妾の半生涯 Author:福田 英子← Back

妾の半生涯


 昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒(いまし)めとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真(まこと)に尊き亀鑑(きかん)を後世に遺(のこ)せしものとこそ言うべけれ。妾(しょう)の如き、如何(いか)に心の驕(おご)れることありとも、いかで得て企(くわだ)つべしと言わんや。
 世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍(おろか)なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢(よわい)人生の六分(ろくぶ)に達し、今にして過ぎ来(こ)し方(かた)を顧(かえり)みれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮(おもんばか)りし事として誤謬(ごびゅう)ならぬはなきぞかし。羞悪(しゅうお)懺悔(ざんげ)、次ぐに苦悶(くもん)懊悩(おうのう)を以(もっ)てす、妾(しょう)が、回顧を充(み)たすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也(なり)。
 懺悔の苦悶、これを愈(いや)すの道はただ己(おの)れを改むるより他(た)にはあらじ。されど如何(いか)にしてかその己れを改むべきか、これ将(は)た一(いつ)の苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎(あやにく)に他の苦悶来り、妾(しょう)や今実に苦悶の合囲(ごうい)の内にあるなり。されば、この書を著(あらわ)すは、素(もと)よりこの苦悶を忘れんとての業(わざ)には非(あら)ず、否(いな)筆を執(と)るその事もなかなか苦悶の種(たね)たるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥※(二の字点、1-2-22)(いよいよ)勝(まさ)るのみ。
 苦悶(くもん)はいよいよ勝るのみ、されど、妾(しょう)強(あなが)ちにこれを忘れんことを願わず、否(いな)昔懐(なつ)かしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増(いやま)すなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
 顧(おも)えば女性の身の自(みずか)ら揣(はか)らず、年少(わか)くして民権自由の声に狂(きょう)し、行途(こうと)の蹉跌(さてつ)再三再四、漸(ようや)く後(のち)の半生(はんせい)を家庭に托(たく)するを得たりしかど、一家の計(はかりごと)いまだ成らざるに、身は早く寡(か)となりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透(とお)るばかりなり。もし妾のために同情の一掬(いっきく)を注(そそ)がるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
 妾(しょう)が過ぎ来(こ)し方(かた)は蹉跌(さてつ)の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦(たたか)えり、蹉跌のためにかつて一度(ひとたび)も怯(ひる)みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐(なつ)かしくは思うなれ。
 妾の懺悔(ざんげ)、懺悔の苦悶これを愈(いや)すの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己(おの)れとの罪悪と戦うにあり。
 先に政権の独占を憤(いきどお)れる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心(せきしん)資本の独占に抗して、不幸なる貧者(ひんしゃ)の救済に傾(かたむ)けるなり。妾が烏滸(おこ)の譏(そし)りを忘れて、敢(あ)えて半生の経歴を極(きわ)めて率直に少しく隠す所なく叙(じょ)せんとするは、強(あなが)ちに罪滅ぼしの懺悔(ざんげ)に代(か)えんとには非(あら)ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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 妾(しょう)は八、九歳の時、屋敷内(やしきうち)にて怜悧(れいり)なる娘と誉(ほ)めそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨(のぞ)める試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心私(ひそ)かに郷党(きょうとう)に誇りたりき。
 十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍(かたわ)ら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌(しの)がんばかりの隆盛を致せり。
 学校に通う途中、妾は常に蛮貊(わんぱく)小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵(ののし)られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時妾(しょう)は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪(ばづ)を鼈甲(べっこう)に似たらしめたるにて、現今の護謨(ゴム)を象牙(ぞうげ)に擬(ぎ)せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何(いか)ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居(ききょ)振舞(ふるまい)のお転婆(てんば)なりしは言うまでもなく、修業中は髪を結(ゆ)う暇(いとま)だに惜(お)しき心地(ここち)せられて、一向(ひたぶる)に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪(き)りて前部を左右に分け、衣服まで悉(ことごと)く男生(だんせい)の如くに装(よそお)い、加(しか)も学校へは女生と伴(ともの)うて通いにき。近所の小供(こども)らのこれを観(み)て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐(おも)うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心(よごころ)の付き初(そ)めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪(そくはつ)の仲間入りはしたりける。


 十七歳の時は妾(しょう)に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客(ろんかく)多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄(はいしくめお)氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯(たわむ)れに物せし大津絵(おおつえ)ぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前(びぜん)岡山を始めとし、数多(あまた)の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣(たびごろも)、親や妻子(つまこ)を振り捨てて。(詩入(しいり))「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞(かすみ)もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
 尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂(きょう)せる時なりければ、妾(しょう)の月琴(げっきん)に和してこれを唄(うた)うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花(いけばな)、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動(ふるま)いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和(やわ)らぐるに若(し)かずとて、八雲琴(やくもごと)、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜(よ)に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。


 十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適(かな)わずとて、謝絶しければ、父母も困(こう)じ果てて、ある日妾(しょう)に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂(う)き目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身(おんみ)とて何時(いつ)までか父母の家に留(とど)まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切(せ)めたる御言葉(おんことば)なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵(おんめぐ)みによりてもはや自活の道を得たれば、仮令(たとい)今よりこの家を逐(お)わるるとも、糊口(ここう)に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永(なが)く膝下(しっか)に侍(じ)せしめ給え、学校より得る収入は悉(ことごと)く食費として捧(ささ)げ参(まい)らせ聊(いささ)か困厄(こんやく)の万一を補わんと、心より申し出(い)でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止(さたや)みとなりにき。
 ああ世にはかくの如く、父兄に威圧(いあつ)せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何(いか)でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻(きざ)み付けられたる願いなりける。
 結婚沙汰(ざた)の止(や)みてより、妾は一層学芸に心を籠(こ)め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇到(こんとう)に教授しければ、さらぬだに祖先より代々(よよ)教導を以て任とし来(きた)れるわが家(いえ)の名は、忽(たちま)ち近郷(きんごう)にまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点(しょうてん)となりぬ。依(よ)りてある寺を借り受けて教場を開き、夜(よ)は更に昼間就学の暇(いとま)なき婦女、貧家(ひんか)の子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀(はか)り、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。



 その歳(とし)有名なる岸田俊子(きしだとしこ)女史(故中島信行氏夫人)漫遊し来(きた)りて、三日間わが郷(きょう)に演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立錐(りっすい)の地だも余(あま)さざりき。実(げ)にや女史がその流暢(りゅうちょう)の弁舌もて、滔々(とうとう)女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾(しょう)も奮慨おく能(あた)わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議(はか)りて、女子懇親会を組織し、諸国に率先(そっせん)して、婦人の団結を謀(はか)り、しばしば志士論客(ろんかく)を請(しょう)じては天賦(てんぷ)人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習(ろうしゅう)を破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴(おもむ)きぬ。


 同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来(きた)りければ、元老女史竹内、津下(つげ)の両女史と謀(はか)りてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛(うか)ぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音(おん)水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人(いちにん)、甲板(かんぱん)の上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜烈(りんれつ)人をして慄然(りつぜん)たらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際(きわ)ならんに、水上これ無政府の心易(やす)さは何人(なんびと)の妨害もなくて、興(きょう)に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。図(はか)らざりきこの船遊びを胡乱(うろん)に思い、恐るべき警官が、水に潜(ひそ)みてその挙動を伺(うかが)い居たらんとは。船中の人々は今を興闌(たけなわ)の時なりければ、河童(かっぱ)を殺せ、なぐり殺せと犇(ひし)めき合い、荒立ちしが、長者(ちょうじゃ)の言(げん)に従いて、皆々穏(おだ)やかに解散し、大事(だいじ)に至らざりしこそ幸いなれ。されど妾(しょう)の学校はその翌日、時の県令高崎(たかさき)某より、「詮議(せんぎ)の次第(しだい)有之(これあり)停止(ていし)候事(そうろうこと)」、との命を蒙(こうむ)りたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故(なにゆえ)か答えなければ、妾の姉婿(しせい)某が県会議員常置委員たりしに頼(よ)りてその故を尋(たず)ねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責(けんせき)を加えられ、暫(しばら)く謹慎(きんしん)を表する身の上とはなりぬ。
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 政府が人権を蹂躙(じゅうりん)し、抑圧を逞(たくま)しうして憚(はばか)らざるはこれにても明(あき)らけし。さては、平常先輩の説く処、洵(まこと)にその所以(ゆえ)ありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処(いずく)にかあらん、この身は女子なれども、如何(いか)でこの弊制(へいせい)悪法を除かずして止(や)むべきやと、妾(しょう)は怒りに怒り、※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)(はや)りに※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)りて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出(い)でて有志の士に謀(はか)らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距(さ)る三里ばかりなる親友山田小竹女(やまだこたけじょ)の許(もと)より、明日(みょうにち)村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切(せつ)なる招待の状来(きた)れり。そのまま東都に奔(はし)らんにいと序(つい)でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘(いざな)いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣(もう)で、暫(しばら)く黙祷(もくとう)して妾が志(こころざし)を祖先に告げぬ。初秋(はつあき)のいと爽(さわ)やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背(そむ)き、恩愛厚き父母の膝下(しっか)を離れんとする苦しさは、偲(しの)ぶとすれど胸に余りて、外貌(おもて)にや表われけん、帰るさの途上(みちみち)も、母上は妾の挙動を怪(あや)しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許(おんゆる)しこそなけれ母は御身(おんみ)を片田舎の埋木(うもれぎ)となすを惜しむ者、如何で折角(せっかく)の志を沮(はば)むべき、安(やす)んじて仔細(しさい)を語れよと、さりとは慈愛深き御仰(おんおお)せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容(おんゆるし)なきを知ればなり。かくて先(ま)ず志士(しし)仁人(じんじん)に謀りて学資の輔助(ほじょ)を乞い、しかる上にて遊学の途(と)に上(のぼ)らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和(やまと)の豪農土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃(ひそ)かに出立(しゅったつ)の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯(いたがきはく)を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪(げはん)し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸(いっ)すべからずとて、遂(つい)に母上までも欺(あざむ)き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕(つくろ)いて、一週間ばかりの暇(いとま)を乞い、翌日家の軒端(のきば)を立ち出(い)でぬ。実に明治十七年の初秋(はつあき)なりき。


 友人の家に著(つ)くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼(かね)ての決心なり、明くれば友人の懇(ねんご)ろに引き止むるをも聴かず、暇乞(いとまご)いして大阪に向かいぬ。しかるに妾(しょう)と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻(しき)りに妾の生地を尋ねつつ此方(こなた)の顔のみ注視する体(てい)なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非(あら)ざる乎(か)と、一旦(いったん)は少なからず危(あや)ぶめるものから、もと妾の郷(きょう)を出づるは不束(ふつつか)ながら日頃の志望を遂(と)げんとてなり、かの墻(かき)を越えて奔(はし)るなどの猥(みだ)りがましき類ならねば、将(は)た何をか包み秘(かく)さんとて、頓(やが)て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩(も)らしけるに、さらばその親戚は誰(た)れ町名番地は如何(いか)になど、執拗(しゅう)ねく問わるることの蒼蝿(うるさ)くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎(か)、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇(そうこう)起(た)って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾(しょう)の何人(なんびと)なるかを問い究(きわ)むる暇もなく、その人に牽(ひか)れて来り見れば、何ぞ図(はか)らん従妹(じゅうまい)の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体(てい)にて、何故(なにゆえ)の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳(たた)みかけて問い出でぬ。固(もと)より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺(あざむ)ける答えなりしが、果ては質問の箭(や)の堪えがたなく、最(い)とど苦しき胸を押さえ額(ひたい)を擦(さす)りて、眩暈(めまい)に托言(ことよ)せ、委(くわ)しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸(ようよ)う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓(よろこ)び迎え、しかも妾の新来を訝(いぶか)しうも思えるなるべし。その夕(ゆうべ)妾は遂(つい)に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻(さい)は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力(じんりょく)せんと誓いぬ。
 その翌日直ちに土倉氏を銀水楼(ぎんすいろう)に訪れけるに、氏はいまだ出阪(しゅっぱん)しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様(せんよう)もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所(ぐうしょ)に訪れしに、葉石氏は妾(しょう)が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇(ねんご)ろなる教訓を垂(た)れ給いき。されど妾の一念翻(ひるがえ)すべくもあらずと見てか、強(し)いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳(の)べよとあるに、妾は諾(うべな)いて遂に伯に謁(えっ)し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身(おんみ)が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家(ほうか)のため、人道のために勉(つと)めよとの御言葉(おんことば)なり。世にも有難(ありがた)くて感涙(かんるい)に咽(むせ)べるその日、図(はか)らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖(ふしょう)ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰(しょかん)にてありしかば、天にも昇る心地して従弟(いとこ)にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇(そうこう)土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳(の)べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向(ひたぶる)に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依(よ)りて学資をさえ給(きゅう)せらるるの幸福を無視するは勿体(もったい)なしとて、終(つい)に公然東上の希望を容(い)れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。


 それより数日(すじつ)を経て、板伯(はんはく)よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身(おんみ)と同伴の事を頼み置きたり、直(す)ぐに来(こ)よ紹介せんとの事に、取り敢(あ)えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹(さとうていかん)氏にてありければ、妾(しょう)はいよいよ安心して、翌日神戸出帆(しゅっぱん)の船に同乗し、船の初旅も恙(つつが)なく将(は)た横浜よりの汽車の初旅も障(さわ)りなく東京に着(ちゃく)して、兼(か)ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈(じゆうのともしび)新聞』記者坂崎斌(さかざきさかん)氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地(つきじ)なる新栄(しんさかえ)女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍(かたわ)ら坂崎氏に就(つ)きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日(あるひ)朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端(はし)なくも妾の書窓(しょそう)を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外(ほか)に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱(ちじょく)を賭(と)して、偏(ひとえ)に一時の栄華を衒(てら)い、百年の患(うれ)いを遺(のこ)して、ただ一身の苟安(こうあん)を冀(こいねが)うに汲々(きゅうきゅう)たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔(はし)るの癖(くせ)ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂(つい)に巾幗(きんこく)の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民(だみん)の眠りを覚(さま)しくれでは已(や)むまじの心となりしこそ端(はし)たなき限りなりしか。


 ああかくの如くにして妾(しょう)は断然書を擲(なげう)つの不幸を来(きた)せるなりけり。当時妾の感情を洩(も)らせる一片(いっぺん)の文(ぶん)あり、素(もと)より狂者(きょうしゃ)の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左(さ)に抜萃(ばっすい)することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲(きょうごう)を憂うると共に、また昔時(せきじ)死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭(いと)えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵(いた)るまでも已(や)まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻(しき)りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸(ようや)くかの私欲私利に汲々(きゅうきゅう)たる帝国主義者の云為(うんい)を厭わしめぬ。
 ああ学識なくして、徒(いたずら)に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世(ゆうせい)愛国の女志士(じょしし)として、人も容(ゆる)されき、妾も許しき。姑(しば)らく女志士として語らしめよ。

   獄中(ごくちゅう)述懐(じゅっかい)(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来儂(のう)は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習(ろうしゅう)に慣れ、卑々屈々(ひひくつくつ)男子の奴隷(どれい)たるを甘(あま)んじ、天賦(てんぷ)自由の権利あるを知らず己(おの)れがために如何(いか)なる弊制悪法あるも恬(てん)として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣(きんい)玉食(ぎょくしょく)するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已(のみ)、豈(あに)事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家(ほうか)の休戚(きゅうせき)をや。いまだかつて念頭に懸(か)けざるは、滔々(とうとう)たる日本婦女皆これにして、あたかも度外物(どがいぶつ)の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一(いつ)も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏(ひとえ)に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂(のう)は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固(もと)より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競(きそ)いて国政に参し、決して国の危急を余所(よそ)に見るなく、己(おの)れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘(いざな)い、能(よ)く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切(せつ)なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌(えんき)し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告(ちゅうこく)し、早く立憲の政体を立て、人民をして政(まつりごと)に参せしめざる時は、憂国の余情溢(あふ)れて、如何(いか)なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風(はじとうふう)たる而已(のみ)ならず憂国の志士(しし)仁人(じんじん)が、誤って法網(ほうもう)に触(ふ)れしを、無情にも長く獄窓に坤吟(しんぎん)せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙(まいきょ)に遑(いとま)あらず。就中(なかんずく)儂の、最も感情を惹起(じゃっき)せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦(てんぷ)の三大自由権を剥奪(はくだつ)し、剰(あまつさ)え儂(のう)らの生来(せいらい)かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅(ほうちょく)云々(うんぬん)の語を付し、畏(おそ)れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩(おうのう)の余り、暫(しば)し数行(すこう)の血涙(けつるい)滾々(こんこん)たるを覚え、寒からざるに、肌(はだえ)に粟粒(ぞくりゅう)を覚ゆる事数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)なり。須臾(しゅゆ)にして、惟(おもえ)らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛(しゅうれん)の酷(こく)なるを怨(うら)み、如何(いかん)の感を惹起せん、恐るべくも、積怨(せきえん)の余情溢れて終(つい)に惨酷(ざんこく)比類なき仏国(ふっこく)革命の際の如く、あるいは露国虚無党(きょむとう)の謀図(ぼうと)する如き、惨憺悲愴(さんたんひそう)の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌(みほう)に削除(さくじょ)せざるを得ずと、即(すなわ)ち曩日(さき)に政府に向かって忠告したる所以(ゆえん)なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固(もと)より現当路者の旧蹟(きゅうせき)あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖(もと)り、剰(あまつさ)え日清談判の如く、国辱(こくじょく)を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧(かえり)みるの遑(いとま)なし、我が国の危急を如何(いかん)せんと、益※(二の字点、1-2-22)政府の改良に熱心したる所以(ゆえん)なり。儂(のう)熟※(二の字点、1-2-22)(つらつら)考うるに、今や外交日に開け、表(おもて)に相親睦(あいしんぼく)するの状態なりといえども、腹中(ふくちゅう)各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)針を蓄(たくわ)え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強(しきょう)の欲を逞(たくま)しうし、頻(しき)りに東洋を蚕食(さんしょく)するの兆(ちょう)あり、しかして、内(うち)我が国外交の状態につき、近く儂(のう)の感ずる処を拳(あ)ぐれば、曩日(さき)に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之(しかのみならず)、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明(あき)らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私(ひそ)かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙(けつるい)淋漓(りんり)、鉄腸(てっちょう)寸断(すんだん)、石心(せきしん)分裂(ぶんれつ)の思い、愛国の情、転(うた)た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎(か)、ああこの国辱を雪(そそ)がんと欲するの烈士、三千七百万中一人(いちにん)も非ざる乎、条約改正なき、また宜(むべ)なる哉(かな)と、内を思い、外(ほか)を想うて、悲哀転輾(てんてん)、懊悩(おうのう)に堪(た)えず。ああ如何(いかん)して可ならん、仮令(たとい)女子たりといえども、固(もと)より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独(ひと)り愁然(しゅうぜん)、苦悶に沈みたりき。何(なん)となれば、他に謀(はか)るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫(しばら)く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂(のう)は修業中なるを以て、小林の寓所(ぐうしょ)を訪(と)う事も甚(はなは)だ稀(まれ)なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲(なげう)ちたり。また小林は予(かね)ての持論に、仮令(たとい)如何(いか)に親密なる間柄(あいだがら)たるも、決して、人の意を枉(ま)げしめて、己(おの)れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔(まんこう)の思想を、陳述する者なりと、何事においても、総(すべ)てかくの如くなりし。しかるに、忽(たちま)ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂(のう)は曩日(さき)に述べし如く、我が国の安危(あんき)旦夕(たんせき)に迫れり、豈(あに)読書の時ならんやと、奮然書を擲(なげう)ち、先ず小林の処に至り、この際如何(いかん)の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言(げん)を尽して、数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸(ようや)く、今回事件の計画中、その端緒(たんちょ)を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志(そし)を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已(のみ)との言に儂(のう)は大いに感奮する所あり、如何(いか)にもして、幾分の金(きん)を調(ととの)え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯(ふじゅつい)会社を設立するを名とし、相模(さがみ)地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充(あ)つる能(あた)わず、ただ有志士(ゆうしし)の奔走費(ほんそうひ)位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨(さいしんふんこつ)すといえども、悲しい哉(かな)、処女の身、如何(いかん)ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂(のう)の如きは、金員(きんいん)を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難(かた)しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀(はか)れり。しかる処、偶※(二の字点、1-2-22)(たまたま)日清も平和に談判調(ととの)いたりとの報あり。この報たる実に儂(のう)らのために頗(すこぶ)る凶報なるを以て、やや失望すといえども、何(なん)ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来(きた)すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨(きか)なるなからん乎(か)、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択(えら)び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如(し)かずと、ここにおいて檄文(げきぶん)を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力(ごうりょく)して、辮髪奴(べんぱつど)を国外に放逐(ほうちく)し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日(さき)に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱(はずかし)めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已(のみ)ならず、一(いつ)は以て内(うち)政府(せいふ)を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速(すみ)やかにこの挙あらん事を渇望(かつぼう)し、かつ種々心胆を砕(くだ)くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能(あた)わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫(しばら)くして、大井は中途にして帰京し、小林独(ひと)り止(とど)まりしが、漸(ようや)くその尽力により、金額成就(じょうじゅ)せしを以て、いよいよ磯山(いそやま)らは渡行の事に決定し、その発足前(ほつそくぜん)に当り、磯山儂(のう)に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間(ひしかん)の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾(だく)す。もっとも儂は、曩日(さき)に東京を出立(しゅったつ)するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図(きと)したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥※(二の字点、1-2-22)(いよいよ)出立というその前日逃奔(とうほん)し、更にその潜所(せんしょ)を知る能(あた)わず。故(ゆえ)を以て已(や)むなく新井(あらい)代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂(のう)に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂(ぶんべい)し、新井と共に渡航の途(と)に就き、崎陽(きよう)に至り、仁川行(じんせんこう)の出帆(しゅっぱん)を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜(ふんぬん)を生じ、渡航を拒(こば)むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮(おもんばか)りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂(のう)は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺(うかが)うに、堂々たる男子にして、私情を挟(さしはさ)み、公事を抛(なげう)たんとするの意あり、しかして君(きみ)の代任(だいにん)を忌(い)むの風(ふう)あり、誠に邦家(ほうか)のために歎(たん)ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止(とど)まる方(かた)好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎(か)、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数(たにんず)を要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟(ひっきょう)一身を抛擲(ほうてき)して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂(のう)この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事(ないじ)は総(すべ)て大井、小林の任ずる所なれば、敢(あ)えて関せず、我は啻(ただ)その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全(まっと)うする者と、暫(しば)し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行(こう)決死せざれば、到底充分平常(へいぜい)希望する処の目的を達する能(あた)わず。かつ儂今回の同行、偏(ひとえ)に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂(のう)今仮令(たとい)異国の鬼となるも、事(こと)幸いに成就(じょうじゅ)せば、儂(のう)平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如(し)かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身(み)腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令(たとい)身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲(ゆず)らんや。かつ惟(おもえ)らく、儂(のう)は固(もと)より無智無識なり、しかるに今回の行(こう)は、実に大任にして、内は政府の改良を図(はか)るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲(ほうてき)するの栄を受く、ああ何ぞ万死(ばんし)を惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽(きよう)において、小林に贈るの書中にも、仮令(たとい)国土を異(こと)にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近(ばんきん)東洋に、自由の新境域を勃興(ぼっこう)せんと、暗(あん)に永別の書を贈りし所以(ゆえん)なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子(しんし)を棄(す)てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈(あに)公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他(た)なし、啻(ただ)愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能(あた)わず。空(むな)しく獄裏(ごくり)に呻吟(しんぎん)するの不幸に遭遇し、国の安危を余所(よそ)に見る悲しさを、儂固(もと)より愛国の丹心(たんしん)万死を軽(かろ)んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨(うら)むの意なしといえども、啻(ただ)国恩に報酬(ほうしゅう)する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転(うた)た潸然(さんぜん)たるのみ。ああいずれの日か儂(のう)が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広沢鉄郎(ひろさわてつろう) 印

 かく冗長(じょうちょう)なる述懐書を獄吏(ごくり)に呈して、廻らぬ筆に仕(し)たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔(はし)る青春の人々は、くれぐれも妾(しょう)に観(み)て、警(いまし)むる所あれかし、と願うもまた端(はし)たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪(なみ)に弄(あそ)ばれて、深く深く不遇の淵底(えんてい)に沈み、果ては運命の測(はか)るべからざる恨(うら)みに泣きて、煩悶(はんもん)遂(つい)に死の安慰を得べく覚悟したりしその後(のち)の妾に比して、人格の上の差異如何(いか)ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙(なんだ)の禁(とど)めがたきを奈何(いかに)せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲(なげう)たんとしたりしは、一(いつ)は名誉の念に駆(か)られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作(せっさく)あり、
愛国(あいこくの)丹心(たんしん)万死(ばんし)軽(かろし)   剣華(けんか)弾雨(だんう)亦(また)何(なんぞ)驚(おどろかん)
誰(たれか)言(いう)巾幗(きんこく)不成事(ことをなさずと)   曾(かつて)記(きす)神功(じんごう)赫々(かくかくの)名(な)


 これより先妾(しょう)は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍(かたわ)ら、何(なに)とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟(とみいおと)女史と謀(はか)りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途(みち)つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬(そご)して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇(あ)えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。


 富井於菟女史は播州(ばんしゅう)竜野(たつの)の人、醤油(しょうゆ)屋に生れ、一人(いちにん)の兄と一人(いちにん)の妹とあり。幼(おさなき)より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精(たんせい)して同所の中学校に入れ、やがて業を卒(お)えて後(のち)、その地の碩儒(せきじゅ)に就きて漢学を修め、また岸田俊子(きしだとしこ)女史の名を聞きて、一度(ひとたび)その家の学婢(がくひ)たりしかど、同女史より漢学の益を受くる能(あた)わざるを知ると共に、女史が中島信行(なかじまのぶゆき)氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時(ざんじ)にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入(えいり)自由燈(じゆうのともしび)新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟(おと)女史を以て嚆矢(こうし)とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉(つと)めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂(つい)に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万(よろず)秘密を厭(いと)い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益(ますます)急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何(いか)で空(むな)しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨(なげ)き、心私(ひそ)かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興(おこ)さんとて、坂崎氏には一片(いっぺん)の謝状を遺(のこ)して、妾と共に神奈川地方に奔(はし)りぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野(おぎの)町に着(ちゃく)し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金(きょきん)して重井(おもい)(変名)、葉石(はいし)等志士の運動を助けんと企(くわだ)てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干(じゃっかん)を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途(と)に就きぬ、旅費は両人の衣類を典(てん)して調(ととの)えしなりけり。


 女史と相別れし後(のち)、妾(しょう)は土倉(どくら)氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤(きせん)なし、均(ひと)しく皆神聖なり、身には襤褸(らんる)を纏(まと)うとも心に錦(にしき)の美を飾りつつ、姑(しば)らく自活の道を立て、やがて霹靂(へきれき)一声(いっせい)、世を轟(とどろ)かす事業を遂(と)げて見せばやと、ある時は髪結(かみゆい)となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都(みやこ)に知る人なき心易(やす)さは、なかなかに自活の業(わざ)の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩(わずら)いつつ、居(い)て待たんよりは、むしろ行きて見るに若(し)かずと、これを葉石氏に議(はか)りしに、心変りならば行くも詮(せん)なし、さなくばおるも消息のなからんやという。実(げ)にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認(したた)めたる一封の書は来(きた)りぬ。見れば怨(うら)めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶(とりもちおけ)に陥(おちい)りたり今日(こんにち)はもはや曩日(さき)の富井(とみい)にあらず妹(まい)は一死以て君(きみ)に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能(よ)く尽す処にあらずただただ二階の一隅に推(お)しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺(なが)め悲哀に胸を焦(こが)すのみ余は記する能(あた)わず幸いに諒(りょう)せよ」とあり。言(こと)は簡なれども、事情の大方は推(すい)せられつ。さて何とか救済の道もがなと千々(ちぢ)に心を砕(くだ)きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕(した)い来りける門弟のありしを対手(あいて)として日々髪結洗濯の業(わざ)をいそしみ、僅(わず)かに糊口(ここう)を凌(しの)ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。


 しかるにその年の九月初旬妾(しょう)が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明(あさまだき)に二階下より妾を呼びて、景山(かげやま)さん景山さんといと慌(あわ)ただし。暁(あかつき)の夢のいまだ覚(さ)めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現(うつつ)の中に問い反(かえ)せしに、女のお客さんがありますという。何(なん)という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有(おっしゃ)いますと答う。なに富井さん! 妾は床(とこ)を蹶(け)りて飛び起きたるなり。階段を奔(はし)り下(お)りるも夢心地(ゆめごこち)なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱(いだ)きつき、暫(しば)しは無言の涙なりき。懐(なつ)かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦(あつくる)しき空を、汗臭(あせくさ)く無下(むげ)に汚(よご)れたる浴衣(ゆかた)を着して、妙齢の処女のさすがに人目羞(はず)かしげなる風情(ふぜい)にて、茫然(ぼうぜん)と庭に佇(たたず)めるなりけり。さてあるべきに非(あら)ざれば、二階に扶(たす)け上(あ)げて先ず無事を祝し、別れし後(のち)の事ども何くれと尋(たず)ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身(おんみ)に別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹(けいまい)の恙(つつが)なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最(い)と感じ入りたる体(てい)にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂(つい)に調金の事を申し出でしに、図(はか)らざりき感嘆の体と見えしは妾(しょう)の胆太(きもふと)さを呆(あき)れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐(しず)かに沈みたる底(そこ)気味わるき調子もて、かかる大(だい)それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌(みほう)に防(ふせ)がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣(や)る瀬(せ)なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯(ひきょう)にも警察[#「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士を傷(きず)つけんとは、何たる怖ろしき人非人(にんぴにん)ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已(のみ)と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与(くみ)せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭(おんさとし)によりて悔悟(かいご)したれ、以後は仰(おお)せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉(と)じ籠(こ)めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優(まさ)りて、御身(おんみ)のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸(ようよ)う妹を賺(すか)して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委(くわ)しき有様を書き記(しる)すべき暇(ひま)もなかりき。定めて心変りよと爪弾(つまはじ)きせらるるならんと口惜(くちお)しさ悲しさに胸は張り裂(さ)くる思いにて、夜(よ)もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐(おもむ)ろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔(しゅっぽん)の期を得たるなり。そは両三日前妹が中元(ちゅうげん)の祝いにと、他(た)より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費(ろひ)として、夜半(やはん)寝巻のままに家を脱(ぬ)け出(い)で、これより耶蘇(ヤソ)教に身を委(ゆだ)ね神に事(つか)えて妾(しょう)が志を貫(つらぬ)かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背(そむ)くの不義を咎(とが)むることなく長く交誼(こうぎ)を許してよという。その情義の篤(あつ)き志を知りては、妾も如何(いか)で感泣(かんきゅう)の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬(てん)として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地(ここち)ぞや。妾が敬慕(けいぼ)の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊(おんなりょうざんぱく)を以て任ずる妾の寓所にて種々(いろいろ)と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨(のぞ)みてお互いに尽す道は異(こと)なれども、必ず初志を貫(つらぬ)きて早晩自由の新天地に握手せんと言い交(か)わし、またの会合を約してさらばとばかり袂(たもと)を分(わか)ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由(よし)なかりき。
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 ある日同志なる石塚重平(いしづかじゅうへい)氏来(きた)り、渡韓の準備整(ととの)いたれば、御身(おんみ)をも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固(もと)より信ずる所に捧(ささ)げたる身の如何(いか)でかは躊躇(ためら)うべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子(なかだみつこ)は、妾(しょう)の常ならぬ挙動を察してその仔細(しさい)を知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍(わざわい)を及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托(たく)して彼に勉学を勧(すす)めさせ、また於菟(おと)女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事(こうじ)を托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途(と)に上(のぼ)りけるは、明治十八年の十月なり。


 同伴者は新井章吾(あらいしょうご)、稲垣示(いながきしめす)の両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤毛布(あかげっと)にくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風(ふう)を装(よそお)えるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃(すなわ)ち妾(しょう)をして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉皆(しっかい)を磯山の手より受け取り、支那鞄(しなかばん)に入れて普通の手荷物の如くに装い、始終傍(かたわ)らに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝(うたたね)の夢を貪(むさぼ)りたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎(あんどうきゅうじろう)氏の宅にて同志の人を呼び窃(ひそ)かに包み替えんとするほどに、金硫黄(きんいおう)という薬の少し湿(しめ)りたるを発見せしかば、鑵(かん)より取り出して、暫(しば)し乾(ほ)さんとせしに、空気に触(ふ)るるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉(さす)がは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬舗(やくほ)を営み居たる甲斐(かい)ありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何(いか)に盲目(めくら)蛇(へび)物に怖(お)じずとはいいながら、かかる危険極(きわ)まれる薬品を枕にして能(よ)くも安々と睡(ねむ)り得しことよと、身の毛を逆竪(さかだ)つばかりなり。殊(こと)に神戸(こうべ)停車場(ステーション)にて、この鞄(かばん)を秤(はかり)にかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何(いか)なる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体(てい)にて、田舎への土産(みやげ)にとて、小供の玩具(おもちゃ)を入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈(はげ)しかりしため、かく壊(こわ)されしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯(うなず)きて、強(し)いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗(ひやあせ)の背を湿(うる)おすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々(よよ)薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検疫官(けんえきかん)として頗(すこぶ)る精励(せいれい)の聞えあるよし。先年板垣伯(いたがきはく)の内務大臣たりし時、多年国事に奔走(ほんそう)せし功を愛(め)でられてか内務省の高等官となり、爾来(じらい)内閣の幾変遷(いくへんせん)を経(へ)つつも、専門技術の素養ある甲斐(かい)には、他の無能の豪傑(ごうけつ)連とその撰(せん)を異(こと)にし、当局者のために頗(すこぶ)る調法がられおるとなん。


 大阪なる安藤氏の宅に寓居(ぐうきょ)すること数日(すじつ)にして、妾(しょう)は八軒屋という船付(ふなつ)きの宿屋に居(きょ)を移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日(あるひ)磯山(いそやま)より葉石(はいし)の来阪(らいはん)を報じ来(きた)り急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝(いぶか)りつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴(しゅえん)の半(なか)ばにて、酌(しゃく)に侍(じ)せる妓(ひと)のいと艶(なま)めかしうそうどき立ちたり。かかる会合(まどい)に加わりし事なき身(み)の如何(いか)にしてよからんかとただ恐縮の外(ほか)はなかりき。さるにても、同志は如何様(いかよう)の余裕ありて、かくは豪奢(ごうしゃ)を尽すにかあらん、ここぞ詰問(きつもん)の試みどころと、葉石氏に向かい今日(こんにち)の宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測(ほか)れるには似もやらず、痴呆(たわけ)の振舞、目にするだに汚(けが)らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通(ゆうかくがよ)いの外(ほか)に余念なきこそ道理なれ、さりとては歎(なげ)かわしさの極(きわ)みなるかな。かかる席に列(つら)なりては、口利(くちき)くだに慚(は)ずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵(ののし)り、やおら畳(たたみ)を蹶立(けた)てて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如何(いかが)あらんとて、磯山が好奇(ものずき)にも特(こと)に妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外(ほか)なりしかば、同志はいうも更(さら)なり、絃妓(げんぎ)らまでも、衷心(ちゅうしん)大いに愧(は)ずる所あり、一座白(しら)け渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。


 それより数日(すじつ)にして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥(おい)なる田崎某(たざきぼう)妾に向かいて、ある遊廓に潜(ひそ)めるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合(まちあい)の女将(おかみ)出(い)で来りて、あらずと弁ず。好(よ)し他(た)の人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱(ここう)の者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿(かく)れざるべしと重(かさ)ねて述べしに、女将首肯(うなず)きて、「それは誠にすみまへんが、何誰(どなた)がおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女(おなご)はんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓(あいぎ)八重(やえ)と差し向かえる魔室に導(みちび)きぬ。彼は素(もと)より女将(おかみ)に厳命せし事のかくも容易(たや)すく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、図(はか)らずも妾の顔の顕(あら)われしを見ては、如何(いか)で慌(あわ)てふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺(すか)して新井、葉石に面会せしむるには如(し)かずとて、種々(いろいろ)と言辞(ことば)を設け、ようよう魔室より誘(さそ)い出して腕車(くるま)に載(の)せ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋(たず)ね、その人をも伴(ともな)わんという。詐(いつわ)りとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯(ひきょう)の男もあるものかな、彼はそのまま奔竄(ほんざん)して、遂(つい)に行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功(たいこう)は細瑾(さいきん)を顧みずちょう豪語を楯(たて)となせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠(かす)めんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺(あざむ)きつつ、強(し)いて工面(くめん)せる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費(しひ)して淫楽(いんらく)に耽(ふけ)り、公道正義を無視(なみ)して、一遊妓の甘心(かんしん)を買う、何たる烏滸(おこ)の白徒(しれもの)ぞ。宜(むべ)なる哉(かな)、縲絏(るいせつ)の辱(はずかし)めを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥(ひんせき)せられ、牢獄の役員にも嗤笑(ししょう)せられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。


 かくて磯山は奔竄(ほんざん)しぬ、同志の軍用金は攫(さら)われたり。差し当りて其処此処(そこここ)に宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何(いか)にせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳(ぐちん)せしめ、ひたすらに重井(おもい)の来阪(らいはん)を促(うなが)しけるに、頓(やが)て来りて善後策を整(ととの)え、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して埋(う)め合せ、辛(かろ)うじて無銭宿泊の難を免(まぬが)れたれども、さて今後幾日を経(へ)ば調金の見込み立つべきや否や、将(は)た如何(いか)にしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾(しょう)の発意(ほつい)にて山本憲(やまもとけん)氏に議(はか)り、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾(ばいせいしょじゅく)の分室と称しぬ。それより妾は俄(にわか)に世話女房気取りとなり、一人(いちにん)の同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊(じすい)に慣れし壮士をして、代る代る炊事を執(と)らしめ、表面は読書に余念なきが如くに装(よそお)わせつつ、同志窃(ひそ)かに此処(ここ)に集(つど)いては第二の計画を建て、磯山逃奔(とうほん)すとも争(いか)で志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調(ととの)えて出立の準備をなすに如(し)かずと、日夜肝胆(かんたん)を砕(くだ)くこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭(けんえん)の状あるを察しければ、ある時は珍しき肴(さかな)を携(たずさ)えて、彼らを訪(と)い、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味(あじ)わい、あるいは味噌漉(みそこし)を提(さ)げて豆腐(とうふ)屋に通(かよ)い、またある時は米屋の借金のいい訳(わけ)は婦人に限るなど、唆(そその)かされて詫(わ)びに行き、存外口籠(くちごも)りて赤面したる事もあり。凡(およ)そ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾(ばいせいしょじゅく)の書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力与(あずか)りて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能(よ)くその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦(きゅうく)の何物たるを知らざらしめば、十九(つづ)や二十歳(はたち)の身の、如何(いか)でかかる細事(さいじ)に心留むべきぞ、幸いにして貧窶(ひんる)の中(うち)に成長(ひととな)り、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟(とっさ)の間(かん)には出でたるなれ。己れ炊事を親(みずか)らするの覚悟なくば彼(か)の豪壮なる壮士の輩(はい)のいかで賤業(せんぎょう)を諾(うべな)わん、私利私欲を棄(す)ててこそ、鬼神(きしん)をも服従せしむべきなりけれ。妾(しょう)をして常にこの心を失わざらしめば、不束(ふつつか)ながらも大きなる過失は、なかりしならんに、志(こころざし)薄く行い弱くして、竜頭蛇尾(りゅうとうだび)に終りたること、わが身ながら腑甲斐(ふがい)なくて、口惜(くちお)しさの限り知られず。


 右の如き、窮厄(きゅうやく)におりながら、いわゆる喉元(のどもと)過ぎて、熱さを忘るるの慣(なら)い、憂(う)たてや血気の壮士は言うも更(さら)なり、重井(おもい)、葉石(はいし)、新井(あらい)、稲垣(いながき)の諸氏までも、この艱難(かんなん)を余所(よそ)にして金が調(ととの)えりといいては青楼(せいろう)に登り絃妓(げんぎ)を擁(よう)しぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端座(たんざ)し、過去を思い、現在を慮(おもんばか)りて、深き憂いに沈み、婦女の身の最(い)とど果敢(はか)なきを感じて、つまらぬ愚痴(ぐち)に同志を恨(うら)むの念も起りたりしが、復(ま)た思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには非(あら)ず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫折(ざせつ)すべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても遣(や)る瀬(せ)なき思いに悶(もだ)えて、ある時詠(よ)み出でし腰折(こしおれ)一首(いっしゅ)
かくまでに濁(にご)るもうしや飛鳥川(あすかがわ)
     そも源(みなもと)をただせ汲(く)む人


 愁(うれ)いの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障子(しょうじ)を打ち開き、階下に集(つど)える塵取船(ちりとりぶね)を眺(なが)めたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、頻(しき)りに塵(ちり)の中より紙屑(かみくず)を拾い出し、これをば籠(かご)に入れ居たり。背なる小供は母の背に屈(かが)まりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒息(ちっそく)せんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ体(てい)にて、なお余念なく漁(あさ)り尽し、果ては魚(うお)の腹腸(はらわた)、鳥の臓腑様(ぞうふよう)の物など拾い取りてこれを洗い、また料理する様(さま)のいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には優(まさ)るべし、思えば気の毒の母よ子よと惻隠(そくいん)の心禁(とど)めがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重錘(おもり)をつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より降(ふ)り来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた暫(しば)し躊躇(ためら)いたり。妾は重(かさ)ねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安堵(あんど)したるらしく、幾度(いくたび)か押し戴(いただ)くさまの見るに堪えず、障子をしめて中(うち)に入り、暫(しばら)くして外出せんとしたるに、宿の主婦は訝(いぶか)りつつ、「あんたはんじゃおまへんか先刻(さっき)女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は首肯(うなず)きたるに、「いんまさき小供を負(お)ぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御散財(ごさんざい)でおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清々(すかすが)しさを感ぜしものから、譬(たと)えば眼(まなこ)を過ぐる雲煙(うんえん)の、再び思いも浮べざりしに、図(はか)らずも他日(たじつ)この女乞食と、思い儲(もう)けぬ処に邂逅(であ)いて、小説らしき一場(いちじょう)の物語とは成りたるよ。ついでなれば記(しる)し付くべし。


 その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に幽(ゆう)せらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝告者(でんこくしゃ)即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監倉(かんそう)を司(つかさど)ることとなりぬ。依(よ)りて初犯者をば改化遷善(せんぜん)の道に赴(おもむ)かしむるよう誘導の労を執(と)り、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と敬(うやま)われつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その間(あいだ)随分種々の罪人に遇(あ)いしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看板(かんばん)を附けおらざりせば、誰(たれ)かはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に大(だい)なる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大道(だいどう)を濶歩(かっぽ)する者も多かるに、大(だい)を遺(わす)れて小(しょう)を拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)なりき。穴賢(あなかしこ)、この感情は、一度(ひとたび)入獄の苦を嘗(な)めし人ならでは語るに足らず、語るも耳を掩(おお)わんのみ。かくて妾(しょう)は世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無頼(ぶらい)の婦女子と室を同じうし、起臥(きが)飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに睦(むつ)み合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑婆(しゃば)における学校教師と子弟との情は物かは、倶(とも)にこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、能(よ)く相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に自(おの)ずからの春ありて、靄然(あいぜん)たる和気(わき)の立ち籠(こ)めし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監倉(かんそう)の鍵(かぎ)を鳴らして来り、それ新入(しんにゅう)があるぞといいつつ、一人の垢染(あかじ)みたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何故(なにゆえ)とは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様(さま)の厳(いか)めしう、怖(おそ)ろしきに心怯(おび)えて、かつはこれよりの苦を偲(しの)び出でしにやあらんなど、大方(おおかた)に推(お)し測(はか)りて、心私(ひそ)かに同情の涙を湛(たた)えしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御覚(おんおぼ)えなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御顔(おんかお)も能(よ)く覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因縁(いんねん)にてか、再びかかる処にて御目(おんめ)にはかかりたるぞ、これも良人(おっと)や小供の引き合せにて私の罪を悔(く)いさせ、あなた様に先年の御礼(おんれい)を申し上げよとの事ならん。あなた様が憐(あわ)れみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡(ほうそう)にかかり、一週間前に世を去りぬ、今日(こんにち)はその一七日(ひとなのか)なれば線香なりと手向(たむ)けやらんと、その病(やまい)の伝染して顔もまだこの通りの様(さま)ながら紙屑(かみくず)拾いに出(い)でたるに、病後の身の遠くへは得(え)も行かれず、籠(かご)の物も殖(ふ)えざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束(おぼつか)なしと、悶(もだ)え苦しみつつふと見れば、人気(ひとけ)なき処に着物乾(ほ)したる家あり。背に腹は換(か)えられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、忽(たちま)ち覿面(てきめん)の天罰(てんばつ)受けて、かくも見苦しき有様となり、御目(おんめ)にかかりしことの恥かしさよと、生体(しょうたい)なきまで泣き沈み、御恵(おんめぐ)みに与(あずか)りし時は、病床(びょうしょう)にありし良人(おっと)へも委細を語りて、これも天の御加護(おかご)ならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も買(こ)うて遣(や)りぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の病(やまい)はなお重(おも)り行きて、敢(あ)えなき最期(さいご)、弱る心を励(はげ)まして、私は小供対手(あいて)にやはり紙屑拾いをばその日の業(わざ)となしたりしに、天道(てんどう)さまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、露(つゆ)いささか悪(あ)しき道には踏み込まざりし私(わたくし)母子(おやこ)に病を降(くだ)して、遂(つい)に最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ方(かた)ぞなど、果(はて)しもなき涙に掻(か)き暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、他(た)の囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人(おっと)や子供の菩提(ぼだい)を弔(とむら)い給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑婆(しゃば)に出でて再び餓(うえ)に泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお側(そば)にてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち歎(かこ)つなりき。
 実(げ)にや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は能(よ)く罪を罰するを知れり、乞い問う、罪を贖(あがな)い得たる者を救助するの法ありや、再び饑餓(きが)の前に晒(さら)して、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを保(ほ)し得るや。


 これより先、重井(おもい)らは、東京にての金策成就(じょうじゅ)し、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下阪(げはん)してそが準備を調(ととの)え、梅清処塾(ばいせいしょじゅく)にありし壮士は早や三々五々渡韓の途(と)に上(のぼ)りぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越中(えっちゅう)富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も図(はか)らずその席に招かれぬ。志士(しし)仁人(じんじん)もまたかかる醜態を演じて、しかも交誼(こうぎ)を厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる能(あた)わず、前途近からざるの事業を控えて、嚢底(のうてい)多からざるの資金を濫費(らんぴ)す、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の淵(ふち)に立たしめんとはしたり。出立の日重井(おもい)の発言によりて大鯰(おおなまず)の料理を命じ、私(ひそ)かに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に搭(とう)ぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬関(ばかん)に着きしに、当時大阪に流行病あり、漸(ようや)く蔓延(まんえん)の兆(ちょう)ありしかば、ここにも検疫(けんえき)の事行われ、一行の着物は愚(おろ)か荷物も所持の品々も悉(ことごと)く消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫黄(いおう)にて燻(くす)べるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに装(よそお)いたれば、他(た)の雑沓(ざっとう)に紛(まぎ)れて咄嗟(とっさ)の間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、否(いな)拙者(せっしゃ)の所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、潔(いさぎよ)く縛(ばく)に就(つ)かんのみ、構(かま)えて同伴者たることを看破(かんぱ)せらるる勿(なか)れと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も否(いな)み兼ねて終(つい)に同氏の手荷物となし、それより港に上(あが)りて、消毒の間唯(と)ある料理店に登り、三人それぞれに晩餐(ばんさん)を命じけれども、心ここにあらざれば如何(いか)なる美味も喉(のんど)を下(くだ)らず、今や捕吏(ほり)の来らんか、今や爆発の響(ひびき)聞えん乎(か)と、三十分がほどを千日(せんにち)とも待ち詫(わ)びつ、やがて一時間ばかりを経(へ)て宿屋の若僕(わかもの)三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄海灘(げんかいなだ)の波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。


 ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物濡(ぬ)れた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目甚(はなは)だしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑怯(ひきょう)にも逃奔(とうほん)せし恥辱(ちじょく)を糊塗(こと)せんために、かくは姑息(こそく)の籌(はかりごと)を運(めぐ)らして我らの行を妨(さまた)げ、あわよくば縛(ばく)に就かしめんと謀(はか)りしには非(あら)ざる乎(か)と種々評議を凝(こら)せしかど、終(つい)に要領を得ず、東京に打電して重井(おもい)に質(ただ)さんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき方(かた)に進まんのみと、古井より他(た)の壮士にこの旨(むね)を伝えしに、彼らの中(うち)には古井が磯山に代りしを忌(い)むの風(ふう)ありて議諧(かな)わず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は潔(いさぎよ)く帰東せしむべし、何ぞ多人数(たにんず)を要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を率(ひき)いて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途勧工場(かんこうば)に入りて筆紙墨(ひっしぼく)を買い調(ととの)え、薄暮(はくぼ)旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井独(ひと)り何か憂悶(ゆうもん)の体(てい)なりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を喫(きっ)しつつ、午刻(ひる)のほどより丸山に赴(おもむ)ける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一歩(ひとあし)も他(た)に移す能(あた)わず、特(こと)に差し当りて佐賀に至り、江藤新作(えとうしんさく)氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮方(せんかた)なしとて、それぞれ臥床(ふしど)に入りしが、妾は渡韓の期も、既に今明日(こんみょうにち)に迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉石(はいし)に申し送り、遺憾(いかん)の念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細書(さいしょ)を認(したた)め、ようよう十二時頃書き終りて、今や寝(しん)に就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。


 古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより快(こころよ)く睡(ねむ)りけるが、妾は一度(ひとたび)渡韓(とかん)せば、生きて再び故国(ここく)の土を踏むべきに非(あら)ず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余資(よし)あらば、これをば借りて、途(みち)すがら郷里に立ち寄り、切(せ)めては父母兄弟(けいてい)に余所(よそ)ながらの暇乞(いとまご)いもなすべかりしになど、様々の思いに耽(ふけ)りて、睡るとにはあらぬ現心(うつつごころ)に、何か騒がしき物音を感じぬ。何気(なにげ)なく閉(と)じたる目を見開けば、こはそも如何(いか)に警部巡査ら十数名手に手に警察の提燈(ちょうちん)振り照らしつつ、われらが城壁と恃(たの)める室内に闖入(ちんにゅう)したるなりけり。アナヤと驚き起(た)たんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客検(しらべ)なりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾一人(いちにん)の身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる様(さま)を装い、ただ稲垣と同伴せる旨(むね)をいいしに、警部は首肯(うなず)きて、稲垣には縄(なわ)をかけ、妾をば別に咎(とが)めざるべき模様なりしに、宵(よい)のほど認(したた)め置きし葉石への手書(てがみ)の、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温顔(おんがん)俄(にわか)に厳(いか)めしうなりて、この者をも拘引(こういん)せよと犇(ひしめ)くに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度(したく)せよなどなお情けらしう注意するなりき。抗(あらが)うべき術(すべ)もなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋虫(いもむし)の如くになりて、頓(やが)て巡査に伴(ともな)われ行く途上(みち)の歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事探偵(たんてい)より種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途勧工場(かんこうば)に立ち寄りて筆紙墨(ひっしぼく)を買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを覚(さと)りぬ。
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 訊問(じんもん)卒(お)えて後(のち)、拘留所に留置せられしが、その監倉(かんそう)こそは、実に演劇にて見たりし牢屋(ろうや)の体(てい)にて、妾(しょう)の入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる閂(かんぬき)の取り外(はず)さるる響(ひびき)いとど怪(あや)しう凄(すさ)まじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆竪(よだ)つまでに怖れしめ、生来(せいらい)心臓の力弱き妾は忽(たちま)ち心悸(しんき)の昂進(こうしん)を支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒息(ちっそく)せんず思いなるを、警官は容赦(ようしゃ)なく窃盗(せっとう)同様に待遇(あし)らいつつ、この内に這入(はい)れとばかり妾を真暗闇(まっくらやみ)の室内に突き入れて、また閂(かんぬき)を鎖(さ)し固めたり。何たる無情ぞ、好(よ)しこのままに死なば死ね、争(いか)でかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、素(もと)より女ながら一死を賭(と)して、暴虐(ぼうぎゃく)なる政府に抗せんと志したる妾(わらわ)、勝てば官軍敗(ま)くれば賊(ぞく)と昔より相場の極(きま)れるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚痴(ぐち)をこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、生(いき)ながら死せる気になり、万感(まんかん)を排除する事に勉(つと)めしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝目覚(めざ)めしは他の監房にて既に食事の済(す)みし頃なりき。


 先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天井(てんじょう)高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光線取(あかりと)りにして、鉄の棒を廻(めぐ)らし如何(いか)なる剛力(ごうりき)の者来ればとて、破牢(はろう)など思いも寄らぬ体(てい)、いと堅牢なり。水を乞うて、手水(ちょうず)をつかえば、やがて小(ち)さき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底喉(のんど)を下(くだ)るまじと思いしに、案外にも味(あじ)わい旨(よ)くて瞬間に喫(た)べ尽しつ、われながら胆太(きもふと)きに呆(あき)れたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の隙(すき)より、床下(ゆかした)の見ゆるに心付き、試みに眸(ひとみ)を凝(こ)らせば、アア其処(そこ)に我が同志の赤毛布(あかげっと)を纏(まと)いつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内藤六四郎(ないとうろくしろう)氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の裡(うち)に堕(お)ちながら、慣るるにつれて、身の苦艱(くげん)の薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の迸(ほとばし)るを覚ゆるなりき。
 翌朝食事終りて後(のち)、訊問所に引き出(いだ)されて、住所、職業、身分、年齢、出生(しゅっしょう)の地の事ども訊問せられ、遂(つい)にこの度(たび)当地に来りし理由を質(ただ)されて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく汝(なんじ)らを拘引(こういん)するは、確乎(かっこ)たる見込(みこみ)ありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有休(ありてい)に申し立ててこそ汝らが平生(へいぜい)の振舞にも似合わしけれとありければ、尤(もっと)もの事と思い、終(つい)に述懐書にあるが如き意見にて大事に与(くみ)せる事を申し立てぬ。


 警察署にての訊問(じんもん)果てし後(のち)、大阪に護送せらるることとなり、夜(よ)の八、九時頃にやありけん、珠数繋(ずずつな)ぎにて警察の門を出でたり。迅(はや)きようにても女の足の後(おく)れがちにて、途中は左右の腰縄(こしなわ)に引き摺(ず)られつつ、辛(かろ)うじて波止場(はとば)に到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は胆(きも)をつぶしたらんが如く、眼(まなこ)を円(つぶ)らにして、殊(こと)に女の身の妾(しょう)を視(み)る。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面伏(おもぶ)せにて同志とすら言葉を交(かわ)すべき勇気も失(う)せ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、漸(ようや)く神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ蓬莱屋(ほうらいや)で御座(ござ)い、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の提燈(ちょうちん)をひらめかし、われらに向かいて頻(しき)りに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一驚(いっきょう)を喫(きっ)して、あきれ顔に口を噤(つぐ)めるも可笑(おか)しく、かつは世の人の心の様(さま)も見え透(す)きて、言うばかりなく浅まし。
 その夜は大阪府警察署の拘留場(こうりゅうば)に入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心地悪(ここちあ)しく、最(い)とど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて特(こと)に拘留所を設け、其処(そこ)に入れて懇(ねんご)ろに介抱(かいほう)しくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと凄(すさ)まじかりしに引き換え、総(すべ)てわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に侑(すす)める抔(など)、万(よろず)に親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし後(のち)も国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳酷(げんこく)なりし比に非ず。長崎警察署の不仁(ふじん)なる、人を視(み)る事宛然(さながら)犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも昔(むかし)徳川幕府が維新の鴻業(こうぎょう)に与(あずか)りて力ある志士を虐待(ぎゃくたい)せし例を思い浮べ、深く思い諦(あきら)めたりしが、今大阪にては、有繋(さすが)に通常罪人を以て遇せず言葉も丁寧(ていねい)に監守長の如きも時々見廻りて、特(こと)に談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。


 ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目麗(うるわ)しき一婦人(いっぷじん)あり、天性賤(いや)しからずして、頻(しき)りに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に愛(め)でて何角(なにかと)教え導きけるに、彼はいよいよ妾を敬(うやま)い、妾はまた彼を愛して、果(はて)は互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて垢(あか)を流しくれ、また夜に入(い)れば床(とこ)を同じうして寒天(さむぞら)に凍(こお)るばかりの蒲団(ふとん)をば体温にて暖め、なお妾と互い違いに臥(ふ)して妾の両足(りょうそく)をば自分の両腋下(えきか)に夾(はさ)み、如何(いか)なる寒気(かんき)もこの隙(すき)に入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の代(よ)に至りて家道(かどう)俄(にわか)に衰(おとろ)え、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇漢(きょうかん)なりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の永(なが)き日をば徒(いたずら)に未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃枉(えんおう)を訴えけるに、その効(しるし)なりしや否(いな)やは知らねど、妾が三重県に移りける後(のち)、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉報(きっぽう)を耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪千万(せんばん)なる寃罪(えんざい)の因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑稽談(こっけいだん)あり、当時の監獄の真相を審(つまび)らかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大方(たいほう)の参考に供せん。


 妾(しょう)が彼女を愛し、彼女が妾を敬慕(けいぼ)せるは上(かみ)に述べたるが如き事情なり。世には淫猥(いんわい)無頼(ぶらい)の婦人多かるに、独(ひと)り彼女の境遇のいと悲惨なるを憐(あわ)れむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛然(さながら)親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿論(もちろん)、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他所目(よそめ)には如何(いか)に見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし露西亜(ロシア)の虚無党をば無二(むに)の味方と心得たる頃なれば、両人(ふたり)の交情(あいだ)の如何に他所目(よそめ)には見ゆるとも、妾の与(あずか)り知らざる所、将(は)た、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に報(むく)いんことを勉(つと)めけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に出(い)でよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗涙(あんるい)に咽(むせ)びけるに、さはなくて彼女は妾らの室を隔(へだ)つる、二間(けん)ばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず呆(あき)れられて、更に何故(なにゆえ)とも解(と)きかねたる折から、他(た)の看守来りて妾に向かい、「景山(かげやま)さん今夜からさぞ淋(さび)しかろう」と冷笑(あざわら)う。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只今(ただいま)より淋しくて悲しくて心細さの遣(や)る瀬(せ)なき旨(むね)を答え、何故なればかく無情の処置をなし改化遷善(せんぜん)の道を遮(さえぎ)り給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、徐(おもむ)ろに質問すべき事こそあれと、予(あらかじ)めその願意を通じ置きしに、看守は莞然(にこにこ)笑いながら、細君(さいくん)を離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶揄(からか)うなりき。その語気(ごき)の人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫然(ふつぜん)として憤(いきどお)りしが、なお彼らが想像せる寃罪(えんざい)には心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと罵(ののし)りしに、彼は僅(わず)かに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益※(二の字点、1-2-22)気昂(けあが)りて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平生(へいぜい)悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一図(いちず)に何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だも仮(か)さず、いよいよ嘲(あざけ)り気味(ぎみ)に打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、具(つぶさ)にこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女も他(た)の監房に転じたる悲しさに、慎(つつし)み深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生何故(なにゆえ)にかく離隔(りかく)せられしにや、何とぞ早くその故を質(ただ)して始めの如く同室に入らしめよと、打ち喞(かこ)つに、素(もと)より署長の巡廻だにあらば、直ちに愁訴(しゅうそ)して、互いの志を達すべし、暫(しばら)く忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの幾度(いくたび)なりしか。


 囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞に算(かぞ)えらるる由(よし)なるも、妾(しょう)は少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、他(た)の罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそ実(げ)に筆にするだに汚(けが)らわしき限りなれ。今日(こんにち)は知らずその当時は長き年月の無聊(むりょう)の余りにやあらん、男囚(だんしゅう)の間には男色(だんしょく)盛んに行われ、女囚もまた互いに同気(どうき)を求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心雄々(おお)しきは夫(おっと)の如き気風となり、優(やさ)しき方は妻らしく、かくて不倫(ふりん)の愛に楽しみ耽(ふけ)りて、永年(えいねん)の束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における嫉妬(しっと)の心を生じて、人を傷(そこな)い自ら殺すなどの椿事(ちんじ)を惹(ひ)き起すを常としたりき。現に厠(かわや)に入りて、職業用の鋏刀(はさみ)もて自殺を企(くわだ)てし女囚をば妾も目(ま)の当りに見て親しく知れりき。されば無智蒙昧(むちもうまい)の監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なる慈(いつく)しみの振舞を以て、直ちに破倫(はりん)非道の罪悪と速断しけるもまた強(あなが)ちに無理ならねど、さりとては余りに可笑(おか)しく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。
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 中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上客分(きゃくぶん)としてかくは取り斗(はか)らわれしなりけり。退(の)っ引(ぴ)きならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、切(せ)めてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、妾(しょう)を待てり。中の島未決監よりは、監房また更(さら)に清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆(しゃば)に近づきたらん心地(ここち)もしつ。此処(ここ)にても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を撫(な)でさすり、また肩など揉(も)みて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝下(しっか)にありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお懐(なつ)かしとの念を禁ぜざるなりき。


 ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容姿(ようし)優(すぐ)れて美しく才気あり万事に敏(さと)き性(せい)なりければ、誘工(ゆうこう)の事総(すべ)てお政ならでは目が開(あ)かぬとまでに称(たた)えられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬(うやま)い冊(かしず)かれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読書(とくしょ)に疲れたる頃を見斗(みはから)いては、己(おの)が買い入れたる菓子その他の食物(しょくもつ)を持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如何(いか)に書くにやなど、暇(ひま)さえあればその事の外(ほか)に余念もなく、ある時は運動がてら、水撒(みずまき)なども気散(きさん)じなるべしとて、自ら水を荷(にな)い来りて、切(せつ)に運動を勧めしこともありき。彼女は西京(さいきょう)の生れにて、相当の家に成長せしかど、如何(いか)なる因縁(いんねん)にや、女性にして数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数万(すまん)の金を盗みし酬(むく)いは忽(たちま)ちここに憂(う)き年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃盗(せっとう)にしてしかも終身刑を受けけるなり。その才物(さいぶつ)なるは一目(いちもく)瞭然(りょうぜん)たることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい哉(かな)、人道以外に堕落(だらく)して、同じく人倫(じんりん)破壊者の一人(いちにん)なりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄然(りつぜん)たりしが、さりながら、素(も)と鋭敏の性なりければ、能(よ)く獄則を遵守(じゅんしゅ)して勤勉怠(おこた)らざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔悟(かいご)する処あり、遂(つい)に円頂黒衣(えんちょうこくい)に赤心(せきしん)を表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「島津政懺悔録(しまずまさざんげろく)」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その後(のち)は如何(いか)になりけん、消息を聞かず。


 かく妾(しょう)は入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『原人論(げんじんろん)』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを基(もと)として、日々勉励(べんれい)したりしかど、やはり堂に昇(のぼ)らずして止(や)みたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如何(いか)にせん志(こころざし)を達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄間(ま)もなくその空想は全く仇(あだ)となり、失望の極(きょく)われとはなしに堕落(だらく)して、半生(はんせい)を夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺悔(ざんげ)の隙(ひま)もいと切(せつ)なり。


 妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく浮(う)かと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を認(したた)むる時などには、若き看守の好奇(ものずき)にも監督を名として監房に来りては、楽書(らくがき)などして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙汰(さた)とも覚えぬ振舞に渡りて、妾を弄(もてあそ)ばんとするものもあり、中には真実籠(こ)めし艶書(えんしょ)を贈りて好(よ)き返事をと促すもあり、また「君徐世賓(じょせいひん)たらばわれ奈翁(ナポレオン)たらん」などと遠廻しに諷(ふう)するもありて、諸役人皆妾(しょう)の一顰一笑(いっぴんいっしょう)を窺(うかが)えるの観ありしも可笑(おか)しからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷顧(けんこ)を得んとて、私(ひそ)かに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑婆(しゃば)に優(まさ)る事数等にて、裁判の事など少しも心に懸(かか)らず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風邪(ふうじゃ)に冒(おか)され、漸次(ぜんじ)熱発(はつねつ)甚(はなは)だしく、さては腸窒扶斯(チブス)病との診断にて、病監に移され、治療怠(おこた)りなかりしかど、熱気いよいよ強く頗(すこぶ)る危篤(きとく)に陥(おちい)りしかば、典獄署長らの心配一方(ひとかた)ならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の旨(むね)を打電したりければ、岡山にてはもはや妾を亡(な)きものと覚悟し、電報到着の夜(よ)より、親戚(しんせき)故旧(こきゅう)打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺屍(いし)引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数十日(すじゅうにち)を経て漸(ようや)く本監に帰りたる嬉(うれ)しさは、今に得(え)も忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛然(さながら)父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に罹(かか)りし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて斃(たお)るることもやと心配せしに、これすら漸(ようや)く回復して、遂(つい)には病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を喫(きっ)するほどなり。


 それより数日(すじつ)を経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪悉(ことごと)く抜け落ち、薬罐頭(やかんあたま)の醜(みにく)さは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、後(あと)にて聞けば妾(しょう)の親愛なる富井於菟(とみいおと)女史は、この時娑婆(しゃば)にありて妾と同病に罹(かか)り、薬石効(やくせきこう)なく遂(つい)に冥府(めいふ)の人となりけるなり。さても頼みがたきは人の生命(いのち)かな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら謹慎(きんしん)の意を表し、耶蘇(ヤソ)教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾は活(い)きて、信念堅固の女史は逝(ゆ)きぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾を幸(こう)というべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。


 ここにまた一つ記(しる)し付くべき事あり。かかる事は仮令(たとえ)真実なりとも、忌(い)むべく憚(はばか)るべきこととして、大方の人の黙して止(や)むべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係を究(きわ)むる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことの証(あか)しにもならんかとて、敢(あ)えて身の羞恥(はじ)をば打ち明くるなり。読む者強(あなが)ちに、はしたなき業(わざ)とのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さて記(き)すべき事とは何(な)にぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき風情(ふぜい)とては露ほどもなく、男子と漢籍の講莚(こうえん)に列してなお少しも羞(はずか)しと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、妾の所為(しょい)を誡(いまし)め給いしほどなれば、幼友達(おさなともだち)の皆人(ひと)に嫁(か)して、子を挙(あ)ぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう石女(いしめ)の類(たぐい)にやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の容子(ようす)の常になく包(つつ)ましげなるに、顔色さえ悪(あ)しかりしを、親(した)しめる女囚に怪(あや)しまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、遂(つい)に事云々(しかじか)と告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にも勝(まさ)りたりき。


 かくの如く男らしき妾(しょう)の発達は早かりしかど、女としての妾は、極めて晩(おそ)き方(かた)なりき。但(ただ)し女としては早晩(そうばん)夫(おっと)を持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫を撰(えら)ぶの時機来らば、威名赫々(かくかく)の英傑(えいけつ)に配すべしとは、これより先、既に妾の胸に抱(いだ)かれし理想なりしかど、素(もと)より世間見ずの小天地に棲息(せいそく)しては、鳥なき里の蝙蝠(かわほり)とは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念漸(ようや)く長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは葉石(はいし)なり。されどいまだ「ホーム」を形造(かたちづく)るべき境遇ならねば、父母兄弟(けいてい)にその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために尽瘁(じんすい)せん事を誓いおりしに、図(はか)らずも妾が自活の途(みち)たる学舎は停止せられて、東上するの不幸に陥(おちい)り、なお右の如き種々の計画に与(あずか)りて、ほとんど一身(いっしん)を犠牲となし、果(はて)は身の置き所なき有様とさえなりてよりは、朝夕(ちょうせき)の糊口(ここう)の途(みち)に苦しみつつ、他の壮士らが重井(おもい)、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は髪結(かみゆい)洗濯を業として、とにもかくにも露の生命(いのち)を繋(つな)ぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至る途(みち)すがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、妻子(さいし)眷属(けんぞく)を国許(くにもと)に遺(のこ)し置きたる人々さえ、様々の口実を設けては賤妓(せんぎ)を弄(もてあそ)ぶを恥(はじ)とせず、終(つい)には磯山の如き、破廉恥(はれんち)の所為(しょい)を敢(あ)えてするに至りしを思い、かかる私欲の充(み)ちたる人にして、如何(いか)で大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに一旦(いったん)の感情に駆られて、葉石に宛(あ)てたりし永別の書が、端(はし)なくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を憤(いきどお)りもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎潔(こうけつ)の愛を汚(けが)し、神聖なる恋を蹂躙(じゅうりん)せしをば、如何(いか)にしても黙止(もくし)しがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺憾(いかん)なく言い遺(のこ)し置かんとの覚悟にて、かの書翰(しょかん)は認(したた)めしなれば、義気(ぎき)ある人、涙(なんだ)ある人もしこれを読まば、必ず一掬(いっきく)同情の涙に咽(むせ)ぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも傷(そこな)うなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に逢(あ)わざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今日(こんにち)の境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、強(し)いて旧事を発表し、相互の不利益を醸(かも)すが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、特(こと)に葉石の無情を怨(うら)みしなり、生きて再び恋愛の奴(やっこ)となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ順(したが)うよりは、むしろ潔(いさぎよ)く、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面伏(おもぶ)せなる業(わざ)なりけり。いでや公判開廷の日には、病(やまい)と称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐(かい)遂(つい)にあらざりき。
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 いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑婆(しゃば)の空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚知己(ちき)の来り会して懐(なつ)かしき両親の消息を齎(もたら)すこともやと、これを楽しみに看守に護(まも)られ、腕車(わんしゃ)に乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江戸堀(えどぼり)公判廷に至るの間はあたかも人をもて塀(へい)を築きたらんが如く、その雑沓(ざっとう)名状(めいじょう)すべくもあらず。聞く大阪市民は由来(ゆらい)政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸(ようや)く政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾(しょう)らの公判が如何(いか)に市民の耳目(じもく)を動かしたるかを知るに足るべし。


 明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊(ざる)の目に漉(こ)し去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来未曾有(みぞう)の大獄(たいごく)にて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組(ここのくみ)に分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛(いそやませいべえ)は(中略)重井(おもい)、葉石(はいし)らの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非(あら)ず」云々(うんねん)の所に至るや第三列に控えたる被告人氏家直国(うじいえなおくに)氏は、憤然として怒気満面に潮(ちょう)し、肩を聳(そび)やかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の旨(むね)を長崎滞在の先発者田代季吉(たしろすえきち)云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝(いっかつ)して首筋を掴(つか)みたる様子にて、場(じょう)の内外一方(ひとかた)ならず騒擾(そうじょう)し、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣(ばっけん)にて非常を戒(いまし)めしほどなりき。とかくする内看守(かんしゅ)、押丁(おうてい)ら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先(ひとま)ず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来(じらい)公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃(そろ)いたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。


 かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸(ぬす)みて、紙盤(しばん)にその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰(なじ)るを例とせり。(紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり)さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身(おんみ)は愛を二、三にも四、五にもする偽君子(ぎくんし)なり、ここに如何(いかん)ぞ純潔の愛を玩(もてあそ)ばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠(こ)めし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾(しょう)は数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)その邸(てい)に行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭(いと)い将(は)た妾らが国事に奔走するを忌(い)むの風(ふう)ありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切(せつ)なるよしを言い越されんとは。妾は更に合点(がてん)行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終(つい)には挙動にまで、その思いの表われて、如何(いか)にも怪(あや)しう思わるるに、かくまでの心入れを、如何(いか)でこのままにやはあるべきと、聊(いささ)か慰藉(いしゃ)の文を草して答えけるに、爾来(じらい)両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲(こ)りし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実(げ)に妾が半生を不幸不運の淵(ふち)に沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素(もと)よりかかる成行(なりゆ)きを予知すべくもあらず、一向(ひたぶる)に名声赫々(かくかく)の豪傑を良人(おっと)に持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出(い)づるを楽しみ、かの人を待ち焦(こが)れしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然(さながら)甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤※(「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48)(いんうん)たる口気(こうき)に接して自(おの)ずから野鄙(やひ)の情も失(う)せ、心ざま俄(にわか)に高く品性も勝(すぐ)れたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間(ま)に閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮(けいきんこ)を申し渡されたり。重井、葉石らの重(おも)だちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿(ましら)のそれにも似たらんかし。
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 伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三駅(つき)詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖(つつそで)に腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句(だく)だに出(い)でず、剰(あまつさ)え大阪より附き添い来りし巡査は皆草津(くさつ)にて交代となりければ、切(せ)めてもの顔馴染(なじみ)もなくなりて、憂(う)きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏(こうこん)の頃なりしが、典獄は兼(か)ねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄平松宜棟(ひらまつぎとう)である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓(でんてい)に相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許(もと)に来りし上は申すまでもなく能(よ)く獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方(ほう)らの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて妾(しょう)の番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英(かげやまひで)であろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今拙者(せっしゃ)の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処(どこ)にどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝(いっちょう)国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を籠(こ)めての訓誨(くんかい)に、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪(こら)えに堪え来りたる望郷の涙は、宛然(さながら)に堰(せき)を破りたらんが如く、われながら暫(しば)しは顔も得上げざりき。典獄は沈思(ちんし)してそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無頼(ぶらい)の女囚を改化遷善の道に赴(おもむ)かしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御身(おんみ)が素志(そし)たる忠君愛国の実を挙げ給え、仮令(たとい)刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下(しっか)にありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に劬(いたわ)りくれられたれば、遂(つい)には身の軽禁錮たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。


 朝も五時に起きて仕度(したく)をなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井戸端(いどばた)に至りて順次顔を洗い、終りて役場(えきじょう)にて食事をなし、それよりいよいよその日の役(えき)につきて、あるいは赤き着物を縫(ぬ)い、あるいは機(はた)を織り糸を紡(つむ)ぐ。先ず着物の定役(ていえき)を記(しる)さんに赤き筒袖の着物は単衣(ひとえもの)ならば三枚、袷(あわせ)ならば二枚、綿入れならば一枚半、また股引(ももひき)は四足(しそく)縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて予(あらかじ)め定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。妾(しょう)は固(もと)より定役なき身の仮令(たとい)終日書(しょ)を伴(とも)とすればとて、敢(あ)えて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤謬(ごびゅう)を解(と)かん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷役(ひえき)より前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に上(のぼ)りぬ。これは重禁錮(じゅうきんこ)の者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の有(ゆう)となしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。


 妾の幸福(さいわい)は、何処(どこ)の獄にありても必ず両三人の同情者を得て陰(いん)に陽(よう)に庇護(ひご)せられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦労(けんろう)を気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の独(ひと)り読書に耽(ふけ)るをいと羨(うらや)ましげに見惚(みと)れ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事隔(へだ)てなく交わりければ、出獄の後(のち)も忘るる能(あた)わず、同女が藤堂(とうどう)伯爵邸(はくしゃくてい)の老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千々(ちぢ)に心を砕(くだ)きし後(のち)、同女の次女を養い取りて聊(いささ)か学芸を授(さず)けやりぬ。


 妾(しょう)の在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊(きく)と呼べり。この二人(ににん)を特(こと)に典獄より預けられて、読み書き算盤(そろばん)の技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、頓(やが)て両女がここに来れる仔細(しさい)を知りぬ。お花は心の様(さま)さして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一年(ひととせ)村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴衣(はれぎ)の用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが纏(まと)える襤褸(つづれ)の恨(うら)めしく、少女心(おとめごころ)の浅墓(あさはか)にも、近所の家に掛(か)けありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時孤児(みなしご)となり叔父(おじ)の家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば邪(よこしま)の径(みち)に走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の下(もと)に暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人並(なみ)の容貌を具えたるにいとど可憫(ふびん)[#「可憫(ふびん)」はママ]の加わりて、如何(いか)で無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一身(いっしん)の方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露些(つゆいささ)かも偏頗(へんぱ)なく扱いやりしに、両女もいつか妾に懐(なつ)きて、互いに競うて妾を劬(いた)わり、あるいは肩を揉(も)み脚を按(さす)り、あるいは妾の嗜(たしな)む物をば、己(おの)れの欲を節して妾に侑(すす)むるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何故(なにゆえ)盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は終(つい)に来らざりき。妾出獄の後(のち)監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼妓(しょうぎ)に売られたり、またお菊(きく)は叔父(おじ)の家にも来らず、その所在を知るに由(よし)なしとの事なりき。ともかくも妾の到る処何処(いずこ)の監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如何(いか)なる因縁(いんねん)にや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼蹐(きょくせき)せる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、好(よ)しこの身自由となりし時、所有(あらゆる)不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷(いちる)の光明を授けんこと、強(あなが)ちに難(かた)からざるべしとは、当時の妾が感想なりき。


 当市の監獄には、大阪のそれと異(こと)なりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦(かふ)などが糊口(ここう)の勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛憎(あいぞう)に走りて囚徒(しゅうと)を取り扱うの道を知らず。偏(ひとえ)に定役(ていえき)の多寡(たか)を以て賞罰の目安(めやす)となせし風(ふう)なれば、囚徒は何日(いつ)まで入獄せしとて改化遷善(せんぜん)の道に赴(おもむ)かんこと思いもよらず、悪しき者は益※(二の字点、1-2-22)悪に陥りて、専心取締りの甘心(かんしん)を迎え、漸(ようや)く狡獪(こうかい)陰険の風を助長するのみ。故(ゆえ)に監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに勉(つと)むべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、表(おもて)に謹慎を表して陰(いん)に舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。独(ひと)り青木氏の如きは、天性慈善の心に富(とみ)たるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退(しりぞ)きたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤堂(とうどう)氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。


 それはさて置き妾(しょう)は苦役一年にして賞標(しょうひょう)四個(しこ)を与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎(こづかぎたろう)氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸(とき)めきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々(ひさびさ)の疎音(そいん)を謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅(しょうちょく)下り、かつ辱(かたじけな)くも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮(さえぎ)りてその筋よりいまだ何らの達(たっし)なし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女(あなた)は何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日(みょうにち)にも面会に出頭せん、衣類等は如何(いか)になりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日(こんみょうにち)に喜ばしき御沙汰(ごさた)あるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳(くしけず)り置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出(い)で来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地(ここち)にて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並(いなら)びて、謹(つつし)んで大赦文(たいしゃぶん)を読み聞かされたり。なお典獄は威儀厳(おごそ)かに、御身(おんみ)の罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益※(二の字点、1-2-22)国家のために励(はげ)まれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役(しえき)せられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生幻(まぼろし)の如しとは、そもや誰(た)がいいそめけんと一時(いちじ)はただ茫然(ぼうぜん)たりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。
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 旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜(よ)はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜(かま)をかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処(そこ)に至りしに、令嬢の手前にて、薄茶(うすちゃ)のもてなしあり。更に自分にも一服との所望(しょもう)ありしかば、妾(しょう)は覚束(おぼつか)なき平手(ひらて)まえを立ておわりぬ。貧家(ひんか)にこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊(いささ)かながらかかる業(わざ)をも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来(じらい)かかる事に思わぬ日を経て、遂(つい)に同地の有志者長井氏克(ながいうじかつ)氏らに送られつつ、鈴鹿峠(すずかとうげ)に至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出(い)づるの途中、植木枝盛(うえきえもり)氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花(ばら)の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。


 大阪梅田停車場(ステーション)に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震(ふる)うばかりなり。停車場(ステーション)に着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭(いと)わせられず、親類の者に扶(たす)けられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡(し)める声を振り絞(しぼ)りしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽(むせ)ばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別(わか)ちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗(たいき)に護られ、大阪市中を腕車(わんしゃ)に乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待(かんたい)せられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故中江兆民(なかえちょうみん)先生、栗原亮一(くりはらりょういち)氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息(ひといき)入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠(よんどころ)なく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井(おもい)、葉石(はいし)、古井(ふるい)らの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪(ちゃくはん)せる同志と共に停車場(ステーション)まで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲(しののめ)新聞社に至らんとせるに、数万(すまん)の見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田停車場(ステーション)もほとんど立錐(りっすい)の地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁(よう)せられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛(かろ)うじて東雲(しののめ)新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑(まんりょく)叢中(そうちゅう)紅一点(こういってん)ともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子(テーブル)の上に座せしめ、其処(そこ)にて種々の饗応(きょうおう)あり。終りて各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)旅宿に帰りしは早や黄昏(たそがれ)の頃なりけり。
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 それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯(まつう)、妾(しょう)は原平(はらへい)に宿泊し、その他の諸氏も各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)旅宿を定め、数日間は此処(ここ)の招待、彼処(かしこ)の宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好(よ)きほどにて引き別るることとなり、妾も弥※(二の字点、1-2-22)(いよいよ)明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方(せんかた)なく帰宿せんとする折しも、重井独(ひと)り帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得(え)も忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履(ふ)まんという。こは予(かね)てよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来中江(なかえ)先生、栗原亮一(くりはらりょういち)氏ら頻(しき)りにわれに説きて、汝(おんみ)と葉石(はいし)と結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天(せいてん)の霹靂(へきれき)にも喩(たと)うべくや、所詮(しょせん)は中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図(いちず)に妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水(ふくすい)争(いか)でか盆に復(か)えるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾(しょう)にその意なきことを謝(ことわ)りしかば、両氏も始めて己(おの)れらの誤解なることを覚(さと)り、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染(おさななじみ)の葉石の、今は昔互いに睦(むつ)み親しみつつ旦暮(あけくれ)訪(と)いつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐(おも)い、また今の葉石とて妾に対して露(つゆ)悪意のあるに非(あら)ざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒(じょうちょ)乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素(もと)より葉石との関係を知れる彼は、容易に諾(うべな)わず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋(あっせん)に余儀なくせられて、強(し)いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催(うなが)して止(や)まず、遂(つい)に軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。


 それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途(と)につきしが、頓(やが)て三番港(さんばんみなと)に到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓(ざっとう)言わん方(かた)もなく、上陸して船宿(ふなやど)に抵(いた)れば、其処(そこ)にはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩(わず)らいしというに、かく健(すこ)やかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋(すが)られ、アア今日は芽出(めで)たき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟甥姪(おいめい)を呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶(あいさつ)終りて、ふと傍(かたわ)らに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々(いろいろ)親切に世話しくれたり、彼はそも何人(なんぴと)なりやと尋(たず)ねしに、そは何(な)にをいう、弟淳造(じゅんぞう)を忘れしかといわれて一驚(いっきょう)を喫(きっ)し、さても変れば変る者かな、妾(しょう)の郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛(わんぱくざか)りなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実(げ)に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜(むべ)ならずやなど笑い興じて、共に腕車(わんしゃ)に打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨(のぞ)まんため、岡山公園なる観楓閣(かんぷうかく)指して出立(いでた)つ。
 この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園(こうえん)にして、四時の眺(なが)め尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企(ほっき)者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨(こうがい)悲壮の新体詩をば、二面の洋琴(ようきん)に和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼(やく)して、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃(う)たれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)歓を尽して帰路につきたるは、頓(やが)て点燈頃(ひともしごろ)なりき。


 かくて妾(しょう)は母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋(さび)しく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏(まと)われ、賑々(にぎにぎ)しくも帰れることよ。今昔(こんじゃく)の感坐(そぞ)ろに湧(わ)きて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻(まぼろし)の如く、はては走馬燈(まわりあんどん)の如くにぞ胸に往(ゆ)き来(こ)う。我が家に近き町はずれよりは、軒(のき)ごとに紅燈(こうとう)の影美しく飾られて宛然(さながら)敷地祭礼の如くなり。これはた誰(たれ)がための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款待(かんたい)を受けながら、妾が将来は如何(いか)に、重井(おもい)と私(ひそ)かに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず悶(もだ)え苦しみしぞかし。


 我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃妓(げんぎ)も来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて後(のち)、種々しめやかなる話しも出で、暁(あかつき)に至りて興はなお尽きざりき。七年の来(こ)し方(かた)を、一夜に語り一夜に聴かんと※(「二点しんにょう+(山/而)」、第4水準2-89-92)(はや)れるなるべし。
 明(あ)くれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発起(ほっき)にかかる慰労会あり、魚久(うおきゅう)という料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に因(ちな)めるなりとかや。かくて数日(すじつ)の間は此処(ここ)の宴会彼処(かしこ)の招待に日も足らず、平生(へいぜい)疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに集(つど)い寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景山英(かげやまひで)の名を口にせざるはなかりしぞ憂き。


 それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪地(はんち)を経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親戚(しんせき)某方(ぼうかた)に来りくるるようとの特信ありければ、今は躊躇(ちゅうちょ)の場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批露(ひろう)は、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を弁(わきま)えず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮初(かりそ)めならぬ人のために終身の謀(はかりごと)だになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数万(すまん)の金(きん)を得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、姑(しば)らく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見如何(いか)があるべきやと尋(たず)ねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御身(おんみ)の意見に任すべしと諾(うべな)われなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余所(よそ)ながらの杯(さかずき)させん抔(など)、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を訪(と)うを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一方(ひとかた)ならず、この上は直ちに御両親に見(まみ)えんとて、相挈(あいたずさ)えて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる後(のち)、貴重なる指環(ゆびわ)をば親しく妾の指に嵌(は)めて立ち帰りしこそ、残る方(かた)なき扱いなれとて、妾は素(もと)より両親も頗(すこぶ)る満足の体(てい)に見受けられき。爾来(じらい)東京に大阪に将(は)た神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ重(かさ)なり行きぬ。
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 その頃妾(しょう)の召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断(き)りて男の姿を学び、白金巾(しろかなきん)の兵児帯(へこおび)太く巻きつけて、一見(いっけん)田舎の百姓息子の如く扮装(いでた)ちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山(かげやま)の弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞(いな)みがたく、先ずその旨(むね)を承諾して、さて何故にかかる変性男子(へんしょうだんし)の真似をなすにやと詰(なじ)りたるに、貴女(あなた)は男の如き気性(きしょう)なりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換(か)えたりという。さては世間の妾を視(み)ること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌(しの)がんとする驕慢(きょうまん)疎野(そや)の女よと指弾(つまはじ)きせらるることの面目なさよ。有体(ありてい)にいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些(いささ)かなりとも世に尽さん考えなりしに、図(はか)らずも殺風景の事件に与(くみ)したればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関(かかずら)いしは事(こと)国家の休戚(きゅうせき)に関し、女子たりとも袖手(しゅうしゅ)傍観すべきに非(あら)ず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨(すす)め励(はげ)まし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外(ほか)ならず、かの男子と共に力を争い、将(は)た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処(どこ)までも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔(あいたす)け相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図(はか)らずもかかる錯誤(さくご)を招きたるは、妾の甚(はなは)だ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々(じゅんじゅん)その非を諭(さと)し、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目(びもく)艶麗(えんれい)の一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁(か)して美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐(そぞ)ろに微笑の浮ぶを覚えつ。


 その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を卜(ぼく)せしある日の事、福岡県人菊池某とて当時耶蘇(ヤソ)教伝道師となり、普教に勉(つと)めつつありたるが、時の衆議院議員、嘉悦氏房(かえつうじふさ)氏の紹介状を携(たずさ)え来りて、妾に面会せん事を求めぬ。固(もと)より如何(いか)なる人にても、かつて面会を拒(こば)みし事のなき妾は、直ちに書生をして客室(かくしつ)に請(しょう)ぜしめ、頓(やが)て出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝視(ぎょうし)しつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、頗(すこぶ)る狼狽(ろうばい)の体(てい)にて妾の挨拶(あいさつ)に答礼だも施(ほどこ)さず、茫然(ぼうぜん)としていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め怪(あや)しみ、遂(つい)には恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の憤(いきどお)りを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は忽(たちま)ち慚愧(ざんき)の体にて容(かたち)を改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何心(なにごころ)なく披(ひら)き見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に曰(いわ)く(中略)貴嬢の朝鮮事件に与(くみ)して一死を擲(なげう)たんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌(ようぼう)醜矮(しゅうわい)突額(とつがく)短鼻(たんび)一目(いちもく)鬼女(きじょ)怪物(かいぶつ)と異(こと)ならねば、この際身を棄(す)つる方優(まさ)るらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐(かれん)の嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫(かんぷ)と奔(はし)り、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も睦(むつ)まじく神に仕えらるるならんと云々(うんぬん)。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア誤(あやま)てり疎忽(そこつ)千万(せんばん)なりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の仇(あだ)となれるを思うに、凡(およ)そ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を娶(めと)らんと希(ねが)う者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが志(こころざし)を酌(く)み給わずば、われは遂(つい)に悲哀の淵(ふち)に沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、忽(たちま)ち小刀(ナイフ)をポッケットに探(さぐ)りて、妾に投げつけ、また卓子(テーブル)に突き立てて妾を脅迫し、強(し)いて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、好(よ)きほどに待遇(あしら)わしめつつ、座を退(しりぞ)きてその後の成行きを窺(うかが)う中(うち)、書生は客を賺(すか)し宥(なだ)めて屋外に誘(いざな)い、自(みずか)ら築地(つきじ)なる某教会に送り届けたりき。


 これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重井(おもい)と同行する事に決し、畝下熊野(はたしたゆや)(現代議士山口熊野)、小池平一郎(こいけへいいちろう)、前川虎造(まえかわとらぞう)の諸氏と共に同地に至り同所有志の発起(ほっき)に係(かか)る懇親会に臨(のぞ)みて、重井その他の演説あり。妾にも一場(いちじょう)の演説をとの勧め否(いな)みがたく、ともかくもして責(せ)めを塞(ふさ)ぎ、更に婦人の設立にかかる婦人矯風会(きょうふうかい)に臨みて再び拙(つたな)き談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘引(ゆういん)により和歌(わか)の浦(うら)を見物し、翌日は田辺(たなべ)という所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を施(ほどこ)したりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の特(こと)に葉石との同行を辞(いな)まんようなく、かつは旧誼上(きゅうぎじょう)何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一旦(いったん)帰郷し、暫(しば)し当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中川上音二郎(かわかみおとじろう)の一行(いっこう)、岡山市柳川座(やながわざ)に乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚意(こうい)黙止(もだし)がたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸素(もと)より今日(こんにち)の如く発達しおらぬ時の事とて、科(しぐさ)といい、白(せりふ)といい、ほとんど滑稽に近く、全然一見(いっけん)の価(あたい)なきものなりき。しかも当時大阪事件が如何(いか)に世の耳目(じもく)を惹(ひ)きたりしかは、市(し)の子女をしてこの芝居を見ざれば、人に非(あら)ずとまでに思わしめ、場内毎日立錐(りっすい)の余地なき盛況を現(げん)ぜしにても知らるべし、不思議というも愚(おろ)かならずや。その興業中川上は数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)わが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど頗(すこぶ)る親切叮嚀(ていねい)なりしが、ある日特(こと)に小介(こもの)をして大きなる新調の引幕(ひきまく)を持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊姉(そんし)の名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、聊(いささ)か自分の面目を施(ほどこ)したしという。妾は当時の川上が性行(せいこう)を諒知(りょうち)し居たるを以て、まさかに新駒(しんこま)や家橘(かきつ)の輩(はい)に引幕を贈ると同一には視(み)らるることもあるまじとて、その事を諾(うべな)いしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、身(み)自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、忽(たちま)ち妾に反対して頗(すこぶ)る穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に洩(も)らして署名を謝絶しけるに、彼は激昂(げっこう)して穏やかならぬ書翰(しょかん)を残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本郷(ほんごう)切(き)り通(どお)しを通行の際、ふと川上一座と襟(えり)に染(そ)めぬきたる印半天(しるしばんてん)を着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ外(ほか)ならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一別(いちべつ)以来の挨拶振(あいさつぶ)りも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度浅草鳥越(あさくさとりごえ)において興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔走(ほんそう)せるなり、前年と違いよほど苦辛(くしん)を重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江藤新平(えとうしんぺい)を演ずるはずなれば、是非御家族を伴(ともな)い御来観ありたしという。数日(すじつ)を経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を誘(いざな)いて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は終(つい)に爾(しか)く純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ叶(かな)わざりし宮様方の、勿体(もったい)なくも御観劇ありし際特(こと)に優旨(ゆうし)を以て御膝下(おんひざもと)近くまで御招(おんまね)きに預かり、御言葉(おんことば)を賜(たま)わるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随喜(ずいき)の涙(なんだ)に咽(むせ)び、これも俳優となりたるお蔭(かげ)なりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を棄(す)て、意気を失いしより得たる賜(たま)ものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは実(げ)に翻覆手(ほんぷくしゅ)にも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇間(ほうかん)となり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる外(ほか)にまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる漢(おとこ)と見えたり。この流の軟腸者豈(あに)独(ひと)り川上のみならんや。
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 これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉石(はいし)との関係につき他(た)より正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨(むね)申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井(おもい)に柬(かん)してその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途(と)に就(つ)きしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容体(ようだい)尋常(ただ)ならず、日を経るに従い胸悪く頻(しき)りに嘔吐(おうど)を催しければ、さてはと心に悟(さと)る所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に謀(はか)らんとせしに彼は許さず、暫(しばら)く秘して人に知らしむる勿(なか)れとの事に、妾は不快の念に堪(た)えざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮方(せんかた)もなく、彼の言うがままに従うに如(し)かずと閑静なる処に寓居(ぐうきょ)を構(かま)え、下婢(かひ)と書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心構(こころがま)えなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、将(は)た両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも忌(いま)わしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如何(いか)なる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、殊(こと)に胎児にまで世の謗(そし)りを受けしむるを慮(おもんばか)らずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都度(つど)切(せつ)に言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の体(てい)にて、今暫く発表を見合(みあわ)しくれよ、今郷里の両親に御身(おんみ)懐胎(かいたい)の事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては叶(かな)わず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如何(いかん)ともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて頗(すこぶ)る有望の事件を担当しおり、この事件にして成就(じょうじゅ)せば、数万(すまん)の報酬(ほうしゅう)を得んこと容易なれば、その上にて総(すべ)て花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他事(たじ)もなき頼みなり。素(もと)より彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時遁(のが)れの間(ま)に合(あわ)せならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の憤(いきどお)りを受くるとも、言い解(と)く術(すべ)のなからんやと、事に托(たく)して叔母(おば)なる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身(いっしん)の始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒(いまし)めしほどに、景山(かげやま)は今何処(いずく)にいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ謳(うた)わるるに至りぬ。


 その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を挙(あ)ぐ。名はいわざるべし、悔(くい)ある堕落の化身(けしん)を母として、明(あか)らさまに世の耳目(じもく)を惹(ひ)かせんは、子の行末(ゆくすえ)のため、決して好(よ)き事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一場(いちじょう)の奇談あり、迷信の謗(そし)り免(まぬ)かれずとも、事実なれば記(しる)しおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深山(しんざん)に迷い込みて数千(すせん)の狼(おおかみ)に囲(かこ)まれ、一生懸命の勇を鼓(なら)して、その首領なる老狼(ろうろう)を引き倒し、上顎(うわあご)と下顎(したあご)に手をかけて、口より身体までを両断せしに、他(た)の狼児は狼狽(ろうばい)して悉(ことごと)く遁失(にげう)せ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「禹(う)江(こう)を渡る時、蛟竜(こうりょう)船を追う、舟中(しゅうちゅう)の人皆慴(おそ)る、禹(う)天を仰いで、嘆じて曰(いわ)く、我命(めい)を天に享(う)く、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、竜(りょう)を見る事、蜿※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)(えんてい)の如く、眼色(がんしょく)変ぜず、竜首(こうべ)を俯(ふ)し尾を垂(た)れて、遁(のが)る。」といえる有様の歴々(ありあり)と目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦(しょう)し、竜をして遂(つい)に辟易(へきえき)せしめぬ。しかるに分娩(ぶんべん)の際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩覚束(おぼつか)なしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨(たいう)篠(しの)を乱しかけ、鳴神(なるかみ)おどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那(せつな)に、児(じ)の初声(うぶこえ)は挙(あが)りて、さしも盆(ぼん)を覆(くつがえ)さんばかりの大雨も忽(たちま)ちにして霽(は)れ上(あが)りぬ。後(あと)にて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜(たつ)まきなるものありて、その蛇(へび)の如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重(かさ)ね重(がさ)ね竜に縁あるを奇として、それに因(ちな)める名をば命(つ)けつ、生(お)い先の幸(さち)多かれと祷(いの)れるなりき。


 児を分娩すると同時に、またも一(いつ)の苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何(いか)にせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼(こうぎ)を結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀(はか)る所ありしに、義侠(ぎきょう)に富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子(いっし)だになきを幸い、嫡男(ちゃくなん)として役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛(かろ)うじて世の耳目(じもく)を免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上危篤(きとく)の電報は来りぬ。


 分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切(せつ)に忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊(こと)には母上の病気とあるに、争(いか)で余所(よそ)にやは見過ごすべき、仮(よ)し途中にて死なば死ね、思い止(と)まるべくもあらずとて、人々の諌(いさ)むるを聞かず、叔母(おば)と乳母(うば)とに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何(いか)になしおるやらんと、心は千々(ちぢ)に砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実(げ)に人生の悲しみは頑是(がんぜ)なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強(し)いて堪えねばならぬとは、これも偏(ひとえ)に秘密を契(ちぎ)りし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上(のぼ)りけるに、車中片岡直温(かたおかなおはる)氏が嫂(あによめ)某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児(えいじ)を懐(ふところ)に抱きて愛撫(あいぶ)一方(ひとかた)ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫(ふびん)さ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄(にわか)に牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺(ふく)みがたくて、今頃は如何(いか)に泣き悲しみてやあらん、汝(なれ)が恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々(おお)しき心は失(う)せて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層(ひとしお)女々(めめ)しうなりしぞかし。さしも気遣(きづか)いたりし身体には障(さわ)りもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場(ステーション)近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意(わざ)と偽名を書(しょ)したれば、片岡氏も妾をば景山英(かげやまひで)とは気付かざりしならん。


 翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤(きとく)なりし病気の、ようよう怠(おこた)りたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚(しんせき)ども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様(なにさま)尋常(じんじょう)にてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角(せっかく)怠りたる母上の病気の、またはそれがために募(つの)り行きて、悔(く)ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々薄紙(はくし)を剥(は)ぐが如くに癒(い)え行きて、はては、床(とこ)の上に起き上られ、妾の月琴(げっきん)と兄上の八雲琴(やくもごと)に和して、健(すこ)やかに今様(いまよう)を歌い出で給う。
春のなかばに病み臥(ふ)して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老(おい)の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐(かい)ありて、病(やまい)はいつか怠りぬ、実(げ)に子宝の尊きは、医薬の効にも優(まさ)るらん、
 滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢竹(やたけ)にはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、能(よ)きほどの口実を設けて帰京の旨(むね)を告げ、かつ妾も思う仔細(しさい)あれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝下(しっか)に奉仕(ほうじ)することとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、先(ま)ず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の憂(う)さを霽(はら)しぬ。
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 妾(しょう)の留守中、重井(おもい)は数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如何(いか)で楽しくも思わざらん、ただ世間を憚(はばか)ればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を促(うなが)さばやと、ある日面会せしを幸いかく何日(いつ)までも世間を欺(あざむ)き小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも見(まみ)えがたかるべしなど、涙と共に掻口説(かきくど)き、その後(のち)また文(ふみ)して訴えけるに、彼も内心穏やかならず頗(すこぶ)る苦慮の体(てい)なりしが、ある時は何思いけん児(じ)を抱(いだ)き上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと熱(あつ)き涙を濺(そそ)ぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや疎(うと)くなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日説(と)くに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に柬(かん)して挙家(きょか)上京の事に決せしめぬ。


 アア妾(しょう)はただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退(の)かしめ住(すみ)も慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか贖(あがな)うべき術(すべ)のあるべきに非(あら)ず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に謝(わ)びぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一方(ひとかた)ならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果報(かほう)の身の上ぞや、これも全く英子(ひでこ)が朝鮮事件に与(あずか)りたる余光なりとて、進まぬ兄上を因循(いんじゅん)なりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を尋(たず)ね、西京(さいきょう)見物に日を費(ついや)し、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳母(うば)と都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海路(うみじ)も恙(つつが)なく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神田(かんだ)錦町(にしきちょう)の寓居(ぐうきょ)に入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を労(いた)わり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。


 家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の体(てい)にて訪(と)い来る事も稀々(まれまれ)なりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履行(りこう)せざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお言(ことば)を左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、果(はて)はその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は妾(しょう)の帰国中妾の親友たりし泉富子(いずみとみこ)と情を通じ、妾を疎隔(そかく)せんと謀(はか)りしなり。


 ここに泉富子(目下農学博士某の妻なり)の来歴を述べんに、彼女は素(もと)備前の産(うま)れなり。父なる人ある府庁に勤務中看守盗(かんしゅとう)の罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相挈(あいたずさ)え、特(こと)に妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計不如意(ふにょい)となるに及びて、彼女はこれを厭(いと)い、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋々(れんれん)して、遂(つい)に良人(りょうじん)たり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に奔(はし)りて重井と交際し、果はその愛を偸(ぬす)み得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相睦(あいむつ)み合いしに、ある日重井よりの書翰(しょかん)あり、読みもて行くに更に何事(なにごと)とも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何日(いつ)か懐胎(かいたい)してある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り違(ちが)えたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに記(しる)すまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責(きっせき)せしに、重井は益※(二の字点、1-2-22)その不徳の本性(ほんしょう)を現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後悔(こうかい)せしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻術(げんじゅつ)をもて首尾(しゅび)よく農学博士の令室(れいしつ)となりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を整(ととの)えおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を尋(たず)ねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お柳(りゅう)のために一言(いちごん)にして跳付(はねつ)けられ、已(や)むなく博士某の邸(てい)に生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾来(じらい)行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛苦(しんく)の内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に優(すぐ)れし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無残々々(むざむざ)浮世の風に晒(さら)し、なお一片可憐(かれん)なりとの情(こころ)も浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪慳(じゃけん)非道(ひどう)の鬼ぞやと、妾は同情の念已(や)みがたく、如何(いか)にもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺憾(いかん)なれ。


 ここにおいて妾(しょう)は全く重井のために弄(もてあそ)ばれ、果(はて)は全く欺(あざむ)かれしを知りて、わが憤怨(ふんえん)の情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如何(いか)にすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを励(はげ)まし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、特(こと)に徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡旋(あっせん)を求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼曰(いわ)く既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、責(せ)むればとて、詮(せん)もなからん。むしろ早く思い棄てて更(さら)に良縁を求むるこそ良(よ)けれ、世間自(おの)ずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷齪(あくせく)する事の愚(おろ)かしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を荷(にな)いたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権門家(けんもんか)に屈従するにこそ、世間自(おの)ずから栄達の道に乏しからざるを、大義(たいぎ)のために齷齪することの愚かしさよとや悟(さと)り給うらん。アア堂々たる男子も一旦(いったん)志(こころざし)を得れば、その難有味(ありがたみ)の忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては褻(けが)らわしの人の心やと、当面(まのあた)りに言い罵(ののし)り、その醜悪を極めけれども、彼重井(おもい)の変心を機として妾を誑惑(たぶらか)さんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱罵(ねつば)をば微笑もて受け流しつつ、その後(のち)も数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)訪(と)い寄りては、かにかくと甘き辞(ことば)を弄(ろう)し、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと勉(つと)めたる心の内、よく見え透(す)きて、憫(あわ)れにもまた可笑(おか)しかりし。否(いな)彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口惜(くちお)しく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数年(すねん)の辛苦を徳とせられ、大抵(たいてい)代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復(ま)た当年の苦艱(くかん)を顧(かえり)みる者なく、そが細君すらも悉(ことごと)く虚名虚位に恋々(れんれん)して、昔年(せきねん)唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄耀(えいよう)に汲々(きゅうきゅう)として借金賄賂(わいろ)これ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡(うた)わるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、妾(しょう)が重井のために無上の恥辱を蒙(こうむ)りたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、厭(いや)になったら、また善(よ)いのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に裂(さ)けたる口かな。何たる教訓ぞや。


 見よ彼らが家庭の紊乱(びんらん)せる有様を、数年間(すねんかん)苦節を守りし最愛の妻をして、良人(りょうじん)の出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶(くもん)を覚えしめ、淫酒(いんしゅ)に耽(ふけ)り公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に溺(おぼ)れ、果(はて)はその子にまで無限の苦痛を嘗(な)めしむるもの比々(ひひ)として皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ過(あやま)ちなりけれ。この上は自(みずか)ら重井との関係を断ち翻然(ほんぜん)悔悟(かいご)してこの一身をば愛児のために捧(ささ)ぐべし。妾不肖(ふしょう)なりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一文(いちもん)たりとも彼が保護をば仰がじと発心(ほっしん)し、その旨(むね)言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を執(と)り、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激昂(げっこう)せられて、人を以て厳しく談判せんなど言い罵(ののし)られけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更如何(いか)に責(せ)めたりともその効(かい)あらんようなく、かえって恥をひけらかすに止(とど)まるべしと、かつ諌(いさ)めかつ宥(なだ)めけるに、ようように得心(とくしん)し給う。


 それより妾(しょう)は女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を嫂(あによめ)は刺繍(ししゅう)科裁縫(さいほう)科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論近郷(きんきょう)よりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の憂(う)たてさよ、明治二十五年の冬父上風邪(ふうじゃ)の心地(ここち)にて仮りの床(とこ)に臥(ふ)し給えるに、心臓の病(やまい)さえ併発して医薬の効なく遂(つい)に遠逝(えんせい)せられ、涙ながらに野辺送(のべおく)りを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその跡(あと)を追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの間(ひま)もなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾遣(や)る方(かた)もなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、僅(わず)かの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来貧窮(ひんきゅう)の家計は、ほとほと詮(せん)術(すべ)もなき悲惨の淵(ふち)に沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、辛(から)くも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖柱(つえはしら)とも頼みたる父上兄上には別れ、嫂(あによめ)は子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の憐(あわ)れを告げければ、妾は身の不幸不運を悔(くや)むより外(ほか)の涙もなく、この上は海外にも赴(おもむ)きてこの志(こころざし)を貫(つらぬ)かんと思い立ち、徐(おもむ)ろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん端(はし)なくも後日(こじつ)妾の敬愛せる福田友作(ふくだともさく)と邂逅(かいこう)の機を与え給えり。
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 これより先、明治二十三年の春、新井章吾(あらいしょうご)氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時妾(しょう)は重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一度(ひとたび)交誼(こうぎ)を結ばんとの念はありしなるべし。ある日関東倶楽部(かんとうくらぶ)に一友人を尋(たず)ねし時、一紳士(いつしんし)の微笑しつつ、好処(よいところ)にてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾の方(ほう)に近づき来りて、慇懃(いんぎん)に挨拶せるは福田なり。そは如何(いか)なる御用にやと問い反(かえ)せしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、尤(もっと)も表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば御越(おんこ)しなさるるも宜(よろ)しけれど、実の処、一方(ひとかた)ならぬ困窮に陥(おちい)りて学校らしき体面をすら装う能(あた)わずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたる体(てい)なりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、小石川(こいしかわ)竹早町(たけはやちょう)なる同人社(どうにんしゃ)の講師として頗(すこぶ)る尽瘁(じんすい)する所ありしに、不幸にして校主敬宇(けいう)先生の遠逝(えんせい)に遭(あ)い閉校の止(や)むなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、頻(しき)りに妾の不運を慰めしが、その後(のち)両親との意見相和(あいわ)せずして、益※(二の字点、1-2-22)不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、果(はて)は妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、御身(おんみ)は妾と異なりて、財産家の嫡男(ちゃくなん)に生れ給い、一度(ひとたび)洋行してミシガン大学の業を卒(お)え、今は法学士の免状を得て、芽出(めで)たく帰朝せられし身ならずや、何故(なにゆえ)なればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ今日(こんにち)重ねてこの不運に遇(あ)いて、あわや活路を失わんずるものとは、同日(どうじつ)の談にあらざるべしと詰(なじ)りしに、実に彼は貧(ひん)よりもなおなおつらき境遇に彷徨(さまよ)えるにてありき。彼は忽(たちま)ち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、御身(おんみ)の言葉違(たが)えり、仮令(たとえ)ばその日暮(ひぐら)しのいと便(びん)なきものなりとも、一家団欒(だんらん)の楽しみあらば、人の世に取りて如何(いか)ばかりか幸福ならん。素(も)と自分の洋行せしは、親より強(し)いて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより一毫(いちごう)の愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、自暴(やけ)より思い付ける遊学なりき。されば両親も自ら覚(さと)る所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを得(え)、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、志(こころざし)はまた事と違いて、昔に優(まさ)る両親の処置の情(なさ)けなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて他出(たしゅつ)することの数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)なりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて遂(つい)に父上の怒りに触れ、かかる放蕩(ほうとう)者の行末(ゆくすえ)ぞ覚束(おぼつか)なき、勘当せんと敦圉(いきま)き給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸落魄(らくはく)の身なり、不徳不義なる日本紳士の中(うち)に立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼は忽(たちま)ち活々(いきいき)しく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、真心(まごころ)より打ち出(いだ)されて、遠き沙漠(さばく)の旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさ慕(した)わしさの余りより、その後数※(二の字点、1-2-22)(しばしば)相会しては、身にしみじみと世の果敢(はか)なさを語り語らるる交情(なからい)となりぬ。ある日彼は改めて御身(おんみ)にさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる折柄(おりから)とて、直ちに承諾の旨(むね)を答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに披露(ひろう)して、それより同棲(どうせい)することとなり、一時睦(むつ)まじき家庭を造りぬ。


 その頃の新聞紙上には、豪農の息子景山英(かげやまひで)と結婚すなどの記事も見えけるが、その実福田友作(ふくだともさく)は着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽豪傑連(にせごうけつれん)よりは、酒色(しゅしょく)を以て誘(いざな)われ、その高利の借金に対する証人または連借人(れんしゃくにん)たる事を承諾せしめられ、果(はて)は数万(すまん)の借財を負(お)いて両親に譴責(けんせき)せられ、今は家に帰るを厭(いと)いおる時なりき。彼は亜米利加(アメリカ)より法学士の免状を持ち帰りし名誉を顧(かえり)みるの遑(いとま)だになく、貴重の免状も反古(ほご)同様となりて、戸棚の隅に鼠(ねずみ)の巣とはなれるなりき。可哀(かわい)さの余りにか将(は)た憎(にく)さにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって貰(もら)わんとて、学問はさせしに非(あら)ずと、実(げ)に親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に嘗(な)めさせ、なお帰らねば廃嫡(はいちゃく)せんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱負(ほうふ)理想を枉(ま)ぐべきに非(あら)ずとて、彼は諾(うべな)う気色(けしき)だになければ、さしもの両親も倦(あぐ)み果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の計(はかりごと)をなさん者と友人にも謀(はか)りて英語教師となり、自宅にて教鞭(きょうべん)を執(と)りしに、肩書きのある甲斐(かい)には、生徒の数(かず)ようように殖(ふ)えまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国許(くにもと)より父の病気に托して帰国を促(うなが)し来ることいと頻(しき)りなり。已(や)むなく帰省して見れば、両親は交々(こもごも)身の老衰を打ち喞(かこ)ち、家事を監督する気力も失(う)せたれば何とぞ家居(かきょ)して万事を処理しくれよという。素(もと)より情には脆(もろ)き彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、事(こと)を分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に累(わずら)いを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細(しさい)あれば、多年の苦学を空(むな)しうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌(きげん)見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責(しっせき)したり。已(や)むなく前言を取り消して、永く膝下(しっか)にあるべき旨(むね)を答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人(でんぷやじん)と共に耒鋤(らいじょ)を執(と)り、貴重の光陰(こういん)を徒費(とひ)せんこと、如何(いか)にしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴(な)れぬ養蚕機織(はたお)りの業(わざ)を執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各※(二の字点、1-2-22)(おのおの)長ずる道により、世に立つこそよけれと悟(さと)りければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許(しょうきょ)の資本の分与(ぶんよ)を乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵(ののし)られ、忽(たちま)ち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂(つい)に再び流浪(るろう)の客(かく)となりて東京に来り、友人の斡旋(あっせん)によりて万朝報社(よろずちょうほうしゃ)の社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。


 これより漸(ようや)く米塩(べいえん)の資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切屑屋(くずや)に売り払い、遂(つい)には火鉢の五徳(ごとく)までに手を附けて、僅(わず)かに餓死(がし)を免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙(ひっし)の尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾(しょう)をして、坐(そぞ)ろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素(もと)より貧窶(ひんる)に馴(な)れたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門(けんもん)の令夫人よ、御身(おんみ)が偽善的儀式の愛に欺(あざむ)かれて、終生浮ぶ瀬(せ)のなき凌辱(りょうじょく)を蒙(こうむ)りながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃(ひそ)かに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸如何(いか)なりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴賤(きせん)の別なきを知る、智愚(ちぐ)の分別(ふんべつ)なきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦(かんぷ)に対するの処置を以てまた姦夫(かんぷ)に臨まんことを望むものなり。東洋の女子特(こと)に独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷(ざんこく)なる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独(ひと)り男子の罪のみに非(あら)ず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与(あずか)りて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽(たちま)ち路頭に迷わんとの鬼胎(おそれ)を懐(いだ)き、何でも噛(かじ)り付きて離れまじとは勉(つと)むるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇(きかつ)を恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉(ろうぜき)に遭(あ)いて、黙従の外(ほか)なきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾(しょう)の首肯(しゅこう)する能(あた)わざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途(みち)なきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧(かえり)みるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情(ちじょう)に溺(おぼ)れたりという莫(なか)れ、妾が良人の深厚(しんこう)なる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万(すまん)の財を棄つること、あたかも敝履(へいり)の如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常(ただ)ならぬ身となり、事皆志(こころざし)と差(ちが)いて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎(てつろう)とは命じぬ。


 しかるに生れて二月(ふたつき)とはたたざる内に、小児は毛細気管支炎(もうさいきかんしえん)という難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭(いと)うことなく、住居を離(さ)る十町ばかりの築土八幡宮(つくどはちまんぐう)に参詣(さんけい)して、愛児の病気を救わせ給えと祷(いの)り、平生(へいぜい)嗜(たしな)める食物娯楽をさえに断(た)ちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次(ぜんじ)快方に赴(おもむ)きければ、単(ひとえ)に神の賜物(たまもの)なりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後(のち)久しく参詣を怠らざりき。


 妾幼(よう)より芝居寄席(よせ)に至るを好(この)み、また最も浄瑠璃(じょうるり)を嗜(たしな)めり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機(おり)に触れては勧め誘(いざな)いたれど、既に無形の娯楽を得たり、復(ま)た形骸(けいがい)を要せずと辞(いな)みて応ぜず。ただわが家庭を如何(いか)にして安穏(あんおん)に経過せしめんかと心はそれのみに奔(はし)りて、苦悶の中(うち)に日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協(あわ)せ、僅(わず)かに職を得たりと喜べば、忽(たちま)ち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労一方(ひとかた)ならず、彼やこれやの間に、可借(あたら)壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心許(もと)なさ。


 かくては前途のため善(よ)からじと思案して、ある日将来(ゆくすえ)の事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機(おり)よくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便(びん)を得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半(なか)ば友人より、その他は非常の手だてにて調(ととの)え、渡韓の準備全く整(ととの)いぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客(かく)たりし朴泳孝(ぼくえいこう)氏らも大政(たいせい)に参与し、威権赫々(かくかく)たる時なりければ、日本よりも星亨(ほしとおる)、岡本柳之助(おかもとりゅうのすけ)氏ら、その聘(へい)に応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺(さいおんじ)侯爵(こうしゃく)もまた勅(ちょく)を帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立(おもだ)ちたる人々に交わりを求むるも難(かた)からず、またかの国法務大臣徐洪範(じょこうはん)は、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立(しゅったつ)の日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨(さまた)げられ、万事に失敗して御身(おんみ)にまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行(こう)によりて、聊(いささ)かそを償(つぐな)い得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重(ちんちょう)にせよかしとて、決然袂(たもと)を分(わか)ちしに、その後(のち)二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実(げ)にも悲しき運命なるかな。


 これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難(かた)きを憂(うれ)い、その極高利貸(こうりかし)をして、福田が家資分産(かしぶんさん)の訴えを起さしめ、かくして彼の一身(いっしん)を縛(しば)り、また公権をさえ褫奪(ちだつ)して彼をして官途に就(つ)く能(あた)わざらしめ、結局落魄(らくはく)して郷里に帰るの外(ほか)に途(みち)なからしめんと企てたり。されば彼の仁川(じんせん)港に着するや、右の宣告書は忽(たちま)ち領事館より彼が頭上に投げ出(いだ)されぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金(かね)をも調達して最愛の妻や病児をも跡(あと)に残して、あかぬ別れを敢(あ)えてしたるなるに、慈愛はなかなか仇(あだ)となりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担(にな)いつつ、折角(せっかく)新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調(ととの)え、漸(ようや)く帰京の途(と)にはつき得たるなりき。


 横浜に着すると同時に、妾(しょう)にちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色(がんしょく)常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意(ほい)なき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸(だんちょう)の思いなりしならんに、日頃耐忍(たいにん)強き人なりければ、この上はもはや詮方(せんかた)なし、自分は死せる心算(しんさん)にて郷里に帰り、田夫野人(でんぷやじん)と伍(ご)して一生を終うるの覚悟をなさん。かく志(こころざし)を貫(つらぬ)く能(あた)わずして、再び帰郷するの止(や)むなきに至れるは、卿(おんみ)に対しまた朋友(ほうゆう)に対して面目なき次第なるも、如何(いかん)せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂(つい)に膝下(しっか)に仕(つか)えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児(じ)のために犠牲とならん、何とぞこの切(せつ)なる心を察して、姑(しば)らく時機を待ちくれよという。今は妾も否(いな)みがたくて、終(つい)に別居の策を講ぜしに、かの子煩悩(こぼんのう)なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子(いっし)を分ちて、家庭の冷(ひや)やかさを忘れしめよとあるに、これ将(は)た辞(いな)みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和(やわら)げんよすがにもと、遂(つい)に哲郎をば彼の手に委(ゆだ)ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐(そぞ)ろに熱涙(ねつるい)の湧(わ)くを覚ゆるぞかし。


 かくて彼は再び鉄面を被(かぶ)り愛児までを伴(ともな)いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極帰家(きか)せしを喜び、何(なに)とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫(ごう)も慈母の撫育(ぶいく)に異(こと)なることなく、終日その傍(かたわら)に絆(ほだ)されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体(てい)にて親(みずか)ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾(しょう)に対してさえ、毎月若干(じゃっかん)の手当てを送るに至りけるが、夫婦相思(そうし)の情は日一日に弥(いや)増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男侠太(きょうた)の誕生(たんじょう)間もなく、親族の者より、妾に来郷(らいきょう)の事を促(うなが)し来りぬ、されば彼はこれに反して、私(ひそ)かに来らぬこそ好(よ)けれと言い送れり。そは妾にして仮(よ)し彼の家の如き冷酷の家庭に入(い)るとも到底長く留(とど)まる能(あた)わざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥(はる)かに身体(からだ)一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒(いたずら)に彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞(いな)みて行かざりしに、親族は躍気(やっき)になりて来郷を促し、子供のために、枉(ま)げて来り給えなどいと切(せ)めて勧めけるに、良人(りょうじん)と児(じ)との愛に引かれて、覚束(おぼつか)なくも、舅姑(きゅうこ)の機嫌(きげん)を取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪(あくせく)することとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。


 されど妾の如き異分子の、争(いか)でか長くかかる家庭に留まり得べき。特(こと)に舅姑(きゅうこ)の福田に対する挙動の、如何(いか)に冷(ひや)やかにかつ無残(むざん)なるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚(さと)りては、針の筵(むしろ)のそれよりも心苦しく、仮(たと)い一旦(いったん)の憤(いきどお)りを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃(ひそ)かに帰京せんと謀(はか)りけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能(あた)わざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然廃嫡(はいちゃく)の事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾先(ま)ず帰京して彼の決行果して成就(じょうじゅ)するや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下(しっか)に留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉(しゅうび)を開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行(りこう)せん下心なりしに、悲しい哉(かな)、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病(やまい)を惹(ひ)き起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓(こうこう)に入りて、ほとんど治(じ)すべからざるに至り、時々(じじ)狂気じみたる挙動さえ著(いちじる)しかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚(ひらつか)辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ怠(おこた)りなかりしに、積年の病終(つい)に医する能(あた)わず、末子(ばっし)千秋(ちあき)の出生(しゅっしょう)と同時に、人事不省に陥(おちい)りて終に起(た)たず、三十六歳を一期(いちご)として、そのまま永(なが)の別れとなりぬ。
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 アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚(はなは)だしきはなかるべし。妾(しょう)も一旦(いったん)は悲痛の余り墨染(すみぞめ)の衣(ころも)をも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調(ととの)うるを名として、別家(べっけ)の際、分与(ぶんよ)したる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる体(てい)に持て做(な)して、その実は再び本家(ほんけ)の有(ゆう)となしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊更(ことさら)遺族の饑餓(きが)をも顧(かえり)みず、一列(いっさい)投げやりの有様なれば、今は子らに対して独(ひと)り重任を負える身の、自ら世を捨て、呑気(のんき)の生涯を送るべきに非(あら)ずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊口(ここう)に苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑(きゅうこ)を訪(と)いて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、漸(ようや)く若干の小遣い銭(せん)を送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰児(えいじ)を哺育(ほいく)するの外(ほか)、なお二児の教育の忽(ゆるが)せになしがたきさえありて、苦悶(くもん)懊悩(おうのう)の裡(うち)に日を送る中(うち)、神経衰弱にかかりて、臥褥(がじょく)の日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、妾(しょう)もしあらずば、如何(いか)になり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に酬(むく)ゆるの道も立てと、自ら大いに悔悟(かいご)して、女々(めめ)しかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して溺(おば)れざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の忌明(きあ)けを以て、自他相輔(あいたす)くるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その所思(しょし)を有志に謀(はか)りしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、角筈(つのはず)女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、日本女子恒産会(にほんじょしこうさんかい)を起して、特志家の賛助を乞い、貸費生(たいひせい)の製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。

   日本女子恒産会設立趣旨書

恒(つね)の産(さん)なければ恒の心なく、貧(ひん)すれば乱(らん)すちょう事は人の常情(じょうじょう)にして、勢(いきお)い已(や)むを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに恒(つね)の産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本生(ほんせい)を全(まっと)うせしめんとするは譬(たと)えば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する能(あた)わざるなり。
今や我が国都鄙(とひ)到(いた)る処として庠序(しょうじょ)の設けあらざるはなく、寒村(かんそん)僻地(へきち)といえどもなお※(「口+伊」、第4水準2-3-85)唔(いご)の声を聴くことを得(う)、特(こと)に女子教育の如きも近来長足(ちょうそく)の進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに欣(よろこ)ぶ所なり。されど現時(げんじ)一般女学校の有様を見るに、その学科は徒(いたずら)に高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨(むね)とし以て奢侈(しゃし)贅沢(ぜいたく)の用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権門勢家(けんもんせいか)の令閨(れいけい)となる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出(いだ)すに足らず。これ実に昭代(しょうだい)の一欠事(いつけつじ)にして、しかして妾らの窃(ひそ)かに憂慮措(お)く能(あた)わざる所以(ゆえん)なり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、能(よ)くその所天(おっと)を援(たす)けて後顧(こうこ)の憂(うれ)いなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所天(おっと)に訣(わか)るることあるも、独立の生計を営みて、毅然(きぜん)その操節を清(きよ)うするもの、その平生(へいぜい)涵養(かんよう)停蓄(ていちく)する所の智識と精神とに因(よ)るべきは勿論(もちろん)なれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢寒(きかん)困窮(こんきゅう)のその身を襲(おそ)うなく、艱難辛苦(かんなんしんく)のその心を痛むるなく、泰然(たいぜん)としてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを嘱(しょく)すべきものは絹手巾(きぬはんけち)の刺繍(ししゅう)これなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万打(ダース)その原価ほとんど三百余万円に上(のぼ)り我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその後(のち)の趨勢(すうせい)は頓(とみ)に一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高益※(二の字点、1-2-22)(ますます)減退するの悲況を呈するに至れり。これ固(も)と種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不斉一(ふせいいつ)なると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも可(か)なり、鑑(かんが)みざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大仕掛(おおじかけ)の製造盛んに行われ、低廉(ていれん)なる価格を以て、能(よ)く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律(せんぺんいちりつ)風致(ふうち)なく神韻(しんいん)を欠くを以て、単(ひとえ)に実用に供するに止(とど)まり、美術品として愛翫(あいがん)措(お)く能(あた)わざらしむる事なし。しかるに経済社会の進捗(しんちょく)し富財(ふざい)の饒多(じょうた)となるに従って、昨日の贅沢品(ぜいたくひん)も今日(こんにち)は実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手工(しゅこう)の妙技を逞(たくま)しうせる天真爛漫(てんしんらんまん)たるものに外(ほか)ならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細技(さいぎ)に天稟(てんりん)の妙を有する我が国女工を以てす、あたかも竜(りょう)に翼(つばさ)を添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如何(いかん)ぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉一(せいいつ)を計り、かつ姑息(こそく)の利を貪(むさぼ)らずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩日(さき)に女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧窶(ひんる)の中(うち)に救い、これに授(さず)くるに生計の方法を以てし、恒(つね)の産(さん)を得て恒の心あらしめ、小にしては一身(いっしん)の謀(はかりごと)をなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその緒(ちょ)に就(つ)けり。
乃(すなわ)ちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才拙(せつ)なり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷情(ちゅうじょう)禁ぜんとして禁ずる能(あた)わざるものあればなり。希(こいねが)わくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙(なんだ)あらば、来りてこれを賛助せられん事を。
  明治三十四年十一月三日
設立者謹述(きんじゅつ)

 この事業はいまだ半途(はんと)にして如何(いか)になり行くべきや、常なき人の世のことは予(あらかじ)めいいがたし、ただこの趣意を貫(つらぬ)かんこそ、妾(わらわ)が将来の務めなれ。

     *         *         *

 三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今覚(さ)めたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん乎(か)、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。退(しりぞ)かん乎、襲(おそ)うて寒(かん)と饑(き)とは来らん。生死(しょうし)の岸頭(がんとう)に立って人の執(と)るべき道はただ一(いつ)、誠を尽して天命を待つのみ。





底本:「妾の半生涯」岩波文庫、岩波書店
   1958(昭和33)年4月25日第1刷発行
   1983(昭和57)年10月17日第25刷改版発行
   2001(平成13)年11月7日第28刷発行
底本の親本:「妾の半生涯」岩波文庫、岩波書店
   1958(昭和33)年4月25日第1刷発行
初出:「妾の半生涯」東京堂
   1904(明治37)年10月25日
※底本では、二行どりの小見出しの下から、本文が組みはじめられています。
※表題は、底本では「妾(わらわ)の半生涯(はんせいがい)」となっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2005年6月25日公開
2022年2月23日修正
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