魔法修行者 Author:幸田 露伴← Back

魔法修行者




 魔法。
 魔法とは、まあ何という笑(わら)わしい言葉であろう。
 しかし如何(いか)なる国の何時(いつ)の代にも、魔法というようなことは人の心の中に存在した。そしてあるいは今でも存在しているかも知れない。
 埃及(エジプト)、印度(いんど)、支那(しな)、阿剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシャ)、皆魔法の問屋(といや)たる国※(二の字点、1-2-22)だ。
 真面目に魔法を取扱って見たらば如何(いかが)であろう。それは人類学で取扱うべき箇条が多かろう。また宗教の一部分として取扱うべき廉(かど)も多いであろう。伝説研究の中(うち)に入れて取扱うべきものも多いだろう。文芸製作として、心理現象として、その他種※(二の字点、1-2-22)の意味からして取扱うべきことも多いだろう。化学、天文学、医学、数学なども、その歴史の初頭においては魔法と関係を有しているといって宜しかろう。
 従って魔法を分類したならば、哲学くさい幽玄高遠なものから、手づまのような卑小浅陋(せんろう)なものまで、何程(なにほど)の種類と段階とがあるか知れない。
 で、世界の魔法について語ったら、一(ひと)月や二(ふた)月で尽きるわけのものではない。例えば魔法の中で最も小さな一部の厭勝(まじない)の術の中の、そのまた小さな一部のマジックスクェアーの如きは、まことに言うに足らぬものである。それでさえ支那でも他の邦(くに)でも、それに病災を禳(はら)い除く力があると信じたり、あるいはまたこれを演繹して未来を知ることを得るとしたりしている。洛書(らくしょ)というものは最も簡単なマジックスクェアーである。それが聖典たる易(えき)に関している。九宮方位(きゅうきゅうほうい)の談(だん)、八門遁甲(はちもんとんこう)の説、三命(さんめい)の占(うらない)、九星(きゅうせい)の卜(ぼく)、皆それに続いている。それだけの談(はなし)さえもなかなか尽きるものではない。一より九に至るの数を九格正方内(きゅうかくせいほうない)に一つずつ置いて、縦線(じゅうせん)、横線(おうせん)、対角線、どう数えても十五になる。一より十六を正方格内に置いて縦線、横線、対角線、各隅(かくぐう)、随処四方角、皆三十四になる。二十五格内に同様に一より二十五までを置いて、六十五になる。三十六格内に三十六までの数を置いて、百十一になる。それ以上いくらでも出来ることである。が、その法を知らないで列(なら)べたのでは、一日かかっても少し多い根数(こんすう)になれば出来ない。古代の人が驚異したのに無理はないが、今日はバッチェット方法、ポイグナード方法、その他の方法を知れば、随分大きな魔方陣でも列べ得ること容易である。しかし魔方陣のことを談(かた)るだけでも、支那印度の古(いにしえ)より、その歴史その影響、今日の数学的解釈及び方法までを談れば、一巻の書を成しても足らぬであろう。極※(二の字点、1-2-22)(ごくごく)小さな部分の中の小部分でもその通りだ。そういう訳だから、魔法の談(はなし)などといっても際限のないことである。
 我邦(わがくに)での魔法の歴史を一瞥して見よう。先ず上古において厭勝(まじない)の術があった。この「まじなう」という「まじ」という語は、世界において分布区域の甚(はなは)だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっているのがおもしろい。禁厭(きんえん)をまじないやむると訓(よ)んでいるのは古いことだ。神代(じんだい)から存したのである。しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し禁(と)むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を穢(きたな)い佐保川(さほがわ)の髑髏(どくろ)に入れて、「まじもの」せる不逞(ふてい)の者などあった。これは咒詛調伏(じゅそちょうぶく)で、厭魅(えんみ)である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうことをする者もあったらしい。
 神おろし、神がかりの類は、これもけだし上古からあったろう。人皇(にんのう)十五、六代の頃に明らかに見える。が、紀記ともに其処(そこ)は仮託が多いと思われる。かみなびの神より板(いた)にする杉のおもひも過(すぎ)ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教(しんきょう)をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠(せいせい)によって仰ぐのであるから、魔法としては論ぜざるべきことである。仏教巫徒(ふと)の「よりまし」「よりき」の事と少し似てはいるであろう。
 仏教が渡来するに及んで咒詛(じゅそ)の事など起ったろうが、仏教ぎらいの守屋(もりや)も「さま/″\のまじわざものをしき」と水鏡(みずかがみ)にはあるから、相手が外国流で己(おのれ)を衛(まも)り人を攻むれば、こちらも自国流の咒詛をしたのかも知れぬ。しかし水鏡は信憑すべき書ではない。
 役(えん)の小角(しょうかく)が出るに及んで、大分魔法使いらしい魔法使いが出て来たわけになる。葛城(かつらぎ)の神を駆使したり、前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢(てつばち)へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒(くじゃくみょうおうじゅ)を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪気なものを祈って修法成就したら神変奇特も出来る訳か知らぬけれど、小角の時はまだ孔雀明王についての何もが唐(とう)で出ていなかったように思われる。ちょっと調べてもらいたい。
 白山(はくさん)の泰澄(たいちょう)や臥行者(がぎょうしゃ)も立派な魔法使らしい。海上の船から山中の庵(いおり)へ米苞(こめづと)が連続して空中を飛んで行ってしまったり、紫宸殿(ししいでん)を御手製(おてせい)地震でゆらゆらとさせて月卿雲客(げっけいうんかく)を驚かしたりなんどしたというのは活動写真映画として実に面白いが、元亨釈書(げんこうしゃくしょ)などに出て来る景気の好い訳(わけ)は、大衆文芸ではない大衆宗教で、ハハア、面白いと聞いて置くに適している。
 久米(くめ)の仙人に至って、映画もニコニコものを出すに至った。仙人は建築が上手で、弘法大師(こうぼうたいし)なども初(はじめ)は久米様のいた寺で勉強した位である、なかなかの魔法使いだったから、雲ぐらいには乗ったろうが、洗濯女の方が魔法が一段上だったので、負けて落第生となったなどは、愛嬌と涎(よだれ)と一緒に滴(したた)るばかりで実に好人物だ。
 奈良朝から平安朝、平安朝と来ては実に外美内醜の世であったから、魔法くさいことの行われるには最も適した時代であった。源氏物語は如何にまじないが一般的であったかを語っており、法力(ほうりき)が尊いものであるかを語っている。この時代の人※(二の字点、1-2-22)は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門(まさかど)が乱を起しても護摩(ごま)を焚(た)いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃(いと)は蜘蛛(くも)の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛(から)くも活きていたのである。生霊(いきりょう)、死霊(しりょう)、のろい、陰陽師(おんようし)の術、巫覡(ふげき)の言、方位、祈祷、物の怪(け)、転生、邪魅(じゃみ)、因果、怪異、動物の超常力、何でも彼(か)でも低頭(ていとう)してこれを信じ、これを畏れ、あるいはこれに頼り、あるいはこれを利用していたのである。源氏以外の文学及びまた更に下っての今昔(こんじゃく)、宇治(うじ)、著聞集(ちょもんじゅう)等の雑書に就いて窺(うかが)ったら、如何にこの時代が、魔法ではなくとも少くとも魔法くさいことを信受していたかが知られる。今一※(二の字点、1-2-22)(いちいち)例を挙げていることも出来ないが、大概日本人の妄信はこの時代に※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸(うんじょう)し出されて近時にまで及んでいるのである。
 大体の談(はなし)は先ずこれまでにして置く。
 我国で魔法の類の称(しょう)を挙げて見よう。先ず魔法、それから妖術、幻術、げほう、狐つかい、飯綱(いづな)の法、荼吉尼(だきに)の法、忍術、合気(あいき)の術、キリシタンバテレンの法、口寄せ、識神(しきじん)をつかう。大概はこれらである。
 これらの中(うち)、キリシタンの法は、少しは奇異を見せたものかも知らぬが、今からいえば理解の及ばぬことに対する怖畏(ふい)よりの誇張であったろう。識神を使ったというのは阿倍晴明(あべせいめい)きりの談になっている。口寄せ、梓神子(あずさみこ)は古い我邦の神おろしの術が仏教の輪廻(りんね)説と混じて変形したものらしい。これは明治まで存し、今でも辺鄙(へんぴ)には密(ひそか)に存するかも知れぬが、営業的なものである。但しこれには「げほう」が連絡している。忍術というのは明治になっては魔法妖術という意味に用いられたが、これは戦乱の世に敵状を知るべく潜入密偵するの術で、少しは印(いん)を結び咒(じゅ)を持する真言宗様(しんごんしゅうよう)の事をも用いたにもせよ、兵家(へいか)の事であるのがその本来である。合気の術は剣客武芸者等の我が神威を以て敵の意気を摧(くじ)くので、鍛錬した我が気の冴(さえ)を微妙の機によって敵に徹するのである。正木(まさき)の気合(きあい)の談(はなし)を考えて、それが如何なるものかを猜(さい)することが出来る。魔法の類ではない。妖術幻術というはただ字面(じめん)の通りである。しかし支那流の妖術幻術、印度流の幻師の法を伝えた痕跡はむしろ少い。小角(しょうかく)や浄蔵(じょうぞう)などの奇蹟は妖術幻術の中には算(さん)していないで、神通道力というように取扱い来っている。小角は道士羽客(どうしうかく)の流にも大日本史などでは扱われているが、小角の事はすべて小角死して二百年ばかりになって聖宝(しょうぼう)が出た頃からいろいろ取囃(とりはや)されたもので、その間に二百年の空隙があるから、聖宝の偉大なことやその道としたところはおよそ認められるが、小角が如何なるものであったかは伝説化したるその人において認めるほかはないのである。聖宝は密教の人である。小角は道家ではない。勿論道家と仏家は互に相奪っているから、支那において既に混淆しており、従って日本においても修験道の所為(しょい)など道家くさいこともあり、仏家が「九字」をきるなど、道家の咒(じゅ)を用いたり、符※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)(ふろく)の類を用いたりしている。神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門(ばらもん)混淆は印度で起っている。何も不思議はない。ただここでは我邦でいう所の妖術幻術は別に支那印度などから伝えた一系統があるのではなくて、字面だけの事だというのである。
 さて「げほう」というのになる。これは眩法(げんほう)か、幻法か、外法(げほう)か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。増鏡(ますかがみ)巻五に、太政大臣藤原公相(ふじわらきみすけ)の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げはふとかやまつるにかゝる生頭(なまこうべ)のいることにて、某(それがし)のひじりとかや、東山のほとりなりける人取りてけるとて、後(のち)に沙汰がましく聞えき」という事があって、まだしゃれ頭にならない生頭を取られたというのである。して見ればこの人の薨去(こうきょ)は文永四年で北条時宗(ときむね)執権の頃であるから、その時分「げほう」と称する者があって、げほうといえば直(ただち)に世人がどういうものだと解することが出来るほど一般に知られていたのである。内典(ないてん)外典(げてん)というが如く、げほうは外法(げほう)で、外道(げどう)というが如く仏法でない法の義であろうか。何にせよ大変なことで、外法は魔法たること分明だ。その後になっても外法頭(げほうあたま)という語はあって、福禄寿(ふくろくじゅ)のような頭を、今でも多分京阪地方では外法頭というだろう、東京にも明治頃までは、下駄の形の称に外法というのがあった。竹斎(ちくさい)だか何だったか徳川初期の草子(そうし)にも外法あたまというはあり、「外法の下り坂」という奇抜な諺(ことわざ)もあるが、福禄寿のような頭では下り坂は妙に早かろう。
 流布本太平記巻三十六、細川相模守清氏(さがみのかみきようじ)叛逆の事を記した段に、「外法成就の志一上人(しいつしょうにん)鎌倉より上(のぼ)つて」云※(二の字点、1-2-22)とある。神田本同書には、「此(この)志一上人はもとより邪天道法成就の人なる上、近頃鎌倉にて諸人奇特(きとく)の思(おもい)をなし、帰依(きえ)浅からざる上、畠山入道(はたけやまにゅうどう)諸事深く信仰頼入(たのみい)りて、関東にても不思議ども現じける人なり」とある。清氏はこの志一を頼んで、※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天(だぎにてん)に足利義詮(あしかがよしあきら)を祈殺(いのりころ)そうとの願状(がんじょう)を奉ったのである。さすれば「邪天道法成就」というのは、※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天を祈る道法成就ということで、志一という僧はその法で「ふしぎども現じける」ものである。これで当時外法と呼んだものは※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天法であることが知れる。けだし外法は平安朝頃から出て来たらしい。
 狐つかいは同じく※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼法であるか知れぬ。しかし狐を霊物とするのは支那にもあったことで、禹(う)が九尾(きゅうび)の狐を娶(めと)ったなどという馬鹿気たことも随分古くから語られたことであろうし、周易(しゅうえき)にも狐はまんざら凡獣でもないように扱われており、後には狐王廟(こおうびょう)なども所※(二の字点、1-2-22)(ところどころ)にあり、狐媚狐惑(こびこわく)の談(だん)は雑書小説に煩らわしいほど見える。印度でも狐は仏典に多く見え、野干(ヤッカル)(狐とは少し異(ちが)おう)は何時(いつ)も狡智あるものとなっている。※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天も狐に乗っているので、孔雀明王が孔雀の明王化、金翅鳥(きんしちょう)明王が金翅鳥の明王化である如く、※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天も狐の天化であろう。我邦では狐は何でもなかったが、それでも景戒(けいかい)の霊異記(れいいき)などには、もはや霊異のものとされていたことが跡づけられる。狐は稲荷(いなり)の使わしめとなっているが、「使わしめ」というものはすべて初(はじめ)は「聯想(れんそう)」から生じた優美な感情の寓奇(ぐうき)であって、鳩は八幡(はちまん)の「はた」から、鹿は春日(かすが)の第一殿鹿島(かしま)の神の神幸(みゆき)の時乗り玉(たま)いし「鹿」から、烏(からす)は熊野(くまの)に八咫烏(やたがらす)の縁で、猿は日吉山王(ひよしさんのう)の月行事の社(やしろ)猿田彦大神(さるだひこおおかみ)の「猿」の縁であるが如しと前人も説いているが、稲荷に狐は何の縁もない。ただ稲荷は保食神(うけもちのかみ)の腹中に稲生(いねな)りしよりの「いなり」で、御饌津神(みけつかみ)であるその御饌津より「けつね」即ち狐が持出されたまでで、大黒(だいこく)様(太名牟遅神(おおなむちのかみ))に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は神使(かみつかい)となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天の方から出たことで、※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼の法をつかう者即ち狐つかいである。※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼は保食神どころではない、本来餓鬼(がき)のようなもので、死人の心を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)食(かんしょく)したがっている者なのであるが、他の大鬼神に敵(かな)わないので、六ヶ月前に人の死を知り、先取権を確立するものであり、なかなか御稲荷様のような福※(二の字点、1-2-22)(ふくふく)しいものではないのである。※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼はまた阿修羅波子(アシュラバス)とも呼ばれて、その義は「飲血者」である。狐つかいの狐は人に禍(わざわい)や死を与える者とされている。して見れば※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼の狐で、お稲荷様の狐ではないはずである。大江匡房(おおえのまさふさ)が記している狐の大饗(だいきょう)の事は堀河天皇の康和三年である。牛骨などを饗(きょう)するのであったから、その頃から※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼の狐ということが人の思想にあったのではないかと思われるが、これは真の想像である。明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍義持(よしもち)の医師の高天(こうてん)という者父子三人、将軍に狐を付けたこと露顕して、同十月讃岐国(さぬきのくに)に流されたのが、年代記にまで出ている。やはり※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼法であったろうことは思遣(おもいや)られるが、他の者に祈られて狐が二匹室町御所から飛出(とびだ)したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐を憑(つ)けるなどという事が一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて被(き)せられた冤罪(えんざい)だったかも知れない。が、何にしろ足利時代には一般にそういう魔法外法邪道の存することが認められていたに疑(うたがい)ない。世が余りに狐を大したものに思うところから、釣狐(つりぎつね)のような面白い狂言が出るに至った、とこういうように観察すると、釣狐も甚だ面白い。
 飯綱(いづな)の法というといよいよ魔法の本統大系(ほんとうだいけい)のように人に思われている。飯綱は元来山の名で、信州の北部、長野の北方、戸隠山(とがくしやま)につづいている相当の高山である。この山には古代の微生物の残骸が土のようになって、戸隠山へ寄った方に存する処(ところ)がある。天狗の麦飯(むぎめし)だの、餓鬼の麦飯だのといって、この山のみではない諸処にある。浅間山観測所附近にもある。北海道にもある、支那にもあるから太平広記(たいへいこうき)に出ている。これは元来が動物質だから食えるものである。で、飯綱は仮名ちがいの擬字(ぎじ)で、これがあるからの飯沙山(いいすなやま)である。そういうちょっと異なものがあったから、古く保食神即ち稲荷なども勧請(かんじょう)してあったかも知れぬ。ところが荼吉尼法は著聞集に、知定院殿(ちていいんでん)が大権坊(だいごんぼう)という奇験の僧によりて修したところ、夢中に狐の生尾(せいび)を得たり、なんどとある通り、古くから行われていたし、稲荷と荼吉尼は狐によって混雑してしまっていた。文徳実録(もんとくじつろく)に見える席田郡(むしろだごおり)の妖巫(ようふ)の、その霊転行(てんこう)して心を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)(くら)い、一種滋蔓(じまん)して、民(たみ)毒害を被る、というのも※(「口+敢」、第3水準1-15-19)心の二字が※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼法の如く思えるところから考えると、なかなか古いもので、今昔物語に外術(げじゅつ)とあるものもやはり外法と同じく※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼法らしいから、随分と索隠行怪(さくいんこうかい)の徒には輾転(てんてん)伝受されていたのだろうと思われる。伝説に依ると、水内郡(みのちごおり)荻原(おぎわら)に、伊藤豊前守忠縄(ぶぜんのかみただつな)というものがあって、後堀河天皇の天福元年(四条天皇の元年で、北条泰時(やすとき)執権の時)にこの山へ上って穀食を絶ち、何の神か不明だがその神意を受けて祈願を凝(こ)らしたとある。穀食を絶っても食える土があったから辛防(しんぼう)出来たろう。それから遂に大自在力を得て、凡(およ)そ二百年余も生きた後、応永七年足利義持の時に死したということだ。これが飯綱の法のはじまりで、それからその子盛縄(もりつな)も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家(せんにちけ)というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。
 今は飯綱(いいづな)神社で、式内(しきない)の水内郡(みのちぐん)の皇足穂命(すめたりほのみこと)神社である。昔は飯綱(いづな)大明神、または飯綱権現と称し、先ず密教修験的の霊区であった。他からは多くは※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天を祭るとせられたが、山では勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)を本宮とするとしていた。勝軍地蔵は日本製の地蔵で、身に甲冑を着け、軍馬に跨(またが)って、そして錫杖(しゃくじょう)と宝珠(ほうじゅ)とを持ち、後光輪(ごこうりん)を戴いているものである。如何にも日本武士的、鎌倉もしくは足利期的の仏であるが、地蔵十輪経(じぞうじゅうりんきょう)に、この菩薩はあるいは阿索洛(アシュラ)身を現わすとあるから、甲(かぶと)を被(こうむ)り馬に乗って、甘くない顔をしていられても不思議はないのである。山城(やましろ)の愛宕(あたご)権現も勝軍地蔵を奉じたところで、それにつづいて太郎坊大天狗などという恐ろしい者で名高い。勝軍地蔵はいつでも武運を守り、福徳を授けて下さるという信仰の対的(たいてき)である。明智光秀も信長を殺す前には愛宕へ詣(まい)って、そして「時は今天(あめ)が下知る五月(さつき)かな」というを発句に連歌を奉っている位だ。飯綱山も愛宕山に負けはしない。武田信玄は飯綱山に祈願をさせている。上杉謙信がそれを見て嘲笑(あざわら)って、信玄、弓箭(ゆみや)では意をば得ぬより権現の力を藉(か)ろうとや、謙信が武勇優れるに似たり、と笑ったというが、どうして信玄は飯綱どころか、禅宗でも、天台宗でも、一向宗までも呑吐(どんと)して、諸国への使(つかい)は一向坊主にさせているところなど、また信玄一流の大きさで、飯綱の法を行(おこな)ったかどうか知らぬが、甲州八代(やつしろ)郡末木(すえき)村慈眼寺(じげんじ)に、同寺から高野(こうや)へ送った武田家品物の目録書の稿の中に、飯縄本尊并(ならび)に法次第一冊信玄公御随身(みずいしん)とあることが甲斐国志(かいこくし)巻七十六に見えているから、飯綱の法も行ったか知れぬ。
 勝軍地蔵か※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼天か、飯綱の本体はいずれでも宜(よ)いが、※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)祇尼は古くからいい伝えていること、勝軍地蔵は新らしく出来たもの、だきには胎蔵界曼陀羅(たいぞうかいまんだら)の外金剛部院(げこんごうぶいん)の一尊であり、勝軍地蔵はただこれ地蔵の一変身である。大日経(だいにちきょう)巻第二に荼枳尼(だきに)は見えており、儀軌真言(ぎきしんごん)なども伝来の古いものである。もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥(げんおう)秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、かつまた自分が飯綱二十法を心得ているわけでもないから、飯綱修法に関することは書かぬが、やはり他の天部(てんぶ)夜叉部(やしゃぶ)等の修法の如くに、相伝を得て、次第により如法(にょほう)に修するものであろう。東京近くでは武州高雄山(たかおさん)からも、今は知らぬが以前は荼枳尼の影像を与えたものである。諸国に荼枳尼天を祭ったところは少からずあるが、今その法を修する者はあるまい。まして魔法の邪法のといわれるものであるから、真に修法(じゅほう)する者は全くあるまいが、修法の事は、その利益功能のある状態や理合(りごう)を語ろうとしても、全然そういうことを知らぬ人に理解せしむることは先ず不可能であるから、まして批評を交えてなど語れるものではない。管狐(くだぎつね)という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅(がきまんだら)のような荼枳尼曼陀羅には天狗もあり、また荼吉尼天その物を狐に乗っている天狗だと心得ている人もある。むかし僧正遍照(へんじょう)は天狗を金網の中へ籠めて焼いて灰にしたというが、我らにはなかなかそのような道力はないから、平生いろいろな天狗に脅(おびやか)されて弱っている、俳句天狗や歌天狗、書天狗画天狗浄瑠璃(じょうるり)天狗、その上に本物の天狗に出られて叱られでもしたら堪(たま)らないから筆を擱(お)く。
 我邦で魔法といえば先ず飯綱の法、荼吉尼の法ということになるが、それならどんな人が上に説いた人のほかに魔法を修したか。志一や高天は言うに足らない、山伏や坊さんは職分的であるから興味もない。誰かないか。魔法修行のアマチュアは。
 ある。先ず第一標本には細川政元(まさもと)を出そう。
 彼(か)の応仁の大乱は人も知る通り細川勝元(かつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)とが天下を半分ずつに分けて取って争ったから起ったのだが、その勝元の子が即ち政元だ。家柄ではあり、親父の余威はあり、二度も京都管領(かんりょう)になったその政元が魔法修行者だった。政元は生れない前から魔法に縁があったのだから仕方がない。はじめ勝元は彼(あれ)だけの地位に立っていても、不幸にして子がなかった。そこでその頃の人だから、神仏に祈願を籠めたのであるが、観音(かんのん)か何かに祈るというなら普門品(ふもんぼん)の誓(ちかい)によって好い子を授けられそうなところを、勝元は妙なところへ願を掛けた。何に掛けたか。武将だから毘沙門(びしゃもん)とか、八幡(はちまん)とかへ願えばまだしも宜(い)いものを、愛宕山大権現へ願った。勝元は宗全とは異って、人あたりの柔らかな、分別も道理はずれをせぬ、感情も細かに、智慧も行届く人であったが、さすがに大乱の片棒をかついだ人だけに、やはり※(きぶ)[#「酉+嚴」、142-5]いところがあったと見えて、愛宕山権現に願掛けした。愛宕山は七高山の一として修験の大修行場で、本尊は雷神(らいじん)にせよ素盞嗚尊(すさのおのみこと)にせよ破旡神(はむじん)にせよ、いずれも暴(あら)い神で、この頃は既に勝軍地蔵を本宮とし、奥の院は太郎坊、天狗様の拠所(よりどころ)であった。武家の尊崇によって愛宕は最も盛大な時であったろうが、こういう訳で生れた政元は、生れぬさきより恐ろしいものと因縁があったのである。
 政元は幼時からこの訳で愛宕を尊崇した。最も愛宕尊崇は一体の世の風であったろうが、自分の特別因縁で特別尊崇をした。数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)社参する中(うち)に、修験者らから神怪幻詭(げんき)の偉い談(だん)などを聞かされて、身に浸みたのであろう、長ずるに及んで何不自由なき大名の身でありながら、葷腥(くんせい)を遠ざけて滋味(じみ)を食(くら)わず、身を持する謹厳で、超人間の境界を得たい望(のぞみ)に現世の欲楽を取ることを敢(あえ)てしなかった。ここは政元も偉かった。憾(うら)むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支(さしつかえ)ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏(きんあつ)したのは恐ろしい信仰心の凝固(こりかたま)りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡方(がた)で出来る事ではない。
 政元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記(ふなおかき)にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比(ころ)まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼(だらに)をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家(おいえ)相続の子無くして、御内(みうち)、外様(とざま)の面※(二の字点、1-2-22)、色※(二の字点、1-2-22)諫(いさ)め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜(よ)いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
 で、諸大名ら人※(二の字点、1-2-22)の執成(とりな)しで、将軍義澄(よしずみ)の叔母の縁づいている太政大臣九条政基(まさもと)の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親(えぼしおや)になって、その名の一字を受けさせ、源九郎澄之(すみゆき)とならせた。
 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人※(二の字点、1-2-22)も好い若君と喜び、丹波(たんば)の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
 ところが政元は病気を時※(二の字点、1-2-22)したので、この前の病気の時、政元一家の内※(二の字点、1-2-22)(うちうち)の人※(二の字点、1-2-22)だけで相談して、阿波(あわ)の守護細川慈雲院(じうんいん)の孫、細川讃岐守之勝(さぬきのかみゆきかつ)の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州(せっしゅう)の守護代薬師寺与一(やくしじよいち)を使者にして養子にする契約をしたのであった。
 この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎澄元(すみもと)と名乗った。つまり澄元の方は内※(二の字点、1-2-22)の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人※(二の字点、1-2-22)の口入(くちいれ)で出来た養子であったのである。これには種※(二の字点、1-2-22)の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通(いちもんふつう)の者であったが、天性正直で、弟の与二(よじ)とともに無双の勇者で、淀(よど)の城に住し、今までも度※(二の字点、1-2-22)(たびたび)手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄之という者が太政大臣家から養子に来られたので、契約の使者になった薬師寺与一は阿波の細川家へ対して、また澄元に対して困った立場になった。そこで根が律義勇猛のみで、心は狭く分別は足らなかった与一は赫(かっ)としたのである。この頃主人政元はというと、段※(二の字点、1-2-22)魔法に凝(こ)り募(つの)って、種※(二の字点、1-2-22)の不思議を現わし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言う折もあった。空中へ上(のぼ)るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのだから、その位の事は出来たことと見て置こう。感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥(たしか)に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は、何時(いつ)までも雪を白い、烏を黒いと、退屈もせずに同じことを言っている扨※(二の字点、1-2-22)(さてさて)下らない者どもだ、と見えたに疑(うたがい)ない。が、細川の被官どもは弱っている。そこで与一は赤沢宗益(あかざわそうえき)というものと相談して、この分では仕方がないから、高圧的強請的(きょうせいてき)に、阿波の六郎澄元殿を取立てて家督にして終(しま)い、政元公を隠居にして魔法三昧でも何でもしてもらおう、と同盟し、与一はその主張を示して淀の城へ籠り、赤沢宗益は兵を率いて伏見(ふしみ)竹田口(たけだぐち)へ強請的に上って来た。
 与一の議に多数が同意するではなかった。澄之に意を寄せている者も多かった。何にしろ与一の仕方が少し突飛(とっぴ)だったから、それ下(しも)として上(かみ)を剋(こく)する与一を撃てということになった。与一の弟の与二は大将として淀の城を攻めさせられた。剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟(よ)く知っていたので、忽(たちまち)に淀の城を攻落(せめおと)し、与二は兄を一元寺(いちげんじ)で詰腹(つめばら)切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。
 阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人(ぶにん)では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長(みよしちくぜんのかみゆきなが)と高畠与三(たかばたけよぞう)の二人を付随(つけしたが)わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
 与二は政元の下で先度の功に因りて大(おおい)に威を振(ふる)ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
 そこで与二は竹田源七(たけだげんしち)、香西又六(こうさいまたろく)などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世(みよ)を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害(しょうがい)をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※(二の字点、1-2-22)が天下の権を取ろう、と一決した。
 永正(えいしょう)四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内(かわち)の高屋(たかや)に叛(そむ)いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免(ゆる)してやった赤沢宗益の弟福王寺喜島(ふくおうじきじま)源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向(さしむ)けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫(やさけび)、太刀音(たちおと)、陣鐘(じんがね)、太鼓の修羅(しゅら)の衢(ちまた)に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五目(もく)勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下(くだ)すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻(こう)を獲たりして喜ぼうと思って郊外に出るのであるが、実は沼沢林藪(しょうたくりんそう)の間を徐(おもむ)ろに行くその一歩一歩が何ともいえず楽しく喜ばしくて、歩※(二の字点、1-2-22)に喜びを味わっているのである。何事でも目的を達し意を遂げるのばかりを楽しいと思う中(うち)は、まだまだ里(さと)の料簡である、その道の山深く入った人の事ではない。当下(とうげ)に即ち了(りょう)するという境界に至って、一石を下す裏に一局の興はあり、一歩を移すところに一日の喜(よろこび)は溢れていると思うようになれば、勝って本(もと)より楽しく、負けてまた楽しく、禽(とり)を獲て本より楽しく、獲ずしてまた楽しいのである。そこで事相(じそう)の成不成、機縁の熟不熟は別として一切が成熟するのである。政元の魔法は成就したか否か知らず、永い月日を倦(う)まず怠らずに、今日も如法に本尊を安置し、法壇を厳飾し、先ず一身の垢(あか)を去り穢(けがれ)を除かんとして浴室に入った。三業純浄(さんごうじゅんじょう)は何の修法にも通有の事である。今は言葉をも発せず、言わんともせず、意を動かしもせず、動かそうともせず、安詳(あんしょう)に身を清くしていた。この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟(か)、業通自在(ぎょうつうじざい)の世界であったろうか、それは傍(はた)からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳だった。
 ※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)吉尼天は魔だ、仏(ぶつ)だ、魔でない、仏(ほとけ)でない。※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)吉尼天だ。人心を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)尽(かんじん)するものだ。心垢(しんく)を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)尽するものだ。政元はどういう修法をしたか、どういう境地にいたか、更に分らぬ。人はただその魔法を修したるを知るのみであった。
 政元は行水(ぎょうずい)を使った。あるべきはずの浴衣(よくい)はなかった。小姓の波※(二の字点、1-2-22)伯部(ははかべ)は浴衣を取りに行った。月もない二十三日の夕風は颯(さっ)と起った。右筆(ゆうひつ)の戸倉二郎というものは突(つっ)と跳り込んだ。波※(二の字点、1-2-22)伯部が帰って来た時、戸倉は血刀(ちがたな)を揮(ふる)って切付けた。身をかわして薄手だけで遁(のが)れた。
 翌日は戦(たたかい)だった。波※(二の字点、1-2-22)伯部は戸倉を打って四十二歳で殺された主(しゅ)の仇を復(ふく)したが、管領の細川家はそれからは両派が打ちつ打たれつして、滅茶苦茶になった。
 政元は魔法を修していた長い間に何もしなかったのではない。ただ足利将軍の廃立をしたり、諸方の戦をしたりしていた。今は政元の伝を筆にしたのではない。
 政元より後に飯綱の法を修した人には面白い人がある。それは政元よりも遥(はるか)に立派な人である。
 関白、内大臣、藤原氏の氏(うじ)の長者、従(じゅ)一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣公相(きみすけ)は外法のために生首(なまくび)を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのである。それは名高い関白兼実(かねざね)の後の九条植通(たねみち)、玖山公(きゅうざんこう)といわれた人である。
 植通公の若い時は天下乱麻の如くであった。知行も絶え絶えで、如何に高貴の身分家柄でも生活さえ困難であった。織田信長より前は、禁庭(きんてい)御所得はどの位であったと思う。或(ある)記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿(くげ)様などは、それはそれは甚だ窘乏(きんぼう)に陥っておられたものだろう。それでその頃は立派な家柄の人※(二の字点、1-2-22)が、四方へ漂泊して、豪富の武家たちに身を寄せておられたことが、雑史野乗(ざっしやじょう)にややもすれば散見する。植通も泉州の堺、――これは富商のいた処である、あるいはまた西方諸国に流浪し、聟(むこ)の十川(そごう)(十川一存(かずまさ)の一系だろうか)を見放つまいとして、※(「てへん+晉」、第3水準1-84-87)紳(しんしん)の身ながらに笏(しゃく)や筆を擱(お)いて弓箭(ゆみや)鎗(やり)太刀(たち)を取って武勇の沙汰にも及んだということである。
 この人が弟子の長頭丸(ちょうずまる)に語った。自分は何事でも思立ったほどならば半途で止まずに、その極処まで究めようと心掛けた。自分は飯綱の法を修行したが、遂に成就したと思ったのは、何処(どこ)に身を置いて寝ても、寝たところの屋(や)の上に夜半頃になればきっと鴟(ふくろう)が来て鳴いたし、また路を行けば行く前には必ず旋風(つじかぜ)が起った。とこういうことを語ったという。鴟は天狗の化するものであるとされていたのである。前に挙げた僧正遍照も天狗の化した鴟を鉄網に籠めて焼いたのである。屋の上で鴟の鳴くのは飯綱の法成就の人に天狗が随身伺候(しこう)するのである意味だ。旋風の起るのも、目に見えぬ眷属(けんぞく)が擁護して前駆(ぜんく)するからの意味である。飯綱の神は飛狐(ひこ)に騎(の)っている天狗である。
 こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通は、実際の世界においてもそれだけの事はあった人である。
 織田信長が今川を亡ぼし、佐※(二の字点、1-2-22)木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩(はい)を料理し、上洛して、将軍を扶(たす)け、禁闕(きんけつ)に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特(こと)に癇癖(かんぺき)荒気(あらき)の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛(てんゆ)して、あたかも古(いにしえ)の木曾義仲(よしなか)の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに植通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総(かずさ)殿か、入洛(じゅらく)めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介(かずさのすけ)であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条植通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談(はなし)だ。植通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是(かく)の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清(そうせい)したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、植通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜(よ)かったのである。
 木下秀吉が明智を亡ぼし、信長の後を襲(つ)いで天下を処理した時の勢(いきおい)も万人の耳目を聳動(しょうどう)したものであった。秀吉は当時こういうことをいい出した。自分は天の冥加(みょうが)に叶って今かく貴(とうと)い身にはなったが、氏も素性もないものである、草刈りが成上ったものであるから、古(いにしえ)の鎌子(かまこ)の大臣(おとど)の御名(おんな)を縁(よすが)にして藤原氏になりたいものだ。というのは関白になろうの下ごころだった。すると秀吉のその時の素ばらしい威勢だったから、宜しゅうござろう、いと易(やす)い事だというので、近衛竜山公(このえりゅうざんこう)がその取計(とりはから)いをしようとした。その時にこの植通公が、「いや、いや、五摂家(せっけ)に甲乙はないようなれど、氏の長者はわが家である、近衛殿の御儘(おんまま)にはなるべきでない」と咎(とが)めた。異論のあるのに無理を通すようなことは秀吉は敢(あえ)てせぬところである。しかも当時の博識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以(とくぜんいんげんい)に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※(二の字点、1-2-22)固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強かった。そうするとさすがに秀吉だ、「さようにむずかしい藤原氏の蔓(つる)となり葉となろうよりも、ただ新しく今までになき氏(うじ)になろうまでじゃ」といった。そこで菊亭(きくてい)殿が姓氏録を検(あらた)めて、はじめて豊臣秀吉となった。
 これも植通は宜(よ)かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥(たしか)に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天狗大出来大出来。
 秀吉は遂に関白になった。ついで秀次(ひでつぐ)も関白になった。飯綱成就の植通は毎※(二の字点、1-2-22)言った。「関白になって、神罰を受けように」と言った。果して秀次関白が罪を得るに及んで、それに坐して近衛殿は九州の坊(ぼう)の津(つ)へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、その女(むすめ)の一台(いちだい)殿は車にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えぬ権威があった。
 和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでもなかろうが、それでも緒余(しょよ)としてその道を得ていた。法橋紹巴(ほっきょうしょうは)は当時の連歌の大宗匠であった。しかし長頭丸が植通公を訪(と)うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落(じゅらく)の安芸(あき)の毛利(もうり)殿の亭(ちん)にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花神代(かみよ)もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人※(二の字点、1-2-22)褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬとの業平(なりひら)の歌は、竜田川(たつたがわ)に水の紅(くれない)にくくることは奇特不思議の多い神代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らしからぬ梅を取出して神代も聞かぬというべきいわれはない。昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵(むあん)が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利大膳(だいぜん)が神主(かんぬし)ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵(かな)わない。光秀は紹巴に「天(あめ)が下しる五月(さつき)哉(かな)」の「し」の字は「な」の字歟(か)といわれたが、紹巴はまたこの公には敵わない。毛利が神主にもあらばこその一句は恐ろしい。
 紹巴は時※(二の字点、1-2-22)この公を訪(と)うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐(おもむ)ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退(ひきさが)った。なるほどこの公の歩くさきには旋風(つじかぜ)が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
 源氏物語にも言辞事物(げんじじぶつ)の注のほかに深き観念あるを説いて止観(しかん)の説という。この公の源語の注の孟津抄(もうしんしょう)は、法華経の釈に玄義、文句(もんぐ)とありて扨(さて)、止観十巻のあるが如く、源氏についての止観の意にて説かれたということである。非常な源氏の愛読者で、「これを見れば延喜(えんぎ)の御代(みよ)に住む心地する」といって、明暮(あけくれ)に源氏を見ていたというが、きまりきった源氏を六十年もそのように見ていて倦(う)まなかったところは、政元が二十年も飯綱修法を行じていたところと同じようでおもしろい。
 長頭丸が時※(二の字点、1-2-22)教(おしえ)を請うた頃は、公は京の東福寺(とうふくじ)の門前の乾亭院(かんていいん)という藪の中の朽ちかけた坊に物寂(ものさ)びた朝夕を送っていて、毎朝※(二の字点、1-2-22)輪袈裟(わげさ)を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆昌を祈って、それから食事の後には、ただもう机に※(「馮/几」、第4水準2-3-20)(よ)って源氏を読んでいたというが、如何にも寂びた、細※(二の字点、1-2-22)とした、すっきりとした、塵雑(じんざつ)の気のない、平らな、落(おち)ついた、空室に日の光が白く射したような生活のさまが思われて、飯綱も成就したろうが、自己も成就した人と見える。天文から文禄の間の世に生きていて、しかも延喜の世に住んでいたところは、実に面白い。
 或時長頭丸即ち貞徳(ていとく)が公を訪(と)うた時、公は閑栖(かんせい)の韵事(いんじ)であるが、和(やわ)らかな日のさす庭に出て、唐松(からまつ)の実生(みばえ)を釣瓶(つるべ)に手ずから植えていた。五葉(ごよう)の松でもあればこそ、落葉松(からまつ)の実生など、余り佳いものでもないが、それを釣瓶なんどに植えて、しかもその小さな実生のどうなるのを何時(いつ)賞美しようというのであろう。しかしここが面白いのである、出来た人でなければ出来ない真の楽みを取っているところである。貞徳は公より遥(はるか)に年下である。我身の若さ、公の清らに老い痩枯(やせが)れたるさまの頼りなさ、それに実生の松の緑りもかすけき小ささ、わびきったる釣瓶なんどを用いていらるるはかなさ、それを思い、これを感じて、貞徳はおのずから優しい心を動かしたろう、どうぞこの松のせめて一、二尺になるまでも芽出度(めでたく)おわしませ、と「植ゑておく今日から松のみどりをも猶(なお)ながらへて君ぞ見るべき」と祝いて申上げると、「日のもとに住みわびつゝも有(あ)りふれば今日から松を植ゑてこそ見れ」と、ただ物をいうように公は答えた。
 その器(き)その徳その才があるのでなければどうすることも出来ない乱世に生れ合せた人の、八十ごろの齢(とし)で唐松の実生を植えているところ、日のもとの歌には堕涙(だるい)の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか。
(昭和三年四月)





底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十五巻」岩波書店
   1952(昭和27)年5月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2007年11月26日作成
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  • 「酉+嚴」    142-5
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