島に
於て、
既に
唯一の
確證たる
可き
日章旗を
徹去されたる
後は、
我に十二
分の
道理があつても、
一個の
證據なく、
天下の
承認を
得る
事は
餘程困難であらうと
思ふ。
今は
左迄に
有要とも
見えぬ
此孤島も、
今より三十
年若くば五十
年の
後、
我日本が
世界に
大權力を
振はんとする
時、
西方歐羅巴に
對する
軍略上、
如何に
得易からざる
要鎭となるかは、
追て
分る
時もあらう。
兎も
角も、
决して
他國には
渡すまじき
此朝日島の
占領をば、
今より
完全に
繼續して、
櫻木大佐等の
立去つた
後と
雖も、
動かし
難き
確證を
留め、
※一[#「一/力」、208-5]他國の
容嘴する
塲合には、
一言の
下に、
大日本帝國の
領地である
事を
明示し
得る
計畫を
立てゝ
置かねばならぬ。
斯く
語りかけた
櫻木大佐は
一息つき
『そこで
一個の
妙案を
考へ
出したのです。』と
言ひながら、
頭を
廻らし
『
實は、
此妙案の
發明者は、
武村兵曹と
云つてもよい。』と
打笑ひつゝ
『
武村兵曹、
悉しく
汝から
語つてあげい。』
聲に
應じて、
快活なる
兵曹は
進み
出た。
『
私は
喋る
事が
下手だから、
分らなかつたら、
何度でも
聽返して
下さい。』と
例の
口調で
『
其妙案といふのは
斯うなんです。
貴下も
御存じの
通り、
此朝日島は、
此家の
附近を
除いては、
到る
處皆危險な
塲所で、
深山へ十
里以上も
進んで
行くと、
天狗が
居るか
魔性が
居るか
分らない、イヤ、
正歟、
其樣な
者は
居まいが、
毒蛇や、
猛狒や、
獅子や、
虎の
類が
數知れず
棲んで
居つて、
私の
樣な
無鐵砲な
人間でも、とても
恐ろしくつて
行けぬ
程だから、
誰人だつて
足踏は
出來ませない。そこでね、
私の
考へるには、
今一個の
堅固な
紀念塔を
作へて、
其深山へ
持つて
行つて
建てゝ
來るのだ、
紀念塔の
表面には、ちやんと
朝日島と
刻んで、
此處は
日本帝國の
領地で
御坐る、
何年、
何月、
何日、
櫻木海軍大佐之を
發見すと
記して
置くのだ。すると、
吾等が
此島を
立去つた
後で、
外國人共がやつて
來ても
大丈夫です。
何、
海岸邊の
日の
丸の
旗を
押倒して、
獅子だの、
鷲印の
旗なんか
立てた
處で
無益/\。
此紀念塔の
建てられた
深山までは、
危險だから
誰も
行けない、
行かなければ
其樣な
證據物のある
事は
知らないで
居る。
※一[#「一/力」、210-5]行けば
忽ち
猛獸毒蛇に
喰殺されてしもうから、
死んだ
人間は
無いも
同然。そこで、
外國人が
吾等の
立去つた
後で、
此島へ
上陸して、
此處は
自分が、
第一に
發見した
島だなんかと、
管を
卷ひたつて
無益と
申すのだ。
此方にはちやんと
證據物件が
厶る、そんなに
八釜しく
言ふなら、サア
來て
見なせいと
云つて、
山奧へ
連れて
行つて、
其紀念塔を
見せてやるのだ、どうだい
此字が
讀めぬか「
明治何年、
何月、
何日、
大日本帝國海軍大佐櫻木重雄本島を
發見す、
今は
大日本帝國の
占領地なり、
後れて
此島に
上陸する
者は、
速かに
旗を
卷いて
立去れ」なんかと
記してあるでせう、
奴輩は
喫驚して
卒倒るだらう。
其處を
横面でも
張飛して
追拂らつてやるのだ。』
『あはゝゝゝゝ。』と
私は
聲高く
笑つた。
成程妙案/\。
武骨な
武村兵曹の
考へ
出し
相な
事だ。けれど、
第一に、
其樣危險な
深山へ
如何して
紀念塔を
建てるか、
外國人の
行かれぬ
程危險な
處へは、
吾等だつて
行かれぬ
筈では
無いかと、
隙さず
一本切込むと、
武村兵曹ちつとも
驚かない。
『
其處が
奇々妙々の
發明だよ。』
第十七回
冐險鐵車
自動の器械――斬頭刄形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ、帝國の萬歳を唱へませう
『
其處が、
奇々妙々の
發明だよ。』と
武村兵曹は
澄ました
顏で
『
私だつて、
其樣に
無鐵砲な
事は
言はない、
此工夫は、
大佐閣下も
仲々巧妙と
感心なすつたんです。』と
意氣昂然として
『
冐險鐵車――
左樣自動仕掛けの
鐵檻の
車を
製造して、
其れに
乘つて、
山奧へ
出掛けやうといふんです。』
『む、
鐵檻の
車?。』と
私は
額を
叩いた。
武村兵曹は
此時大佐の
許可を
得て、
次の
室から
一面の
製圖を
携へて
來て、
卓上に
押廣げ
『これです、
自動冐險鐵車の
設計といふのは――
先づ
此鐵檻の
車の
恰形は
木牛に
似て、
長さ二十二
尺、
幅員十三
尺、
高さは
木牛形の
頭部に
於て十二
尺、
後端に
於て十
尺半、
四面は
其名の
如く、
堅牢なる
鐵の
檻をもつて
圍繞まれ、
下床は
彈力性を
有するクロー
鋼板で、
上部は
半面鐵板に
蔽はれ、
半面鐵檻をもつて
作られ、
鐵車は
都合十二の
車輪を
備へ、
其内六
個は
齒輪車で、
此車輪を
運轉する
動力は、
物理學上の
種々なる
原則を
應用せる、
極めて
巧緻なる
自轉の
仕組にて、
車内前部の
機械室には「ノルデン、インヂン」に
髣髴たる、
非常に
堅牢緻密なる
機械の
設けありて、
大、
中、
小、三十七
種の
齒輪車は
互に
噛合ひ、
吸鍔桿、
曲肱、
方位盤に
似たる
諸種の
器械は
複雜を
極め、
恰も
聯成式の
蒸氣機關を
見るやうである。
今一個の
人あり、
車臺に
坐して、
右手に
柄子を
握つて
旋廻輪を
廻しつゝ、
徐々に
足下の
踏臺を
踏むと
忽ち
傍に
備へられたる
號鈴器はリン/\と
鳴り
出して、
下方の
軸盤の
靜かに
回轉を
始むると
共に、
其動力は
第一の
大齒輪に
及び、
第二の
齒輪車に
移り、
同時に
吸鍔桿は
上下し、
曲肱の
活動は
眼にも
留らず、かくて
其動力が
第三十七
番目の
齒輪車に
及ぶ
頃には、
其廻轉の
速度と、
實力とは、
非常に
強烈になつて、
殆んど四百四十
馬力の
蒸
機關に
匹敵し
得る
由、
此猛烈なる
動力が、
接合桿をもつて
車外十二
個の
車輪を
動かし、
遂に
此堅固なる
鐵檻の
車は
進行を
始めるのである。
勿論かゝる
構造で、
極めて
重量のある
鐵車の
事だから、
速力の
點に
於ては
餘り
迅速には
行かぬ、
平野ならば、
一時間平均五
哩以上進行する
事が
出來るであらうが、
極く
勾配の
激しい
坂道では、
辛じて一
時間一
哩位の
速力に
終る
事もあらう。
然し、
此冐險鐵車の
特色は
水中の
他は
如何なる
險阻の
道でも
進行し
得ぬといふ
事はなく、
險山を
登るには
通常の
車輪[#ルビの「しやりん」は底本では「しやり」]の
他に
六個の
強堅なる
齒輪車と、
車室の
前方に
裝置されたる
螺旋形の
揚上機、
及び
後方に
設けられたる
遞進機とを
使用して、
登る
山道の
大木巨巖等を
力に、
螺旋形の
尖端は
先づ
螺釘の
如く
前方の
大木に
捩れ
込み、
車内の
揚上機の
運轉と
共に、
其螺旋は
自然に
收縮して、
次第/\に
鐵車を
曳上げ、
遞進機は
螺旋形揚上機とは
反對に、
後方の
巖石を
支臺として、
彈力性の
槓桿の
伸張によつて、
無二無三に
鐵車を
押上げるのである。
鐵車深林を
行くには、
一層巧妙なる
器械がある、それは
鐵車の
前方木牛頭の
上下より
突出して、二十一の
輪柄を
有する
四個の
巨大なる
旋廻圓鋸機と、むかし
佛蘭西の
革命時代に、
日に
一萬三千人の
首を
刎ねたりと
呼ばるゝ、
世にも
恐るべき
斬頭刄の
形に
髣髴たる、
八個の
鋭利なる
自轉伐木鉞との
仕掛けにて、
行道に
塞がる
巨木は
幹より
鋸き
倒し、
小木は
枝諸共に
伐り
倒して
猛進[#ルビの「まうしん」は底本では「ほうしん」]するのであるから、
如何なる
險山深林に
會しても、
全く
進行を
停止せらるゝやうな
患はないのである。
鐵檻の
車の
出入口は、
不思議にも
車室の
頂上に
設けられて、
鐵梯を
傳つて
屋根から
出入する
樣になつて
居る。それは
四面の
鐵檻の
堅牢なる
上にも
堅牢ならん
事を
望んで、
如何に
力強き
敵が
襲來ても、
决して
車中の
安全を
害せられぬ
爲の
特別の
注意である
相な。
乘組の
人員は、
五人が
定員で、
車内には
機械室の
外に、
二個の
區劃が
設けられ、
一方は
雨露を
凌ぐが
爲めに
厚さ
玻璃板を
以て
奇麗に
蔽はれ、
床上には
絨壇を
敷くもよし、
毛布位いで
濟ますもよし、
其處は
乘組人の
御勝手次第、
他の
區劃は
彈藥や
飮料や
鑵詰や
乾肉や
其他旅行中の
必要品を
貯へて
置く
處で、
固定旅櫃の
形をなして
居る。
『
斯う
出來上つたら
立派なもんでせう。』と
武村兵曹は
鼻を
蠢めかしつゝ
私を
眺めた。
『
見事!
見事! イヤ
實に
驚く
可き
大發明だよ。』と
私は
膝の
進むを
覺えなかつた。
兵曹は
猶も
威勢よく
『ね、
此自動鐵檻車が
出來て
見なさい、
如何な
危險な
塲所だつて
平氣なもんです、
猛狒や
獅子が
行列を
立てゝ
襲つて
來た
所で、
此方は
鐵檻車の
中から
猛獸共の
惡相を
目掛けて、
鐵砲玉の
御馳走でもしてやるばかりだ。
其處で
此鐵車に
乘つて、
朝日島の
名を
刻んだ
紀念塔を
携へて、
此處から三十
里位いの
深山に
踏入つて、
猛獸毒蛇の
眞中へ、
其紀念塔を
建てゝ
來るのだ、
何んと
巧妙い
工夫ではありませぬか。』とポンと
小胸を
叩いて
『
此樣な
工夫をやるのだもの、
此武村新八だつてあんまり
馬鹿にはなりますまい。』と
眼を
眞丸にして
一同を
見廻したが、
忽ち
聲を
低くして
『だが
[#「だが」は底本では「だか」]、あんまり
威張れないて、
此樣な
車を
製造ては
如何でせうと、
此處まで
工夫したのは
此私だが、
肝心の
機械の
發明は
悉皆大佐閣下だよ。』と
苦笑したので、
櫻木海軍大佐をはじめ、
一座の
面々、
餘りの
可笑しさに、
一時にドツと
笑崩るゝ
間に、
武村兵曹は
平氣な
顏で
私に
向ひ
『
其處で、
貴方に
勸めるのです
貴方は
石炭焚きだの、
料理方だのつて、
其樣な
馬鹿な
眞似が
出來るもので
無いから、それよりは、
此鐵檻車の
製造にお
着手なすつては
如何です、
大佐閣下も
餘程前から
此企はあつたので、すでに
製圖まで
出來て
居るのだが、
海底戰鬪艇の
方が
急がしいので、
力を
分ける
事が
出來ず、
何れ
艇の
竣成後、
製造に
着手らうと
仰しやつて
居るのだが、
海底戰鬪艇が
出來上つた
上は、
一日も
速く
日本へ
歸つた
方がいゝ、それで、なんと、
貴方はやつて
見る
御决心はありませんか、
若し
貴方が
主任者となつて、
一生懸命にやる
積なら、
私共も二三
人宛は
休息時間を
廢しても、
交る/″\
行つて
働きますぞ、すると
海底戰鬪艇の
竣工する
頃には、
鐵檻の
車も
出來上つて、
私共は
直ぐ
其れに
乘込んで、
深山の
奧へ
行つて、
立派に
紀念塔を
建てゝ
來るのだ。』
『
愉快々々。』と
私は
兩手を
擧げた。
櫻木海軍大佐は
微笑を
帶びて
私に
向ひ
『
君は
進んで、
此任務を
擔當しますか。』
『やります。』と
私は
斷言した。
自動冐險鐵車! あゝ
此前代未聞なる
鐵車の
製造は、
隨分容易な
事ではあるまい。
然し、
私も
一個の
男子である。
之から二
年九ヶ
月の
間、
大佐等はかの
驚く
可き
海底戰鬪艇の
工作に
着手して
居る
間、
私の
心身を
込めて
從事したら、
何んの
出來ぬ
事があらう。やるやる
見事にやつて
見せる。
櫻木大佐は
痛く
打悦び、
『
君に
其决心があるなら
屹度出來ます、
鐵車の
製造所は、
我が
秘密造船所内の
何處かに
設け、
充分の
材料は
私の
方から
供給し、また
君の
助手としては、
毎日午前午後に
交代に、四
名宛の
水兵を
遣はす
事に
致しませう。
私も
及ばずながら
※事[#「一/力」、220-8]に
就いて
助言を
致しますよ。』といふ。
『
斯うなつたら、
生命掛けでやります。』と
私は
腕を
叩いた。
『
面白ろい/\。』と
武村兵曹は
頬鬚を
撫でた。
日出雄少年は
先刻から、
櫻木大佐の
傍に、
行儀よく
吾等の
談話を
聽いて
居つたが、
幼き
心にも
話の
筋道はよく
分つたと
見へ、
此時可愛らしき
眼を
此方に
向け
『あの、
叔父さんが、
鐵の
車をお
製になるんなら、
私も
同一に
働かうと
思ふんです。』
『こいつは
愈々面白くなつて
來た。』と
武村兵曹は
突如少年を
抱上げた。
櫻木海軍大佐は
打笑[#ルビの「うちえ」は底本では「うみえ」]みながらも、
聲爽かに
『
日出雄少年は
鐵工となるより、
立派な
海軍士官となる
仕度をせねばならんよ。』と
武村兵曹の
膝なる
少年の
房々した
頭髮を
撫でやりつゝ、
私に
向ひ
『
兼て
承る、
彼の
父なる
濱島武文氏と、
春枝夫人との
志に
代つて、
不肖ながら
日出雄少年の
教育の
任をば、
之から
此櫻木重雄が
引受けませう。』といふ。
私は
此一言で、
忽ち
子ープルスの
親友や、
春枝夫人の
事を
回想した。
日出雄少年をば
眞個の
海軍々人の
手に
委ねんとせし
彼の
父の
志が、
今や
意外の
塲所で、
意外の
人に
依て
達せらるゝ
此嬉しき
運命に、
思はず
感謝の
涙は
兩眼に
溢れた。
暫時室内はシンとなると、
此時何處とも
知れず「
君が
代[#「君が代」は底本では「君か代」]」の
唱歌が
靜かなる
海濱の
風につれて
微かに
聽える。オヤと
思つて、
窓外を
眺めると、
今宵は
陰暦の十三
夜、
月明かなる
青水白沙の
海岸には、
大佐の
部下の
水兵等は、
晝間の
疲勞を
此月に
慰めんとてや、
此處に
一羣。
彼處に
一群、
詩吟するのもある。
劍舞するのもある。
中に
一團七八
人の
水兵等は、
浪に
突出されたる
磯の
上に
睦しく
輪をなして、
遙かに
故國の
天を
望みつゝ、
節おもしろく
君が
代の
千代八千代の
榮を
謳歌して
居るのであつた。
『あゝ、
壯快、
壯快!。』と
私は
絶叫したよ。
櫻木海軍大佐は
徐かに
立上り
『いざ、
吾等も
彼處に
行いて、
共に
大日本帝國の
※歳[#「一/力」、223-3]を
唱へませうか。』
* * * *
* * * *
其翌日から、
私は
朝は
東雲の
薄暗い
時分から、
夕は
星影の
海に
落つる
頃まで、
眞黒になつて
自動鐵檻車の
製造に
從事した。
洞中の
秘密造船所の
中では、
海底戰鬪艇の
方でも、
私の
方でも、
鎔鐵爐、
冶金爐等から
々と
吹き
出す
熱火の
光は
魔神の
紅舌のごとく、
互に
打おろす
大鐵槌の
響は、
寂寞たる
洞窟を
鳴動して、
朝日島の
海の
神樣も、
定めて
膽を
潰した
事であらう。
第十八回
野球競技
九種の魔球――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
それから、一
年、二
年、三
年と、
月日の
車は
我等の
仕事の
進行と
同じ
速力に
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、224-5]つて、
櫻木海軍大佐が
兼て
豫定した
通りに、
世にも
驚く
可き
海底戰鬪艇も、
今は
九分九厘まで
竣成し、いよ/\
今二月の十一
日、
即ち
大佐等の
爲には
此朝日島に
上陸してから
五度目の――
私と
日出雄少年とのためには
三度目の、
紀元節の
祝日を
迎ふると
共に、
目出度き
試運轉式を
擧行し
得る
迄の、
歡ばしき
運びに
到つた
頃、
私の
擔任の
自動鐵車も
全く
出來上つた。
今になつて
回想ると、三
年の
月日もさて/\
速いものだ。
本國から
數千里距たつた
此印度洋中の
孤島にあつて、
隨分故郷の
空の
懷かしくなつた
事も
度々あつた――
昔の
友人の
事や――
品川灣の
朝景色や――
上野淺草邊の
繁華な
町の
事や――
新橋の
停車塲の
事や――
回向院の
相撲の
事や――
神樂坂の
縁日の
事や――
萬朝報の
佛蘭西小説の
事や――
錦輝舘の
政談演説の
事や――
芝居の
事や
浪花節の
事や、それから
又た
自分が
學校時代によく
進撃した
藪そばや
梅月の
事や、
其他樣々な
事を
懷想して、
翼あらば
飛んでも
行きたいまで
日本の
戀しくなつた
事も
度々あつたが、
然し
比較的に
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、225-7]の三
年は
私の
爲には
凌ぎ
易かつたよ、イヤ、
其間には
隨分、
諸君には
想像も
出來ない
程、
面白い
事も
澤山あつた。
獅子狩は
何んでも十
幾遍か
催されたが
例も
武村兵曹の
大功名であつた。また
或時は
海岸の
家の
直ぐ
後の
森へ、
大鷲が
巣を
營んで
居るのを
見付けて、
其卵子を
捕りに
行つて
酷い
目に
遭遇した
事もある。
毎日/\
晨に
星を
戴いて
大佐等と
共に
家を
出で、
終日海底の
造船所の
中で
汗水を
流して、
夕暮靜かな
海岸を
歸つて
來ると、
日出雄少年と
猛犬の
稻妻とは
屹度途中まで
迎に
來て
居る、それから
暑い
時には
家の
後を
流れて
居る
清流で
身體を
清め、
凉しい
時には
留守居の
水兵や
日出雄少年が
凖備して
呉れる
此孤島には
不相應に
奇麗な
浴湯へ
入つて、
頓て
樂しい
夕食も
終ると、
此邊は
熱帶國の
常とて、
年中日が
長いので、
食後一
時間ばかりは
大佐をはじめ
一同海邊に
出でゝ
戸外運動に
耽るのである。
庭球もある、「クリツケツト」もある、
射的塲もある、
相撲の
土俵もある、いづれも
櫻木大佐が
日本を
出づる
前から、かゝる
孤島の
生活中、
一同の
無聊を
慰めんが
爲めに
凖備して
來た
事とて「テニス、コード」も
射的塲も
仲々整頓したものである、
然し、
此島で
一番流行るのは
端艇競漕と
野球競技とであつた。
端艇競漕は
本職の
事だから
流行るのも
無理は
無いが、
大事の
端艇は
甞て
起つた
大颶風の
爲めに
大半紛失[#ルビの「ふんしつ」は底本では「ふんじつ」]してしまつたので、
今殘つて
居るのは「ギク」一
隻、「カツター」二
隻で、
櫂も
餘程不揃[#ルビの「ふぞろひ」は底本では「ぶぞろひ」]なので、とても
面白い
競漕などは
出來ない、
時々やつて
見たが、「ハンデー」やら
其他樣々の
遣繰やらで、いつも
無邪氣な
紛着が
起つて、
墨田川の
競漕の
樣に
立派には
行かぬのである。
野球は
其樣な
災難が
無いから、
毎日/\
盛んなものだ
[#「盛んなものだ」は底本では「盛んなものた」]、
丁度海岸の
家から一
町程離れて、
不思議な
程平坦な
芝原の「ゲラウンド」があるので、
其處で「アウト」「ストライキ」の
聲は
夕暮の
空に
響いて、
審判者の
上衣の
一人黒いのも
目立つて
見える。
櫻木大佐は
今年三十三
歳、
身は
海軍大佐であるが、
日本人には
珍らしい
迄かゝる
遊戯を
嗜好んで、また
仲々達者である、
昔は
投手の
大撰手として、
雄名其仲間には
隱れもなかつた
相な、
今も
其面影が
殘つて、
此朝日島中、
武村兵曹と
私とを
除いたら
其次の
撰手と
云つてもよからう、
私は
世界漫遊以來久しく「ボール」を
手にせぬから
餘程技倆も
落ちたらうが、それでも
遊撃手の
位置に
立たせたら
本國横濱の
アマチユーア倶樂部の
先生方には
負けぬ
積で
御坐る。
武村兵曹の
技倆はまた
格別で、
何處で
練習したものか、
鐵の
樣な
腕から
九種の
魔球を
捻り
出す
[#「捻り出す」は底本では「捻り出ず」]工合は
悽まじいもので、
兵曹を
投手にすると
敵手になる
組はなく、また
打棒が
折れて/\
堪らぬので、
此頃では
大概左翼の
方へ
廻して
居るが、
先生其處からウンと
力を
込めて
熱球を
投げると、
其球がブーンと
捻り
聲を
放つて
飛んで
來る
有樣、イヤ
其球が
頭へでも
當つたら、
此世の
見收めだと
思ふと、
氣味が
惡くて
仲々手も
出せない
程である。
大佐等一行が
此島へ
來たのは
私より
餘程前で、
其留守中、
米國軍艦「オリンピヤ」
號が
横濱へやつて
來て、
音に
名高き、
チヤーチの
熱球、
魔球が、
我國野球界の
覇王ともいふ
可き
第一
高等學校の
撰手を
打破つた
事は、
私が
此島へ
漂着する
半年程前、
英國倫敦で
ちらと
耳にした、
之れはもう
今から三四
年も
前の
事だが、
實に
殘念な
次第である。
其後一高軍は
物の
見事に
復讎を
遂げたであらうが、
若し
未だならば
私は
竊かに
希望して
居るのである、
他日我等が
此孤島を
去つて
日本へ
歸つた
後、
武村兵曹若し
軍艦に
乘じ、
又は
大佐の
電光艇と
共に
世界の
各港を
廻り、
一度北亞米利加の
沿岸に
到つたならば、
晩香坡の
南街公園に
於て、
若くば
黄金門の
光輝く
桑港の
廣野に
於て――
何處にてもよし、
其處に
米艦「オリンピヤ」
號の
投錨せるを
見ば、
此方武村兵曹を
投手として、
彼方音に
名高き
チヤーチの
一軍と
華々しき
勝敗を
决せんことを。
敵は
米國軍艦、
我は
帝國軍艦、
水雷砲火ならぬ
陸上の
運動をもつて
互に
挑み
鬪ふも
亦た
一興であらうと
思ふ。
日出雄少年は
如何に!
少年も
亦た
我等の
遊仲間である。
何時でも
第一に
其運動塲に
驅けて
行くのは
彼だ、
其身體の
敏捷に
動く
事とどんな
痛い
目にも
痛い
顏をせぬ
事と、それから
極く
記臆力が
強く、
規則[#ルビの「ルール」は底本では「レール」]などは
直ぐ
覺えてしまうので、
武村兵曹は
此兒將來は
非常に
有望な
撰手であると
語つたが
啻に
野球ばかりではなく
彼は
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、230-6]三
年の
間、
櫻木海軍大佐の
嚴肅なる、
且つ
慈悲深き
手に
親しく
薫陶された
事とて、
今年十二
歳の
少年には
珍らしき
迄に
大人似て、
氣象の
凛々しい、
擧動の
沈着な、まるで、
小櫻木大佐を
茲に
見るやうな、
雄壯しき
少年とはなつた。
少年は
端艇、
野球等の
他、
暇があると
石を
投げる、
樹に
登る、
猛犬稻妻を
曳つれて
野山を
驅けめぐる、
其爲に
體格は
非常に
見事に
發達して、
以前には
人形のやうに
奇麗であつた
顏の、
今は
少しく
色淺黒くなつて、それに
口元キリ、と
締り、
眼のパツチリとした
樣子は、
何とも
云へず
勇ましい
姿、
此後機會が
來て、
彼が
父君なる
濱島武文に
再會した
時、
父は
如何に
驚くだらう。またかの
天女の
如き
春枝夫人が、
萬一にも
無事であつて、
此勇ましい
姿を
見たならば、どんなに
驚き
悦ぶ
事であらう。
今や
本島の
主人公なる
櫻木海軍大佐の
健康は
言ふ
迄もなく、
此頃では
殆ど
終日終夜を、
秘密造船所の
中で
送つて
居る。
武村兵曹は
相變らず
淡白[#ルビの「たんぱく」は底本では「たぱく」]で、
慓輕で、
其他三十
有餘名の
水兵等も
一同元氣よく、
大なる
希望の
日を
待望みつゝ、
勤勉に
働いて
居る。
かゝる
喜ばしき
境遇の
間に、
首尾よく
竣成した
自動鐵檻車は、
終に
洞中の
工作塲を
出た。
例の
屏風岩の
上から
直ちに
運轉を
試みて
見ると
最良の
結果で、
號鈴リン/\と
鳴りひゞき、
不思議なる
機關の
活溌なる
運轉に
從つて十二
個の
外車輪が、
岩を
噛み、
泥を
蹴つて
疾走する
有樣は、
吾ながら
見事に
思はるゝばかり、
暫時喝采の
聲は
止まなかつた。
忽ち
何人の
發聲にや、
一團の
水兵等はバラ/\と
私の
周圍に
走寄つて『
鐵車萬歳々々々々。』と
私の
胴上げを
始めた。
萬歳は
難有いが、
鬼とも
組まんず
荒男が、
前後左右からヤンヤヤンヤと
揉上げるので、
其苦しさ、
私は
呼吸が
止まるかと
思つた。
斯うなると、
一刻も
眤として
居られぬのは
武村兵曹である。
腕拱いて、
一心に
鐵檻車の
運轉を
瞻めて
居つたが、
忽ち
大聲に
『やあ、うまい/\、でも
[#「でも」は底本では「ても」]よく
動くわい、もう
遲々しては
居られない。』と
急に
走つて
行つて、
此時既に
出來上つて
居つた
紀念塔を
引擔いで
來た。
塔は
高さ三
尺五
寸、
三尖方形の
大理石で、
其滑なる
表面には「
大日本帝國新領地朝日島」なる十一
字が
深く
刻まれて、
塔の
裏面には、
發見の
時日と、
發見者櫻木海軍大佐の
名とが、
明に
記銘されて
居るのだ。
塔を
擔いで
來た
武村兵曹は
息を
切らしながら
大佐に
向ひ
『
大佐閣下、
鐵車も
見事に
出來ましたれば、
善は
急げで
今から
直ぐと
紀念塔を
建てに
出發しては
如何でせう、すると
氣も
晴々しますから。』
大佐は
滿面に
笑を
堪へつゝ
『
無論躊躇する
必要はない、
我が
海底戰鬪艇も、
今日から十
日目の
紀元節の
當日には、
試運轉式を
行ひ、
其後一週間以内には、
總ての
凖備を
終つて、
本島を
出發する
豫定だから、
紀念塔の
建立も
其以前に
終らねば――。』と
言ひかけて
私に
向ひ
『
其處で、
明日午前六時を
以て、
鐵檻車の
出發の
時刻と
定めませう、
之から三十
里の
深山に
達するに、
鐵車の
平均速力が一
時間に二
里半として、
往途に
二日、
建塔の
爲めに一
日、
歸途二日、
都合五日目には、
鐵車再び
此處へ
皈つて、
共に
萬歳を
唱へる
事が
出來ませう。』
『あゝ。
明朝まで
待つのですか。』と
武村兵曹は
口を
むくつかせたが、
忽ちポンと
掌を
叩いて
『おゝ、それも
左樣だ、
私の
考通りにも
行かないな、
之から
糧食を
積入れたり、
飮料水の
用意をしたりして
居ると、
矢張出發は
明朝になるわい。』と
獨言つ、
此男例もながら
慓輕な
事よ。
鐵車が、いよ/\
永久紀念塔を
深山の
頂に
建てんが
爲めに、
此處を
出發するのは
明朝午前六時と
定つたが、
櫻木海軍大佐は、
海底戰鬪艇の
運轉式も
間近に
迫つて
居るので、
一日も
此塲を
立去る
事叶はねば、そこで
私と、
日出雄少年と、
武村兵曹と、
他に
二名の
水兵とが、
鐵車に
乘組む
事になつた。
猛犬稻妻も
日出雄少年の
懇望で、
此冐險旅行に
隨ふ
事になつた。
それより、
鐵車に
紀念塔を
積入れ、
小銃、
彈藥、
飮料水、
糧食等の
用意に
日を
暮して、さて
其翌日となると、
吾等撰任されたる
五名は
未明に
起床でゝ
鐵車へ
乘組んだ。
頓て
鐵車は
勢よく
進行を
始めると、
櫻木大佐をはじめ三十
餘名の
水兵共は
歡呼を
擧げて、十
數町の
間吾等の
首途を
見送つて
呉れたが、
遂に、
唯ある
丘陵の
麓で
別を
告げ、
吾等は
東へ、
彼等は
西へ、
其丘の
中腹にて、
櫻木大佐等が
手巾を
振り、
帽子を
動かして
居る
姿も、
頓て
椰子や
橄欖の
葉がくれに
見えずなると、それから
鐵車は
全速力に、
野と
云はず
山と
云はず
突進む、
神變不思議なる
自動鐵車の
構造は、
今更管々しく
述立てる
必要もあるまい、
森林を
行く
時は、
旋廻圓鋸機と、
自動鉞との
作用で、
路を
切開き、
山を
登るには、
六個の
齒輪車と
揚上機、
遞進機の
働で、
地を
噛み、
石を
碎いて
進行するのだ。
大約道の
四五里も
進んだと
思ふ
處から
山は
益々深くなり、
路はだん/\と
險阻[#ルビの「けんそ」は底本では「けそ」]になつたが、
元氣なる
武村兵曹は、
何んでも
日沒までには二十
里以上を
進まねばならぬと
勇み
立つ。
山に
入ると、
直ちに
猛獸毒蛇の
襲撃に
出逢ふだらうとは
兼ての
覺悟であつたが、
此時まで
其樣な
模樣は
少しも
見えなかつた。
四隣は
氣味の
惡い
程物靜で、たゞ
車輪の
輾る
音と、
折ふし
寂寞とした
森林の
中から、
啄木鳥がコト/\と、
樹の
幹を
叩く
音とが
際立つて
聽ゆるのみであつたが、
鐵車は
進み
進んで、
今や
唯ある
深林の
邊に
差掛つた
時、
日出雄少年[#ルビの「ひでをせうねん」は底本では「びでをせうねん」]は
急に
私の
袖を
引いた。
『
獅子が/\。』
『
獅子が?
何處に?。』と
一同は
屹となつて、
其指す
方を
眺めると、
果して
百ヤード
許離れたる
日當りのよき
草の
上に、
一頭の
巨大なる
雄獅子が
横つて
居つたが、
鐵車の
響に
忽ちムツクと
起上り、
一聲高く
吼えた。
『
獅子の
友呼び!。』と
一名の
水兵は

いた。
成程遠雷の
如き
叫聲が
野山に
響渡ると、
忽に
其處の
森からも、
彼處の
岩陰からも
三頭五頭と
猛獸は
群をなして
現はれて
來た。
獅子、
虎、
猛狒等いづれも
此不思議なる
鐵檻の
車に
一時は
喫驚したのであらう、
容易に
手を
出さない。
日出雄少年は
壯快なる
聲を
擧げて
『
叔父さん/\、
獅子なんかの
方では、
屹度私共を
怪物だと
思つて
居るんでせうよ。』と
叫んだが
全く
左樣かも
知れぬ
暫時は
其處此處の
木の
間かくれに、
脊を
高くし、
牙を
鳴らして
此方を
睨んで
居つたが、それも
僅かの
間で、
獅子は
百獸の
王と
呼ばるゝ
程あつて、
極めて
猛勇なる
動物で、
此時一聲高く
叫んで、
三頭四頭鬣を
鳴らして
鐵車に
飛掛つて
來た。
鐵車は
其樣な
事ではビクともしない、
反對に
獸を
彈飛すと、
百獸の
王樣も
團子のやうに
草の
上を
七顛八倒。
吾等一同はドツと
笑つた。
虎は
比較的愚な
動物で、
憤然身を
躍らして、
鐵車の
前方から
飛付いたから
堪らない、
恐る
可き
旋廻圓鋸機のために、
四肢や、
腹部を
引裂かれて、
苦鳴をあげて
打斃れた。
最も
狡猾なるは
猛狒である。
古木の
樣な
醜き
腕を
延して、
鐵車の
檻を
引握み、
力任せに
車を
引倒さんとするのである。
猛犬稻妻は
猛然として
其手に
噛み
付いた。
『
此奴、
生意氣!。』と
水兵は
叫んだ。
『それ
發射!。』と
私が
叫ぶ
瞬間、
日出雄少年は
隙さず
三發まで
小銃を
發射したが、
猛狒は
平氣だ。
武村兵曹大に
怒つて
『
此畜類、まだ
往生しないか。』と、
手頃の
鎗を
捻つて
其心臟を
貫くと、
流石の
猛獸も
堪らない、
雷の
如く
唸つて、
背部へドツと
倒れた。
『
愉快々々、
世界一の
王樣だつて、
此樣な
面白い
目は
見られるものでない。』と
水兵共は
雀躍した。
日出雄少年は
猛狒の
死骸を
流盻に
見やりて
『それでも、
私は
殘念です、
猛狒は
私の
鐵砲では
死にませんもの。』と
不平顏。
『
何、
左樣でない、
此獸は
泥土と、
松脂とで、
毛皮を
鐵のやうに
固めて
居るのだから、
小銃の
彈丸位では
容易に
貫く
事が
出來ないのさ。』と
私は
慰めた。
此大騷動の
後は、
猛獸も
我等の
手並を
恐れてか、
容易に
近づかない、それでも
此處を
立去るではなく、
四五間を
距てゝ
遠卷に
鐵檻の
車を
取圍きつゝ、
猛然と
吼えて
居る。
慓輕なる
武村兵曹は
大口開いてカラ/\と
笑ひ
『ヤイ、ヤイ、
畜類、
其樣に
吾等の
肉が
美味相に
見えるのか。』とつか/\
鐵檻の
近くに
進み
寄り
『それ
此拳骨でも
喰へ。』と
大膽にも
鐵拳を
車外に
突出し、
猛獸怒つて
飛付いて
來る
途端ヒヨイと
其手を
引込まして
『だ、だ、
駄目だんべい。』
第十九回
猛獸隊
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ/\の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
暫時して、
吾等はまた
奇妙なものを
見た。それは
此深山に
棲んで
居る
白頭猿と
呼ばるゝ、
極めて
狡猾な
猴の
一種で、
一群凡そ三十
疋ばかりが、
數頭の
巨大な
象の
背に
跨つて、
丁度アラビヤの
大沙漠を
旅行する
隊商のやうに、
彼方の
山背からぞろ/\と
現はれて
來たが、
我が
鐵車を
見るや
否や
非常に
驚愕いて、
奇聲を
放つて、
向ふの
深林の
中へと
逃げ
失せた。かくて
當日は、二十
里近く
進んで
日が
暮れたので、
夜は
鐵車をば
一大樹の
下蔭に
停めて、
終夜篝火を
焚き、
二人宛交代に
眠る
積であつたが、
怒り
叫ぶ
猛獸の
聲に
妨げられて、
安らかな
夢を
結んだ
者は
一人も
無かつた。
翌朝は
薄暗い
内から
此處を
出發した。
初の
間は
矢張昨日と
同く、
數百頭の
猛獸は
隊をなして、
鐵車の
前後に
隨つて
追撃して
來たが、
其中には
疲勞のために
逃去つたのもあらう、また
吾等が
絶えず
發射する
彈丸のために、
傷き
斃れたのも
少くない
樣子で、
此日も
既に十二三
里許進みて、
海岸なる
櫻木大佐の
住家からは、
確かに三十
里以上距つたと
思はるゝ
一高山の
絶頂に
達した
時には、
其數も
餘程減じて、まだ
執念深く
鐵車の
四邊を
徘徊して
居るのは、二十
頭許の
雄獅子と、
三頭の
巨大なる
猛狒とのみであつた。
此高山は、
風景極めて
美はしく、
吾等の
達したる
頂は、
三方巖石が
削立して、
自然に
殿堂の
形をなし、かゝる
紀念塔を
建つるには
恰好の
地形だから、
遂に
此處に
鐵車を
停めた。
時は
午後二
時四十五
分、
今から
紀念塔を
建立するのである。
『
用意!。』と
武村兵曹が
叫ぶと、
二名の
水兵は
車中の
大旅櫃の
中から、
一個の
黒色の
函を
引出して
來た。
此函の
中には、
數十
個の
爆裂彈が
入つて
居るのである。
爆裂彈!
何の
爲に? と
讀者諸君は
審るであらうが、
之には
大に
考慮のある
事である、
今、
其目的地に
達し、いざ
建塔といふ
塲合に、
斯く
獅子や
猛狒が、
一頭でも、
二頭でも、
其邊に
徘徊して
居つては、
到底車外に
出でゝ
其仕事にかゝる
事が
出來ない、そこで、
此爆裂彈を
飛ばして、
該獸等を
斃し
且つ
追拂ひ、
其間に
首尾よくやつて
退けやうといふ
企だ。そこで
用意が
整ふと、
吾等は
手に/\
一個宛の
爆裂彈を
携へて
立上つた。
兼て
用意の
鳥の
肉を、十
斤ばかり
鐵檻の
間から
投出すと、
食に
飢ゑたる
猛獸は、
眞黒になつて
其上に
集る。
それといふ
合圖の
下に、一、二、三、
同時に
五個の
爆裂彈は
風を
切つて
落下した。
忽ち
山岳[#ルビの「さんがく」は底本では「さくがく」]鳴動し、
黒烟朦朧と
立昇る、
其黒烟の
絶間に
眺めると、
猛狒は
三頭共微塵になつて
碎け
死んだ、
獅子も
大半は
打斃れた、
途端に
水兵が
『あれ/\、あの
醜態よう。』と
指す
彼方を
見渡すと、
生殘つたる
獅子の
一團は、
雲を
霞と
深林の
中へ
逃失せた。
『それ、
此間に。』と
武村兵曹は
紀念塔を
擔いで
走り
出たので、
一同も
續いて
車外に
跳り
出で、
日出雄少年は
見張の
役、
私は
地を
掘る、
水兵は
石を
轉ばす、
武村兵曹は
無暗に
叫ぶ、エンヤ/\の
懸聲と
共に、
束の
間に
塔の
建立は
成就した。
實に
此間、
時を
費す
事十
分か、十五
分、
人間も
一生懸命になると、
隨分力量の
出るものだよ。
紀念塔の
建立は
終つて、
吾等は五六
歩退いて
眺めると、
麗はしき
大理石の
塔の
表面には、
鮮明に『
大日本帝國新領地朝日島』。あゝ
之れで
安心々々、
一同は
帽を
脱して
大日本帝國の
萬歳を
三呼した。
此時、
車中に
殘して
置いた
猛犬稻妻が
急に
吼立てるので、
頭を
廻らすと、
今しも
爐裂彈で
逃出したる
獅子の
一群が、
今度は
非常な
勢で、
彼方の
森から
驀直に
襲撃して
來たのである。『それツ。』と
一聲吾等は
周章狼狽て
鐵檻の
車の
中へ
逃込んだが、
危機一髮、
最後に
逃込んだ
武村兵曹はまだ
其半身が
車外にあるのに、
殆んど
同時に
飛付いて
來た
雄獅子のために、ズボンは
滅茶苦茶に
引裂かれ、
片足の
靴は
無殘に
噛取られて、
命から/″\
車中に
轉び
込んだ。つゞいて
飛込まんとする
獅子を
目掛けて、
私は
一發ドガン、
水兵は
手鎗て
突飛ばす、
日出雄少年は
素早く
身を
跳らして、
入口の
扉をピシヤン。
『おつ
魂消えた/\、
危なく
生命を
棒に
振る
處だつた。』と
流石の
武村兵曹も
膽をつぶして、
靴無き
片足を
撫でゝ
見たが、
足は
幸福にも
御無事であつた。
既に
塔の
建立も
終つたので、
最早歸途に
向ふ
一方である。
往復五日の
豫定が、
其二日目には
首尾よく
歸終に
就くやうになつたのは、
非常な
幸運である。
此幸運に
乘じて、
吾等は
温順に
昨日の
道を
皈つたならば、
明日の
今頃には
再び
海岸の
櫻木大佐の
家に
達し、
此旅行も
恙なく
終るのであるが、
人間は
兎角いろ/\な
冐險がやつて
見たい
者だ。
好事魔多しとはよく
人の
言ふ
處で、
私も
其理屈を
知らぬではないが、
人間の
一生に
此樣な
旅行は、
二度も
三度もある
事でない、
其上大佐と
約束の
五日目までは、
未た
三日の
間がある、そこで、
此深山を
少しばかり
迂回して
皈つたとて、
左程遲くもなるまい、また
極めて
趣味ある
事だらうと
考へたので、
私は
發議した。
『どうだ、
最早皈途に
向ふのだが、
之から
少し
道を
變じて
進んでは、
舊き
道を
皈るより、
新しい
方面から
皈つたら、またいろ/\
珍奇い
事も
多からう。』と
話しかけると、
好奇の
武村兵曹は一も二もなく
賛成だ。
『
私も
今、
左樣考へて
居つた
處だ、
大佐閣下だつて
私共が、
其樣に
早く
歸らうとは
思つて
居なさるまいし、それにね、
約束の
五日目の
晩には、
海岸の
家では、
水兵共が
澤山の
御馳走を
作へて
待つて
居る
筈だから、
其以前にヒヨツコリと
皈つては
興が
無い、
行く
可し/\。』と
勇み
立つ。
二名の
水兵も
日出雄少年も
大賛成なので、
直ちに
相談は
纏つたが、さて
何處の
方面へと
見渡すと、
此處を
去る
事數里の
西方に
一個の
高山がある、
火山脉の
一つと
見え、
山の
半腹以上は
赤色の
燒石の
物凄い
樣に
削立して
居るが、
麓は
限りもなき
大深林で、
深林の
中央を
横斷して、
大河滔々と
流れて
居る
樣子、
其邊を
進行したら
隨分奇しき
出來事もあらうと
思つたので、
直ちに
水兵に
命じて、
鐵車を
其方向に
進めた、
猛獸は
矢張其處此處に
隱見して
居るのである。
時は
午後の
六時間近で、
夕陽は
西山に
臼いて
居る。
隨分無謀な
事だ、
今頃から
斯る
深林に
向つて
探險するのは、けれど
興に
乘じたる
吾等の
眼中には、
向ふ
處敵なしといふ
勢で、二三
里進んで、
其深林の
漸く
間近になつた
時分日は
全く
暮れた。すると、
鎌のやうな
新月が
物凄く
下界を
照して
來たが、
勿論道の
案内となる
程明るくはない、
加ふるに
此邊は
道いよ/\
險しく、
尖つた
岩角、
蟠る
樹の
根は
無限に
行方に
横つて
居るので、
鐵車の
進歩も
兎角思はしくない、
運轉係の
水兵も、
此時餘程疲勞れて
見えたので、
私は
考へた、
人間の
精力には
限がある、
今からかゝる
深林に
突進するのは、
少し
無謀には
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-2]ぎはせぬかと
氣付いたので、
寧ろ
此邊に
一泊せんと、
此事を
武村兵曹に
語ると、
武村兵曹は
仲々聽かない
『
今から
其樣に
弱つては
駄目だ、
何んでも
今夜はあの
深林の
眞中で
夜を
明す
覺悟だ。』と
元氣よく
言放つて
立上り、
疲れたる
水兵に
代つて
鐵車の
運轉を
始めた。
鐵車は
再び
猛烈なる
勢をもつて
木の
根を
噛み、
岩石を
碎いて
突進する。あゝ
好漢、
此男は
實に
壯快な
男兒だが、
惜むらくば
少しく
無鐵砲に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-8]ぎるので、
萬一の
※失[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-8]が
無ければよいがと
思ふ
途端、
忽ち
『しまつたツ。』と
一聲、
私も、
日出雄少年も、
水兵も
稻妻も、
一度にドツと
前の
方へ
打倒れて、
運轉臺から
眞逆に
跳ね
落された
武村兵曹が『
南無三、
大變!。』と
叫んで
飛起きた
時は、
無殘や、
鐵車は、
擂盆[#「擂盆」は底本では「
盆」]のやうな
形をした
巨大な
穴の
中へ
陷落して
居つた。
漸の
事で
起上つた
水兵は、
新月の
微なる
光に
其穴を
眺めたが
忽ち
絶叫した。
『
砂すべりの
谷!
砂すべりの
谷!。』
讀者諸君は
或は
御存じだらう、
亞弗利加の
内地や、
又は
印度洋中の
或島には、かゝる
塲所のある
事はよく
冐險旅行記等に
書いてあるが、
此「
砂すべりの
谷」
程世に
恐る
可き
所は
多くあるまい、
砂すべりの
谷、
一名を
死の
谷と
呼ばるゝ
程で、
一度此穴の
中へ
陷落したるものは、
到底免がれ
出る
事は
出來ないのである。
此穴は
外見は
左迄巨大なものではない。
廣さは
直徑三十ヤード
位、
深さは
僅か一
丈にも
足らぬ
程だから、
鐵檻車の
屋根へ
上つたら、
或は
穴の
外へ
飛出す
事も
出來るやうだが、
前にも
云つた
樣に
擂盆の
形をなした
穴の
四邊は
實に
細微なる
砂で、
此砂は
啻に
細微なるばかりではなく、
一種不可思議の
粘着力を
有して
居るので、
此處に
陷落した
者は
掻き
上らうとしては
滑り
落ち、
滑り
落ちては
砂に
纒はれ、
其内に
手足の
自由を
失つて、
遂に
非業の
最後を
遂げるのである。だから
吾等が
海岸の
家を
出發する
時も、
櫻木大佐は
繰返して『
砂すべりの
谷を
注意せよ。』と
言はれたが、
吾等は
遂に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、251-6]つて、
此恐る
可き
死の
谷へ
陷込んだのである。
『あゝ、
大變な
事をやつてしまつた。』と
武村兵曹は
自分の
失策に
切齒した。
我が
鐵車は、
險山深林何處でも
活動自在だが、
此砂すべりの
谷だけでは
如何する
事も
出來ぬのである、
萬一を
期して、
非常な
力で、
幾度か
車輪を
廻轉して
見たが
全く
無效だ。
砂に
喰止まる
事の
出來ぬ
齒輪車は、
一尺進んではズル/″\、二三
尺掻上つてはズル/″\。
其内に
車輪も
次第々々に
砂に
埋もれて、
最早一寸も
動かなくなつた。
『
絶體絶命!。』と
一同は
嘆息した。
之が
普通の
塲所なら、かゝる
死地に
落ちても、
鐵車をば
此處に
打棄てゝ、
其身だけ
免れ
出る
工夫の
無いでもないが、
千山萬峰の
奧深く、
數十里四方は
全く
猛獸毒蛇の
巣窟で、
既に
此時數十の
獅子、
猛狒の
類は
此穴の
周圍に
牙を
鳴し、
爪を
磨いて
居るのだから、
一寸でも
鐵檻車の
外へ
出たら
最後、
直ちに
無殘の
死を
遂げてしまうのだ。イヤ
出なくても、
人の
弱點に
乘ずる
事の
早い
猛狒は、
忽ち
彼方の
崖から
此方の
鐵車の
屋根に
飛移つて、
鐵檻の
間から
猿臂を
延して、
吾等を
握み
出さんず
氣色、
吾等は
一生懸命に
小銃を
發射したり、
手鎗を
廻したりして、
辛じて
其危害を
防いで
居るが、それも
何時まで
續く
事か、
夜が
更けるに
從つて、
猛獸の
勢は
益々激烈になつて
來た、かゝる
時には
盛んに
火を
焚くに
限ると、それから
用意の
篝火をどん/″\
燃して、
絶えず
小銃を
發射し、また
時々爆裂彈の
殘れるを
投飛しなどして、
漸く
一夜を
明したが、
夜が
明けたとて
仕方がない、
朝日はうら/\と
昇つて、
東の
方の
赤裸の
山の
頂から
吾等の
顏を
照したが、
一同生きた
顏色は
無かつた。
日出雄少年も
二名の
水兵も
默して
一言なく、
稻妻は
終夜吠え
通しに
吠えたので
餘程疲れたと
見え、
私の
傍に
横つて
居る。ひとり
默つて
居られぬのは
武村兵曹である、
彼は
自分の
失策から
此樣な
事になつたので
堪らない
『あゝ、
馬鹿な
事をした/\。
私の
失策で、
貴方や
日出雄少年を
殺したとなつては
大佐閣下に
言譯がない、
此お
詫びには
成るか、
成らぬか、
一つ
命懸けで
猛獸共を
追拂つて
見るのだ。』と
决死の
色で、
車外へ
飛出さうとする。
『
無謀な
事をするな。』と
私は
嚴然として
『
武村兵曹、お
前に
鬼神の
勇があればとて、あの
澤山の
猛獸と
鬪つて
何になる。』と
矢庭に
彼の
肩先を
握んで
後へ
引戻した。
此時猛犬稻妻は、
一聲銃く
唸つて
立上つた。
『
此處に
唯だ
一策があるよ。』と
私は
一同に
向つたのである。
『
一策とは。』と
一同は
顏を
上げた。
『
他でもない、
櫻木海軍大佐に
此急難を
報知して
救助を
求めるのだ。』
『
大佐に
救助を

。』と
一同は
不審顏。
成程、
此處から
大佐等の
住へる
海岸の
家までは三十
里以上、
飛ぶ
鳥でもなければ
通はれぬ
此難山を、
如何にして
目下の
急難を
報知するかと
審るのであらう。
私は
决然として
言つた。
『
猛犬稻妻を
使者として。』
第二十回
猛犬の
使者
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか、――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
西暦一千八百六十六
年の
墺普戰爭に、
敵の
重圍に
陷つたる
墺太利軍の
一偵察隊は、
敵の
眼を
晦まさんがため、
密書をば
軍用犬の
首輪に
附して、
其本陣に
送皈したといふ
逸話がある。
近世では、
犬の
使命といふ
事は
左迄珍奇な
事ではないが、それと
之とは
餘程塲合も
異つて
居るので、
二名の
水兵は
危ぶみ、
武村兵曹は
腕を
拱いた
儘、
眤と
稻妻の
面を
眺めた。
日出雄少年は
憂色を
含んで
『それでは、
稻妻は
私共と
別れて、
單獨で、
此淋しい、
恐ろしい
山を
越えて、
大佐の
叔父さんの
家へお
使者に
行くのですか。
私は
何んだか
心配なんです、
稻妻がいくら
強くつたつて、あの
澤山な
猛獸の
中を、
無事に
海岸[#ルビの「かいがん」は底本では「がいがん」]の
家へ
歸る
事が
出來ませうか。』と
進まぬ
顏に
首を
頂垂れた。
如何にも
其憂慮は
道理である。
私も
實は、
此使命の十
中八九までは
遂げらるゝ
事の
難きを
知つて
居る、また、
三年以來馴れ
親しんで、
殆んど
畜類とは
思はれぬ
迄愛らしく
思ふ
此稻妻に、
些かでも
辛苦は
見せたくないのだが、
今は
實に
非常の
塲合である、
非常の
塲合には
非常の
决心を
要するので、
若し
躊躇して
居れば、
吾等一同はみす/\
知る
人も
無き
此山中の、
草葉の
露と
消えてしまはねばならぬのであるから
成敗は
元より
豫期し
難いが、
出來得る
丈けの
手段は
盡さねばならぬと
考へたので、
遂に
意を
决して、
吾等は
此急難をば
[#「急難をば」は底本では「急難をは」]、三十
里彼方なる
櫻木大佐の
許に
報ぜんがため、
涙を
揮つて
猛犬稻妻をば、
此恐ろしき
山中に
使者せしむる
事となつた。
私は
直ちに
鉛筆をとつて
一書を
認めた。
書面の
文句は
斯うである。
櫻木海軍大佐よ、世に禍といふものなくば、此書面の達せん頃には、吾等は再び貴下の面前に立つ可き筈なりしを、今かゝる文使者を送る事の、歡ばしき運命にあらぬをば察し玉ふ可し。貴下の委任を受けたる紀念塔の建立は、首尾よく成就したれども、其歸途、吾等は自ら招きたる禍によりて、貴下が住へる海岸より、東方大約三十里の山中にて、恐る可き砂すべりの谷に陷落せり、砂すべりの谷は實に死の谷と呼ばるゝ如く、吾等は最早一寸も動く事能はず、加ふるに、猛獸の襲撃は益々甚しく、此鐵檻車をも危くせんとす。今は死を待つばかりなり。即ち難を貴下の許に報ず、稻妻幸に死せずして、貴下に此書を呈するを得ば、大佐よ、乞ふ策を廻らして吾等の急難を救ひ玉へ。
と、
斯く
認めて
筆を
止めると、
日出雄少年は
沈める
聲に
『あゝ、
大佐の
叔父さんは、
私共が
今日歸るか、
明日歸るかと
待つていらつしやる
處へ、
此樣な
手紙が
行つたら、どんなにか
喫驚なさる
事でせう。』と、いふと
武村兵曹は
小首を
捻つて
『そこで、
私の
心配するのは、
義侠な
大佐閣下は、
吾等の
大難を
助けやうとして、
御自身に
危險をお
招きになる
樣な
事はあるまいか。』
『
其樣な
事があつては
濟まぬね。』と
私は
直ちに
文を
續けた。
然れど、大佐よ、吾等は今の塲合に於て、九死に一生をも得難き事をば疾くに覺悟せり。今、海底戰鬪艇の成敗を一身に擔へる貴下の身命は、吾等の身命に比して、幾十倍日本帝國の爲に愛惜すべきものなり。故に貴下が、吾等を救はんとて、強いて危險を冐すが如きは、吾等の深く憂ふる處なり。盖し、日本の臣民は如何なる塲合に於ても、其身を思ふよりも、國を思ふ事大なれば、若し救ふに良策なくば、乞ふ、大義の爲に吾等を見捨て玉へ、吾等も亦た運命に安んじて、骨を此山中に埋めん。
と、
猶ほ
數行を
書き
加へて
若し、吾等が不幸にして、此深山の露と消えもせば、他日貴下が、海底戰鬪艇の壯麗なる甲板より、仰[#ルビの「あほ」は底本では「おほ」]いで芙蓉の峯を望み見ん時、乞ふ吾等五名の者に代りて、只一聲、大日本帝國の萬歳を唱へよ、吾等も亦た幽冥より其聲に和せん。
斯く
認め
終りし
書面をば
幾重にも
疊み
込み、
稻妻の
首輪に
堅く
結び
着けた。
犬は
仰いで
私の
顏を
眺めたので、
私は
其眞黒なる
毛をば
撫でながら、
人間に
物語るが
如く
『これ、
稻妻、
汝は
世に
勝れたる
犬だから、
總ての
事情がよく
分つて
居るだらう、よく
忍耐して、
大佐の
家に
達して
呉れ。』と、いふと、
稻妻は
恰も
私の
言を
解し
得た
如く、
凛然として
尾を
掉つた。
日出雄少年は
暗涙を
浮べて
『
私は
本當にお
前と
別れるのが、
悲しいよ、けれど
運命だから
仕方が
無いのだよ、それでねえ、お
前が
幸に、
大佐の
叔父さんの
家に
安着して、
萬一にも
私共の
生命が
助かつた
事なら、
再び、あの
景色のよい
海岸の
砂の
上で、
面白く
遊ぶ
事が
出來ませう。
若し
運惡く、お
前が
途中で
死んでしまつたなら、
私も
追付け
彼世で、お
前の
顏を
見るやうになりませうよ。』と、
云ふのは、
既にそれと
覺悟を
定めて
居るのであらう、
流石に
猛き
武村兵曹も
聲を
曇らせ
『あゝ、
皆私が
惡いのだ、
私の
失策つたばかりに、
一同に
此樣な
憂目を
見せる
事か。』と
深く
嘆息したが、
忽ち
心を
取直した
樣子で
『いや/\、
女見たやうな
事は
言ふまい。』と
態と
元氣よく、
犬の
首輪をポンと
叩いて
『これ、
稻妻、しつかりやれよ。』と
屹と
其面を
見詰めた。
此時、
二名の
水兵は、
私の
命に
從つて、
犬を
抱いて、
鐵階を
登つた、
鐵檻の
車の
上からは
前にもいふ
樣に、
砂すべりの
谷の
外へ
飛出る
事の
出來るのである。
車外の
猛獸は、
見る/\
内に
氣色が
變つて
來た。
隙を
覗つたる
水兵は、サツと
出口の
扉を
排くと、
途端、
稻妻は、
猛然身を
跳らして、
彼方の
岸へ
跳上る。
待設けたる
獅子數頭は、
電光石火の
如く
其上へ
飛掛つた。五
秒、十
秒は
大叫喚、あはや、
稻妻は
喰伏せられたと
思つたが、
此犬尋常でない、
忽ちむつくと
跳ね
起きて、
折[#ルビの「をり」は底本では「ぞり」]から
跳り
掛る
一頭の
雄獅の
咽元に
噛付いて、
一振り
振るよと
見へたが、
如何なる
隙をや
見出しけん、
彼方に
向つて
韋駄天走り、
獅子の
一群も
眞黒になつて
其後を
追掛けた。
見る/\
内に
其形は
一團となつて、
深林の
中に
見えずなつた。
稻妻は
果してよく
此大使命を
果す
事が
出來るであらうか。
考へて
見ると
隨分覺束ない
事だが、
夫でも
一縷の
望の
繋る
樣にも
感じて、
吾等は
如何にもして
生命のあらん
限り、
櫻木大佐の
援助を
待つ
積りだ。
非常な
困難の
間に、
三日は
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-9]つたが、
大佐からは
何の
音沙汰も
無かつた、また、
左樣容易くあるべき
筈もなく、
四日と
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-10]ぎ、
五日と
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-10]ぎ、
六日と
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-11]ぎ、
其七日目まで
此恐ろしき
山中に、
日を
暮したが、
救助の
人は
見えなかつた。
鐵車の
嚴重なる
事と、
彈藥を
夥しく
用意して
來た
事とで、
今日まで
猛獸の
害を
免かれて
居るが、
其内に
困難を
感じて
來たのは、
糧食と
飮料水との
缺乏とである、すでに
昨日から、
糧食箱の
中には
一片の
蒸餅も
無くなつた。
水樽は
空になつて
鐵車内の
一隅に
横つた。
一同は
最早絶望の
極に
達したのである。
此日は
食はず、
飮まずに
日を
暮して、
苦しき
一夜は、
一睡の
夢をも
結ばず
[#「結ばず」は底本では「結ばす」]翌朝を
迎へたが、まだ
何んの
音沙汰も
無い、
眺めると
空には
雲低く
飛び、
山又山の
彼方此處には、
猛獸の
※聲[#「口+斗」、263-7]いよ/\
悽まじく、
吾等の
運命も
最早是迄と
覺悟をしたのである。
第二十一回
空中の
救ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
指を
屈して
見ると、
當日は
吾等が
海岸の
家を
去つてから、
丁度九日目で、
兼て
海底戰鬪艇の
試運轉式の
日と
定められたる
紀元節の
前日である。
若し
此樣な
禍が
起らなかつたなら、
今頃は
既に
大佐の
家に
歸つて
居つて、あの
景色の
美はしい
海岸の
邊で、
如何に
愉快な
日を
迎へて
居るだらうと
考へると、
何故紀念塔の
建立を
終つた
時に
素直に
元來た
道を
皈らなかつたらうと、
今更後悔に
堪えぬのである。
『あゝ、
今迄何の
音沙汰も
無いのは、
稻妻も
途中で
死んでしまつたのでせう。』と、
日出雄少年は
悄然として、
武村兵曹の
顏を
眺めた。
『イヤ、イヤ、
稻妻は
尋常一樣の
犬[#「犬」は底本では「大」]でないから、
屹度無事に
海岸へは
達したらうが、
然し、
吾等の
災難は
非常な
事だから、
大佐閣下でも
容易には
救ひ
出す
策がなくつて、
考慮て
居なさるのだらう。まあ/\、
失望しないで、
生命限り
待つ
事だ。』と、
武村兵曹は
態と
元氣よく
言放つて、
日出雄少年の
首筋を
抱いた。
二名の
水兵は
淋し
氣に
顏を
見合せた。
實に、
世の
中には
人間の
力に
及ぶ
事と、
及ばぬ
事とがある。
人間の
力に
及ぶ
事なら、あの
智惠逞ましき
櫻木大佐に
不能といふ
事はあるまいが、
今日まで、
何の
音沙汰の
無く
打※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、265-4]ぎて
居るのを
見ると、たとへ、
猛犬稻妻は
無事に
使命と
果したにしろ、
吾等を
此危難から
救ひ
出す
事は、
大佐の
智惠でも
迚も
及ばぬのであらうと、
私は
深く
心に
决したが、
今の
塲合だから
何も
言はない。
此時不意に、
車外の
猛獸の
群は
何者にか
愕いた
樣子で、
一時に
空に
向つて
唸り
出した。
途端、
何處ともなく、
微かに
一發の
銃聲!
一同は
飛立つて、
四方を
見廻したが、
何も
見えない。
偖は
心の
迷であつたらうかと、
互に
顏を
見合す
時、またも
一發ドガン! ふと、
大空[#ルビの「おほぞら」は底本では「おほそら」]を
仰いだ
武村兵曹は、
破鐘のやうに
叫んだ。
『
輕氣球!
輕氣球!。』
見ると、
太陽がキラ/\と
輝いて
居る
東の
方の、
赤裸の
山の
頂を
斜に
掠めて、
一個の
大輕氣球が
風のまに/\
此方に
向つて
飛んで
來た。
『やア、
大佐の
叔父さんが、
風船で
救けに
來たんだよ/\。』と
日出雄少年は
雀躍した。
『
早く、
早く、
先方では
吾等を
搜索して
居るのだ、
早く、
此方の
所在を
知らせろツ。』と、
私が
叫ぶ
聲の
下に、
武村兵曹と
二名の
水兵とは、
此時數個殘つて
居つた
爆裂彈を
一時に
投げ
出した。
山も、
谷も、
一時に
顛倒する
樣な
響と
共に、
黒煙パツと
立昇る。
猛獸羣は
不意に
驚いて、
周章狼狽て
逃げ
失せる。
輕氣球の
上では、
忽ち
吾等の
所在を
見出したと
見へ、
搖藍の
中から
誰人かの
半身が
現はれて、
白い
手巾が、
右と、
左にフーラ/\と
動いた。
頓て
氣球はだん/\と
接近して、
丁度鐵車の
直上五十
呎ばかりになると、
空中から
大聲で
『
一同無事か。』と
叫んだのは、
懷かしや、
櫻木海軍大佐の
聲、
同時に、
今一人乘組んで
居つた
馴染の
顏の
水兵が、
機敏に
碇綱を
投げると、それが
巧く
鐵檻車の
一端に
止つたので、『それツ。』といふ
聲諸共、
吾等は
鐵車の
扉を
跳ね
除け、
猿の
如く
綱を
傳つて
昇り
出した。
丁度此時、
一度逃去つたる
猛獸は、
再び
其處此處の
森林から
現はれて
來たが、つる/\と
空中に、
昇つて
行く
吾等の
姿を
見て、
一種異樣に
咆哮した。
遂に、
吾等五人は
安全に、
輕氣球へ
達した。
大佐の
顏を
見るより
日出雄少年は
『
叔父さん、
稻妻は、
稻妻は――。』
大佐は
笑つて
『
無事だよ、
無事だよ。』
私と
二名の
水兵とは、
餘りの

しさに
一言も
無かつた。
武村兵曹は
何より
前に
自分の
大失策を
白状して、
頻りに
頭を
掻いた。
此時如何に

しく、また、
如何なる
談話のあつたかは
只諸君の
想像に
任せるが、
茲に
一言記して
置かねばならぬのは、
此大輕氣球[#ルビの「だいけいききゆう」は底本では「だいけいきゆう」]の
事である。
櫻木大佐の
話す
處によると、
此日から
丁度八日前の
晩(
即ち
吾等が
犬の
使者を
送つた
其日の
夜である。)
猛犬稻妻が
數ヶ
所の
傷を
負ひ、
血に
染みて
歸つて
來たので、
初めて
吾等の
大難が
分り、それより
海岸の
家は
沸くが
如き
騷ぎで、
種々評議の
結果、
此危急を
救ふには、
輕氣球を
飛ばすより
他に
策は
無いといふ
事に
定つたが、
氣球[#ルビの「ききゆう」は底本では「きゆう」]を
作る
事は
容易な
業ではない、
幸にも、
材料は
甞て、
浪の
江丸で
本島に
運んで
來た
諸品の
内にあつたので
直ちに
着手したが、
其爲に
少なからぬ
勞力と、
諸種の
重要なる
藥品等を
費したは
勿論、
海底戰鬪艇の
内部各室の
裝飾用にと、
遙る/″\
本國から
携へて
來た三百
餘反の
白絹をば、
悉皆使用してしまつた
相だ。
此事を
語つて
櫻木大佐は
笑ひながら
『
諸君は
好奇心から
禍を
招いた
罰として、
海底戰鬪艇の
竣成した
曉にも、
裝飾の
無い
船室に
辛房せねばなりませんよ。』
一同はたゞ
頭を
掻くのみ
『はい、はい、どんな
事でも/\。』と、
答へたが、
夫に
就けても
氣遣はしきは
海底戰鬪艇の
工事の、
吾等が
斯る
騷動を
引起した
爲に、
痛く
妨げられたのではあるまいかと、
私は
口籠りながら
問ひかけると、
大佐は
悠々として
『いや、
豫定通り、
明日が
試運轉式で、それより
一週間以内には、
本島を
出發する
事が
出來ませう。』と
言ひつゝ、
日出雄少年に
向つて
『
少年よ、
待に
待つたる
富士山を
見るのも
遠い
事ではないよ。』
一同は
意外の
喜悦に
顏を
見合はした。
武村兵曹は
我を
忘れて
大聲に
『ほー、えれい
勢だ、
一方では
輕氣球を
作へながら、
海底戰鬪艇も
豫定通りに
竣成したとなると、
吾等が
馬鹿を
見て
居つた
間に、
大佐閣下も、
其餘の
水兵共も、
寢ないで
働いた
譯だな。』
大佐は
微笑と
共に
『
武村兵曹、お
前の
失策の
爲めに、
八日間一睡もしないで
働いた
水兵もあつたよ。』
兵曹は
頭を
垂れた、
私も
耳が
痛かつた。
話の
間に、
輕氣球は、かの
恐ろしき
山と
森と
谷と、
又た
惜む
可き――
然れど
今は
要なき
鐵檻車とを
後にして、
風のまに/\
空中を
飛行して、
其日午後三
時四十
分項、
吾等は
再び、
懷かしき
海岸の
景色を
夢のやうに
見おろした
時、
海岸に
殘れる
水兵等も
吾等と
認めたと
覺ぼしく、
屏風岩の
上から、
大佐の
家から、
手に/\
帽を
振り、
手巾を
振廻しつゝ、
氣球の
降ると
見えし
海濱を
指して、
蟻のやうに
集つて
來る。
其眞先に
砂塵を
蹴立てゝ、
驅つて
來るのはまさしく
猛犬稻妻!
遂に、
吾等は、
大佐の
家から四五
町距つた
海岸に
降下した。
勢よき
水兵等の
歡呼に
迎へられて、
輕氣球[#ルビの「けいききゆう」は底本では「けいきゆう」]を
出ると、
日出雄少年は、
第一に
稻妻の
首輪に
抱着いた。
二名の
水兵は
仲間の
一群に
追廻はされて、
々と
叫びながら
逃廻つた。それは「
命拾ひのお
祝」に、
拳骨が
一つ
宛振舞はれるので『
之は
堪らぬ』と
逃げ
出す
次第だ。
勿論戯謔だが
隨分迷惑な
事だ。
大佐は
笑ひながら
徐かに
歩み
出すと、
一同は
吾等の
前後左右を
取卷いて、
家路に
迎ふ。
途中、
武村兵曹は
大得意で、ヤンヤ/\の
喝釆の
眞中に
立つて、
手を
振り
口沫を
飛して、
今回の
冐險譚をはじめた。
此男は
正直だから、
猛狒退治の
手柄話は
勿論、
自分の
大失策をも、
人一倍の
大聲でやツて
退けた。
かくて、
吾等は
大暴風雨の
後に、
晴朗な
天氣を
見るやうに、
非常の
喜びを
以て
大佐の
家に
着いた。それから、
吾等が
命拾ひのお
祝ひやら、
明日の
凖備やらで
大騷ぎ。
第二十二回
海の
禍
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
二
月十一
日、
待に
待つたる
紀元節の
當日とはなつた。
前夜は、
夜半まで
大騷ぎをやつたが、なか/\
今日は
朝寢どころではない。
拂曉に
目醒めて、
海岸へ
飛出して
見ると、
櫻木海軍大佐、
日出雄少年武村兵曹等は
既に
浪打際を
逍遙しながら、いづれも
喜色滿面だ。
大海原の
東の
極から、うら/\と
昇つて
來る
旭の
光も、
今日は
格別に
麗はしい
樣だ。あの
日の
出づる
邊、
我故國では
今頃は
定めて、
都大路の
繁華なる
處より、
深山の
奧の
杣の
伏屋に
到るまで、
家々戸々に
日の
丸の
國旗を
飜して、
御國の
榮を
祝つて
居る
事であらう。
吾等遠く
印度洋の
此孤島に
距つて
居つても、


して
此日を
祝はずに
居られやう、
去年も、
一昨年も、
當日は
終日業を
休んで、
心ばかりの
祝意を
表したが、
今年の
今日といふ
今日は、
啻に
本國の
大祭日ばかりではない、
吾等の
爲には、
終世の
紀念ともなる
可き、
海底戰鬪艇の
首尾よく
竣成して、
初めて
海に
浮び
出る
當日であれば、
其目出度さも
亦た
格別である。
昨夜以來我朝日島の
海岸は、
手の
及ぶ
限り
裝飾された。
大佐の
家は
隙間もなく
日の
丸の
國旗に
取卷かれて、
其正面には、
見事な
緑門も
出來た。
荒浪の
々と
打寄する
岬の
一端には、
高き
旗竿が
立てられて、
一夜作りの
世界※國[#「一/力」、274-4]の
旗は、
其竿頭から
三方に
引かれた
綱に
結ばれて、
翩々と
風に
靡く、
其頂上には
我が
譽ある
日章旗は、
恰も
列國を
眼下に
瞰おろすが
如く、
勢よく
飜つて
居る。
海濱の
其處此處には、
毛布や、
帆布や、
其他樣々の
武器等を
應用して
出來た、
富士山の
摸形だの、
二見ヶ
浦の
夕景色だの、
加藤清正の
虎退治の
人形だのが、
奇麗な
砂の
上にズラリと
並んだ。また
彼方では、
一團の
水兵がワイ/\と
騷いで
居るので、
何事ぞと
眺めると、
其處は
小高い
丘の
麓で、
椰子や
橄欖の
葉が
青々と
茂り、
四邊の
風景も
一際美はしいので、
今夜は
此處に
陣屋を
構へて、
大祝賀會を
催すとの
事、
其仕度に
帆木綿や、
檣の
古いのや、
倚子や、テーブルを
擔ぎ
出して、
大騷ぎの
最中。
頓て
海底戰鬪艇が、いよ/\
秘密造船所を
出づる
可き
筈の
午前九時になると、
一發の
砲聲が
轟いた。それと
同時に、
一旦家に
歸つた
櫻木海軍大佐は、
金モールの
光燦爛たる
海軍大佐の
盛裝で、
一隊の
水兵を
指揮して、
屏風岩の
下なる
秘密造船所の
中へと
進入つた。
私と、
日出雄少年と、
他に
一群の
水兵とは、
陸に
留つて、
其試運轉の
光景を
眺めつゝ、
花火を
揚げ、
旗を
振り、
大喝采をやる
積りだ。
九
時三十
分、
第二の
砲聲と
共に、
我が
驚く
可き
海底戰鬪艇は
遂に
海中に
進水した。
艇長百三十
呎、
全面雪白の
電光艇が、
靜かに
[#「靜かに」は底本では「靜がに」]波上に
泛んだ
時の
勇ましさ、
櫻木海軍大佐は
軍刀をかざして
觀外塔上に
立ち、
一聲[#ルビの「いつせい」は底本では「いつせん」]叫ぶ
號令の
下に、
艇は
流星の
如く
疾走した、
第二の
號令と
共に、
甲板は
自然に
閉ぢ、
水煙空に
飛ぶよと
見えし、
艇は
忽然波底に
沈み、
沈んでは
浮び、
浮んでは
沈み、
右に、
左に、
前に、
後に、
神出鬼沒の
活動は、げにや
天魔の
業かと
疑はるゝ、
折から
遙かの
沖に
當つて、
小山の
如き
數頭の
鯨群は、
潮を
吹いて
游いで
來た。
物の
數にも
足らぬ
海獸なれど、あれを
敵國の
艦隊に
譬ふれば
如何にと、
電光艇は
矢庭に
三尖衝角を
運轉して、
疾風電雷の
如く
突進すれば、あはれ、
海の
王なる
巨鯨の
五頭七頭は
微塵となつて、
浪を
血汐に
染めた。
更に
新式魚形水雷の
實力如何にと、
艇は
海底を
龍の
如[#ルビの「ごと」は底本では「ごく」]く
疾走しつゝ
洋上の
巨巖[#「巨巖」は底本では「巨嚴」]目掛けて
射出す
一發二發、
巨巖碎け
飛んで、
破片波に
跳つた。
忽ち
電光艇の
甲板には
歡呼の
聲が
起つた。それと
同時に、
吾等陸上の
一同は
萬歳を
叫ぶ、
花火を
揚げる、
旗を
振る、
日出雄少年は
夢中になつて、
猛犬稻妻と
共に、
飛鳥の
如く
海岸の
砂を
蹴立てゝ
奔走した。
實に
此島在つて
以來の
大盛况※
[#感嘆符三つ、277-1]
兎角する
程に、
海底戰鬪艇は
[#「海底戰鬪艇は」は底本では「海底戰國艇は」]試運轉を
終り、
櫻木海軍大佐は
再び
一隊を
指揮して
上陸した。
電光艇は
恰も
勇士の
憩うが
如く、
海岸間近く
停泊して
居る。
さて
夫よりは、
紀元節の
祝賀と、
此大なる
成功の
祝とで
沸くが
如き
騷ぎ、
夜になると、
兼て
設けられたる
海岸の
陣屋で
大祝賀會が
始まつた。
其塲の
盛况は
筆にも
言葉にも
盡されない。
茶番をやる
水兵もある、
軍樂を
奏する
仲間もある、
武村兵曹は
得意に、
薩摩琵琶『
河中島』の
一段を
語つた。
此男に、
此樣な
隱し
藝があらうとは
今日まで
氣付かなかつた。
特に
櫻木海軍大佐の
朗々たる
詩吟につれて、
何時覺えたか、
日出雄少年の
勇ましき
劍舞は
當夜の
華で、
私が
無藝のために、
只更頭を
掻いたのと
共に、
大拍手大喝釆であつた。
かくて、
此會の
全く
終つたのは
夜の十一
時※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、278-1]であつた。
櫻木大佐は、すでに
海底戰鬪艇も
海上に
浮んだので、
其甲板を
守らんが
爲めに、
武村兵曹をはじめ
一隊の
水兵を
引卒して
艇中に
赴いた。
殘り
一群の
水兵と、
私と、
日出雄少年とは、
未だ
艇に
乘組む
必要も
無いので、
再び
海岸の
家へ
歸つたのである。
誰でも
左樣だが、
非常に

しい
時にはとても
睡眠などの
出來るものでない。で、
家に
歸つたる
吾等の
仲間は、それからまた
一室に
集つて、
種々の
雜談に
耽つた。

の
硝子越しに
海上を
眺めると、
電光艇は
星の
光を
浴びて
悠然と
波上に
浮んで
居る、あゝ
此艇もかく
竣成した
以上は、
今から
一週間か、十
日以内には、
萬端の
凖備を
終つて、
此島を
出發する
事が
出來るであらう。
此島を
出發したらもう
締たものだ、
一時間百海里前後の
大速力は、
印度洋を
横切り、
支那海を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、278-12]ぎ、
懷かしき
日本海の
波上より、
仰いで
芙蓉の
峰を
拜する
事も
遠い
事ではあるまい。
無邪氣なる
水兵等の
想像するが
如く、
其時の
光景はまあどんなであらう。
電光艇の
評判、
櫻木大佐の
榮譽、
各自の
胸にある
種々の
樂み、それ
等は
管々しく
言ふに
及ばぬ。
一度死んだと
思はれた
日出雄少年と、
私とが、
無事に
此譽ある
電光艇と
共に
世に
現はれて
來たと
聞いたなら、
ネープルスに
在る
濱島武文――
若しまた
春枝夫人が
此世にあるものならば、
如何に
驚き
且つ
喜ぶ
事であらう。
斯う
考へると、
實に
愉快で/\
堪らぬ、
今や
吾等の
眼には、たゞ
希望の
光の
輝くのみで、
誰か
人間の
幸福を
嫉む
惡魔の
手が、
斯る
時――かゝる
間際に
兎角大厄難を
誘起すものであるなどゝ
心付く
者があらう。
然るに、
人間の
萬事は、
實に
意外の
又意外、
此喜悦の
最中に
非常な
事變が
起つた。
刻は、
草木も
眠る、
一時と
二時との
間、
談話暫時途絶えた
時、ふと、
耳を
澄すと、
何處ともなく
轟々と、
恰も
遠雷の
轟くが
如き
響、
同時に
戸外では、
猛犬稻妻がけたゝましく
吠立てるので、
吾等は
驚いて
立上る、
途端もあらせず!
響は
忽ち
海上に
當つて、
天軸一時に
碎け
飛ぶが
如く、
一陣の
潮風は
波の
飛沫と
共に、サツと
室内に
吹付けた。
『
大海嘯!
大海嘯!。』と
一同は
絶叫したよ。
周章狼狽戸外に
飛出して
見ると、
今迄は
北斗七星の
爛々と
輝いて
居つた
空は、
一面に
墨を
流せる
如く、
限りなき
海洋の
表面は
怒濤澎湃、
水煙天に
漲つて
居る。
此海嘯は
後に
分つたが、
印度洋中マルダイ
島附近の
海底の
地滑りに
原因して、
亞弗利加の
沿岸から、
亞剌比亞地方へかけて、
非常な
損害を
與へた
相だが、
其餘波が
此孤島まで
押寄せて
來たのである。
兎に
角非常な
騷動!
幸福にも
吾等の
家は、
斷崖の
絶頂に
建てられて
居つたので、
此恐る
可き
惡魔の
犧牲となる
事丈けは
免かれた。けれど、それと
同時に、
第一に
吾等の
胸を
打つたのは、
櫻木大佐等の
乘込める
海底戰鬪艇の
安否である。
天は
暗い、
地も
暗い、
海の
面は
激浪逆卷き、
水煙跳つて、
咫尺も
辨ぜぬ
有樣、
私は
氣も
氣でなく、
直ちに
球燈を
點じて
驅け
出すと、
日出雄少年も
水兵等も
齊しく
手に/\
松明をかざして、
斷崖の
尖端に
立ち、
聲を
限りに
叫びつゝ
火光を
縱横に
振廻した。
吾等の
叫聲は
忽ち
怒濤の
響に
打消されてしまつたが、
只見る、
黒暗々たる
遙か/\の
沖に
當つて、
一點の
燈光ピカリ/\。
まさしく、
海底戰鬪艇よりの
夜間信號!
其信號に
曰く
電光艇は
無事なり!
電光艇は
無事なり!
第二十三回 十二の
樽
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
大海嘯後の
光景は、
實に
慘憺たるものであつた。
翌朝になつて
見ると、
海潮は
殆ど
平常に
復したが、
見渡す
限り、
海岸は、
濁浪怒濤の
爲に
荒されて、
昨日美はしく
飾立てゝあつた
砂上の
清正の
人形も、
二見ヶ
浦の
模形も、
椰子林の
陣屋も、
何處へ
押流されたか
影も
形もなく、
秘密造船所も
一時は
全く
海水に
浸されたと
見えて、
水面から
餘程高い
屏風岩の
尖頭にも、
醜き
海草の
殘されて、
其海草から
滴り
落つる
水玉に、
朝日の
光の
異樣に
反射して
居るなど、
實に
荒凉たる
有樣であつた。
此時、
電光艇は
遙かの
沖から
海岸に
近き
來り、
櫻木海軍大佐は、
無事に
一隊の
水兵と
共に
上陸して
來たので、
陸上の
一同は
直ちに
其處に
驅付けた。
吾等の
爲には、
海底戰鬪艇が
無事であつた
事が
何より

しい。
私は
滿面に
笑を
湛えて
大佐の
手を
握り、かゝる
災難の
間にも
互の
身の
無事なりし
事をよろこび、さて
『
昨夜、
海上の
光景はどんなでしたか。』と
言ひながら、しげ/\と
大佐の
顏を
眺めたが、
實に
驚いた。
日頃沈着で、
何事にも
動顛した
事のない
大佐の
面には、
此時何故か、
心痛極りなき
色が
見えたのである。
大佐ばかりでない、
快活なる
武村兵曹も、
其他の
水兵等も、
電光艇より
上陸した
一同は、
悉く
色蒼ざめ、
頭を
垂れて、
何事をか
深く
考へて
居る
樣子。
私は
胸うたれて、
急ぎ
問ひかけた。
『
何か
變つた
事でも
起りましたか、
若しや、
昨夜の
海嘯のために、
海底戰鬪艇に
破損でも
生じたのではありませんか。』
『
否。』と
大佐は
靜かに
顏を
上げた。
『
電光艇の
船體には、
何も
異状はありませんが――。』といひながら、
眤と
私の
顏を
眺めて
『
然し、
昨夜の
海嘯は、
吾等一同を
希望の
天上より、
絶望の
谷底へ
蹴落したと
思はれます。』
『な、な、
何故ですか。』と、
陸の
仲間は
一時に
顏色を
變へたのである。
大佐は、
直ちに
此問には
答へんとはせで、
頭を
廻らして、
彼方なる
屏風岩の
方を
眺めたが、
沈欝なる
調子で
『
君は
今朝になつて、
秘密造船所[#「秘密造船所」は底本では「秘密船造所」]の
内部を
檢査しましたか。』
『いや、
未だです。』と
私は
答へた。
若し、
大海嘯が
今から二三
日以前の
事で、
海底戰鬪艇が
未だ
船渠を
出ぬ
内なら、
第一に
警戒すべき
塲所は
其處だが、
今は、
左迄で
急いで、
檢査する
必要も
無いと
考へたのである。
然るに、
大佐の
言葉と、
其顏色とで
察すると、
其心痛の
源は
何んでも
其處に
起つたらしい、
私は
急ぎ
言をつゞけた。
『
未だ
實見はしませんが、
御覽の
通り、
海面から
餘程高いあの
屏風岩の
尖頭にも、
海草が
打上げられた
程ですから、
秘密造船所の
内部は
無論海潮の
浸入のために、
大損害を
蒙つた
事でせう、それが
何か
憂ふ
可き
事の
原因となるのですか。』
『
無論です。』と
大佐は
胸に
手を
措いて
『
君は
忘れましたか、
秘密造船所の
中には、
未だ
海底戰鬪艇の
生命の
殘されて
居つた
事を。』
『
海底戰鬪艇[#「海底戰鬪艇」は底本では「海底戰艇鬪」]の
生命とは。』と、
私は
審つた。
『十二の
樽です。
君も
御存じの
如く、
海底戰鬪艇の
總ての
機關は、
秘密なる十二
種の
化學藥液の
作用で
活動するのでせう、
其活動の
根源となる
可き
藥液は、
盡く十二の
樽に
密封されて、
造船所内の
一部に
貯藏されてあつたのだが、あゝ、
昨夜の
大海嘯では
其一個も
無事では
居るまい、イヤ、
决して
無事で
居る
筈はありません。』
『え、え、え。』と、
初めて
此事に
氣付いた
吾等一
同は、
殆ど
卒倒するばかりに
愕いた。
大佐は
深き
嘆息を
洩して
『
恐らく
私の
想像は
誤るまい、
實に
天の
禍は
人間の
力の
及ぶ
處ではないが、
今更斯る
災難に
遭ふとは、
實に
無情い
次第です。
今、十二の
樽が
盡く
流失したものならば、
海底戰鬪艇の
神變不思議の
力も、
最早活用するに
道が
無いのです。
丁度普通の
蒸
船に
石炭の
缺乏したと
同じ
事で、
波上に
停止したまゝ、
朽果つるの
他はありません。
勿論、
電光艇には
試運轉式の
時に
積入れた
發動藥液が、
今も
多少は
殘つて
居るが、
艇に
殘つて
居る
丈けでは、一千
海里以上を
進航するに
足らぬ
程で、
本島から一千
海里といへば
此處から
一番に
近いあの
人煙の
稀なる
マルダイ
群島の
一つ
橄欖島の
附近までは
到達する
事は
出來ませうが、
橄欖島へ
達した
所で
何にもならない、
却て
其處で、
全然進退の
自由を
失つたら
夫こそ
大變、
自ら
進んで
奇禍を
招くやうなものです。
橄欖島は
荒凉たる
島、とても
其種の
發動藥液を
得る
事は
出來ず、
其他の
諸島、
又は
大陸に
通信して、
供給を
仰ぐといふ
事も、
决して
出來る
事では
無いのです。
加ふるに
橄欖島の
附近には、
始終有名なる
海賊船が
横行し、また
屡々、
歐洲諸國の
軍艦も
巡航して
來ますから、
其邊に
我が
海底戰鬪艇が
機關の
活動を
失つて、
空しく
波上に
漾つて
居るのは
無謀此上もない
事です。
彼等は
日本帝國の
爲に、
今や
斯る
戰艇が
竣成したと
知つたら、
决して
默しては
居りません、
必定、
全力を
盡して、
掠奪に
着手しませうが、
其時、
動いては
天下無敵の
此電光艇も、
其活動力を
失つて
居る
間は、
如何ともする
事が
出來ません、
吾等は
潔よく
其處に
身命を
抛つ
事は
露惜まぬが、
其爲に、
海底戰鬪艇が
遂に
彼等の
手に
掠奪されて
御覽なさい、
吾等が
幾年月の
苦心慘憺も
水の
泡、
否、
我が
親愛なる
日本帝國[#ルビの「につぽんていこく」は底本では「ほつぽんていこく」]の
爲に、
計畫した
事が、
却て
敵に
利刀を
與へる
事になります。
其樣な
事が
如何して
出來ませう。
然れば
百計盡た
塲合には、たとへ
海底戰鬪艇と
共に
永久に
此孤島に
朽果つるとも、
無謀に
本島を
出發する
事は
出來ません。
君よ
左樣でせう。で、
今私の
想像するが
如く
秘密造船所が
全く
海水の
爲めに
破壞されて、十二の
樽が
其一個でも
流失したものならば、
吾等は
最早本島から
一尺も
外へ
出る
事は
出來ないのです、
左樣、
吾等が
無上の
樂とせる
懷かしの
日本へ
歸る
可き
希望も、
全く
奪去られたといふものです。』
『
嗟呼。』と
叫んだ
儘、
私も
日出雄少年も
其他の
水兵等も
茫然自失した。
昨夜の
大海嘯の
悽まじき
光景では、
其十二の
樽の
最早一個も
殘つて
居らぬ
事は
分つて
居るが、それでも、
萬に
一もと
思つて、
吾等は
心も
空に
洞中の
秘密造船所の
内部に
驅付けて
見たが、
不幸にして
大佐の
言は
誤らなかつた。
塲内の
光景は
實に
慘憺たるもので、
濁浪怒濤は
一方の
岩壁を
突破つて、
奔流の
如く
其處から
浸入したものと
見へ、
其直ぐ
側の、
兼て
發動藥液の
貯藏せられて
居つた
小倉庫の
鐵の
扉は
微塵に
碎かれて、十二の
樽は
何處へ
押流されたものか、
影も
形も
無かつた。
大佐は
撫然として
天を
仰ぐのみ、
一同の
顏色は
益々青くなつた。
あゝ、
天上から
地獄の
底へ
蹴落されたとて、
人間は
斯く
迄失望するものではあるまい。
一同は
詮方なく
海岸の
家に
皈つたが、
全く
火の
消えた
後のやうに、
淋しく
心細い
光景。
櫻木大佐は
默然として
深く
考に
沈んだ。
武村兵曹は
眼中に
無念の
涙を
浮べて、
今も
猶ほ
多少仇浪の
立騷いで
居る
海面を
睨んで
居る。
日出雄少年はいと/\
悲し
相に
『あゝ、また
日本へ
皈る
事が
出來なくなつたんですか。』と
空しく
東の
空を
望む、
其心の
中はまあどんなであらう。三十
有餘名の、
日頃は
鬼とも
組まん
水兵等も、
今は
全く
無言に、
此處に
一團、
彼處に
一團、
互に
顏を
見合はすばかりで、
其中に二三
名は、
萬一にも十二の
樽の
中一つでも、二つでも、
海濱に
流れ
寄る
事もやと、
甲斐/″\しく
巡視に
出かけたが、
無論宛になる
事では
無い。
第二十四回
輕氣球の
飛行
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く/\
私はつく/″\と
考へたが、
今度といふ
今度こそは、とても
免れぬ
天の
禍であらう。
櫻木大佐の
言の
如く、
無謀に
本島を
離るゝ
事が
出來ぬものとすれば、
他に
何の
策も
無い。
電光艇の
活動の
原因となるべき十二
種の
藥液は、
何時までかゝつても、
此樣な
孤島では
製造の
出來るものでなく、また、
他から
供給を
仰ぐ
事も
恊はねば、
吾等は
爾後十
年生存るか、二十
年生存るか
知れぬが、
朝夕、
世界無比の
海底戰鬪艇を
目前に
眺めつゝも、
終には、
此絶島の
鬼とならねばならぬのである。
斯う
考へると、
無限に
悲哀くなつて、たゞ
茫然と
故國の
空を
望んで、そゞろに
暗涙を
浮べて
居る
時、
今迄默然と
深き
考慮に
沈んで
居つた
櫻木大佐は、
突然顏を
上げた。
彼は
遂に
非常手段を
案じ
出したのである。
大佐は、
决然たる
顏色を
以て
口を
開いた。
『
今、
此厄難に
際して、
吾等の
採る
可き
道は
只二つある、
其一つは、
何事も
天運と
諦めて、
電光艇と
共に
此孤島に
朽果てる
事――
然しそれは
何人も
望む
處ではありますまい――
他の
一策は
他でも
無い、
實に
非常の
手段ではあるが、
※日[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、293-1]、
自動鐵車が
砂すべりの
谷に
陷落した
時、
君等を
救はんが
爲に
製作した
大輕氣球が、
今も
猶ほ
殘つて
居る。
其輕氣球を
飛揚して、
誰か一二
名、
印度の
コロンボ市か
其他の
大陸地方の
都邑に
達し、
其處で、
電光艇が
要する十二
種の
藥液を
買整へ、
其處から一千
海里離れて
大陸と
本島との
丁度中間に
横はれる
橄欖島まで
竊に
船に
艤裝して、十二の
藥液を
運送して
來たならば、
此方でも
海底戰鬪艇には、
未だ
多少の
發動藥液が
殘つて
居るから、
其運送船が
丁度橄欖島に
到着する
頃、
我が
電光艇も
亦た
本島を
出發して、
二船其島に
會合し、
凖備の
藥液をば
電光艇に
轉載して、それより
日本に
歸らんとの
計畫です。
勿論、
事の
成敗は
豫期し
難いが、
萬一氣球が
空中に
破裂するとか、
其他の
異變の
爲に、
使命を
果す
事が
出來なければ
夫迄の
事、
此方電光艇は、
約束の
日に
本島を
發し、
橄欖島に
赴いて、
數日待つても、
來る
可き
船の
來ぬ
塲合には、それを
以て
輕氣球の
運命を
卜し、
自も
亦た
天運の
盡と
諦めて、
其時は
最後の
手段、
乃ち
海賊船とか
其他強暴なる
外國の
軍艦等に、
海底戰鬪艇の
秘密を
覺られぬが
爲に、
自ら
爆發藥を
以て
艇體を
破壞して、
潔よく
千尋の
海底に
沈まんとの
覺悟。
實に
非常の
手段ではあるが、
今の
塲合に
於て、
目的もなく、
希望もなく
漸く
竣成せし
海底戰鬪艇を
目前に
瞻めつゝ、
空しく
此孤島に
朽果てんよりは、
寧ろ
吾等の
採る
可き
道は
是であらう。』と、
語り
終つて、
大佐は、
决心の
色動かし
難く
吾等一同を
見た。
無論大佐の
言に
異議を
挾むものゝあらう
筈は
無く、
遂に
此事は
確定したが、さて、
輕氣球に
乘つて、
此大使命を
果さんものは
誰ぞといふ
段になつて、
勇壯なる
水兵等は、
吾先にと
[#「吾先にと」は底本では「吾先とに」]其任に
當らんと
競ひ
立つたが、
大佐は
思ふ
所ある
如く
容易に
許さない。
實に、
此大使命は
重大な
事である。
氣球がいよ/\
大陸の
都邑に
降下して
後、
秘密藥品の
買收から、
竊かに
船に
艤裝して、
橄欖島へ
赴く
迄の
間の
駈引は
尋常な
事で
無い、
私は
早くも
櫻木大佐の
心を
讀み
得たので、
自ら
進み
出た。
『
此大使命には
不肖ながら
私が
當りませう。』といふと
大佐は
大に
喜び
『
實は
其お
言葉を
待つて
居つたのです。
此任務は、
單に
勇氣と、
膽力とのみでは
出來ません。
氣球の
降下する
處は
無論異邦の
地、
外國語、
其他の
便宜上、
君に
依頼するより
他は
無かつたのです。』と
左右を
顧見て
『そこで、
今一人助手として
誰か。』
『
私が
參ります。』と
例の
武村兵曹は
勇躍して
進み
出た。
大佐眼を
定めて
眤と
兵曹の
顏を
眺め
『
汝、
此度の
使命の
成敗は、
我が
海底戰鬪艇が、
日本帝國の
守護として、
世に
現出する
事が
出來るか、
否かの
分れ
目であるぞ。
極めて
機敏に、
極めて
愼重なれ。』
兵曹言はなく、
涙[#ルビの「なみだ」は底本では「なんだ」]を
垂れて
大佐の
顏を
見返した。
斯く
大使命の
役も
私と
武村兵曹とに
定まると、
本島に
殘る
櫻木大佐等と
吾等兩人との
間には、
極めて
細密なる
打合せを
要するのである。
其打合せは
斯うであつた。
今日は二
月の十二
日、
風の
方向は
極めて
順當であるから、
本日輕氣球が
此島を
出發すれば、
印度洋の
大空を
横斷して、
來る十六
日か十七
日には、
大陸で
一番に
近い
印度國コロンボ市の
附近に
降下する
事が
出來るであらう。
其處で
秘密藥品の
買入れや、
船舶の
雇入れに
五日間を
費すとして
吾等が
橄欖島に
赴く
事の
出來るのは、
本月の廿四
日から廿七八
日迄の
間と
豫定せらるゝから、
櫻木大佐等は二十四
日の
夜半に
電光艇に
乘じて、
本島を
離れ、
其翌日の
拂曉には、
橄欖島の
島蔭に
到着する
約束。そこで、
何方でも、
早く
橄欖島に
到着した
方は、
向ふ
一週間の
間、
其島の
附近で
待合はせ、
一週間※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、297-5]て
後も
他の
一方が
見えぬ
時には、
最早運命の
盡と
覺悟を
定める
筈であつた。
此打合せが
終ると、
大佐の
命令で、
輕氣球は
海岸の
砂上に
引出され、
水素瓦斯は
充分に
滿たされ、
數日分の
食料と、
飮料水と、
藥品の
買入れや、
船舶の
雇入れの
爲めに
費す
可き、
巨額の
金銀貨の
積込みも
終ると、
私と
武村兵曹とは
身輕に
旅裝を
整へて
搖籃の
中へと
乘込んだ。あゝ、
之が
一生の
別れとなるかも
分らぬ。
櫻木大佐も、
日出雄少年も、
默つて
吾等兩人の
顏を
眺め、
力を
込めて
吾等の
手を
握つた。
一隊三十
有餘名の
三年以來の
馴染の
水兵等は、
別を
惜まんとて、
輕氣球の
周圍を
取卷いたが、
誰も
一言も
發する
者が
無い、
中には
感慨極つて、
涙を
流した
者もあつた。
私も
武村兵曹も
實に
心で
泣いたよ。
此時、
吾等一同の
沈默は、
千萬言よりも
深い
意味を
有して
居るのであつた。
兎角する
程に
結びの
綱は
解かれて、
吾等兩人を
乘せたる
輕氣球は、
遂に
勢よく
昇騰をはじめた。
櫻木大佐等は
一齊にハンカチーフを
振つた。
武村兵曹と
私とは、
帽を
脱して
下方を
瞻めたが、
風は
南から
北へと、
吾が
輕氣球は、三千
數百
尺の
大空を、
次第/\に
大陸の
方へと、やがて、
住み
馴れし
朝日島も、
蒼渺たる
水平線上に
豆のやうになつて
消え
去つた。
第二十五回
白色巡洋艦
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの艦は!
朝日島を
去つてから、
三日は
何事もなく
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、299-4]つた。
吾等兩人を
乘せたる
輕氣球は、
印度洋の
天空を
横切つて、
北へ/\と
二千哩以上も、
櫻木大佐等の
家から
離れたと
思はるゝ
頃、
遙か/\の
天の
一角に、
雲か、
煙のやうに、
大陸の
影が
認められた。
私と
武村兵曹とは
眼[#ルビの「め」は底本では「み」]を
見合はせて、はじめてホツと
一息ついた。あの
大陸は、
疑も
無き
印度の
大陸であらう。すると、
今から三四
時間の
後には、
目的の
コロンボ市の
附近に
降下して、
櫻木大佐より
委任されたる、
此度の
大役をも
首尾よく
果す
事が
出來るであらうと、
互に
喜悦の
眉を
展く
時しも、
又々一大異變が
起つた。それは
他でも
無い、
今迄は
恰も
天の
恩惠の
如く、
極めて
順當に、
南から
北へと、
吾が
輕氣球をだん/″\
陸地の
方へ
吹き
送つて
居つた
風が、
此時、
俄然として、
東から
西へと
變つた
事である。はじめ
朝日島を
出づる
時、
櫻木大佐は
天文を
觀測して、
多分此三四
日の
間は、
風位に
激變は
無からうと
言はれたが、
天の
仕業程豫知し
難いものはない。
此東風が
吹いて
來た
爲に、
吾が
輕氣球は、
忽ち
進行の
方向を
變じて、
今度は、
陸の
方面[#ルビの「ほうめん」は底本では「ほんめん」]から
斜に、
海洋の
方へと
吹きやられた。
私と
武村兵曹とは
今迄の
喜悦も
何處へやら、
驚愕と
憂慮とのために、
全く
顏色を
失つた。
今一息といふ
間際になつて、
此異變は
何事であらう。あゝ、
天は
飽迄我等に
祟るのかと、
心を
焦立て、
身を
藻掻いたが、
如何とも
詮方が
無い。
見る/\
内に、
大陸の
影も
名殘りなく、
眼界の
外に
消え
失せてしまうと、
其内に
風はだん/\
烈しくなつて
來て、はては
印度洋で、
著名の
颶風と
變つてしまつた。
下界を
見ると
眼も
眩むばかりで、
限りなき
大洋の
面には、
波瀾激浪立騷ぎ、
數萬の
白龍の
一時に
跳るがやうで、ヒユー、ヒユーと
帛を
裂くが
如き
風の
聲と
共に、
千切つた
樣な
白雲は
眼前を
掠めて
飛ぶ、
實に
悽愴極りなき
光景。
勿論、
旋風の
常とて
一定の
方向はなく、
西に、
東に、
南に、
北に、
輕氣球は
恰も
鵞毛のごとく、
天空に
舞ひ
揚り、
舞ひ
降り、
マルダイヴ群島の
上を
斜に
飛び、
ラツカダイヴ諸島の
空を
流星の
如く
驅つて、それから
何處へ、
如何に
行くものやら、
四晝夜の
間は
全く
夢中に
空中を
飛走したが、
其五日目の
午前になつて、
風も
漸くをさまり、
氣球の
動搖も
靜まつたので、
吾等ははじめて
再生の
思をなし。
恐[#ルビの「おそ」は底本では「おる」]る/\
搖籃から
半身を
現はして
下界を
見ると、
今は
何處の
空に
吹流されたものやら、
西も
東も
方角さへ
分らぬ
程だが、
身は
矢張渺々たる
大海原の
天空に
飛揚して
居るのであつた。
此處は
地球上の
何れの
邊に
當つて
居るだらうと、
二人は
首を
捻つて
見たが
少しも
分らない。
武村兵曹の
考では。
最早亞弗利加大陸を
横斷して、ずつと
西の
方に
吹き
飛ばされて、
今、
下邊に
見ゆる
大海は、
大西洋に
[#「大西洋に」は底本では「太西洋に」]相違はあるまい。と
言つたが、
私はどうも
左樣とは
信じられなかつた。
數日以來の
風は、
隨分悽まじいものであつたが、
颶風の
常として、
吾が
輕氣球は
幾度も
同じ
空に
吹き
廻されて
居つた
樣だから、
左迄遠方へ
飛ぶ
氣遣はない、
私の
考では、
下方に
見ゆるのは
矢張印度洋の
波で、
事によつたら
マダカツスル島の
西方か、
アデン灣の
沖か、
兎に
角歐羅巴邊の
沿岸には、
左程遠い
所ではあるまいと
思はれた。
然し、
今は
其樣な
事を
悠長に
考へて
居るべき
塲合でない。
此時の
心痛は
實に
非常であつた。
櫻木大佐との
約束の
日は
既に
切迫して
居る。
指を
屈して
見ると、
吾等が
豫定通りに
印度國コロンボ市の
附近に
降下して、
秘密藥品を
買整へ、
船に
艤裝して
橄欖島へ
到着す
可き
筈の二十五
日迄には、
最早六日を
餘すのみで。
約束の
日には、
櫻木大佐は
日出雄少年等と
共に、
海底戰鬪艇に
乘じて
朝日島を
離れ、
竊かに
橄欖島に
到りて、
吾等兩人の
應援を、
今日か、
明日かと、
待ち
暮す
事であらうが。
今の
吾等の
境遇では、
果して
其大任を
果す
事が
出來るであらうか。
見渡す
限り
雲煙渺茫たる
大空[#ルビの「おほぞら」は底本では「おはぞら」]に
漂蕩して、
西も、
東も
定めなき
今、
何時大陸に
達して、
何時橄欖島に
赴き
得べしといふ
目的もなければ、
其内に
豫定の廿五
日も
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、303-9]ぎ、
其後の
一週間も
空しく
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、303-10]つたならば、
櫻木大佐も
終には
覺悟を
定めて、
稀世の
海底戰鬪艇と
共に、
海の
藻屑と
消えてしまう
事であらう。
嗚呼、
大事切迫/\と、
私は
武村兵曹と
顏を
見合はしたる
儘、
身體の
置塲も
知らぬ
程心を
惱まして
居る、
時しも
忽ち
見る、
遙か/\の
水平線上に
薄雲の
如き
煙先づ
現はれ、つゞゐて
鳥か
船か
見え
分かぬ
程、
一點ポツンと
白い
影、それが
段々と
近づいて
來るとそは
一艘の
白色巡洋艦であつた。
後檣縱帆架に
飜る
旗は、まだ
朦乎として、
何國の
軍艦とも
分らぬが、
今や、
團々たる
黒煙を
吐きつゝ、
波を
蹴立てゝ
吾が
輕氣球の
飛揚せる
方角へ
進航して
來るのであつた。
此時私は
急に
一策を
案じた。
今吾等は、
重大の
使命を
帶びながら、
何時大陸へ
着くといふ
目的も
無く、
此儘に
空中に
漂蕩して
居つて、
其間に
空しく
豫定の
期日を
經※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、304-9]してしまつた
事ならば、
後悔臍を
噛むとも
及ぶまい。
幸ひ、
彼處に
見ゆる
白色巡洋艦、あれは
何國の
軍艦で、
何處から
何處へ
指しての
航海中かは
分らぬが、
一應かの
船の
助けを
求めては
如何だらう。
勿論、
吾等が
空中旅行の
目的と、
櫻木大佐の
海底戰鬪艇の
秘密とは、
輕々しく
外國船などに
覺られてはならぬが、それは
臨機應變に
何とか
言脱れの
工夫の
無いでも
無い。
兎も
角も、
目下の
急丈けを、かの
軍艦に
助けられて、
何處でもよい、
最近の
大陸地方に
送り
屆けて
貰つたならば、
其後は
必死に
奔走して、
如何にかして、
豫定の
期日までに
約束の
凖備を
整へて、
櫻木大佐等が
待てる
橄欖島に
到着する
事の
出來ぬでもあるまい。
斯う
考へたので、
急ぎ
武村兵曹に
談合すると、
兵曹も
無論不同意はなく、
直ちに
白い
手巾を
振廻して、
救難の
信號をすると、
彼方の
白色巡洋艦でも、
吾等の
輕氣球を
認めたと
見え、
其前甲板に
白と
赤との
旗が、
上下にヒラ/\と
動くやうに
見えた。
此途端!
武村兵曹は、
忽ち
何者をか
見出したと
見へ、
割れるやうな
聲で
叫んだ。
『
大變!
大變!
大變だア』
私も
愕然として
振向くと、
今迄は
白色巡洋艦の
一方に
氣を
取られて、
少しも
心付かなかつたが、
只見る、
西方の
空一面に「ダンブロー
鳥」とて、
印度洋に
特産の
海鳥――
其形は
鷲に
似て
嘴鋭く、
爪長く、
大[#ルビの「おほき」は底本では「おほい」]さは七
尺乃至一
丈二三
尺位いの
巨鳥が、
天日も
暗くなる
迄夥しく
群をなして、
吾が
輕氣球を
[#「輕氣球を」は底本では「輕氣珠を」]目懸けて、
襲つて
來たのである。
吾等兩人は
非常に
喫驚した。
此種の
海鳥は、
元來左迄に
性質の
猛惡なもので
無いから、
此方さへ
落付いて
居れば、
或は
無難に
免れる
事が
出來たかも
知れぬが、
不意の
事とて、
心から
顛倒して
居つたので、
其樣な
事を
考へ
出す
暇もない、
急ぎ
追ひ
拂ふ
積りで、
一發小銃を
發射したのが
※失[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、306-10]であつた。
彈丸は
物の
見事に
其一羽を
斃したが、
同時に
他の
鳥群は、
吾等に
敵對の
色があると
看て
取つたから
堪らない。
三羽四羽憤怒の
皷翼と
共に
矢の
如く
氣球に
飛掛かる、あつといふ
間に、
氣球は
忽ち
其鋭き
嘴に
突破られた。
其時、
先刻の
白色巡洋艦は
既に
吾が
輕氣球を
去る
事一
海里許の
海上に
進んで
來たので
船の
全體も
手に
取る
如く
見える、
今しも、ふと
其「ガーフ」の
軍艦旗を
認めた
武村兵曹は
『や、や、あの
旗は、あの
艦は。』とばかり、
焦眉の
急も
忘れて
跳り
立つ、
私も
急ぎ
其方に
眼を
轉ぜんとしたが、
時既に
遲かつた。
「ガンブロー
鳥」に
突破られたる
輕氣球は、
水素瓦斯の
洩るゝ
音と
共に、キリヽ/\と
天空を
舞ひ
降つて、『あはや』といふ
間に、
大洋の
眞唯中へ
落込んだのである。
第二十六回
顏と
顏と
顏
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
輕氣球と
共に、
海洋の
唯中に
落込んだ
吾等兩人は、
一時は
數十
尺深く
海底に
沈んだが、
幸にも、
落下の
速力の
割合に
緩慢であつた
爲と、また
浪に
氣球が
抵杭した
爲に、
絶息する
程でもなく、
再び
海面に
浮び
出でゝ、
命を
限りに
泳いで
居ると、
暫くして、
彼方の
波上から、
人の
呼聲と、
櫂の
音とが
近づいて
來て、
吾等兩人は
遂に
情ある
一艘の
端艇に
救ひ
上げられたのである。
今、
端艇を
出して、
吾等の
九死一生の
難を
救つて
呉れたのは、
疑もない、
先刻の
白色巡洋艦である。
端艇に
引上げられた
武村兵曹は、
此時忽ち
叫んだ。
『おー。
矢張左樣だつた! あの
巡洋艦のガーフの
旗は、
我が
帝國の
軍艦旗であつた※
[#感嘆符三つ、309-2]。』と、
彼は、
今しも、
輕氣球から
墮落の
瞬間に、
ちらりと
認めた
同じ
模樣の
海軍旗を、
此端艇の
艇頭に
見出したのである。
私も
艇中の
一同を
見て、
實に
驚き
飛立つたよ。
『や!
帝國軍人!
日本海軍々人!。』と
叫びつゝ、
頭を
廻らすと、
此端艇を
去ること
程遠からぬ
洋上には、
先刻の
白色巡洋艦は
小山の
如き
浪に
漂蕩しつゝ、
其後檣縱帆架と
船尾とには、
旭輝く
大日本帝國の
軍艦旗は
翩飜と
南風に
飜つて
居つた。
端艇の
右舷左舷に
櫂を
握り
詰めたる
水兵等も、
吾等兩人の
顏を
見て、
一齊に
驚と
不審の
眼を
見張つた。
艇尾には
色淺黒く
[#「色淺黒く」は底本では「黒淺黒く」]、
虎髯を
海風に
吹かせたる
雄風堂々たる
海軍大尉あり、
舵柄を
握れる
身を
延して、『やゝ、
貴下等も
日本人ではないか。』とばかり、
私と
武村兵曹の
面を
見詰めたが、
西も
東も
果しなき
大洋の
面では、
荒浪騷ぎ、
艇跳つて、とても
仔細かい
話などは
出來ない、かく
言ふ
間も
巨濤は、
舷に
碎けて
艇覆らんとす、
大尉舵をば
右方に
廻し、『
進!。』の
一聲。
端艇は
忽ち
艇頭を
右に
轉じて、十二の「オール」の
波を
切る
音と
共に、
本艦指して
矢のやうに
進んだ。
私と
武村兵曹とは
夢に
夢見る
心地。
自分が
濡鼠の
樣になつて
居る
事も、
少なからず
潮水を
飮んで
腹が
苦しくなつて
居る
事も
忘れて、
胸は
驚と
悦に、
跳りつゝ、
眤と
眺むる
前方の
海上、「ガーフ」に
懷かしき
我が
帝國の
軍艦旗を
飜せるかの
白色の
巡洋艦は、
此邊海底深くして、
錨を
投ずることも
叶はねば、
恰も
小山の
動搖ぐが
如く、
右に
左に
漂蕩して
居る。
此軍艦、
排水噸數二千七百ばかり、
二本烟筒の
極めて
壯麗なる
裝甲巡洋艦である。
今しも
波浪に
揉まれて、
此方に
廻りし
其艦尾には、
赫々たる
日輪に
照されて「
日の出」の三
字が
鮮かに
讀まれた。
軍艦日の
出!
軍艦日の
出! と
私は
何故ともなく二
度三
度口の
中で
繰返す
内に、
端艇はだん/\と
本艦に
近くなる。
軍艦「
日の
出」の
甲板では、
後部艦橋のほとりより
軍艦旗飜る
船尾に
到るまで、
多くの
乘組は、
列を
正して、
我端艇の
歸艦を
迎へて
居る。
頓て
本艦の
間際になつたが、
海は
盤水を
動かすがごとく、二千七百
餘噸の
巨艦ゆらり/\と
高く、
低く、
我が
端艇は
秋の
木の
葉のごとく
波浪に
跳つて、
迚も
左舷々梯に
寄着く
事が
出來ない。
水煙は
飛ぶ、
逆浪は
打込む、
見上ぐる
舷門の
邊、「ブルワーク」のほとり、
士官、
水兵頻りに
叫んで、
我が
艇尾の
大尉は
舵の
柄を
碎けんばかりに
握り
詰めて、
奈落に
落ち、
天空に
舞ひ、
艇は
幾度か
艦の
水線甲帶に
碎けんとしたが、
漸くの
事で
起重機をもつて、
我等十
餘人の
乘れるまゝ
端艇が「
日の
出」の
甲板に
引揚げられた
時には、はじめて
ホツと
一息ついたよ。
本艦は
一令の
下に
推進螺旋波を
蹴つて
進航を
始めた。
規律正しき
軍艦の
甲板、かゝる
活劇の
間でも
决して
其態度を
亂す
樣な
事はない。
『
輕氣球が
天空より
落ちた。
本艦より
端艇を
下した。
救ひ
上げたる
二個の
人は
日本人である。
一人は
冐險家らしい
年少の
紳士、
他の
一人は
我が
海軍の
兵曹である。いぶかしや、
何故ぞ。』と、
此噂は
早くも
軍艦「
日の
出」の
全體に
傳つたが、
誰れも
其本分を
忘れて「どれ、どんな
男だ」などゝ、
我等の
側に
飛んで
來る
樣な
不規律な
事は
少しも
無く。
機關兵は
機關室を
護り、
信號兵は
戰鬪樓に
立ち、一
等、二
等、三
等水兵等は
士官の
指揮の
下に、
今引揚げた
端艇を
收めつゝ。たゞ
公務の
餘暇ある
一團の
士官水兵等が
吾等を
唯ある
船室に
導き、
濡れたる
衣服を
脱がせ、
新しき
衣服を
與へ、
中にも
機轉よき一
士官は
興奮の
爲にと、
急ぎ「ブランデー」の一
杯をさへ
惠んで
呉れた。
實に
其軍律の
嚴然たるは
今更ながら
感嘆の
他は
無いのである。
此時、
前に
端艇を
指揮して、
吾等兩人を
救ひ
上げて
呉れた、
勇ましき
虎髯大尉は、
武村兵曹も
私も
漸く
平常に
復した
顏色を
見て、
ツト身を
進めた、
微笑を
浮べながら
『
兩君!
君等の
幸運を
祝します。』と
言つたまゝ、
頭を
廻らして
左右を
顧見た
時、
忽ち、
艦の
後部艦橋を
降つて、
歩調ゆたかに
吾等の
方に
歩んで
來た
一個の
海軍大佐があつた。
風采端然、
威風凛々、
言ふ
迄もない、
本艦の
艦長である。
艦長は
既に
虎髯大尉よりの
報告によつて、
輕氣球と
共に
落下した
吾等の
二人の
日本人である
事も、
一人は
冐險家らしい
紳士風で、
他の
一人は
同じ
海軍の
兵曹である
事も
知て
居つたと
見え、
今、
吾等の
前に
立つて、
武村兵曹と
私との
顏を
眺めたが、
左迄驚く
色がない、
目禮をもつて
傍の
倚子に
腰打ち
掛け、
鼻髯を
捻つて
靜かに
此方に
向直つた。
兵曹と
私とは、
恭しく
敬禮を
施しつゝ、
ふと、
其人の
顏を
眺めたが、あゝ、
此艦長の
眼元――
其口元――
私が
甞て
記臆せし、
誰人かの
懷かしい
顏に、よくも/\
似て
居る
事と
思つたが、
咄嗟の
急には
思ひ
浮ばなかつた。
何は
兎もあれ、
今、かく
心が
落付いて
見ると、
今度吾等が
此大危難をば、
同じ
日本人の――しかも
忠勇義烈なる
帝國海軍々人の
手によつて
救はれたのは、
實に
吾等兩人の
幸福のみではない、
天は
今やかの
朝日島に
苦める
櫻木海軍大佐の
誠忠をば
遂に
見捨てなかつたかと、
兩人は
不測に
感涙の
流るゝ
樣に
覺えて、
私は
垂頭き、
武村兵曹は
顏を
横向けると、
此時吾等の
傍に、
何か
艦長の
命を
聽かんとて、
姿勢を
正して
立てる三四
名の
水兵は、
先刻より
熱心に
武村兵曹の
顏を
見詰めて
居つたが、
其中の
一名、
一歩進み
出でゝ、
恭しく
虎髯大尉と
艦長とに
向ひ、
意味あり
氣に
『
閣下、
私は
此兵曹に
一言話したう
厶ります。』と
言ふ。
『よろしい。』と
艦長の
許可を
得て、
水兵はやをら
武村兵曹に
眼を
轉じ
『
久濶や、
兵曹、
足下は
本國で
名高い
櫻木海軍大佐閣下の
部下の
武村兵曹ではないか。』と
問ひかけた。
武村兵曹と
云へば
快活な
事と、それから
砲術に
巧な
事と、また
腕力の
馬鹿に
強い
事とで、
日本海軍の
水兵仲間には
少なからず
顏の
賣れて
居つた
男なので、
今や
圖らずも、
天涯萬里の
此帝國軍艦の
艦上にて、
昔馴染の
水兵等に
對面したものと
見える。
兵曹驚いて
眼を
見張り
『おゝ、
乃公は
如何にも
櫻木大佐閣下の
部下なる
武村新八郎だ。』と
言ひながら、
額を
叩いて
『
濟まない、
すつかり忘れた、
足下は
誰だつたかな。』
『
前の
高雄艦長、
今は
軍艦「
日の
出」の
艦長、
松島海軍大佐閣下の
部下の
信號兵だよ。』と、
水兵は
膝を
進ませ
『
今、
松島海軍大佐閣下は、
英國テームス河口の
造船所から、
新造軍艦「
日の
出」の
廻航中で、
本艦は
昨曉アデン海口を
出で、
今しも
此印度洋を
進航して
來ると、
丁度輕氣球が
天上から
落ちて
來たので、
急ぎ
助けて
見たら
足下等だ、
實に
不思議な
縁ではないか。』と
語り
終つて
一歩退いた。
此一言!
心なき
人が
聽いたら
何でもなからうが、
私と
武村兵曹とは
思はず
顏を
見合はして
莞爾としたよ。
先づ
第一の
喜悦は、
先刻輕氣球の
上で
疑つた
樣に、
今の
今まで、
我等が
泛べる
此太洋は、
大西洋か
[#「大西洋か」は底本では「太西洋か」]、はた
アラビアン海かも
分らなかつたのが、
只今の
水兵の
言で、
矢張私の
想つた
通り、
此洋は、
我等兩人が
目指す
コロンボ市にも、また
櫻木海軍大佐等と
再會すべき
筈の
橄欖島にも
左迄では
遠くない
印度洋中であつた
事と。
今一[#ルビの「いまひと」は底本では「いまいと」]つ、
私は
松島海軍大佐なる
姓名を
耳にして、
忽ち
小膝をポンと
叩いたよ。
讀者諸君!
松島海軍大佐とは
誰であらう?
私は
未だ
此大佐とは
甞て
面會した
事は
無いが、
兼て
聞く
櫻木海軍大佐とは
無二の
親友で、また、
私の
爲には
終世忘るゝ
事の
出來ない、かの
春枝夫人の
令兄――
日出雄少年の
爲には
叔父君に
當つて
居る
人。
今から
足掛け四
年以前に、
私の
親友濱島武文の
妻なる
春枝夫人が、
本國の
令兄松島海軍大佐の
病床を
訪はんが
爲めに、
其良君と
別れ、
愛兒日出雄少年を
伴ふて、
伊太利の
國子ープルス港を
發し、
私と
同じ
船で、はる/″\
日本へ
歸國の
途中、
暗黒なる
印度洋の
眞中で
恐る
可き
海賊船の
襲撃に
遭ひ、
不運なる
弦月丸の
沈沒と
共に、
夫人の
生死は
未だ
私には
分らぬ
次第だが、
一時は
病の
爲めに
待命中と
聞いた
其大佐が、
今は
却て
健康に、
此新しき
軍艦「
日の
出」の
廻航中とか――さては、と
私は
忽ち
思ひ
當つたのでわる。
先刻一目見て
直ぐ
誰人かに
似て
居ると
想つたのは
其筈よ、
誰あらう、
此日の
出艦長こそ、
春枝夫人の
令兄、
日出雄少年の
叔父君なる
松島海軍大佐であつたのかと。そゞろに
床しく、
懷かしく、
眼を
揚げて、
目前に
端然たる
松島大佐の
面を
瞻めると、
松島大佐も
意味あり
氣に、
私と
武村兵曹の
顏とを
見くらべたが、
例の
虎髯大尉と
一寸顏を
見合はせて、
言葉靜かに
問ひかけた。
先づ
私に
向ひ
『
貴君、
今本艦水兵と
貴君の
同伴者なる
武村兵曹との
談話によると、
貴君等は、
我が
最も
親密なる
海軍大佐櫻木重雄君と
縁故の
人の
樣に
思はれるが、
果して
左樣ですか。』といひかけ、
頷づく
私の
顏を
打守りて、
屹と
面を
改ため
『
實は
先刻貴君等が
不思議にも
大輕氣球と
共に
此印度洋の
波上に
落下したと
聞いた
時から、
私は
心に
或想像を
描いて
居るのです。
想像とは
他でもない、
貴君等が
果して
我が
親愛なる
櫻木君と
縁故の
人ならば、
今度此不思議なる
出來事も、
或は
櫻木大佐の
運命に
或關係を
有して
居るのではあるまいかと。
私は
櫻木君の
大望をばよく
知つて
居ります。また、
彼が、
人の
知らない
此印度洋中の
一孤島に、三十
有餘名の
水兵と
共に、
身を
潜めて
居る
次第をもよく
存じて
居ります。
五年前、
彼が
横須賀の
軍港に
於て
永き
袂別を
私に
告ぐる
時、
彼は
决然たる
顏色を
以て
言つたです「
今より五
年の
後には、
必ず
一大功績を
立てゝ、
君に
再會する
事が
出來るだらう」と。それから五
年の
星霜は
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、320-8]つたが、
未だ
彼の
消息は
少しも
聞えません、
其間、
私は
一日でも
彼の
健康と、
彼の
大事業の
成功とを
祈らぬ
時はないのです。あゝ、
櫻木君は
遂に
其大目的を
達しましたらうか。
彼が
潜心苦慮せる
大軍器は
遂に
首尾よく
竣成しましたらうか。』と
言ひながら、
聲を
沈まし
『けれど、
私は
今、
時ならぬ
輕氣球を
此印度洋上に
認め、
特に
其乘組人の
一人は
櫻木大佐の
片腕と
言はれた
武村兵曹であつたので
想へると、
今や
孤島の
櫻木君の
身邊には、
何か
非常の
異變が
起つて、
其爲に
貴君等兩人は
大佐と
袂別を
告げ、一
大使命を
帶びて
此空中を
飛行して
來たのではありませんか。』と
眤と
吾等兩人を
見詰めた。
『
其事!
實に
御明察の
通りです。』と
私はツト
身を
進めた。
武村兵曹は
胸をうつて
『
艦長閣下、
實に
容易ならぬ
事變は
我が
大佐閣下の
上に
起りました。』と、それより、
兵曹と
私とは
迭代に、
櫻木海軍大佐の
海底戰鬪艇の
事、
其大成功の
實情、
及び二
月十一
日の
夜半、
大佐功成り
將に
朝日島を
出發せんとする
瞬時前、
震天動地の
大海嘯の
爲に、
秘密造船所の
倉庫碎けて、十二の
樽の
流失した
事から、
遂に
今回の
大使命に
立到つた
迄の
大略を
述べ
『
大佐閣下よ、されば
吾等兩名は
今より
急ぎ
印度國コロンボの
港に
到り、十二
種の
秘密藥液を
凖備へて、
本月二十五
日拂曉までには、
電光艇が
待合はすべき
筈の
橄欖島まで
赴かねばなりません。』と
語り
終ると、
聽く
水兵等は
驚嘆の
顏を
見合はせ、
勇烈なる
虎髯大尉は、
歡び
且つ
愕きの
叫聲をもつて
倚子より
起ちて、
松島海軍大佐の
面を
見ると、
松島大佐は
握れる
軍刀の
※[#「革+巴」、322-7]の
碎くるをも
覺えぬまで、
滿足と
熱心との
色をもつて、
屹と
面を
揚げ
『
快なる
哉、
櫻木君の
海底戰鬪艇は
遂に
竣工しましたか。』と、
暫時は
言もなく、
東天の
一方を
眺めたが、
忽ち
腕拱ぬき
『して、
櫻木君の
一行は
意外の
天變のために、
來る二十五
日拂曉、
橄欖島の
附近にて
貴下等の
應援を
待つのですか、よろしい、
斯く
承はる
以上は
最早憂慮するには
及びません。
日本帝國のため、
帝國海軍のため、また
櫻木大佐の
光譽のために、
我等は
全力を
盡して
電光艇の
應援に
赴きませう。』と
立つて
傍なる
卓上に
一面の
海圖を
押擴げ、
具さに
緯度を
計りつゝ
『
此處から
最も
便宜なる、また
最も
近き
貿易港は
矢張印度國コロンボの
港で、
海上大約千二百
哩、それより
橄欖島までは千五百
哩弱、されば、
本艦は
明後晩コロンボに
錨を
投じ、
電光艇に
必要なる十二の
秘密藥液を
凖備して、
直ちに
暗號電報をもつて
本國政府の
許可を
受け、
全速力をもつて
橄欖島へ
向ふ
事が
出來ます、さらば!。』とばかり
側の
虎髯大尉に
向ひ、
『
轟大尉!
本艦全速力、
方向は
矢張コロンボ港、
右號令を
傳へて
下さい※
[#感嘆符三つ、323-12]。』
虎髯大尉、
本名は
轟大尉であつた。『
諾。』と
應えたまゝ、
身を
飜へして
前甲板の
方へ
走り
去つた。
松島大佐は
再び
海圖の
面に
向つた。
此時中部甲板には、
午前十一
時を
報ずる
六點鐘、カヽン! カヽン! カヽン! カヽン! カヽン! カヽン!
武村兵曹と
私とは、
實に
双肩の
重荷を
降した
樣な
心地がしたのである。
實に、

しい、

しい、

しい。
此
しい
時――すでに
我が
大使命をば
語り
終つたる
今、
一個人の
事ではあるが、
私は
松島海軍大佐に
向つて、
問ひもし、
語りもしたき
事は
澤山ある。
大佐の
令妹春枝夫人の
安否――
其良君濱島武文の
消息――それより
前に
私から
語らねばならぬのは(
大佐は
屹度死んだと
思つて
居るだらう)
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、324-12]三
年の
間、
私と
共に
朝日島の
月を
眺めて、
今も
猶ほ
健康で
居る
彼の
娚なる
日出雄少年の
消息である。
私は
幾度か
口を
開きかけたが、
此時大佐の
顏色は、
私が
突然に
此事を
言ひ
出し
兼ねた
程、
海圖に
向つて
熱心に、
頓て
櫻木大佐と、
其海底戰鬪艇のに
會合ふべき
筈の、
橄欖島附近の
地勢、
海深等を
調ぶるに
餘念もなかつた。
暫時、
船室内は
寂となる。
室外には
舷に
碎くる
浪の
音、
檣頭に
走る
風の
聲、
艦橋に
響く
士官の
號令。
私は
何氣なく
倚子より
離れて、
檣樓に、
露砲塔に、
戰鬪樓に、
士官水兵の
活動目醒ましき
甲板を
眺めたが、
忽ち
電氣に
打たれし
如く
躍上つたよ。
今しも、
後部甲板昇降口より
現はれて、
一群の
肩章に
波を
打たせたる
年少士官等と
語りながら、
徐かに
此方に
來かゝる
二個の
人――
軍艦々上には
珍らしき
平服の
姿、
一個は
威風堂々たる
肥滿の
紳士、
他の
一個は
天女の
如き
絶世の
佳人!
誰か
知らん、
此二人は、四
年以前に
ネープルスで
別れた
濱島武文と、
今は
此世に
亡き
人とのみ
思つて
居つた
彼の
妻――
松島大佐の
令妹――
日出雄少年の
母君なる
春枝夫人であつた。
急ぎ
眼を
押拭つて
見たが、
矢張其人※
[#感嘆符三つ、326-6]
私は
狂喜のあまり、
唐突武村兵曹の
首を
捻ぢ
向けて
『
兵曹! あれを
見よ/\、
濱島君に、
春枝夫人!。』と
叫ぶと、
不意に
愕いたる
武村兵曹は
『ど、ど、ど、
何處に! どの
人が?。』と
伸上る。
側面の
卓上にあつて、
此有樣を
認めたる
松島海軍大佐は
不審の
眉を
揚げ
『いぶかしや、
貴君は
何人なれば
[#「何人なれば」は底本では「何人なれは」]、
濱島武文と
春枝とを
御在じですか。』
私はツト
身を
乘り
出した
『
私こそ、
四年前に、
春枝夫人と
弦月丸の
沈沒に
別れた
柳川です。』
松島海軍大佐の
端然たる
顏色は
微に
動いて
『では、
貴君は、
若しや
我が
娚日出雄少年の
安否を――。』と
言ひかけて、
急ぎ
艦尾なる
濱島武文と
春枝夫人とに
眸を
移すと、
彼方の
二人も
忽ち
私の
姿を
見付けた。
春枝夫人の
美はしき
顏は『あら。』とばつかり、
其良君を
顧見る。
私は
彼方へ!
彼方は
此方へ!
轉ぶがごとく※
[#感嘆符三つ、327-11]
第二十七回
艦長室
鼻髯を捻つた――夢では
[#「夢では」は底本では「夢でば」]ありますまいか――私は何より

しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
日は
高く、
風は
清しき
軍艦「
日の
出」の
艦上、
縱帆架には
帝國軍艦旗舞ひ、「ブルワーク」の
邊には
克砲、
俄砲、四十七
粍速射砲、
砲門をならべ、
遠く
一碧の
水天を
望み、
近く
破浪の
音を
聽きつゝ、
絶て
久しき
顏と
顏とは
艦長室の
美はしき
長倚子に
倚つて
向ひ
合つた。
濱島武文は
言葉もなく
私の
手を
握つた。
春枝夫人は
『あゝ、
柳川さん、
妾は、
貴方と
此世で
御目に
掛からうとは――。』と
言つたまゝ、
其美はしき
顏は
私の
身邊を
見廻した。
武村兵曹は
私の
横側で
五里霧中の
顏。
艦長松島海軍大佐は
春枝夫人の
言をば
奪ふがごとく
私に
向ひ
『して、
日出雄少年[#ルビの「ひでをせうねん」は底本では「びでをせうねん」]は――
安全ですか――それとも――。』
私は
欣然として
叫んだ。
『おゝ、
松島海軍大佐よ、
濱島武文君よ、
春枝夫人よ、
貴方等の
喜悦にまで、
少年は
無事です、
無事です※
[#感嘆符三つ、329-6]。』
松島大佐と
濱島武文とは
言ひ
合はした
樣に
喜色を
浮べて
鼻髯を
捻つた。
春枝夫人は
流石に
女性の
常
『あゝ、
夢ではありますまいか、
之が
夢でなかつたら、どんなに
嬉しいんでせう。』と、
止め
兼たる
喜悦の
涙を
ソツと
紅絹の
手巾に
押拭ふ。
『
夢ぢやありませんとも/\。』と
武骨なる
武村兵曹は、
此時ヒヨツコリと
顏を
突出した。
『
貴夫人!
何んで
夢だなんぞと
仰つしやる。あの
可憐なる
日出雄少年は、
今は
我が
敬愛する
櫻木海軍大佐閣下と
共に
朝日島に
元氣よく、
今頃は
屹度、
例の
可愛らしい
樣子で、
水兵共や、
愛犬の
稻妻なんかと、
海岸の
岩の
上から、
遙かに
日本の
空を
眺めて、
早く
孤島を
出發して、
一日も
速かに
貴方等に
再會したいと
待望んで
居る
事でせう。』と
叫ぶ。
『
貴方は――。』と
二人の
眼は
懷かし
相に
武村兵曹の
上に
轉じた。
『
此人は
武村兵曹とて、
吾等が
三年の
間孤島の
生活中、
日出雄少年とは
極めて
仲のよかつた
一人です。』と
私は
彼を
二人に
紹介せて、それより
武村兵曹と
私とは
交る/″\、
朝日島へ
漂流の
次第、
稀世の
海底戰鬪艇の
事、
孤島生活中の
有樣、それから
四年以前には、
穉氣なく
母君と
別れたりし
日出雄少年の
今は
大きくなりて、
三年の
間、
智勇絶倫の
櫻木海軍大佐の
愛育の
下に、
何から
何まで、
父君が
甞て
望める
如き
海軍々人風[#ルビの「ふう」は底本では「ぶう」]の
男兒となりて、
毎日/\
賢こく、
勇ましく、
日を
送つて
居る
有樣をば
目に
見る
如くに
語り、
大佐よ、
濱島君よ、
春枝夫人よ、されば
吾等は
今や
天運開けて、
遠からず
非常の
喜びに
會する
時を
待つばかりです。と
語り
終ると、
聽く
三人は
或は
驚き
或はよろこび。
大佐は
相變らず
鼻髯を
捻りつゝ。
豪壯なる
濱島武文は
胸を
叩いて
『
私は
何よりも
嬉しい。
弦月丸の
沈沒は、
日出雄の
爲には、
寧ろ
幸福であつたかも
知れません。
今彼が
當世に
隱れも
無き、
櫻木海軍大佐から、
斯くも
懇篤なる
薫陶を
受けて
生長した
事は、
世界第一の
學校を
卒業したよりも、
私の
爲には

しいです。』
春枝夫人は
包み
兼ねたる
喜悦の
聲で
『
皆樣は、
其樣にあの
兒を
可愛がつて
下さつたのですか。
妾は
何と
御禮の
言葉もございません
[#「ございません」は底本では「こざいません」]。』と
雪のやうなる
頬に
微※[#「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、332-3]の
波を
湛えて
『そして、あの
兒はもう
其樣に
大きくなりまして。』
『
大きくなりました
段か。
近々に
橄欖島でお
逢ひになつたら、そりや
喫驚なさる』とまた
兵曹が
飛び
出した。
『あら。』
『そればかりか、
少年の
活溌な
事ツたら
話になりませんよ。
獅子狩もやります、
相撲も
取ります。
弱い
水兵なんかは
負かされます。』と
彼は
至極眞面目に
『
然し、
其代り、
大分色は
黒くなりましたよ。はい。』
『おほゝゝゝ。』と
春枝夫人は
半顏を
蔽ふて
『
其樣に
黒くなりましたの、まア。』
『イヤ、
中黒です。』と
滑※[#「(禾+尤)/上/日」、333-3]なる
兵曹の
一言に、
大佐も、
濱島も、
私も
大聲に
笑ひ
崩るゝ
時、
春枝夫人の
優しい
眼は、
遙か/\の
南の
方の
水と
空とを
懷かし
相に
眺めて
居つた。
其時私は
膝を
進めて
『
今迄は
吾等の
經歴をのみ
語つたが、サア
今度は、
貴方等のお
答の
順番ですよ。』と
先づ
春枝夫人に
向ひ
『
夫人!
先刻貴女も
左樣仰つしやいましたねえ。
私も
眞個に、
此世でまた
貴女にお
目にかゝらうとは
思ひ
設けませんでした、
實に
不思議ですよ、
一體あの
時は
如何して
御助命になりました。』と
口を
切つて
『
回想すれば
今から四
年前、
私が
日出雄少年を
抱いて、
弦月丸の
沈沒と
共に、
海中に
飛込んだ
時、
二度、
三度、
貴女のお
名をお
呼び
申したが、
聽ゆるものは、
風の
音と、
浪の
響ばかり、イヤ、
只一度、
微かに/\、お
答のあつた
樣にも
思はれたが、それも
心の
迷と
信じて、
其後朝日島に
漂着して、
或時、
櫻木大佐に
此事を
語つた
時、
大佐は
貴女の
運命を
卜して、
夫人は
屹度無事であらうと
言はれたに
拘らず、
日出雄少年も、
私も、
最早貴女とは、
現世でお
目に
掛る
事は
出來まいとばかり
斷念して
居りましたに。』
春枝夫人は、
四年以前の
恐ろしき
夜の
光景を
回想して
『あゝ、あの
時は、
眞個に
物凄う
御坐いましたねえ。
轟然たる
響と
共に、
弦月丸は
沈沒して、
妾は
一時は
逆卷く
波間に
數十
尺深く
沈みましたが、
再び
海面に
浮び
上つた
時、
丁度貴方のお
聲で、
私の
名をお
呼びになるのが
聽えました。
私は、一たび、二たび、お
答へ
申しましたが、
四邊は
眞の
闇で、
何處とも
分らず、
其儘永いお
別れになりました。
幸ひ、
沈沒の
間際に、
貴方が
投げて
下さつた
浮標にすがつて、
浪のまに/\
漂つて
居る
内、
其翌朝になつて
見ると、
漫々たる
大海原の
遙か
彼方に、
昨夜の
海賊船らしい
一艘の
船が、
頻りに
潜水器を
沈めて
居るのが
見えましたが、
其時、
丁度通りかゝつた
英國の
郵便船に
救はれて、
廻りめぐつて、
再び
ネープルスの
家へ
皈つたのは、
夫から
一月程※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、335-8]ての
事でした。』
夫人は
一息つきて
『
妾が
子ープルスの
家へ
歸つて、
涙ながらに
良人の
濱島に
再會した
時には、
弦月丸の
沈沒の
噂は
大層でした。
何事も
天命と
諦めても、
本當に
悲しう
御坐んしたよ。いろ/\の
噂を
聞くにつけ、
最早貴方も、
日出雄も、
全く
世に
亡き
人とのみ
思ひ
定め、また、
一方には、
本國の
兄の
病を
思ひ
煩つて
居りましたが、
幸ひ、
兄の
病はだん/″\と
快方の
由、
其後の
便船で
通知が
參りましたので、
其方は
漸く
胸撫でおろし、
日本へ
皈る
事も
其儘思ひ
止つたのです。それから
四年※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、336-4]ぎての
今、
圖らずも
貴方に
再會して、いろ/\のお
話を
伺つて
見ると、まるで
夢のやうで、
霖雨の
後に
天日を
拜するよりも
嬉しく、たゞ/\
天に
感謝するの
他はありません。はい、
兄の
病氣は、
妾が
子ープルスに
歸つてから、
三月程※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、336-8]て、
名殘なく
全快して、
今は
人一倍に
健全に、
英國から
新造軍艦の
廻航中、
此「
日の
出」に
乘つて
居る
事は
貴方も
御覽の
通りです。』と
語り
終つて
令兄なる
大佐と
良君武文との
顏を
婉然に
見た。
第二十八回
紀念軍艦
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間萬事天意のまゝ
松島海軍大佐は
相も
變らず
鼻髯を
捻りつゝ、
面白相に
我等の
談話を
聽いて
居る。
濱島武文は
春枝夫人に
次いで
口を
開いた。
『
春枝は
大分愚痴が
出ます。
女はあれだからいかんです。はゝゝゝゝ。けれど
私も、
弦月丸の
沈沒を
耳にした
時には
實に
愕きました。
春枝丈けは
其後無事に
皈つて
來たものゝ、
君の
行衞は
知れず、
私が
兼てより、
有爲な
帝國海軍々人に
養成して、
國に
獻げんと
心に
樂しんで
居つた
日出雄は、
君と
共に、
印度洋の
藻屑と
消えてしまつたと
斷念した
時には、
實に
泣くより
辛かつたです。』といひ
掛けて、
彼は
忽ち
聲高く
笑ひ
『ほー。
私まで
愚痴が
出た。イヤ、
愚痴でない。
實際失望落膽したです。
其頃歐羅巴の
諸新聞は
筆を
揃へて、
弦月丸の
遭難を
詳報し、かの
臆病なる
船長等の
振舞をば
痛く
攻撃すると
共に『
日本人の
魂。』なんかと
標題を
置いて、
君等の
其時の
擧動を
賞讃するのを
見るにつけても、
實に
斷膓の
念に
堪えなかつたです――
何、あの
卑劣なる
船長等は
如何したと
問はるゝか。
左樣さ、
一旦は
無事に
本國へ
歸つて
來たが、
法律と、
社會の
制裁とは
許さない、
嚴罰を
蒙つて、
酷い
目に
逢つて、
何處へか
失奔してしまいましたよ。』
『
愉快だ!
愉快だ!。』と
武村兵曹は
不意に
叫んだ。
私は
失笑しながら
問をつゞけて
『
濱島君、して、
其後、
君も、
夫人も、
引續いて
ネープルス港にのみお
在留でしたか。
今また
此軍艦[#ルビの「ぐんかん」は底本では「ぐんがん」]に
便乘して
日本へお
歸國になるのは
如何いう
次第です。』と
胸に
手を
置いて
『ちと
想像に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、339-3]るかも
知れないが、
私は
先刻から
考へて
居つたのです。
今此新造巡洋艦に
君の
愛兒日出雄少年の
名と
何かの
因縁ある
如く「
日の
出」と
命名されて
居るのは
何か
深い
仔細のあるではありませんか。』
『
其事は
此虎髯がお
話申すのが
順當でせう。』と
不意に
室内へ
飛込んで
來たのは、
例の
磊落なる
虎髯大尉、
本名轟大尉であつた。
先づ
艦長松島大佐に
向つて、
何事をか
二言、
三言、
公務の
報告を
終つて
後、
私の
方に
向直つた。
快活な
調子で
『
貴君!
此新造巡洋艦に「
日の
出」と
命名されたのは
全く
君の
想像の
如く
日出雄少年の
紀念の
爲と
云つてもよいのです。
左樣ばかりではお
釋りになるまい、
濱島氏は
君も
御存じの
通り、
日出雄少年をば
有爲な
海軍々人に
養成して、
日本帝國の
干城にと、
兼ての
志望であつたのが、
弦月丸の
沈沒と
共に、
全く
水泡に
歸したと
思はれたので、
今は、
其愛兒をば
國に
獻ぐる
事の
出來ぬ
代りに、せめては
一艘の
軍艦を
獻納して、
國に
盡す
日頃の
志を
遂げんものと、
其財産の
一半を
割き、
三年の
日月を
經て、
英國テームス造船所で
竣成したのが、
此軍艦「
日の
出」です。
此軍艦は
最新式の三
等巡洋艦で、
排水量二千八百
噸、
速力二十三
節、
帝國軍艦「
明石」に
髣髴たる
艦だが、もつと
速力は
速い、
防禦甲板は
平坦部二十
粍、
傾斜部五十三
粍、
砲門は八
吋速射砲二
門、十二
珊速射砲六
門、四十七
粍速射砲十二
門、
機關砲四
門あるです。
日本政府は
快く
濱島氏の
志を
容れ、
我が
海軍部内では、
特別の
詮議があつて、
直ちに
松島大佐閣下が
回航委員長の
任に
當る
事となり、
今や
大佐は
本艦々長の
資格をもつて
日本へ
廻航中、
濱島氏夫妻は、
此軍艦の
獻納者であれば、
本艦引渡しの
儀式の
爲と、
一つには、
最早異境の
空も
飽果てたれば
之よりは、
山美はしく、
水清き
日本に
歸らんと、
子ープルス港から
本艦に
便乘した
次第です。』と
語りかけて、
轟大尉は
虎髯を
逆に
捩りつゝ
『
軍艦日の
出!
此名は
確かに、
日出雄少年の
名と
或關係を
有つて
居ると
信じます。
然し、
濱島氏は
决して
虚名を
貪る
人でない、
此名は
彼が
求めた
名では
無いのです、すべて
本國政府の
任意に
定めた
事で、
軍艦命名式の
嚴肅なる
順序を
經て
下されたのが「
日の
出」の三
字です。けれど
私は、
此名と
日出雄少年の
名との
符合をば、
决して
偶然の
事とは
思ひません。』
『
無論偶然の
符合ではありますまい。』と
私は
感嘆の
叫を
禁じ
得なかつた。
武村兵曹は
前額を
撫でゝ
『やあ、だん/″\と
目出度い
事が
集つて
來ますな。
新造軍艦は
獻納される、
海底戰鬪艇は
現はれて
來る、
日本海軍益々榮え――。』と
快活なる
面を
擧げてニコと
笑ふ。
松島海軍大佐も
微笑を
帶びて
『
洵に
兵曹の
言の
如く
日本海軍の
爲に
慶賀すべき
事である。
今や
遠からず
橄欖島のほとりで
櫻木大佐に
對面し、それより
本艦「
日の
出」と
櫻木大佐の
電光艇とが
舳艫相並んで
颯々たる
海風に
帝國軍艦旗を
飜へしつゝ
頓て、
帝國の
軍港へと
到着した
時には
如何に
壯烈に
且つ
愉快なる
事だらう。』
轟大尉は
双手を
擧げて
快哉を
叫んだ。
濱島武文は
腕をさすつて
『
實に
人間の
萬事は
天意の
儘である。めぐり
廻つて
何事が
幸福となるかも
分らぬ。
私は
今やまた
軍艦日の
出のみならず
一度喪つたと
思つた
日出雄をも
國に
獻ぐる
事の
出來るやうになつた
事を
感謝します。』と
限りなき
滿足の
色を
以て
夫人を
顧見た。
あゝ、
人間の
萬事は
實に
天意の
儘だと、
私も
深く
心に
感ずると
共に、
忽ち
回想した
一事がある。それは
他でもない、
忘れもせぬ
四年以前の
事、
春枝夫人と、
日出雄少年と、
私との
三人が、
子ープルス港の
波止塲を
去らんとした
時、
濱島家の
召使で、
常時日出雄少年の
保姆であつた
亞尼とて、
伊太利生れの
年老たる
女が、
其夜の
出帆をとゞめんとて、
頻りに、
魔の
日だの、
魔の
刻だの、
黄金や
眞珠の
祟りだのと、
色々奇怪なる
言を
繰返した
事がある、
無論、
其時は
無※[#「(禾+尤)/上/日」、343-10]な
事と
笑ひ、また
實際無※[#「(禾+尤)/上/日」、343-10]な
事には
相違ないのだが、それが
偶然にも
符合して、
今になつて
考へると、
恰も
※去[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、343-11]の
樣々なる
厄難の
前兆であつたかの
如く、
甞て
朝日島の
生活中、
櫻木大佐に
此事を
語つた
時、
思慮深き
大佐すら
小首を
傾けた
程で、
私の
胸には、
始終附いて
離れぬ
疑問であつたので、
今機會を
得て
『
何か
此事に
就いてお
心當りはありませぬか。』と
春枝夫人に
問ひかけた。
第二十九回
薩摩琵琶
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
春枝夫人は
清しき
眉を
揚げ
『あゝ
其事!
貴方はよく
覺えていらつしやいましたねえ。
亞尼は
眞個に
妙な
事をと、
其時分は
少しも
心に
留めませんでしたが、
後にそれと
思ひ
當りましたよ。
全く
根なし
言ではありませんかつたの、それは
斯うなんです。』と、そよと
吹く
海風に、
鬢のほつれ
毛を
拂はせながら
『
魔の
日、
魔の
刻とか
申しましたねえ。
其夜に
出帆した
弦月丸は、
不思議にも、
豫言の
通りに
印度洋の
沖に
沈沒して、
妾が
英國郵便船に
救はれて、
再び
子ープルスの
家に
歸つた
時には、
亞尼の
姿は
既に
見えませんでした。いろ/\
探索して
見ましたが、
誰も
行衞を
知つて
居る
人はありません。
本當に
奇妙な
事だと
思つて
居ると、
或日の
事、
ウルピノ山中とて、
子ープルスの
街からは
餘程離れた
寒村の、
浮世の
外の
尼寺から、
一通の
書状が
屆きました、
疑もなき
亞尼の
手跡で、はじめて
仔細が
分りましたよ。』
『ど、ど、どんな
書面で――。』と
私と
武村兵曹とは
身を
乘出した。
夫人は
明眸に
露を
帶びて
『
可愛相にねえ
貴方。
其書面によると
亞尼は、
弦月丸の
沈沒を
聞いて、
私共に
濟まぬと
尼になつたのですよ。
其事柄は
一塲の
悲劇です。
亞尼に
一人の
息子があつて、
極く
放蕩無頼な
男で、十
幾年か
前に
家出をして、
行衞不明になつたといふ
事は
兼て
聞いて
居りましたが、
亞尼は、それをば
常に
口僻のやうに、
斯う
言つて
居りました「
私の
忰は
私の
言ふ
事を
容かずに、
十月の
祟の
日に
家出をしたばかりに、
海蛇に
捕られてしまひました。」と。
海蛇に
捕られたとは、
眞に
妙な
事だと
思つて
居りましたが、それがよく
隱語を
使ふ
伊太利人の
僻で、
其書面ではじめて
分りましたよ。
其息子が
海蛇に
捕られたといふのは、
生命の
事ではなく、
實は、
印度洋の
惡魔と
世に
隱れもなき
海賊船の
仲間に
入り、
血をすゝつて、
海蛇丸とかいへる
海賊船の
水夫となつたのだ
相です。
其爲に
亞尼は
一人淋しく
家に
殘されて、
遂に
私の
家に
奉公に
出る
樣になつたのですが、
御存じの
通り、
極く
正直な
女ですから、
私共も
目をかけて
使つて
居る
内、
丁度私共が
子ープルス港を
出發するといふ
前の
前の
晩です。
亞尼は
鳥渡使ひに
出ました
時、
波止塲のほとりで
圖らずも、
絶て
久しき
其子に
出會つたのです。いくら
惡人でも、
親子の
情はまた
格別と
見へ、
正直なる
亞尼は「
一寸お
出で。」と
其子をば、
其邊の
小さい
料理屋へ
連れて
行つて、
自分の
貧しい
財嚢を
傾けて、
息子の
嗜好な
色々の
物を
御馳走して「さて、
忰や、お
前は
此頃はどうしておいでだえ。
矢張惡い
業を
改めませんのかえ。」と
涙ながらに
諫めかけると、
息子は
平氣なものです「また
始まつたよ。おつかさん、お
前は
相變らず
馬鹿正直だねえ、
其樣なけち/\した
事で
此世が
渡れるかえ。」と
大酒飮んで、
醉ふたまきれに「
乃公なんかは
近い
内に
大仕事があるのだ、
其仕事の
爲に
今此港へ
來て、
明後晩にはまた
此處を
出發するのだが、
其一件さへ
首尾よく
行けば、
百や
二百の
目腐れ
金はお
前にもあげるよ。
内秘/\。」なんかと、
思はず
知らず
口走つたのでせう。
之を
聽いた
亞尼は
はつと
愕いたのです。
其頃弦月丸が、
今迄に
無い
程澤山の、
黄金と
眞珠とを
搭載して、
ネープルス港を
出發して、
東洋に
向ふといふのは
評判でしたが、
誰も
世に
恐る
可き
海蛇丸が、
竊かに
其舷側に
停泊して、
樣子を
窺つて
居るとは
氣付いた
人はありませんかつたが、
今現に
海賊仲間の
其息子が
此港に
居る
事と、
今の
話の
樣子で、
朧ながらも
其れと
覺つた
亞尼の
驚愕はまアどんなでしたらう。
私共の
乘組む
筈の
弦月丸と、
同じ
日、
同じ
刻に、
ネープルス港を
出發する
海蛇丸の
目的は
云ふ
迄もありません。
其息子が
大仕事と
云つたのはまさしく
弦月丸を
襲撃して、
其貨財を
掠奪する
目的だなと
心付いた
時、
彼女は
切に
其非行を
諫めた
相ですが、
素より
思ひ
止まらう
筈はなく、
其暴惡なる
息子は、
斯く
推察された
上はと、
急に
語勢荒々しく「おつかさん、
左樣覺られたからは
百年目、
若し
此一件を
他人に
洩すものならば、
乃公の
笠の
臺の
飛ぶは
知れた
事、
左樣なれば
破れかぶれ、お
前の
御主人の
家だつて
用捨はない、
火でもかけて、
一人も
生かしては
置かないぞ。」と
鬼のやうになつて、
威迫したんでせう。
亞尼は
心も
心でなく、
急ぎ
私共の
家へ
歸つて
來たものゝ、
如何する
事も
出來ません、
明瞭に
言へば、
其子の
首の
飛ぶばかりではなく、
私共の
一家にも、
何處からか
恐ろしい
復讐が
來るものと
信じて、
千々に
心を
碎いた
揚句、
遂にあんな
妙な
事に
托して、
私共の
弦月丸に
乘組む
事を
留めやうと
企てたのです。けれど、
誰だつて
信ぜられませんはねえ。
船の
出發が
魔の
日魔の
刻だなんて。あゝ
亞尼がまた
妙な
事をと、
少しも
心に
止めずに
出帆したのが、あんな
災難の
原因となつたのです。それで、
亞尼は、いよ/\
弦月丸が
沈沒したと
聞いた
時、
身も
世にあられず、
私共に
濟まぬといふ
一念と、
其息子の
悔悟とを
祈るが
爲に、
浮世の
外の
尼寺に
身を
隱したのです。で、
亞尼は、
今は、
眞如の
月影清き、
ウルピノ山中の
草の
庵に、
罪もけがれもなく、
此世を
送つて
居る
事でせうが、あの
惡むべき
息子の
海賊は、
矢張印度洋の
浪を
枕に、
不義非道の
業を
逞しうして
居る
事でせう。』と、
語り
終つて、
春枝夫人は
明眸一轉
かの
空を
仰いだ。
私は
思はず
膝を
叩いた。
短慮一徹の
武村兵曹は
腕を
鳴して、
漫々たる
海洋を
睨み
廻しつゝ
『
此處は
所も
印度洋、
其不屆な
小忰めは
何處に
居る。』と
艦上の
速射砲に
眼を
注いで
『
今は
無上に
愉快な
時だぞ、
今一層の
望みには、
新に
鑄へた
此速射砲で、
彼奴等惡つくき
海賊共を
鏖殺にして
呉れんに。』
『ヒヤ/\、
壯快!
壯快!。』と
轟大尉は
掌を
鳴した。
艦長松島海軍大佐、
濱島武文、
其他同席の二三
士官等は、
凛々たる
面に
微笑を
浮べて、
互に
顏を
見合す
時、
軍艦「
日の
出」の
右舷左舷には、
潮の
花は
玉と
亂れて、
艦の
速力は
飛ぶが
樣であつた。
それより、
私と
武村兵曹とは、
艦中の
一同から
筆にも
言にも
盡されぬ
優待を
受けて、
印度洋の
波濤を
蹴つて、
コロンボの
港へと
進んで
行く。
日うらゝかに、
風清き
甲板で、
大佐や、
濱島や、
春枝夫人や、
轟大尉や、
其他乘組の
士官水兵等を
相手に、
私の
小説にも
似たる
經歴談は、
印度洋の
波のごとく
連綿として
盡くる
時もなかつた。ずつと
以前に
溯つて、
弦月丸の
沈沒當時の
實况。
小端艇で
漂流中のさま/″\の
辛苦。
驟雨の
事。
沙魚釣りの
奇談。
腐つた
魚肉に
日出雄少年が
鼻を
摘んだ
話。それから
朝日島に
漂着して、
椰子の
果實の
美味かつた
事。
猛狒の
襲撃一件。
櫻木海軍大佐との
奇遇。
鐵の
響と
屏風岩の
奇異。
猛犬稻妻の
世にも
稀なる
犬なる
事。
大佐や
少年や
其他三十
有餘名の
水兵等が
趣味ある
日常の
生活のさま/″\、
晨には
星を
戴いて
起き、
夕には
月を
踏んで
歸る、
其職務の
餘暇には、
睦まじき
茶話會、
面白き
端艇競漕、
野球競技等の
物語は、
如何に
彼等を
驚かしめ
笑はしめ
樂しましめたらう。
特に
朝日島紀念塔設立の
顛末――あの
異樣なる
自動冐險車が、
縱横無盡に
[#「縱横無盡に」は底本では「樅横無盡に」]、
深山大澤の
間を
猛進したる
其時の
活劇。
猛獸毒蛇との
大奮鬪。
武村兵曹の
片足の
危なかつた
事。
好奇心から
砂すべりの
谷へ
顛落して、
九死一生になつた
事。
日出雄少年と
猛犬稻妻との
別れの
一段。
禿頭山の
彼方から、
大輕氣球がふうら/\と
舞ひ
降つて
來た
事。さては、
紀元節の
當日の
盛なる
光景、つゞいて、
電光艇試運轉式の
夜の
大異變から、
今回の
使命に
立到つた
迄の
奇譚は、
始終彼等を
ヤンヤと
言はせて、
吾等孤島の
生活中は、いつも
滑※[#「(禾+尤)/上/日」、353-5]と
失策との
本家本元で――
今は
私の
傍に、
威勢よく
話の
相槌を
打つて
居る
武村兵曹は、
幾度か
軍艦日の
出の
水兵等に、
背中叩かれ、
手を
叩かれて、
艦中第一の
愛敬者とはなつた。
武村兵曹は
今は
私と
同じやうに、
此軍艦の
賓客ではあるが、
彼は
軍艦を
家とする
水兵の
身――
水兵の
中にも
氣象勝れ、
特に
砲術、
航海術には
際立つて
巧妙な
男なので、かく
軍艦に
乘組んでは
一刻も
默念とはして
居られぬ、かつは
艦長松島海軍大佐を
始め
軍艦「
日の
出」の
全員が、
自分の
最も
敬愛する
櫻木大佐のために
誠心から
盡力して
呉れるのが、
心から

しく、
難有く、せめて
報恩の
萬分の
一には、
此軍艦の
水兵等と
同じ
樣に
働きたいと、
頻りに
心を
焦立てたが、
海軍の
軍律は
嚴として
動かす
可からず、
本艦在役の
軍人ならねば
檣樓に
昇る
事も
叶はず、
機關室に
働く
事も
能はず、
詮方無きまゝ、
立つて
見つ、
居て
見つ、
艦首から
縹渺たる
太洋の
波濤を
眺めたり、「ブルワーク」の
邊から
縱帆架に
飜る
帝國軍艦旗を
仰いで
見たり、
機關砲を
覗いて
見たり、
果ては
無聊に
堪え
兼ねて
頻りに
腕をさすつて
居たが、
其内に
夕刻にもなると、
此時刻は
航海中、
軍艦乘組員の
最も
樂しき
時、
公務の
餘暇ある
夥多の
士官水兵は、
空高く、
浪青き
後部甲板に
集つて、
最も
自由に、
最も
快活に、
詩を
吟ずるもある、
劍を
舞はすもある。
武村兵曹も
其仲間に
入つて、
頻りに
愉快だ/\と
騷いで
居つたが、
何時何處から
聞知たものか、
例の
轟大尉の
虎髯は
ぬつと
進み
出て
『これ、
武村兵曹、
足下はなか/\
薩摩琵琶が
巧い
相な、
一曲やらんか、やる! よし
來た。』と
傍の
水兵に
命じて、
自分兼て
御持參の
琵琶を
取寄せた。
年少士官、
老功水兵等は『これは
面白い。』と十五
珊速射砲のほとり、
後部艦橋の
下に
耳を
濟ます、
兵曹、
此處ぞと
琵琶おつ
取り、
翩飜と
飄る
艦尾帝國軍艦旗の
下に
膝を
組んで、シヤシヤン、シヤラ/\と
彈き
出す
琵琶の
曲、
聲張上げて
「
雲に
聳ゆる
高山も。
登らばなどか
越へざらむ。
空をひたせる
海原も。
渡らば
終に
渡るべし。
我蜻蛉洲は
茜さす。
東の
海の
離れ
島。
例へば
海の
只中に。
浮べる
船にさも
似たり――。」と、
高き
調は
荒鷲の、
風を
搏いて
飛ぶごとく、
低き
調は
溪水の、
岩に
堰かれて
泣く
如く、
檣頭を
走る
印度洋の
風、
舷に
碎くる
波の
音に
和して、
本艦々上、
暫時は
鳴も
止まなかつた。
琵琶の
調べが
終ると、
虎髯大尉は
忽ち
大拍手をした。
『うまい/\、
本物ぢや、よし、よし、あんまり
安賣をすな。』とばかり
身を
跳らして
『
兵曹、どうぢや
一番腕押は――。』と
鐵の
樣な
腕を
突出した。
虎髯大尉の
腕押と
來たら
有名なものである。けれど
武村兵曹は
ちつとも知らない、
自分も
大の
力自慢。
『よろしい、
參りませう。』と
琵琶投げ
捨てゝ、
一番鬪つたが、
忽ちウンと
捩り
倒された。
『
弱いなア。』と
大尉は
大に
笑ふ。
『ど、ど、
如何したんだらう、こ、
此武村をお
負かしなすつたな、『どれもう
一番――。』と
鬪つたが、また
負た。
『こんな
筈ではないのだが。』と
腕を
摩つて
見たが、
迚も
叶ひ
相もない。
きよろ/\しながら
四方を
見廻はすと、「
日の
出」の
士官水兵等は
くす/\
笑つて
居る、
濱島武文は
から/\
笑つて
居る、
春枝夫人は
手巾の
影から
そつと笑つて
居る。
『
殘念だな、よし。』と
武村兵曹は
忽ち
毛脛を
突出した。
『
大尉閣下、
御禮に
一番脛押と
參りませう。』
『
脛押か。』と
轟大尉は
顏を
顰めたが、
負けぬ
氣の
大尉、
何程の
事やあらんと
同じく
毛脛を
現はして、
一押押したが、『あ
痛た、たゝゝゝ。』と
後へ
飛退[#ルビの「とびの」は底本では「どびの」]いて
『これは
痛い、
武村の
脛には
出刄庖丁が
這入つて
居るぞ。』
『そ、そんなに
強いのですか。』と
彌次馬の
士官水兵は
吾も/\とやつて
來たが、
成程武村の
脛は
馬鹿に
堅い、
皆一撃の
下に
押倒されて、
痛い/\と
引退る。
武村兵曹は
些さか
得意の
色を
浮べて
鼻を
蠢めかしたが、
軍艦「
日の
出」の
甲板には
未だ
仲々豪傑が
居る。
『
武村、
怪しからんな、
我軍艦「
日の
出」の
道塲破りをやつたな、よし、
乃公が
相手にならう。』と
突然大檣の
影から
現はれて
來たのは、
色の
黒々とした、
筋骨の
逞ましい
年少少尉、
此人は
海軍兵學校の
生活中、
大食黨の
巨魁で、
肺量五千二百、
握力七十八、
竿飛は一
丈三
尺まで
飛んで、
徒競走六百ヤードを八十六
秒に
走つたといふ
男、三
年の
在學中、
常に
分隊の
第一
番漕手として、
漕力天下無比と
云はれた
腕前。
『そら
來い!。』とばかり、
ヒタと
武村兵曹の
所謂出刄庖丁の
入つて
居る
脛に
己が
鐵の
脛を
合せて、
双方眞赤になつてエンヤ/\と
押合つたが
勝負が
付かない、
甲板の
一同は
面白がつてヤンヤ/\と
騷ぐ
『もう
廢せ/\、
足が
折れるぞ/\。』と
虎髯大尉は
二人の
周圍をぐる/\
廻つて、
結局引分になつた。
艦橋よりは
艦長松島海軍大佐、
例によつて
例の
如く
鼻髯を
捻りつゝ、
微笑を
浮べて
眺めて
居つた。
第三十回
月夜の
大海戰
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗――大軍刀をブン/\と振廻した――大佐來! 電光艇來! 朝日輝く印度洋
かくて、
軍艦「
日の
出」は、
其翌々晩は
豫定通りに、
印度大陸の
西岸コロンボの
港に
寄港して、
艦長松島海軍大佐と、
私と、
武村兵曹とは、
椰子や
芭蕉の
林は
低く
海岸を
蔽ひ、
波止塲のほとりから
段々と
高く、
電燈の
光は
白晝を
欺かんばかりなる
市街に
上陸して、
竊かに
櫻木海軍大佐より
委任を
受けたる、
電光艇用の
秘密藥品を
買整へ、十二の
樽に
密封して、
今は
特更に
船を
艤裝する
必要もなく、
直ちに
軍艦「
日の
出」に
搭載して、
同時に
暗號電報をもつて、
松島海軍大佐は
本國政府よりの
許可を
受け、
來る二十五
日拂曉に
海底戰鬪艇と
相會ふ
可き
筈の
橄欖島の
方向を
指して
進航した。
コロンボ港から
橄欖島まで
大約一千五百
海里。
明[#ルビの「あ」は底本では「あけ」]けては、
日麗らかなる
甲板に、
帝國軍艦旗翩飜たるを
仰ぎ
見ては、
日ならず
智勇兼備の
兩海軍大佐が
新しき
軍艦「
日の
出」と、
新しき
電光艇との
甲板にて、
波を
距てゝ
相會し、それより
二隻[#ルビの「にせき」は底本では「たせき」]相並んで、
海原遠く
幾千里、
頓て、
芙蓉の
峯の
朝日影を
望み
見る
迄の、
壯快なる
想像を
胸に
描き、
暮れては、
海風穩かなる
艦橋のほとり、
濱島武文や
春枝夫人等と
相語つて、
日出雄少年の
愛らしき
姿を
待兼ねつゝ。
四晝夜の
航海は
恙なく
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、361-1]ぎて、
右舷左舷に
寄せては
返す
波の
音と
共に、
刻一刻に
近づき
來る
喜劇に
向つて、
橄欖島と
覺ぼしき
島影を、
雲煙渺茫たる
邊に
認めたのは、
日は二
月の二十五
日、
刻は
萬籟寂たる
午前の二
時と三
時との
間。
下弦の
月は
皓々と
冴え
渡りて、
金蛇走らす
浪の
上には、たゞ
本艦の
蒸
機關の
響のみぞ
悽まじかつた。
軍艦「
日の
出」の
艦中には
一人も
眠むる
者は
無かつた。
艦橋には
艦長松島海軍大佐をはじめとし、
一團の
將校は
月に
燦爛たる
肩章に
波を
打たせて、
隻手に
握る
双眼鏡は
絶えず
海上を
眺めて
居る。
甲板の
其處此處には
水兵の
一群二群、ひそ/\と
語るもあり、
樂し
氣に
笑ふもあり。
武村兵曹は
兩眼をまん
丸にして
『サア、いよ/\
橄欖島も
近づいて
來たぞ。
大佐閣下の
海底戰鬪艇はすでにあの
島影に
來て
居るであらうか、それとも
未だ
朝日島を
出發せぬのかしら、えい、
待遠や/\。』と、
手の
舞ひ、
足の
踏む
處も
知らぬ
有樣。
濱島武文は
艦尾の
巨砲に
凭れて
悠々と
美髯を
捻りつゝ。
春枝夫人の
笑顏は
天女の
美はしきよりも
美はしく、
仰ぐ
御空には
行く
雲も
歩をとゞめ、
浪に
鳴く
鳥も
吾等を
讃美するかと
疑はるゝ。
此快絶の
時、
忽ち
舷門のほとりに
尋常ならぬ
警戒の
聲が
聽えた。
艦中の
一同はヒタと
鳴を
靜めたのである。
只見る
本艦を
去る
事三海里餘、
橄欖島と
覺しき
島の
北方に
當つて、
毒龍蟠るが
如き
二個の
島嶼がある。
其島陰から
忽然として
一點の
光が
[#「光が」は底本では「光か」]ピカリツ。つゞいて
一點又一點、
都合七隻の
奇怪なる
船は
前檣高く
球燈を
掲げて、
長蛇の
列をなして
現はれて
來た。
月は
隈ない、
其眞先に
黒烟を
吐いて
進んで
來るのは、
二本烟筒に
二本檣!
見忘れもせぬ四
年前のそれ※
[#感嘆符三つ、362-11]
『
海蛇丸來!
海蛇丸來!。』と
私が
絶叫した
時、
虎髯大尉は
身を
翻へして
戰鬪樓の
方へ
走り
去つた。
唯見る、
海蛇丸の
船首よりは、
閃々と
流るゝ
流星の
如き
爆發信號が
揚つた、
此信號は
他船の
注意を
喚起する
夜間信號、
彼[#ルビの「か」は底本では「が」]れ
大膽不敵なる
海賊船は、
今や
何故か
其信號を
揚げて、
我が
帝國軍艦の
視線を
惹かんとして
居るのである。
我が
艦上の
視線は
果して
一同其方へ
向つた。
一度戰鬪樓の
方へ
走り
去つた
虎髯大尉は
此時再び
私の
傍へ
歸つて
來たが
大聲に
『
奇怪な
船!
奇怪な
船! あの
船は
我軍艦に
向つて、
何か
信號を
試みんとして
居る。』と
叫んだ。
實に
前後の
形勢と、かの七
隻の
船の
有樣とで
見ると、
今や
海蛇丸は
明に
何事をか
我軍艦に
向つて
信號を
試みる
積だらう。けれど
私は
審かつた。
今日世界の
海上に
於ては、
晝間の
萬國信號はあるが、
夜間信號は、
各國の
海軍に
於て、
各自に
秘密なる
信號を
有する
他、
難破信號とか、
今海蛇丸の
揚げた
爆發信號のやうな、
極めて
重大なるまた
單純なるものを
除いては、
萬國共通のものは
無いのである。
然れば
奇怪の
船、
我に
信號を
試みんとならば、
果して
如何なる
手段をか
取ると
瞻めて
居ると、
忽ち
見る、
海蛇丸の、
檣上、
檣下、
船首、
船尾、
右舷、
左舷に
閃々たる
電燈輝き
出でゝ、
滿船を
照す
其光は
白晝を
欺かんばかり、
其光の
下に
一個の
異樣なる
人影現はれて、
忽ち
檣桁高く
信號旗が
上つた。
心憎くや、
奇怪の
船は、
晝間信號を
電燈の
光に
應用せんとするのである。
三
角、四
角、さま/″\の
模樣の
信號旗は
風に
動いて
「
其軍艦止まれ!
其軍艦止まれ※
[#感嘆符三つ、364-12]。」と
示す。
我日の
出艦長松島海軍大佐は、
一令を
發して
滿艦に
電光を
輝かした。
一
等信號兵は
指揮の
下に
信號檣下に
立つた。
「
奇怪の
船!
汝は
何者ぞ。」と
我が
信號旗上る。
ヒラ/\と
動く
彼方の
信號
「
我こそは
音に
名高き
印度洋の
大海賊船なり、
汝の
新造軍艦を
奪はんとて
此處に
待つこと
久矣、
速に
白旗を
立てゝ
其軍艦を
引渡さば
可、
若し
躊躇するに
於ては、
我に七
隻の
堅艦あり、
一撃の
下に
汝の
艦を
粉韲すべきぞ。」と
見る/\
内に
長蛇の
船列は
横形の
列に
變じて、七
隻の
海賊船の
甲板には
月光に
反射して、
劍戟の
晃くさへ
見ゆ、
本艦の
士官水兵は
一時に
憤激の
眉を
揚げた、
中にも
年少士官等は
早や
軍刀[#ルビの「ぐんたう」は底本では「ぐくたう」]の
※[#「革+巴」、365-11]を
握り
詰めて、
艦長の
號令を
待つ、
舷門の
邊、
砲門の
邊、
慓悍無双の
水兵等は
腕を
摩つて
居る。
濱島は
冷然と
笑ひ、
春枝夫人は
默然とした。
我が
勇ましき
武村兵曹は
怒髮天空を
衝き
『えい、ふざけたり/\、
海賊共、
眼に
物見せて
呉れんづ。』と
矢庭に
左舷八
吋速射砲の
方へ
馳せたが、
忽ち
心付いた、
夫れ
海軍々律は
嚴として
泰山の
如し、たとへ
非凡の
手腕ありとも
艦員ならぬものが
砲を
動かし、
銃を
發つ
事は
出來ないのである。
兵曹無念の
切齒をなし、
『えい、
殘念だ/\、
此樣な
時、
本艦の
水兵が
羨ましい。』と
叫んだまゝ、
空拳を
振つて
本艦々頭に
仁王立、
轟大尉は
虎髯逆立ち
眦裂けて、
右手に
握る十二
珊砲の
撃發機は
唯だ
艦長の
一令を
待つばかり。
艦長松島海軍大佐は
此時ちつとも騷がず
[#「騷がず」は底本では「騷がす」]、
平然として
指揮する
信號の
言、
信號兵は
命を
奉じて
信號旗を
高く
掲げた。
「
愚なり、
海賊!
我縱帆架に
飜る
大日本帝國軍艦旗を
見ずや。」と。
忽ち
海蛇丸滿船の
電燈はパツと
消えた。
同時に七
隻の
海賊船は
黒煙團々、
怒濤を
蹴つて
此方に
猛進し
來る。
轟然一發の
彈丸は
悲鳴をあげて、
我が
前檣を
掠め
去つた。
大佐一顧軍刀の
鞘を
拂つて、
屹と
屹立つ
司令塔上、一
令忽ち
高く、
本艦々上戰鬪喇叭鳴る、
士官の
肩章閃めく、
水兵其配置に
就く、
此時、
既に
早し、
既に
遲し、
海賊船から
打出す
彈丸は
雨か、
霰か。
本艦之に
應じて
先づ
手始には八
吋速射砲つゞいて
打出す
機關砲。
月は
慘たり、
月下の
海上に
砲火迸り、
硝煙朦朧と
立昇る
光景は、
昔がたりの
タラント灣の
夜戰もかくやと
想はるゝばかり。
士官水兵の
勇ましき
働きぶりは
言ふ
迄もない。よし
戰鬪員にあらずとも
如何でか
手を
拱いて
居らるべきぞと、
濱島も、
私も、
重き
上衣を
跳ね
脱けて、
彈丸硝藥を
運ぶに
急はしく。
武村兵曹は
大軍刀ブン/\と
振り
廻し
海賊船若し
近寄らば
吾から
其甲板に
飛移らんばかりの
勢ひ。
春枝夫人の
嬋娟たる
姿は
喩へば
電雷風雨の
空に
櫻花一瓣のひら/\と
舞ふが
如く、
一兵時に
傷き
倒れたるを
介抱せんとて、
優しく
抱き
上げたる
彼女の
雪の
腕には、
帝國軍人の
鮮血の
滾々と
迸りかゝるのも
見えた。
海戰は
午前二
時三十
分に
始つて、
東雲の
頃まで
終らなかつた。
此方は
忠勇義烈の
日本軍艦なり、
敵は
世界に
隱れなき
印度洋の
大海賊。
海賊船は
此時砲戰もどかしとや
思ひけん、
中にも
目立つ
三隻四隻は
一度に
船首を
揃へて、
疾風迅雷と
突喚し
來る、
劍戟の
光晃く
其甲板には、
衝突と
共に
本艦に
乘移らんず
海賊共の
身構。えい、ものものしや、
我が
神聖なる
甲板は、
如何でか
汝等如き
汚れたる
海賊の
血汐に
染むべきぞ。と
我が
艦ます/\
奮ふ。
硝煙は
暗く
海を
蔽ひ、
萬雷一時に
落つるに
異らず。
艦長松島海軍大佐の
號令はいよ/\
澄渡つて
司令塔に
高く、
舵樓には
神變[#ルビの「しんぺん」は底本では「しんぺ」]不可思議の
手腕あり。二千八百
噸の
巡洋艦操縱自在。
敵船右より
襲へば
右舷の
速射砲之を
追ひ、
賊船左より
來れば
左舷の
機關砲之を
撃つ。
追へども
撃てども
敵も
強者、
再び
寄する
七隻の
堅艦、
怒濤は
逆卷き、
風荒れて、
血汐に
染みたる
海賊の
旗風いよ/\
鋭く、
猛く、
此戰何時果つ
可しとも
覺えざりし
時。
忽ち
見る!
東雲の、
遙か/\の
海上より、
水煙を
揚げ、
怒濤を
蹴つて、
驀直に
駛け
來る
一艘の
長艇あり、やゝ
近づいて
見ると、
其艇尾には、
曉風に
飜る
帝國軍艦旗!
見るより、
私は
右舷から
左舷に
躍つて
『
大佐來!
大佐來る!
櫻木大佐の
電光艇來る※
[#感嘆符三つ、369-12]。』と
叫ぶ
響は
砲聲の
絶間、
全艦に
鳴り
渡ると、
軍艦「
日の
出」の
士官水兵一時に
動搖めき。
此時艦頭に
立てる
武村兵曹は、
右鬢に
微傷を
受けて、
流るゝ
血汐の
兩眼に
入るを、
拳に
拂つて、キツと
見渡す
海の
面、
電光の
如く
近づき
來つた
海底戰鬪艇は、
本艦を
去る
事約一千米突――
忽然波間に
沈んだと
思ふ
間も
疾しや
遲しや、
唯見る
本艦前方の
海上、
忽ち
起る
大叫喚。
瞻むれば一
隻の
海賊船は
轟然たる
響諸共に、
船底微塵に
碎け、
潮煙飛んで
千尋の
波底に
沈み
去つた、つゞいて
起る
大紛擾、
一艘は
船尾逆立ち
船頭沈んで、
惡魔印の
海賊旗は、
二度、
三度、
浪を
叩くよと
見る
間に
影も
形も。
『それ、
櫻木大佐來!
電光艇の
應援ぞ! おくれて
彼方の
水兵に
笑はれな、
進め/\。』の
號令の
下に、
軍艦「
日の
出」の
士官水兵は
勇氣百倍、
息をもつかせず
發射する
彈丸は、
氷山[#ルビの「へうざん」は底本では「へざん」]碎けて
玉と
飛散る
如く、すでに
度を
失つて、
四途路筋斗の
海賊船に、
命中るも/\、
本艦々尾の八
吋速射砲は、
忽ち
一隻を
撃沈し、
同時に
打出す十二
珊砲の
榴彈は、
之れぞ
虎髯大尉の
大勳功!
今しも
死物狂ひに、
本艦目掛けて、
突貫し
來る
一船の
彈藥庫に
命中して、
船中、
船外、
猛火
々舵は
微塵に
碎けて、
船獨樂の
如く
廻る、
海底よりは
海底戰鬪艇、さしつたりと
電光石火の
勢ひ、げにもや
電光影裡春風を
斬るごとく、
形は
見えねど
三尖衝角の
回旋る
處、
敵船微塵に
碎け、
新式魚形水雷の
駛るところ
白龍天に
跳る、
殘る
賊船早や三
隻、すでに一
隻は
右舷より
左舷に、
他の一
隻は
左舷より
右舷に、
見る
間に
甲板傾き、
濤打上げて、
驚き
狂ふ
海賊共は、
大砲小銃諸共[#ルビの「もろとも」は底本では「もろとき」]に、
雪崩の
如く
海に
落つ。
今は
早や
殘る
賊船只一
隻!
之れぞ
二本煙筒に
二本檣の
海蛇丸!
海蛇丸は
最早叶はじとや
思ひけん、
旗を
卷き、
黒煙團々橄欖島の
方向へ
逃げて
[#「逃げて」は底本では「北げて」]行くを、
海底戰鬪艇今は
波に
沈む
迄もなく、
奔龍の
如くに
波上を
追ふ、
本艦鳴を
[#「鳴を」は底本では「嗚を」]靜むる十
秒二十
秒。
其鋭利なる
三尖衝角は
空に
閃く
電光の
如く
賊船の
右舷に
霹靂萬雷の
響あり、
極惡無道の
海蛇丸は
遂に
水煙を
揚げて
海底に
沒し
去つた。
此時夜は
全く
明けて
碧瑠璃のやうな
東の
空からは、
爛々たる
旭日が
昇つて
來た。
我艦長松島海軍大佐は、
流るゝ
汗を
押拭ひつゝ、
滿顏に
微笑を
湛えて
一顧すると、
忽ち
起る「
君が
代」の
軍樂、
妙に
勇ましき
其ひゞきは、
印度洋の
波も
躍らんばかり、
我軍艦「
日の
出」の
士官水兵は、
舷門より、
檣樓より、
戰鬪樓より、
双手を
擧げ、
旗を
振り、
歡呼をあげて、
勇み、
歡び、をとり
立つ、
濱島武文、
春枝夫人は
餘りの

しさに
聲もなく、
虎髯大尉、
武村兵曹、
一人は
右鬢に、
一人は
左鬢に、
微かな
傷に
白鉢卷、
私は
雀躍しながら、
倶に
眺むる
黎明の
印度洋、
波上を
亘る
清しい
風は、
一陣又一陣と
吹來つて、
今しも、
海蛇丸を
粉韲したる
電光艇は、
此時徐かに
艇頭を
廻らして
此方に
近づいて
來たが、あゝ、
其光譽ある
觀外塔上を
見よ※
[#感嘆符三つ、373-3] 色の
黒い、
筋骨の
逞ましい、三十
餘名の
慓悍無双なる
水兵を
後に
從へて、
雄風凛々たる
櫻木海軍大佐は、
籠手を
翳して
我軍艦「
日の
出」の
甲板を
眺めて
居る。
其傍には、
日出雄少年は、
例の
水兵姿で、
左手は
猛犬「
稻妻」の
首輪を
捕へ、
右手は
翩飜と
海風に
飜へる
帝國軍艦旗を
抱いて、その
愛らしい、
勇ましい
顏は、
莞爾と
此方を
仰いで
居つたよ。
――――~~~~~~~~――――
讀者諸君!
白雲は
低く
飛び、
狂瀾天に
跳る
印度洋上、
世界の
大惡魔と
世に
隱れなき七
隻の
大海賊船をば、
木葉微塵に
粉韲いたる
我帝國軍艦「
日の
出」と、
神出鬼沒の
電光艇とは、
今や
舷をならべて、
本國指して
歸航の
途中である。
昨夜新嘉坡發、一
片の
長文電報は、
日本の
海軍省に
到達した
筈であるが、二
隻は
去る
金曜日をもつて、
印度大陸の
尖端コモリンの
岬を
廻り
錫崙島の
沖を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、374-5]ぎ、
殘月淡き
ベンガル灣頭、
行會ふ
英、
佛、
獨、
露艦の
敬禮に
向つて
謝意を
表しつゝ、
大小ニコバル島と
サラン島とを
右舷と
左舷とに
眺めて、
西と
東との
分れ
道なる
マラツカ海峽をもいつしか
夢の
間に
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、374-8]ぎ、
今は
支那海の
波濤を
蹴つて
進航して
居るから、よし
此後浪高くとも、
風荒くとも、二
船が
諸君の
面前に
現はれるのは
最早や
遠い
事ではあるまいと
思ふ。
其時は
無論、
新聞の
號外によつて、
市井の
評判によつて、
如何なる
山間僻地の
諸君と
雖も
更に
新しき、
更に
歡ふ
可き
事を
耳にせらるゝであらうが、
私は
殊に
望む!
西、
玄海灘の
邊より、
馬關海峽を
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、375-2]き、
瀬戸内海に
入り、
夫より
紀伊海峽を
出でゝ
潮崎を
廻り、
遠江灘、
駿河灣、
相模灘の
沿岸に
沿ふて、
凡そ
波濤の
打つところ、
凡そ
船舶の
横はる
處、
海岸に
近く
家を
有せらるゝ
諸君は、
必ず
朝夕の
餘暇には、
二階の
窓より、
家外の
小丘より、また
海濱の
埠頭より、
籠手を
翳して
遙かなる
海上を
觀望せられん
事を。
若し、
水天一碧の
地平線上、
團々たる
黒烟先づ
見え、つゞゐて
白色の
新式巡洋艦現はれ、それと
共に、
龍の
如[#ルビの「ごと」は底本では「ごか」]く、
鯱の
如き
怪艇の
水煙を
蹴つて
此方に
向ふを
見ば、
請ふ、
旗ある
人は
旗を
振り、
喇叭ある
人は
喇叭を
吹奏し、
何物も
無き
人は
双手を
擧げて、
聲を
限りに
帝國萬歳!
帝國海軍萬歳を
連呼せられよ、だん/″\と
近づく二
隻の
甲板、
巡洋艦の
縱帆架に、
怪艇の
艇尾に、
帝國軍艦旗の
翩飜と
飜へるを
見ば、
更に
其時は、
軍艦「
日の
出」の
萬歳と、
電光艇の
萬歳とを
三呼せられよ。
電光艇の
觀外塔には、
櫻木海軍大佐、
武村兵曹、
日出雄少年、
他三十
餘名の
慓悍無双なる
水兵あり。
軍艦「
日の
出」の
甲板には、
艦長松島海軍大佐、
虎髯大尉轟鐵夫君、
濱島武文、
春枝夫人、
及び
二百餘人の
乘組あり。いづれも
手に/\
双眼鏡を
携へ、
白巾を
振り、
喜色を
湛えて、
諸君の
好意を
謝する
事であらう。
其の
時は、
私は、
屹度、
軍艦「
日の
出」の
艦尾の
方、八
吋速射砲の
横たはる
邊、
若くば
水面高き
舷門のほとりに
立つて――
恭しく――
右手に
高く
兜形の
帽子を
揚げて、
今一度、
諸君と
共に
大日本帝國萬歳!
帝國海軍萬歳! を
三呼しませう。(軍艦「日の出」の甲板にて)
(海島冐劍奇譚)海底軍艦終
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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変体仮名し
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はしがき-14、はしがき-20 |
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「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」
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6-5、25-2、41-4、42-1、47-3、56-7、58-1、60-3、60-4、60-7、60-9、66-7、71-12、73-5、97-4、99-2、99-3、99-9、120-2、122-8、126-10、129-11、134-5、134-7、136-12、141-6、149-7、152-10、153-3、161-2、166-10、169-3、171-12、176-4、178-12、198-4、224-5、225-7、230-6、249-2、249-8、249-8、251-6、262-9、262-10、262-10、262-11、265-4、278-1、278-12、293-1、297-5、299-4、303-9、303-10、304-9、306-10、320-8、324-12、335-8、336-4、336-8、339-3、343-11、361-1、374-5、374-8、375-2 |
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「口+斗」
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8-11、8-11、32-5、53-6、263-7 |
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「(禾+尤)/上/日」
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22-10、62-10、74-7、74-7、79-6、79-7、85-11、92-4、116-2、130-5、160-9、333-3、343-10、343-10、353-5 |
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「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」
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46-5、332-3 |
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感嘆符三つ
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49-9、50-8、50-10、52-6、52-9、53-2、73-10、75-1、75-11、76-8、81-11、95-12、95-12、96-6、98-2、99-6、100-10、101-6、277-1、309-2、323-12、326-6、327-11、329-6、362-11、364-12、369-12、373-3 |
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「候」の「ユ」に代えて「工」
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58-3、72-6、135-12 |
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「抜」の「友」に代えて「ノ/友」
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63-8、70-4、144-5、168-6 |
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「一/力」
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88-10、124-5、162-2、164-6、193-1、197-12、207-4、207-8、208-5、210-5、220-8、223-3、274-4 |
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「薔」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」
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110-1 |
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「堝」の「咼」に代えて「咼の左右対称」
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168-9 |
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「革+巴」
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322-7、365-11 |