その一
『監獄といへばあたまから、善人の行くべき処でないと思ふ人が多い。なるほどそれは国事犯者の少数と、ある一二の項目に触れて禁錮された、人々とを除いたならば、まるつきり、純潔無垢なるものの、行くべき処でないには相違ない。さらば青天白日とかいふ、監獄の外に居るものは、既往と将来とは知らず、現在では、純潔無垢なものばかりかといふに、なかなかさうはゆかぬてや。この中にはかの有名なる、判官の弄花事件もあつた、議員の収賄事件もあつた。顕れた事実は少数だが、それに類した事が、現在いくら行はれつつあるかもしれぬ。否行はれてゐるのである。先づ例を卑近な辺に採らふならば、わづかの金を振りまはして、格外の手数料、利子などを貪り、貧民の生血を吸つてゐる恠物もある。がこれらは咎め立するほどの、
価値ある罪人ではない。それよりも、もつと大きな罪人には、
尸位素餐、爵禄を貪つてゐる上に、役得といふ名の下に、いろいろな不埓を、働いてゐる
徒輩もある。がまだその上には上がある。君国を売る奸賊、道徳を売る奸賊、宗教を売る奸賊、これらはあらゆる奸賊の中でも、最も許し難き奸賊ではないか。しかるにこれらの大奸賊といふものに、なつてくれば、なかなか公然と張つてある法網に触れて、監獄といふ、小さな箱の中へ這入るやうな、
頓間な事はしない。俯仰天地に恥ぢずといつたやうな顔をして、否むしろ社会の好運児、勲爵士として好遇され、畏敬され、この美なる神州の山川を汚し、この広大なる地球を狭しと、横行濶歩してゐるではないか。されば天地間、いづれに行くとしても罪人の居ない処はない。いはばこの娑婆は、未決囚をもつて充満されてゐる、一個の大いなる監獄といつてよいのである。ただその中で思慮の浅い、智恵の足りない、行為の拙なものが、人為の監獄に投ぜらるるまでなのである。しからば監獄を限りて、罪人の巣窟と思ふのは、大いなる浅見ではないか。故に予はむしろこの小さき、否愚かしき、真個憫むべき人間を捉へて、罪人といふのに忍びぬのである。』
と、さすがに職業柄だけに、市ヶ谷監獄署面会人控所にて、大気焔を吐きたまふは、この頃某県より東京へ転貫の、
猪飼弁三といふ弁護士殿なり。地方は知らず、東京では、あまり新しき御議論でもなけれど、場所が面会人控所だけに、打集へる人々、いづれも多少監獄内に縁故ある身とて、そぞろ同情の想ひに動かされ、それ位の事と思ふ人も、
実にもつともと頭を垂るるほどの仕儀、まして
ぽつと出の田舎親爺、伜の不所存ゆゑ、こんな
おつかない処へ来ねばなんねえと、正直を看板の
赤毛布に包まれたる連中などは、いづれも
あつと感じ入り、今更のやうに弁護士殿のお顔打仰ぎ、一躰何ていえお人だんべいと連れの男に囁く、ここ大当りの光景に、猪飼先生いよいよ反身になりたまひ、
傍に苦笑する二三の人あるにも心注かず。かつて覚えの政談演説に、国許で
やんやといはせたる時の事など、咄嗟の間に憶ひ出て、
おほんと一声
衆囂を制し、
『しかるをいはんやここは面会人控所ではないか。檻内の者はとにかく、面会を乞ふものその者に、果たして何の罪がある。これ実に世のいはゆる晴天白日の人、即ち天下公衆の一人ではないか。それも罪三族を
夷すといふ、蒙昧な時代ならばいざ知らず、この昭代でありながら、面会人までも罪人同様に、かくの如く薄汚なく、かくの如く疎雑なる、はたまたかくの如く
不待遇極まる建築所に、控えさせておくといふは、これあに昭代の微瑕ではないか。殊にその中には予輩の如き、名誉職の職務上来りをるものあるをや』
と、
はつきりといひ切りたきところを、さすが結尾の一節だけは、舌鋒を鈍らし、
むにやむにやとお口の内に噛み殺したまひしは、天晴れお見上げ申したる御仁躰なり。
されどかく、しばしば感歎を促されては、さうは問屋がと余談に移るものあるを、弁護士殿は苦々しげに見てゐたまひしが、ふと傍に控えたる少年の、これこそはさもさも同情の想ひ、眉宇に溢れたるを、
うい奴と発見したまひ。
『君はいつも見る顔だが、一躰何の事件で来てゐるのだ。よく感心にたびたび遣つて来るの』
君と呼ばれたる少年は、年の頃十五六、小柄なれば七位にもや。浅黒き顔に黒木綿の羽織、麁末なる
身装ながら、どこやら冒しがたき威風ありげに見ゆるも、眼光の人を射ればか。じろりと弁護士が前半面を見下して
『はあ、父が来てゐるのです』
『ふむ、未決か、既決か』
『既決といふ外はありません、昨日確定裁判を下されたのですから。それがどうしたです』
妙に人に喰つてかかりさうなる気色を、弁護士殿は、微笑をもて迎へながら。
『ふむ、さうか、それはいけなかつたな。一躰どういふ、罪名を付せられたのだな』
少年は猪飼への答といふよりも、むしろ己が感慨に迫られて、我知らず口を開き。
『そ、それが実に間違つとるんです。全躰は人の委託金ですが、使用の特権をその所有者から許されてゐたんです。だから良し費消したところで、民事の制裁を受くべきものであるに、
彼奴為にするところあつて、突然と予審廷へ告訴したんです。しかるにもとより懇意な間柄であるから、合意といふ証左が、父の手許に取つてない。為にとうとう委託物費消といふ汚穢なる罪名を付せらるるの、残念なる次第に立到つたのです。実にまるで誣告されたんです、不当なる判決を下されたんです、立派な冤罪に逢つたんです』
はなはだしく憤慨して腕を扼し、思はず高声にいひ放ちしが、辺りに佇める押丁と顔見合せ、さすがに口を噤みたり。弁護士殿は、やをら巻煙草の灰をはたき、
『ふふむ、さうか、委託物費消か、いやよくある奴だ』
少し冷やかなる調子なりしが、理性は前刻の、卓論を繰返して黙するを許さず。
『まあいいさ、さう怒る事もない。軽罪だから直き出られるさ。最長期としたところで知れたものだからな』
少年は勃然として、弁護士の顔を見上げ、
『三年です、その人に依つては、長くもない時日でしやう。だが一日の破廉恥罪と、十年の国事犯罪とは、あなたはどちらをお取りになりますか。父はいやしくも郷里では、県会の副議長にも挙げられた人間です、地方の政党幹事をも、遣つてゐた人物です。そして初期の衆議院には、いくばくの国民を代表した代議士であり、のみならず僕の家は、近県に誰知らないものはない、数百年連綿の旧家です。その士、その家の主人が、破廉恥罪の名によつて、今後三年を
囹圄の裡に送るが、それが短い日月でしやうか、父に取つての軽罪でしやうか。父の生涯と、自分の生涯は、これでもつて全く葬られてしまつたんです。栄誉ある家系に、拭ひ難き汚泥を塗られたんです。それでもあなたは、軽罪とおつしやるですか。えツ』
骨鳴り、肉躍る少年の気色に、弁護士少し敬重の意を傾け、自から詞も丁寧に、
『いや失言しました、ごもつともです。もつとも再審は御請求なさるでしやうな』
『もちろんしました、二回まで上告して、二年の時日を未決檻に、空しく送つた上の今日です』
『なるほど』
『実に今の判官には目がないです。文字の外には、読むべき証拠を見得ないです。だから僕は充分法律を研究して、
無辜の同胞を救ひたいといふ、考えを持つてゐるんです。どうでしやう弁護士になるには、どの位かかりませう』
『別に造作はないです、四五年もやれば沢山です。一躰御郷里はどこですか、東北ですか、西南ですか』
『東北です』
『では宮城か、福島辺でいらつしやるですか』
『はあ先づその辺です』
折から押丁の声として、大村耕作面会人、大村一郎――ツと罵るかの如く呼立つるに、少年はチヨツと舌打して、弁護士に目礼を施し、奮然として出で行きぬ。跡に弁護士殿は自問自答。
『ふむ、大村耕作といつたな、なるほど忘れてゐた、さうだ、それだ。では
彼子は国にゐた時分、七八歳だつたから、僕の顔を見覚えない筈だ。感心に気骨があるやつだ、今度逢つたら是非聞いて見なくツちやあ。随分大村には世話になつたんだから』
その二
神田鎌倉河岸の葬具屋に並びて、これも白木の看板麗々しく、東京地方裁判所所属弁護士、猪飼弁三事務所の、その名は満都に隠れあれど、まんざら三百でなきは、八百屋のお払ひ滞らぬにも知られ、米屋酒屋の掛乞よりは、訴訟人の足繁きに、さても東京は結搆な処と、東京の有難さ身に染みたる奥方の、詞のなまり、身のつくりも、やつとお国の垢抜けしに、我もいささか肩身広き心地してと、口の悪き
三が湯屋での陰口も、露知りたまはぬ奥方は、三を唯一無二の、幕僚と信じたまひ、またしても旦那どののお手柄ばなし、今度は五千円の訴訟に勝ちたまひし、やがては一万円の公事にもと、耳のお正月はさせたまへど、ついしか双子の一反驕りたまはぬは、根がお国出の悲しさと、三はこれを御奉公の疵にはすれどそれだけまた勤めよき処もあればと、奉公人の方より主人の相場入るるを、奥様夢にも知りたまはば、さても東京は恐ろしい所と、この一ツでも呆れたまふべけれど、全く御存じなき内が、田舎の香失せぬ、有難きところなるべし。
されば上は玄関番の書生より、下は台所の斑に至るまで、勤めやうでは、勤めにくくもなき筈を。いかはしけむ、書生の一人、大村一郎といふ無骨もの。これのみはとかく奥様の御意に召さず、またしてもお小言戴くを三の笑止がり。あの奥様は威張らせてさへ置けば御機嫌よきに、逆らひなさるから、お前様は損だよ。手よりは口の方上手に働かすが、このお邸の肝要ぞやと、
六韜三略無束脩に皆伝せし深切を、一郎は有難しとも一礼せず。それは婦女子のすべき事だ、僕なんぞにそんな事は出来ぬ、またする気もない。有りのままでお気に入らずばそれまでだ、お前なんぞの指図は受けぬと、強情ものの一徹に、いふて除けしを、むつと癪に障え。それよりは矛を
倒まにして、とかく一郎の事を悪しざまにいふ、曰く因縁御存じなき奥方は、これをも三が忠勤の一ツには数へたまひながら、相変らず襟一掛をとのお気は注かぬに、どれもこれもと、三はおのれ一人、江戸ツ児なるを口惜しがりぬ。
奥様は今がた旦那どの、玄関に見送らせたまひ。書斎のお掃除、これのみは、小間使の手にも掛けず、御自分のもちになりたるを片付けたまひ。さも大仕事したる跡なるかのやうに、
ぺたり仲の間の火鉢の傍によりかかりたまひ。ああ
草臥れたと長煙管お手にしたまふ。この所作はまだちと似合ひあそばさぬやうなり。
三は来たなと、今まで板場に骨休めし身を、急に起こして立働く、流しもとの忙しさ、奥様殊勝と見遣りたまひ。
『お前もちつとお休みな、今日は横浜へお出になつたのだから、夕方でなくツちやあ、お帰りはあるまいよ。お昼食は要らないのだから、まあ安心さ』
三はぬらしたばかりの手を、大形に拭き拭き
『さやうでいらつしやいますか、道理でいつもより、お早くお出掛だと存じましたよ、じやあ今日はお留守事に、お洗濯でもいたしますか』
『ああどうせして貰ひたいんだけれど、まあ少し位後でもいいよ。どふもお天気が変だから』
いひながら、お庭の方を見遣りたまひ、旦那どののお机の上に、視線を触れて。
『おおさうさう忘れてゐた、郵便を出させろとおつしやつたんだに。大村は居るかえ』
『はいいかがでございますか、ちよいと』
と立ちて大村さん大村さんと呼びながら玄関の襖を明け、
『おやまたどつか行ツちまつたんだよ。奥様居りませんでございます。いつでもね、あなた』
と、三ははや奥様の、御立腹を促し顔なり。
『さうかえ、まただんまりで出て行つたんだらう。
真実に困るねえ、大村にも。今日は誰も居ないんだからつて、さういひ付けといたんだに、また無断で出たのかねえ。困るねえ、いくら無作法だつて、あんな男もないもんだよ』
奥様は大村の為に、郵便の事は忘れ果てたまひたるらし。三は大なる腰を、敷居際にどつと据え。
『さやうでございますとも、真実にいけ好かない人でございます。奥様の前でございますが、私達にでもああしろかうしろツて、旦那様よりか、いつそ威張つてるんでございますもの。どこの書生さんだつて、あんな書生さんもないものでございます。私も随分これまで書生さんの在るお邸に、御奉公も致しましたが、大村さんのやうな方は始めてでございますよ。だから私はこちら様へ上りました当季は、御親類の、若旦那様ででもいらつしやるかと存じましたに、
尋常の書生さんでもつて、あれでは、どう致して通れるもんではございません』
『ああさうだともさうだとも。だから私はいつも旦那様にさう申し上げてゐるんだけれど、御自分で連れていらしつたもんだから、打遣つて置け打遣つて置けとおつしやるんだもの。真実に困つちまうよ。あれでは書生を置いとく、甲斐がないじやないか』
『真実にさやうでございますねえ。お庭のお掃除一ツしやうじやなし、自分で遣う
洋燈まで、人に世話を焼かせておいて、勉強で候のツて、さう威張る訳もないじやございませんか。旦那様の御用ではございますまいし、自分の勉強をさせて戴くのを、鼻に掛けてるんでございますもの、でもそれだけならまだしもでございますが、奥様が何かおつしやつても、直ぐ風船球のやうに膨れるんでございますもの。奥様あんな書生さんをお置きあそばさないでも、いくらもよい書生さんがございますよ。旦那様にさうおつしやつて御覧あそばせな』
とはどこにか思召の、書生様ありと思し。奥様はむろんといふ風に、煙管をポンと叩きたまい。
『仕方がないのよ、いくら申し上げたつても』
『おやなぜでございます』
奥様はじれつたさうに、火箸もて、雁首をほじりたまひながら、
『なぜツてね、別に躰した訳もないんだがね、旦那様があれの親にお世話、いゑ何ね、世話になんぞおなりあそばしやあしないんだけれど、同じ国でお
知己であつたもんだから、それでよんどころなく、めんどうを見ておやりあそばすのさ』
『へー、あんな人にでも親がございますか』
『ホホホホ
可笑な三だよ、誰だつてお前親はあらうじやないか』
『へー、でもあなたついしか、親の事なんぞ、申した事がございませんもの。もつとも私達に話すなんて、そんな優しい人じやございませんけれど』
『そりやあその筈さ、あつてないやうなものだから』
『へー、じやああんな人ですから、親だつても、寄せ付けないんでございますか』
『何ね、さうじやないんだよ、父親は監獄に這入つてるんだもの』
『おやおやおや、奥様、じやあ盗人の子でございますの。まあ驚きましたねえ。道理で』
と、三は呆るる事
半
ばかり、何をか自問自答の末、急に
しよげたる調子にて。
『奥様つまらない事を致しましたねえ私の銭入も、全くあの人に、取られたのでございますねえ』
『え、銭入ツて何』
『はいこないだ失くなしました』
『ふむむむ、いつか通りで買つて来たつて、見せたのかえ』
『へい、それに
はしたを少々ばかし、入れておいたのでございますが、それがさつぱりこないだから、知れないんでございますもの』
『だつてお前、それはこのあいだ
遺失したといつたじやないか』
『へい、遺失したんだとあきらめておりますのでございますが、さう承つて見ますると、少し変でございますよ。どうもあなた、遺失した覚えがございませんのですもの』
この三いつも遺失したものを、心に覚えてすると見へたり。奥様もやうやく釣り込まれたまひ。
『さうそりやあ何ともいへないよ。まあよく考へて御覧、まさかとは思ふんだけれど、いよいよとなれば調べなければならないから。何しろあれの親も、盗人じやあないが、お金を遣ひ込んで這入つたんだといふからね』
折しも
次間に人の気配、奥様誰ぞと声かけたまへば、大村でござるといふ声の、噛付くやうに聞こへしにぞ、さてはと奥様お奥へ逃入りたまふに、三も
とつかは流しもとへ
退らむとしての出合頭、ぬつと入来る一郎に突当られてアイタタタタ。馬鹿奴ツ、眼を明いて見ろの一声に、当られ損の叱られ徳、疵もつ足の痛さにつけても、三はいよいよ抵抗の気を昂めぬ。
その三
それよりは一郎三との衝突日に烈しきを、あはれ調停の任に当りたまふべき奥方の。何事ぞいつも三の神輿をかつぎ出されたまひ、三が肩には奥様の、光明輝く悲しさに。一郎は毎度泣寐入の、夜毎の夢にも、かの陰口のみは忘れかね。己れやれよくもこの一郎を、盗み根性ありとまで評せしよな。他事はともあれこれのみはと、半夜の衾を蹴つて起き出る、力は山を抜くべきも、ぬきさしならぬ食客の身の悲しさは、理非を旦那どのの前に争はむ力の抜けて。おのれ馬鹿女め、今に見よと、両の拳には、一心に青雲を握り詰むれど、これとて雲を
握む話と、嘲られてはそれまでと、恥を忍び垢を含む一郎が無念無言を。覚えあればぞあの無言、情の剛きあの人に、似ぬ
温和しさは
てつきりさうと、いよいよ乗ずる三の蔭口、車夫の力松、小間使のおせかまで、異な眼つきにて我を見る、返す返すの心外さに、もう堪忍がと立上る、その足許には奥様の合槌、打つて出られぬ口惜しさの、積り積りて的の外れ。かくまで我を痛罵する、あの蔭口を、猪飼の知らぬ筈はなし。知らずばかれこれ不明、不明にあらずばこれ不仁、いづれに我が先生と仰ぐべき器にあらずと。一念ここに僻みてよりは、斜めに見る眼の観察は狂ひ。その以前より猪飼が仕向け、その意を得ずとも思はれて、今は猪飼に対する、敬意を欠くにも至りしにぞ。さらでもかねて奥の訴訟、なるほどここをいひをつたと、証拠を竢つて判断する、旦那殿は商売柄。一号証より、二号証、三が詞も参考の、一ツに供するやうになりては、また一郎を、善しと思はぬ気色見ゆるにぞ。負けじ魂の一郎が口惜しさ。この人までもさあらむには、何の青雲ここにのみ日は照らじ。高山大嶽至る所、我が攀ぢ登るに任すにあらずや。百難を排し千艱を衝いても、やがては天下に濶歩すべき、この大健児の、
首途を見よやといはぬばかり。
敵手に取つて不足なき、敵には
背後の見せ易く、奥様と三に忍びし一郎の、旦那殿には忍び得で。
溝水も泡立つ七月の天、およそものその平を得ざれば、なるほど音高き日和下駄響かせて、我からそこを追出しは、とつて十九の血性漢なりし。
その四
飯田町何丁目の、通りを除けし格子造り、表は三間奥行も、これに
合ひたる小住居ながら。伊予簾の内や床しき爪弾の音に、涼みながら散歩する人の足を止めて覗へば。奥深からぬ縁側に、涼しさの翠も滴る釣しのぶ、これと並びては岐阜提灯の影、ほの暗けれど。
くつきりと際立ちし襟もとの、白さは隠れぬ四十女、後姿のどこやらに、それ者の果ての見へ透きて、ただは置かれぬ代物と、首傾けて過ぎ行くを。向ふ側の床机に集ひし町内の、若い衆達の笑止がり。いかに青葉好ましき夏なればとて、葉桜に魂奪はれて、
傍の初花に心注かぬとは、さてもそそくさき男かな。その母よりも美しき、その娘にお気は注かぬのか。とはまたきつい御深切、通りかかりの人にまで、あの娘を風聴したきほどの、深切があるならば、とてもの事に母子の素生、それはお調べ届きしか。さりとては野暮な沙汰、男気なしの女暮しで、三日に挙げず、料理の御用、正宗の明瓶を屑屋があてに来るといへば、いはずと知れた商売柄、知れぬは
弗箱の
在所ばかり。さあその弗箱の在所が己れは気にかかる。かかつたところで仕方なし、こればかりは
政府でさへも、所得税は徴収せぬに、要らぬ詮索止めにせいと、さすが差配の息子殿は真面目なり。
折から来かかる一人の男、
安価香水の香にぷむと。先払はせて、
びらりと見へし薄羽織、格子戸明けて這入ると同時に、三味の音色はぱたりと止まりぬ。
『おや中井さんお出でかえ、さあずつとお上り』
と
榛原の団扇投げ与ふるは、かの四十女なり。
『へい奥様、お嬢様』
と中井はどこまでも、うやうやしく挨拶して。
『いやどうも厳しいお暑さでございます、せつせつと
歩行て参つたもんですから』
と言ひ訳して、ぱたぱたと袖口より風を入れ、厭味たつぷりの絹
手巾にて滑らかなる額を押拭ふは、いづれどこやらの後家様で喰ふ、雑業も入込みし男と見へたり。
『これでさつぱり致しました。しかしお邸はたいへんお風通しが宜しいやうで』
と、事新しくそこら見廻すを、年増は軽くホホと受けて。
『中井さんお邸なんて、そんな事はよしておくれ。真実に今の躰裁では赤面するからね。これでも住居には違ひないんだけれど』
『いやごもつともでござります』
と、ここ
ほろりとなりしといふ見得にて、わざと声の調子を沈ませ。
『実に浮世でござりますな。これでもと申しては、失礼でございますが、私どもにとりましては、結構な住居でございますが、さう思召すも、御無理ではございません。あつは世が世でいらつしやいましたならば』
といふに年増は
掌を振りて
『もうもう、そんな時代な
台辞で、私を泣かせておくれでない。それよりかお前この節は、たいそう景気がよいさうだから、もう幾度か歌舞伎座へ行つたんだらう。そんな話でもしておくれ。くさくさしていけないから』
『ヘヘヘヘこれは
大失策、大失礼を致しました。ついおいとしいおいとしいが先に立つもんでございますから。
肝要のお話が後になつて、禁句が先へ出違ひと、申すはこれも今夕の禁句ホイ』
と
掌にて我が額を叩き、
可笑味たくさんの身振にて、ずつと膝を進ませ。
『実はその少し耳よりなお話で伺つたのでございますがやはり
おちは歌舞伎座と申す訳。ヘヘヘ失礼ながら奥様お嬢様には、まだどちらへも御縁はお極りあそばしませぬか』
こなたも耳よりなる話に、年増もぐつと乗出して、思ひ出したやうに手を叩き、氷と、そして何かお肴をと急に小女にいひ付くるも、現金なる主人振なり。中井はしめたと腰据えて。
『実はその何でございます。名前は少し申し上げかねますが、さる新華族様の若殿が』
『ふむむむむむ』
と冒頭第一、気受けよき様子に、中井はいよいよ乗地になり
『実はその若殿様と申すは、御養子様なんでいらつしやいますが。その奥方のお姫様と申すが、まだ十五のおぼこ気ばかりではなく。一躰にちと訳のある御
性質で、とても奥様のお勤めが、お出来あそばさぬと申すところから。そこは通つた大殿様、新華族様だけにお呑込みも早く。
乃公に遠慮は要らぬから、奥の代はりになる者を、
傍近く召使ふがよいと。さばけた仰せに若殿様も、御養子のお気兼なく、お心のままと申す訳になつたのでございますが。さてさうなつて見ますると若殿様も、うつかりしたものをお邸へ、お呼びとりになると申す訳に、参りませぬと申すのもさういふ訳でございますから、奥方は表向きのお
装飾物ばかり、内実はそのお方が、御同族方への御交際向きから、下々への行渡り、奥様同様のおきりもりを、あそばさねばならぬ訳でございますから。御当人様ではまるで奥様を、お探しになるやうな思召、
婢妾といふやうなものでは、とてもそれだけの用に立たない。その当人の器量次第では、妾と思はぬ、奥として
待遇ふほどに、そこを万々承知して一ツよい奴、いゑ何よいお嬢様上りのものを、周旋してくれまいかとの、仰せを蒙りましたので。なるほどこれはごもつともと、私も首をひねりまして、是非どふかお世話をと、存じますのではございますが、さてさうなりますとむづかしいもので、私もまるで御
媒介の、大役を仰せ付かつたやうなもの。お妾様ではないないの、奥様と申すがむづかしいところどうもちよつとござりませぬので。ヘヘヘヘいゑ決してこちら様の、お嬢様をと申す訳ではござりませぬ。お懇意なお先にでも、ひよつとそんな方が、いらつしやいますまいかと存じまして。ヘヘヘヘいやどうもむづかしい探し物で』
としきりに妾といふを気にする様子を、年増は別に心に留めず。
『いいじやあないか、お妾だつて。それならまるで奥様同様だわね。それで何かえ、お手当はどういふんだえ』
『へいそれはもう、どうでもお話がつきませうでございます。華族様の若殿様でいらつしやる上、二三年前外国へ御修業にお出になつて、私共には分りませんが、何だか片仮名で有難さうな、お肩書が付いてゐるんでございますから、ただ今は御自分様で、お小遣金は御充分に、お取りになつてをりまするところへ、親御様から表向きの、お手当はあらうと申す訳でございますから、失礼ながらお二人や、お三人口位は、楽々とお過ぎになる位の事は、充分に出まする見込でげす。どうせあなたそれでなくちやあ、埋まらない話でございますからヘヘヘヘいやまたどうにもその辺は私が』
と存外
談話の
てうしもよく、運ぶ肴の前に並べば。
『そりやあいい話だね。まあ一ツお
飲り。私もお
あひをしやうから』
と、一口飲みて中井へさし、それよりは二人にて、さしつ抑えつ飲みながらの密議、互ひにしばしばうなづき合ひ。
『じやあその返事次第、歌舞伎座へ
是娘を連れて、ゆくとしやう。お前の方でも手ぬかりなく』
『それは万々承知の、助六は堀越が一世一代、その狂言の当りよりも、こちの揚巻さまが大当り、やんやといはせて見せまする』
『ホホホホ、お前の承知も久しいもんだ。いつかの写真が、やうやく今日御用に立つたといふ訳だから』
『これはきついお小言、ありやうは奥様と申すに、あまりどつとした口はないもので』
『それはいふだけお前が野暮だよ。旦那のお顔に対しても、こちらからはどこまでも、生真面目に出掛けらあね』
『いやこれは重々恐れいつたいは、こんな事にひけとらぬ中井才助、今日といふ今日、始めて一ツの学問を』
『ホホホホ馬鹿におしでない。そんな事はどうでもよいから、そこをどうぞ
甘くね』
『もちろん仰せにや及ぶべきでげす。じや奥様これでお暇乞を、明日は早朝に先方へ参りまして、茶屋と日限を取極めました上、いづれ重ねて御挨拶を。随分重くろしいのが、気に入る方でございますから、当日はお嬢様極彩色でお出掛を』
と、無礼の詞も慾故には、許す
母娘がにこにこ顔。おさうさう様といふ声も、いつになき別誂へ。小女までも心得て、直す雪駄のちやらちやらと。揃ひも揃ひし馬鹿者めと。鍵の手になりし三畳の間より、ぬつと出で来し一人の書生鼠にしては珍柄の、垢染の浴衣腕まくりして、座敷の真中にむづと坐し、罪なき皿小鉢睨め廻すは、この家に似合はぬ客人なりかし。
その五
そもこの男を誰とかなすと、この人の出端だけは、堅くるしく、書かねばならぬ大村一郎。ついでながらその身の上のあらましを記すべし。
一郎が父耕作といふは、かつても彼がいひし通り、宮城にては、隠れなき旧家の大地主。その分をだに守りなば、多額納税の、数にも入るべき身上なりしに、小才覚ありて素封家には、似合はしからぬ気力ありしが、その身の禍、明治も廿、廿一の、政海の高潮四海に漲りて、大同団結の大風呂敷、ふわりと志士を包みし中に、捲き込まれての馴れぬ船出、乗合とてはいづれを見ても、某々の有力家、その来往を新聞に、特書せらるるほどの国士ながら、金力には欠乏を感ずる饑虎の羊となりて、耕作が前にはやつちややつちや、下へは置かぬ
待遇方。某の伯爵殿の前にも政客の、上坐を占むる客将の楽しさ、なかなか小作の与茂作や太五兵衛に、旦那旦那と敬はるる類にあらずと。一足飛びの
ゑらものに成済ませし、嬉しさの込み上げて、それよりは東京住居、家族も芝辺に引取りて、やれ何倶楽部の集会で候の、政社組織の準備のと、とかくに金の要る相談掛けらるるも、
乃公ならでは夜の明けぬ、頼みある中の同盟やと、ぐつと乗地のきた南。東西へ遊説の費用までも引受けて、瞬く隙に財産を蕩尽せし壮快の夢、跡をひきし廿三の春。敵味方入り乱れの戦場に、三百の椅子のその一ツを、占しが因果同志との、悪縁これに尽くる期を失ひて、なほも丹心国に許す、殊勝なる心掛を、新聞屋の京童は嘲りて、田舎議員の口真似を、傍聴筆記の御愛嬌に売る心外さ。その新聞の伝はりては、ゑらものと誉めし郷里の親族までも、酔狂ものと指弾する、表裏反覆頼みなの、世の人心を警醒の、木鐸となる大任は我が双肩に、かかる奴等を驚かさむは、政党内閣の世となして、乃公は少なくも次官の椅子を占むる時にこそあれと、力めば力むほど要る費用、なかなか八百の歳費では、月費にも足らぬ月のあるを、国許より御随行の奥方は危ぶみたまひ、形の通りの御諫言もありしかど、
婦女幼童の知る事ならずと、豪傑の旦那殿、一口に叱り飛ばしたまふに、返さむ詞もなさけなの、家道の衰へ見るに忍びず。その心配の積り積りて、軽からぬ御いたつき。そを憐れとは見たまはで、政事家の妻たるものが、そんな小胆な事では、とても今后の乃公には伴はれぬ。かの泰西大政事家の夫人を見よと、奥方はかつて聞きたまひし事もなき、むづかしき名を数へ立てたまひての御説諭。分らぬながらにごもつともと聞かねば、その場が納まらねど、納まりかねるお胸の内。旦那殿にはこの三四年、物の恠がついたさうなと、お熱高まりし夜の
囈語にも、この言をいひ死にに。これも間接には国事に殉したまひし憐れさを、旦那殿はかへつていひ甲斐なきものに思ひ捨てたまひ。それについてもかねてより、秘密会議の席をかねて、赤阪に囲ひ置く妾のおあか、かれは大年増の芸者上りだけに、図太いところが好個の資格と、さすがは藩閥攻撃の、旦那殿程ありて、やはり野に置け蓮花草の、古句法には

らず。これを草莽に抜きたまひし御卓見、小子一家の内閣は、早交迭を行ひしぞと、笑談交り、真面目半分、吹聴したまふ事もありしとかや。
さればさしづめおあかの方は、一郎が母となりし訳なれど、稚きより剛気の一郎、なかなかこれを母と呼ぶを
肯んぜず。おあかは無理にも、息子待遇にせむとするを、こなたはそれに抵抗して、母といはじの決心堅く。十三の春おあかが奥方となりし年の翌年、父に乞ひてある漢学先生の家塾住居。稀にも家へ帰らねば、双方が胸の高潮は昂まりながら、幸いに甚だしき衝突もあらで、一二年は大村が家も、無事大平の観を呈しき。
おあかはその間に万事己が意に任せて、したきほどの栄耀し尽くし、一郎が事は少しも搆はねど。一郎が妹とくといふは、女の子だけに己れに手なづけ、
姿容のよきを幸ひに、玩具代はりの人形仕立、染れば染まる白糸を、己が好みの色に仕入れ、やがてはしかるべき紳士の奥方に参らせむ心の算段。何かにつけて議員さまの、奥様は、こんなものぞといはぬばかり、妙なとこまで旦那殿が、お名前の張持出して、外交に伴ふ内政の方針、これまた無鉄砲なる大仕掛に。驕るもの久しからぬ、四年の任期疾く過ぎて、次回再選の運動費は、出処進退
谷まりし、脊に腹は代えられずと、一時の融通齷齪たる、破れかぶれの大功には、はや細瑾の省み難く。首も廻らぬ借財の、筋の悪きを聞付けて、得たりや応と攻め掛けし、反対党の
爪牙に罹り、そが煽動の出訴により、思はぬ外の監獄入り。世を落選の耕作が、万事休せし一期の淪滅、家の激動、一郎が学びの窓を破壊して。書に親しまむ少年の、春は柳の千縷蕭條、いとくり返し読み得しは、紙より薄き人情の、立つて歩行くが人の名と、思へばさして世の中に、誉れを得むの心はなけれど、冷笑痛罵の奴原を、驚かしくれむづの、心は期する将来の、大名故には螢雪の苦労を積まむ志、あれどもなきが如くする、君子の徳は養はで、執拗我慢の性情の、募り行きしも境遇なれや。この日猪飼を出てより、行くに家なき身のせつぱ、つまるところが父のもの、子が喰ひに行くに何の不思議と、苦し紛れの一理屈。日頃はこれも憤懣の、一ツとなりし継母の住居。父が難儀を傍観の、母娘二人が事欠かぬ、暮しは絶えぬ古川の、水の流れを売喰ひの、この小格子をおとづれしなり。
その六
おつかさんとはいひたからぬ、おあかの顔に瞳を据え。
『一体今の奴は、何といふ奴です。失敬極まるじやないですか、徳を妾になんて』
といふは我への面当と、おあかはわざと冷やかに。
『いいじやないか何だつても。お前あれを知らないかえ』
『何知るものですか、あんな奴ツ』
『ホホホホまたお株が始まつたよ。あれはね、ほら芝に居た頃、始終出入りしてゐた袋物屋さ』
『袋物ツて何です。どふせ正当の商売じやないでしやう』
『困るねえ、袋物は袋物さ。
せいとの商売か、先生の商売か、そんな事は知らないが、何しろお父様もよく御存じの人だよ』
『……………』
『さういつちや気に入らないかしらないが、あれだけはよく感心に尋ねてくれるよ。外の者は随分御贔負になつた者でも、見向きもしないんだけれど』
『それがいけないです。
彼奴為にするところがあるからです』
『何、為になんぞなるものかね、今の躰裁だもの。人をツ、私だつてそれ位の事は知つてるよ。まんざら人のおもちやにやあならないからね』
一郎はしばし無言、やにはに談話一歩を進め。
『それで何ですか、いよいよ徳を妾にお遣りなさるんですか』
『ああ仕方がないからね。さうでもしなけりやお前。二人の口が干上ツてしまわうじやないか』
『これやあ恠しからん。なぜそんなら妻に遣らないのです』
『ホホホホお前も未だ了簡が若いね。そりやその筈さ、自分では
一廉おとなのつもりでも、まだ兵隊さんにも、行かれない年なんだからね。まあよく積つても御覧、お父様はあんなだし、荷物といつちや何一ツ出来やうじやなし。それで何かえ、立派な方がお嫁に貰つてくれますかえ』
『そりやあります、先さへ好まなければ』
『さうさ、大きにさうさ、それでもよくまあ感心に、先さへ好まなけりやあといふ事を、知つてお出だね。それならば話すがね、なるほどお前のおいひの通り、巡査か、小学校の先生位のところなら、これでも御の字で貰つてくれやうがね。それではお前
此娘の一生も可愛さうだし、また一人ツぽちになつた、私は誰が養ひますえ、お前は今でもたくさん家に、
財産があるとお思ひか知らないが、さうさう居喰も出来ないよ。今までだつて、私が
遣繰一ツで
維持せてゐたればこそ、居られたもの。そこへお前が帰つて来ては、三人口の明日の日を、どうして行かうといふところへ、お前は少しも気が注かぬかえ。それとも代言さんの
許に、二年ほども居た身躰、見ン事お前の腕一ツで、お父様のお帰りまで、私をどうにかしておくれかえ。そこさへ極まれば私だつて、お徳を妾に遣りたくあなし、直ぐにも思案を変えやうわね、さあその返事をしておくれ』
弱身につけ入る強面、憎しと思へど母といふ、名には叶はぬ痩腕の、油汗を握り詰め
『そ、それは無理です、私は未だ修業中の身躰です』
『それ御覧、それならお前も無理じやないか。修業中なら修業中のやうに、なぜ私にお任せでない』
『そ、それは任せます、もとより任せてゐるのです。だが徳は私の妹です、お父様の娘です。それがどうして、妾になんぞ遣れるもんですか』
『これは面白い、聞きませう。ではお前何かえ、私に耻をかかすんだね。かくべき耻なら、かきもしませう。なるほど私は妾上り、芸者もしたに相違ない。だが今では大村耕作の、家内で通るこの身躰を、見ン事お前はお徳の母でないといひますかえ。さあ聞きどころ聞きませう』
と詰寄する権幕の、売詞には買詞
『もとよりさうです、母でない、この一郎は最初から』
『母と思はぬこの家へ、なぜおめおめとお帰りだ』
『もちろん出ます、直ぐ出るんです』
と畳を蹴立つる一郎の、出たれば結句厄払ひと、落着き払ふ母の顔、
怖々ながら見ぬ振して、妹のそつと袖ひくに、一郎はふと思ひ出し。
『むむ徳、貴様も己れと一所に来い』
『あら兄さん嫌ですよ。そんなに怒るもんじやあないわ。早くお母さんにおあやまりなさいな』
『馬鹿ツ、貴様も己れの妹じやないか』
『だから兄さんもここにいらつしやいツてば』
『馬鹿ツこれが分らないか、大馬鹿の、無神経めツ』
『
むしだつてしやうがないわ。兄さんなんぞについて行つたら、どこへ連れて行かれるか、知れやしないわ』
『なんだと。では貴様妾に遣られても、搆わんか』
『仕方がなけりやあなりますわ』
『うぬ、父上の顔汚しツ』
怒りに任せて蹴り仆すを、待ちかねておあかのさし出。
『さあさあもつと蹴つておくれ。お徳を蹴るのは私へ面当、さあさあたんと蹴られませう』
その七
紅塵万丈の都門の中にも、武蔵野の俤のこる四ツ谷練兵場、兵隊屋敷をずつと離れて、権田原に近き草叢の中に、
露宿せし一人の書生。寐ぬに明けぬと告渡る鳥より先に起き出て、びつしよりと湿りたる襟元を、気味悪さうに掻き合せながら。
『ああつまらない、実に残念だ。世間は広く人間は多きも、恐らく至る所に逆遇を蒙る、僕の如き者も珍しいだらう。
昨霄飯田町を飛出して、二里ばかりの道を夢中に、青山の
知己まで
便つて行けば、
彼奴めたいがい知れとる事に、泊まつて行けともいはないんだ。頼むのも残念だからと思つて、
露宿をやつてみたが、やつぱりあんまりいい心持はしないわ。どうしても人間の居る所へ、行かねばならぬかなあ。さうだ僕も人間だ、血あり肉ある身躰だ。健康を害してはつまらんからな。だが待てよ、無一物ではやつぱり食客だ、食客もつまらんなあ。どうしやうかしらむ。いやさうじやない、艱難汝を珠にすだ。さうださうだ、これ程の艱難を下さるる僕は、よほど天帝の寵児であるに相違ない。非常な大任を負はさるべき身躰であるに相違ない。してみると僕の身躰は、なかなか麁末に扱ふ訳にはゆかないぞ。むむ、よしこれからは一ツ、忍耐といふ事を遣つてみやう。張良が
履を捧げたところだね。それでなくツちやあ事は成就しないからな。ただ困るのは黄石公だ、今の世にそんな奴が居やうかなあ。と、いづこを
目的に行くでもなく、ふらふらと赤坂離宮の裏手まで来かかりしに、
背後より肩をソと突く者あり。
『大村、たいさう早いね。どこへ行つたんだ』
これも同じ兵子帯連ながら、大きに工面よき方と見へて。新しき紺飛白の単衣裾短かに、十重二十重に巻付けしかの白
金巾は、腰に小山を築出して、ただみる白き垣根のゆるぎ出たらむ如くなり。
『うむ、君か』
と大村が力なき返辞を恠しみて。
『どうしたんだ。つまらむ顔をしてるじやないか』
『むむ』
『どこか悪いか』
『むむ』
『またうむか、よせよせうなるなあ。どうしたんだ一躰』
『どうもしない、歩行とる』
『ハハハハ君、君やあどうかしてるぜ。気を注けなきあいかんぞ』
『なぜ』
『なぜツて君、その顔色はどうだ。まるで草の中から這出したやうだぜ』
『うむツ』
と大村は少し驚き。
『ど、どうして君はそれを知つとる』
『知る筈じやあないか、今現に見とるんだから』
『うツ、見たつて、己れが出るところをかい』
『ハハハハ馬鹿、そんな屁理屈をいふもんじやない。形容詞だ』
『さうか、さうならさうといへばよいに』
やや安心の躰なりしが、なほも心の咎めてや。
『君、真に形容詞か』
『知れた事さ』
兵子帯は、無造作にいひ放ちしが、いかにも不気味といふ風にて。
『真実に君どうかしてゐるよ。どこまで行く、僕が送つてやらう』
しきりに注目しながら連れ立つを、大村は迷惑がり。
『小田君先へ行くよ、急ぐから』
『急ぐなら僕も急ぐさ。その方が勝手だ』
ともども早足に歩みながら、なほも友情禁じ難くや。
『君真実に顔色が悪いよ。いつそ僕の
許へ来ないか。僕は今国野の許に居るんだ』
『う、国野ツて、国野為也か。あれは黄石公とはゆくまいか』
『君何をいつてるんだ。国野だよ、知つとるだらう、開明党の』
『知つとるさ。だから聞くんだ』
『聞くまでもないじやないか。本職の代言も
甘いが、それは流行らないから、利器の持腐りだ。だが政治家としての大名は、子供でも知つとるじやないか』
『さうさ、だから確かめたいんだ、どういふ人物かを』
『うむさうか、それなら分つとる。そりやあ非常な人傑さね。世間では破壊党と誤解されとるが、どうして僕等に対しては、まるで君子だ、驚くべき謙徳家だ。実に書生を愛するよ。だから誰でも身命を
擲つてもよい気になるんだ。既にこの僕の仕着せなんぞも』
と小田はわざわざ袖口を引張つて見せ。
『先生がこないだ時計を質に遣つて買つてくれたんだ。十人の書生に
一様の仕着せさ。ゑらいじやないか、それで自分は甘んじて、鎖ばかり下げて歩行てるんだ。どうだ猪飼なんぞに、真似も出来やあしまい。僕なんぞも、今まであすこに居たら、やつぱり妻君の小言ばかり喰つとるのさ。君も相変らずかね』
『いや変つた』
『どう変つた。少しはよくなつたか』
『なあに、出ツちまつたんだ』
『そりやあゑらい。そしてどこに居る』
『どこにも居ない』
『どこにもツて君、寐起きする処が、あらうじやないか』
『ない』
『ふざけたまふな、喰仆しに行きあしないよ』
『そ、さういふ事をいふからいかん。僕がそんな卑劣な男かい。じやあいはう、
昨霄は練兵場で寝たんだ』
『むむ、さうか、それで分つた。だから僕が草の中から、這出したといつたに、ギツクリしたんだな』
『うむ』
『ハハハハこれは大笑ひ、実に一奇談だ。それでやうやく安心した。実はね君があんまり、とんちんかんな挨拶ばかりするもんだから、僕は少々心配してたんだが、それならばいい、もう大丈夫だ。そして君これから行く処があるのかい』
『いやそれはまだ極まらんのだ』
『さうかひ。それじやあやつぱり、僕と一所に、先生の許へ来ないか、神田だ。僕も実のところ昨日青山の
親族までいつて、昨霄帰る筈なのが遅くなつたんだから、そこをごまくわすに都合がいいんだ。いやこれは僕の内情だ。それよりか君、おそらく先生のやうな人は、外にあるまいよ。君が居る気なら一ツ頼んでやらう』
『どうだかなあ、君買被つとるんじやないか』
『どうして。何しろまあ来てみるがいい』
話しながら行く程に、二人の足はいつしか学習院の前を過ぎ、四ツ谷見附にさしかかるに。老幹拮掘たるお濠端の松が枝、曙光を受けて青緑掬すべく、さながら我を歓迎するかの趣あるにぞ。大村はここに濛々の境を脱し、微かながらも快哉を叫ぶを、小田はおもむろに顧みて。
『どうだ君、四ツ谷見附がさしづめ
下
の
※橋[#「土へん+已」、161-4]だ。そして今時の黄石公は不性だから、居宅へ張良が逢ひに行くとはどうだ。ハハハハ』
その八
世に奥様なき家ほど、不取締なるものはあるまじ。一廉のお邸の、障子は破れ、敷台には十文以上の足の跡、縦横無尽に砂もて
画かれ、
履脱ぎには歯磨きの、唾も源平入り乱れ、かかる住居も国野てふ、その名に怖ぢて、誰批難するものはなく。かへつてこれを先生が、清貧の
標幟と渇仰するも、人、その人にあればにや。一郎は小田が導きにて、詞を費すまでもなく、父が名にも不憫加はりて、門下に在るを許されしかど。始めは例の半信半疑、心ならぬ日を送る内にも、なるほど小田がいひしに違はず。上下和楽を無礼講、礼なきに似て礼あるも、弟子の心、服せばか。ものある時は牛飲馬食、一夜の隙に酒池肉林、傾け尽くすその楽しき、師弟の間に
牆壁を置かず。ものなき時は一書生の、湯銭にも事欠く代はりには、先生が晩餐の膳に、菜根を咬んで甘んずる、無私公平の快さ、良し土用中十日風呂へ這入らねばとて、これが
不快きものでなし。現に我がこの家へ来りし時も、浴衣の見苦しければとて、惜気もなく新しき浴衣脱ぎ与へられてよりは、洗濯のつど着るものに事欠きたまふ様子、何とこれが権畧と見られうぞと。次第に心解け初めては、日となく夜となく新しき、感服の種子加はりて。一郎が胸にはついぞ覚えなき感謝の念のむらむらと、頭を
擡げし気味悪さ。己れツ人間といふろくでなきものに対し、そんな事では困るぞと。かねて嫌ほど経験の、その反動の憤懣憎悪、伴ひ来むが恐ろしさに。我と我が身の心の戦ひ、独り角力の甲斐はなく、あはれやこれも先生が、慈愛の前には
ころりころり。その抵抗力をひしがれて、夏も氷の張詰めし、胸はうざうざ感服と、感謝の念に
熔けさうなり。
さあれ一応二応の、敗れには屈せぬ一郎、なほも数年の鉄案を、確かむる大敵ござんなれと。冷えし
眼に水せき込みて、覗へば覗ふほど。我に利なきの戦いは、持長守久の外なしと。疑ひの
臍さし堅めて、手を
拱き眼を
つぶりたる一郎の。果ては魔力かよしさらば、彼いかんに人情の奥を究め、人心の弱点に投じて、かくも巧みに人を籠絡するとても、我こそはその化けの皮、引剥いてくれむづと。ここにも思ひを潜めたれど、先生は居常平々淡々、方畧も術数も、影の捉ふべきものだになき、無味一様の研究に倦みて。幾十日の后不満ながらも、得たる成績取調べしに。その魔力ぞと思しきは、無私公平、己れを捨てて他を愛する、高潔の思想に外ならざりき。ここに至りて頓悟したる一郎、よしこれとても最巧の、利己てふものにあらばあれ。その名正しくその事美なり、我この人に師事せざるべからずと。それよりはその始め、一種異様の、強項漢なりし一郎の、変れば変る変りかた、為也が前には骨なく我なく、ただこれ感激てふ熱血の通ふ、一塊肉と、なり果てしぞ、不可思議なる。
それよりは一郎、人の平和に暇の出来、一意専念法律の、書冊にのみ親しみて、己が前途にのみ急ぐを。同門の書生といふよりは、壮士輩の嘲りて、
『おい大村、また書物と首ツ引かひ。よせよせそんな馬鹿な真似は。今からゑんやらやつと漕付けたところで何だい。仕入の弁護士か、志願して、判事に登用されたところで、奏任の最下級じやないか。先生の幕下に属しながら、そんな小さな胆玉でどうなるか。せめて政談演説の、下稽古でもやつてみろい。舌三寸で天下を、動かす事が出来るんだ。僕なんぞは書物といつたら、いつから見ないか知れやしない。それでも政党内閣の代になつて、先生が外務大臣にでもなりや、僕はさしづめ英仏の、公使位には登用されるんだ、その内にやあまたたびたび交迭があつて、いつかは内閣の椅子も、譲られうといふもんだ。君もせつかく書物が好きなら、せめて国際法でも調べておいて、秘書官位にや遣つて貰ふやうにするがいい。ハハハハ』
と面搆へだけは先生に譲らぬ、虎髯撫で下ろして冷笑するは。この家に古参の壮士の都督殿なり。
小田はさすが忠実に、
『君実に悪い事はいはなひから、少しは周囲の、光景といふ事に気を注けてくれたまへ。先生がかうたくさんに書生を置いとくのは、何も門下から学者を出さうといふつもりではない。いはば緩急の用に応ずる、壮士を準備しておくといふも、一ツの目的なんだから、君間には撃剣でもやつてみたまへ。それぢやあまるでいつも君が痛罵しとつた、
尸位素餐の官吏も同じ事ぢやないか』
とこれは重きを、未来の警部にでも置けるらし。皮肉家の一人さし出て。
『君等は大村の人物を、誤解しとるから、そんな失敬な事をいふんだ。大村の厳父は政論壇上に立ちながら、ことさらに国事犯閥を避けて、平民的常事犯をもて問はるるの所為を選んだ人傑ではないか。してみると今この令息が、先生の下風に立つて、功名の前途を取るを
屑しとせず。三百代言的弁当料を得るの方針を取るも、乃父に譲らぬ人傑じやないか』
と、どつと笑ふもこの日頃。為也の別て、一郎が気骨を愛し、古参を超えて任用の、一ツは秘蔵の愛嬢が、教科書の復読をさへに、これに托したるを妬めば、得意につけ、失意につけ、さても至るところ冷笑の多き世や。
その九
従前の一郎ならば、かかる事にも眼に角立てべきなれど、今は為也が無言の徳に化せられ、鋒芒を収めたる一郎。よし笑はば笑へ罵れば罵れよ。我には我のせむやうありと。なほも
孜々机にのみ倚りかかる。不性を咎むる奥様のなく、三も大勢の書生様の噂、一々身に引受けむ暇のなければ、幸いに女性の崇りはなけれど。今年十五の御愛嬢、母御におくれたまひしが、もの読む事を好みたまひて。一郎が不骨なるその代わり、他の書生輩の如く騒々しからず。丁寧綿密にその質問に、応じくるるが嬉しさに、大村大村と慕ひたまふ。これのみいつも婦人を、敵に取りし一郎の、上もなき有難迷惑ながら。その無邪気にて清楚なる姿容、凜たる気性の寒梅一枝、霜を凌げる趣ある。いづれはこれも師の俤と。なれてはさして迷惑ならず。せめてはこれを報恩の、一端にもと志す、殊勝なる心掛。さすがに性の順に
復りて、真面目の見へ初めしに、そのお覚はいよいよめでたく。国事の私事に忙しき御身も、今宵は珍らしく来客の絶えたればと、特に一郎を呼び入れたまふ。先生とは始めての対座、理想の慈父とは仰ぎながら、さてさし向ひては語らひし事のなき。身はさながらに恋人の、前に出たる処女の如く。他人にならば張肱の、拳の置き場はいづくぞと。やつとの事で膝の脇、かくし処を求めしが、精いつぱいの動作なりし。
先生は例の、淡泊なる調子にて。
『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終
忙しいもんだから、聞きもしないが、御親父は御壮健かね』
人も人、言も言。一郎は覚えず熱涙一滴。
『はい達者で居るやうでござります』
『さうか、それは結構だ。選挙の際には、随分卑劣の手段が行はれるからね』
先生は何をか、憶ひ出て感慨一番したまひし後。
『それで何か、君は何をやるつもりなんだ』
『はい、いろいろな妄想も起こつて参りますが、ともかく父を引受けねばならぬ身躰でござりますから。第一着に弁護士で地歩を固め、その以上の事は、後に決定致したい考へです』
『なるほどそれも宜しい。空論空産では仕方がないからね。しかし君の志望は、別にあるといふ事は知つとるから。順序を追つて、充分に遣るが宜しい。出来るだけの保護は必ず与へるから』
対話はこれに過ぎざりしも、言々急所を刺したればか。一郎はこの一二言に、百万の味方を得たるよりも心強く。さてこそ我を知る人は、この先生の外にはあらじ。我はこの知遇に対しても、将来必ず為すところあらざるべからずと、深くも心に刻み込みぬ。
その十
それよりいくばくの月と日は、一郎が境遇にも変化を与へず。心裡も平和に過ぎ去りしに。俄然政海の、光景は一変して、頼みきつたる民党の、かれもこれも猟官沙汰。前車の覆轍、後車なる、開明党の殷鑑とはならで、因果はめぐる小車を、我も己れもと轢らせつ。人の失意を我が得意、出世の門に急ぐなる、その失躰は前車といづれ。誰も鴉の雌雄は知らねど、鷺を鴉と争はれぬ、暗き心根世に知れて、絶えぬ噂はこれ一ツ。駿馬の骨のそれならぬ、国士の果てはさても重宝。死しても皮を留むなる、獣の皮は幾十倍、
高値く売れても、人といふ、その価の下がるが気の毒と。世間の評判朝夕に、一郎が耳にも伝はれど。ともすれば熱血迸らむとする政談に耳傾くるは、今の青年時代にあらじ。父が出獄もほど近きにと。わざと冷淡を装ひて、素知らぬ顔の一郎が、聞き捨てならぬ一報の、またもや耳辺に轟き来ぬ。そは一郎が唯一無二の師と頼みて、その高節を仰ぎ、その徳量を慕ふなる国野為也の。近日挙げられて某省の次官となるべく、またこれを承諾せしといふ一報なり。
さあれ風声鶴涙に驚きて、先生の清操を疑ふは、知遇に
負くの罪大なりと。わざわざ小田が耳語を一笑に付し去りし一郎も。さすがに全くは忘れかね、つらつら邸内の、光景に目を注ぐに。思ひなしかや、昨日は一昨日よりも、今日は昨日よりも、打傾かるるもの多く。かつては一郎が悲歌慷慨せざるを笑ひてし、都督殿が面には、何となく喜色顕れしさへあるに。その日の夕べかねてより、あらゆる志士と、政府の間に斡旋して、人材登用の、中門の鍵を預れりとの噂ある、有名なる権畧家、朝野渡といへるが訪ひ来りて、先生との密談久しかりし際。一郎はふと用事のありて、その応接所の廊下まで至りしに。障子を漏れし主客の対談。
『じやあいつ辞令を下させてもいいね』
『さうさ。だが四五日は待つてくれ。少し都合があるから』
聞き耳立てし一郎の、俄に立止まりしその気配に、中止となせし話し声。誰だと先生の声かけたまふに、決然として大村と答へ。踵を返して書生部屋に、この大疑問の、解釈を試みんとする一刹那。またも一郎が机の上に、一郎を驚殺するの一封書は載せられゐぬ。
『何ツ、父上は御病死とや。獄内にツ、ちゑー残念ツ』
その一書を握りたるまま、押入より蒲団引きずり出し。頭より打
被ぎて、夜もすがら悲憤哀歎の声を漏らしぬ。
その翌々日満都の新聞紙上欄外に、二号活字もて数行の殺伐文字は掲げられぬ。
昨夜九時頃、――において、朝野渡氏を、車上に要撃したるものあり。電光一閃氏が頭上に加はりしも早速の働き、短銃を連発せしにより。曲者はその目的を達し得ずたちまちに踪跡を晦したり。車夫の言によれば、壮士躰の男にて、面貌頗る、国野為也氏方の書生、大村某といへるものに彷彿たりと。なほ後報を竢つて記すべし。
国野先生は、この新聞を手にして、呆然自失したまふところへ。令嬢の梅子殿、顔色かえて入り来り。
『お父様、大村の事が新聞に出てゐるさうでございますね。昨日の朝、あれがでまする時、私にこの一封を渡しまして。二三日の内私の事が新聞に出ました時、これを先生にあげて下さい。それまでは決して
貴嬢の手を離さず、大事に保存しておいて下さいと。頼みましたもんですから』
と、差し出すに、さてはとうなづきて
披き見れば。
かつて聞く、士に貴ぶところのものは気節なり、気節なきは士にあらず。今や時勢滔々奢侈に流れ、人心華美を
衒ふ。ここにおいてか天下の士、気節の貴ぶべきを
遺れて、黄金光暉の下に拝趨す。それ黄金は士気を麻痺するの劇薬、名節を変換するの熔爐なり。今の士相率きひて、媚を権門に
納れ、

を要路に通ずるは、その求むるところ功名
聞達よりも、むしろ先づ黄金を得んと欲するの心急なればなり。その境遇や憐れむべし。その志操や卑しむべし。しかるに天下一人の、これが
頽を挽回するの策を講ずるなし、かへつてこの気運を煽動し、人才登用を名として、為に門戸を啓き、名望あるの士を迎へて
啗はしむるに黄金をもつてし、籠絡して自家の藩籬に入れ、もつて使嗾に供せんと欲す。ああ銅臭、否鉱毒の感染するところ、士の高節清操を糜爛せしむ。あに慨歎に堪ゆべけむや。いはんやその弊害の及ぶところ、ひいて世運の進歩を妨げ、国威の拡張を
障ふる事、決して浅少にあらざるをや、速やかに眼前に横たはるの
蠧賊を除き、士風の萎靡を振ひ、社会の昏夢を警醒せんと欲し、
斬奸の策を決行す。伏して
惟るに先生の盛徳実にこれ国士無双、謙譲もつて人を服し、勤倹もつて衆を率きゆ。加ふるに経世の略、稜々の節、今の時に当つて先生を外にして、はた誰にか竢つあらむ。しかもなほかつその隙を覗ひ、名望高節を傷つけむと試むるものあるにあらずや。
今や国家実に多事、内治に外交に、英雄の大手腕を要するもの、
什佰にして足らず。しかも出処進退その機宜一髪を誤らば、かの薄志弱行の徒と、その軌を一にし、その笑ひを後世に
貽さんのみ。あに寸行隻言も、慎重厳戒せざるべけんや。すべからく持長守久の策を
運し、
力めて、人心を収攬せよ。人心の帰する所、天命の向ふ所には、大機自から投ずべし。その大機に会し、大経綸を行ひ、大抱負を伸べて、根本的革進を企図するも、未だ遅しとなさざるにあらずや。黄口の児
敢て
吻喙を
容るるの要なきを知る、知つてなほかつこれをいふ、これ深く天下の為に竢つところあればなり。
顧ふに生や師恩に私淑し、負ふところのものはなはだ多し。しかるに軽挙暴動、
妄りに薫陶の深きに
負むく。その罪実に軽しとせず。しかれども生がこの過激蛮野の行為を辞せず、一身の汚名を
堵して、微衷を吐露し、あへて一言を薦むるものは、いささか深厚の知遇に
酬ゆるに外ならず。
冀くはこれを諒せよ。門下生某泣血頓首。
覚束なき筆の跡ながら、一郎を知る、先生の眼には自から生気あり。撫然として長歎独語、
『ああ惜しい、青年を
廃らせた』
その余響かあらぬか、朝野策士は、重ねて国野氏を訪はず。されば国野氏が邸内の光景は、旧によつて旧の如くなるも。流言蜚語は、未だ全く跡を絶たず。その進退は今もなほ、世間疑問の一問題たり。
されど一郎は疾くその筋の手に捕はれて、その黯澹たる半世の歴史は、謀殺未遂犯てふ罪名の下に、葬られ
了んぬ。知らず彼がかねていへりし将来の志望とは、かかる疎暴の一挙なりしか、ああかかる簡短の児戯なりしか。行雲語らず、流水言はず。さはれ世評は既に定まりぬ。
咄痴漢、何等の大馬鹿者ぞ、戦後日本の文明を汚せりと。
外に二三
巾幗の評語あり。
『ほんとに思つたよりも、恐ろしい男だつたよ。永く置いといたら、私達だつて、どんな目に逢つたか知れやあしない』とこれのみは七十五日の後までも繰返されしを、鎌倉河岸と、飯田町の辺に、聞きしといひしものありし。(『世界之日本』一八九七年七月)
底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「世界之日本」
1897(明治30)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年10月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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