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港の妖婦 Author:田中 貢太郎← Back

港の妖婦

※(ローマ数字1、1-13-21)


 山根謙作(やまねけんさく)は三(さん)の宮(みや)の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ支那(しな)の方へ往ってその年(ねん)まで内地に帰って来なかったので、うっすらした輪廓(りんかく)が残っているだけであった。
 謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で上海(シャンハイ)航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と知己(しりあい)になって、いっしょに広東(カントン)へ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、細君(さいくん)も出来、小供も出来て、すこしは金の自由も利(き)くようになったので、商用をかたがけて墓参(ぼさん)に帰って来たところであった。
 空気は冷たかったが静(しずか)な煙(けむ)ったように見える日で、輝(かがやき)のない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気が注(つ)いてその陽(ひ)の光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキの剥(は)げかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。生(なま)のままの肉やロースにしたのや、さまざまの獣肉(じゅうにく)を店頭(みせさき)に吊(つる)した処には、二人の壮(わか)い男がいて庖丁(ほうちょう)で何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は耳輪(みみわ)をした支那(しな)人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。好(よ)く見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には白痘痕(しろあばた)のある労働者のような支那人が立っていた。
 彼はふとここは支那人街(まち)だなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ街路(とおり)になっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな酒瓶(さけびん)のような物を並べた店も、野菜を並べた店も、乾(ほ)して蛇とも魚とも判らない物や、また芋(いも)とも木の根とも判らない物などを並べた店も眼に注(つ)いた。その店さきのガラス戸や内の鴨居(かもい)などには赤い短冊(たんざく)のような紙片(しへん)を貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。
 謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み馴染(なじ)んでいた灘(なだ)の酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時出帆(しゅっぱん)の船を待つ処をまだはっきりと定(き)めていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服に籐(とう)のステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことに就(つ)いては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首に着(つ)けている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていても宜(よ)いと思った。彼はどこか入るに宜(よ)い簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから横街(よこちょう)の入口が見え、そのむこう角(かど)になった処に黄(きいろ)な覆(おおい)を垂らした洋食屋らしい店があった。
 洋食ではいけない、なるべくなら日本料理が宜(い)いが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食が厭(いや)と云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。
 もうすこし前(さき)へ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、前(さき)へ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間が経(た)ってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。
 磨(す)りガラスの障子(しょうじ)がすこし開(ひら)きかけになっていた。もう夕方のように微暗(うすぐら)い土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を束髪(そくはつ)にした女が錦紗(きんしゃ)らしい羽織(はおり)の背後姿(うしろすがた)を見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪に挿(さ)した櫛(くし)の玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。
 好い女がいるな、と謙作は男の何人(たれ)でも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。壮(わか)い女給(じょきゅう)の一人がひらひらと蝶(ちょう)のようにその前へやって来た。
「召しあがり物は」
 謙作は籐(とう)のステッキを右側の壁に立てかけていた。
「魚を喫(く)いたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね」
「鯛(たい)でも鰆(さわら)でも、どっちでもできます、お魚軒(さしみ)がお入用(いりよう)なら、お魚軒もとれます」
 謙作は嬉しかった。
「あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、姐(ねえ)さん、その魚軒とフライをもらおうか」
「承知いたしました、御酒(ごしゅ)も召しあがりまして」
「そうだ、その御酒(おさけ)が第一の目的と云うところだ、これから復(ま)た暫(しば)らく飲めないことになるからね、船が出るまでには心遺(こころのこ)りのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで」
 謙作は台湾の陽(ひ)に焦げた肉の締った隻頬(かたほお)に笑(わらい)をちょと見せた。
「承知いたしました」
 女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作は宜(い)い気もちになって衣兜(かくし)から敷島(しきしま)の袋を出し、その中から一本抜いて火を点(つ)け、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。
 洋服の男は盃(さかずき)を口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えている容(ふう)であった。その洋服の男の前のテーブルにも街路(とおり)の方を背にして、鳥打帽を冠(き)た筒袖(つつそで)の店員のような壮(わか)い男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の椅子(いす)に腰をかけて、その男と何か話していた。
 謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪の櫛(くし)からはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体を反(そら)して、右の手をちょと曲げていた。
「お待ちどおさま」
 はじめの女給が銚子(ちょうし)と盃を持って来て、もう盃を出していた。
「や、ありがとう」
 謙作は煙草(たばこ)の吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女に酌(しゃく)をしてもらった。
「すこしお温(ぬる)いかも知れません、お温ければなおします、如何(いかが)でございます」
 燗(かん)は飲みかげんであった。
「けっこう、けっこう」
「では、すぐお料理を持ってまいります」
 女は銚子を置いてくるりと背後(うしろ)向きになった。
「おい、酒だ」
 洋服の男が右の指端(ゆびさき)でテーブルの上を軽く叩(たた)いた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。
「まだおあがりになります」
 それは愛嬌(あいきょう)のない聞く者をして反感を起させる詞(ことば)であった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。
「おい、なにがまだだい、姐(ねえ)さん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、宜(い)い、黙って酒を持って来た」
 女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。
「あの玉(たま)があってみろ」
 洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へ馳(は)せるようにしたが、その拍子に隻方(かたほう)の赤濁(あかにご)りのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。
「お待ちどうさま」
 女が魚軒(さしみ)の皿とフライの皿を提(さ)げて来ていた。
「あ、これは宜い、後をすぐ浸(つ)けておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね」
「どちらへいらっしゃいます」
「台湾へ帰るところだよ」
「おや、台湾へ、それは大変でございますのね」
「あ、あ、ちょと途(みち)が遠くってね」
 謙作は魚軒(さしみ)に添えた割箸(わりばし)を裂いて、ツマの山葵(わさび)を醤油の中へ入れた。
「台湾は宜(い)いな、台湾にいたのですか」
 それは洋服の男が己(じぶん)の方へ向って云った詞(ことば)であった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は赧黒(あかぐろ)い細長い顔をこっちへ向けていた。
「そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです」
「基隆(きいるん)ですか、台中(たいちゅう)ですか」
「台中です」
「そうですか、台湾は暢気(のんき)で宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、南京(ナンキン)にも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね」
「そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも」と謙作は云ったものの、その男の風体(なり)から押して漂泊癖(ひょうはくへき)のある下級船員ののんだくれであろうと思った。
「なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです」
 洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。
「なんです、何か旨い儲(もう)け口ですか」
 謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後で盃(さかずき)を持った。
「そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね」
 謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。
「そうですか」
 そこへ女が後(あと)の銚子を持って来た。謙作は洋服の男が前(さき)に酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。
「このお客さんが早かった、まあ、前(さき)へあげておくれ、後で好い」
 女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。
「姐(ねえ)さん、まあ、憤(おこ)るなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ」
 洋服の男は嘲(あざけ)るような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐ執(と)って盃(さかずき)に注(つ)いだ。
「石ってなんです、宝石かなんかですか」
 謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながら訊(き)いてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなり起(た)って来て、謙作の前の椅子を引寄せた。
「あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか」
 そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作は煩(うる)さい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。
「一つあげましょう」
 洋服の男は隻手(かたて)でそれを遮(さえぎ)るようにした。
「いや、それは戴(いただ)きません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、己(じぶん)で執って来て飲みます」
「そうですか、では、あげますまいか」
「そうしてください、そうしていただくと私も自由で宜(い)いのです」
「では、どうぞ御自由に」
 謙作はその盃(さかずき)に己で酒を注(つ)いで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。
「それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね」
「まあ、まあ話してください」
「では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那の詞(ことば)を遣(つか)います、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な富豪(かねもち)で、父には七人の妾(めかけ)があったのです、私は他の兄弟もない独(ひと)り児(ご)のことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうに奇(き)を好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、興業物(こうぎょうもの)とかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は印度(インド)から来た女奇術師の一座を暫(しば)らく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それが鳩(はと)になって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になって這(は)ったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や朋友(ともだち)を入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の眼目(がんもく)はこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください」
 洋服の男はそう云って思いだしたように双手(りょうて)を兜衣(かくし)に入れた。
「ああ」
 謙作は頷(うな)ずいてみせた。洋服の男は一本の葉巻とマッチをだして、面倒くさそうに火を点(つ)けた。
「事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きな棗(なつめ)の木があって、それに棗の実がいっぱいに実(みの)っていたのです。私はその棗の木の下へ仕掛けのある箱を置いて、二つ三つ得意の奇術をやり、それから石を投げて鳩(はと)にして飛ばしたところで、
(ふうう)
 とさもおかしくてたまらないと云うような嘲(あざけ)り笑いをする者もあるのです、私は怪(け)しからん奴だと思って、見ると赤い帽子を著(き)た、顎髯(あごひげ)の白い、それもまばらに生(は)えた老人が笑ってるのです、私は後の詞(ことば)によっては、撲(なぐ)り倒してやろうと思って、その顔を睨(にら)みつめると、
(若旦那、そんな小供のするような奇術は駄目ですよ、私の奇術を見せましょうか)
 と云うのじゃないですか、私は腹が立つし、種も仕掛けもない手ぶらの老人が、気の利いたことができるものか、何かやらして、気の利いたことができなかったら、大(おおい)にとっちめてやろうと思ったので、
(そうか、では、やってもらおう、お前さんは、どんなことができるのだ)
 と云うと、老人はにやにや笑って、
(若旦那、私にはなんでもできますよ、私は若旦那を猿(さる)にしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きな棗(なつめ)の木を枯らしてみましょうか)
 と云うのです、いくら奇術が巧(うま)いからと云って、立木(たちき)が枯らされるものでない、私は老人がでたらめを云って、私を笑わせて銭でももらおうとしているのだな、と思ったので、ますます腹が立って、
(よけいなことを云わずに、この棗の木が枯らされるなら、枯らしてもらおう)
 と云いますと、老人は十字架をかけたように首にかけていたプラチナの鎖をはずして、その鎖に附けてあった小さな袋を出し、それを右の手の掌(てのひら)に握ってから、
(それ、すぐ枯れますよ)
 と云って、その手を上にあげて棗の木を呪(のろ)うとでも云うようにすると、どうでしょう、今まで青あおしていた棗の葉が急に萎(しお)れて来て、棗の実がぼろぼろと落ちるのじゃありませんか、私はびっくりして驚くと云うよりも恐ろしくなったのです、すると老人は、
(どうです若旦那、私の云うことに嘘はないでしょう)
 とすまして云うのです、
(私が疑ったがわるいのです、どうか許してください)
 私はしかたなしに老人にあやまったのです、すると老人は、
(若旦那が判ってくだされるなら、この木を枯らすも可哀そうですから、活(い)かしましょう)
 と云って、この手を横に二三度動かすと、今まで落ちていた棗(なつめ)の実が落ちやんで、萎(しお)れていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて、父も母も呼んで来て引き合せたうえで、大(おおい)に饗応(ごちそう)をして、その日から老人にいてもらおうと思って、老人にそのことを云ってみると、老人は、
(若旦那の御親切はありがたいのですが、私は家族を伴(つ)れておりますから、一人こちらで御厄介になることはできません)
 と云うから、その家族も伴れて来ていっしょにおれと云っても、
(いや、また御厄介になります、私の法術は若旦那のお気に入ったように思われますから、そのうちにお教えします、しかし、これは手品と違って、不思議な術ですから、腹(はら)が出来ないとお教えしても駄目(だめ)です、そのうちに若旦那に腹が出来たなら、何時(いつ)でもお教えします、これからちょいちょい遊びにあがります)
 と云って、いくら止めても帰って往くのです、居処(いどころ)を聞いてもそのうちに知れると云って云わないものですから、私は老人をますます豪(えら)い異人だと思うようになったのです、それから老人は、二日隔(お)き、三日隔きに、どこからともなしに飄然(ひょうぜん)とやって来ては、石を蛙(かえる)にしたり、壁へ女の姿を現わしたりして見せて、その後(あと)で饗応(ごちそう)を喫(く)って帰って往ったのですが、それから一箇月ばかりすると、私の家に大きな不幸が起ったのです、午後の茶を飲んでいた父が、病気でもなんでもないのに、そのまま倒れて亡くなったのです、私の家は他に近い親類もないので、母が雇人(やといにん)を指揮して、やっと葬式(とむらい)をすましたところで、父が亡くなってから十日目の朝になって、その母がまた宵に寝たままで亡くなっているのです、これは後で判ったのですが、そんなことを知らない私は、もう力にする者はその老人一人だと思いまして、母の亡くなった後のあとしまつは、一いち老人に相談したものです、それでも老人は、私の家に泊(とま)るようなことはしなかったのです、すると、ある日のこと、老人が壮(わか)い可愛らしい女を伴れて来たのです、それが老人の女(むすめ)です、その女(むすめ)は三度老人に伴(つ)れられて来て、三度目に私の家に泊ることになったのですが、私と女(むすめ)との間は、その晩からもう他人でなくなったのです、しかし、これは恐ろしいわなだったのです、父も母もその妖賊(ようぞく)の手に死に、私もその手に死のうとしていたのです、私は翌日、その女(むすめ)が帰ると云うので、送って往ったのですが、女(むすめ)の家は入江の水際(みずぎわ)に繋いである怪しい舟です、私はそのまま舟の一室へ閉(と)じ籠(こ)められるように入れられたのです、もし強(し)いて帰ろうとしたなら、女(むすめ)の姉の使う剣(けん)と、老人の毒手(どくしゅ)が待っているのです、女(むすめ)の姉は跛の醜い女でしたが、七本の短剣を使うのです、後(あと)から後から空に投げあげるさまが、魔神の手がそれを手伝うように思われたのです、私が往った時、老人はその姉女(あねむすめ)を呼んで、饗応(ごちそう)だと云って剣を使わせたのですが、それは私に死の命令をしたものです、しかし、女(むすめ)は私をかばってくれたのです、何も知らない私は、老人がどうしても帰さないので、しかたなしに泊って、夜中比(ごろ)に一度目を覚ましてみると、次の室(へや)で女(むすめ)が姉と激しく云い争っているのです、
(あまり可哀(かわい)そうじゃありませんか、私は厭(いや)です、あの方は、私に免じて助けてやってください)
 その声の後から姉の詞(ことば)がするのです、
(あんな男にふざけやがって、痴(ばか)、お前が厭なら、私がやるよ)
 私はその夜(よ)殺されようとしていたのです、私は歯の根もあわずに顫(ふる)えてると、隣(となり)の声はすぐ聞えなくなって、ひっそりとなったのです、私は私に好意を持っている女(むすめ)がどうかして助けてくれると宜(い)い、もし金で往くことなら、自家(うち)の財産を皆投げ出しても宜いから、それを女(むすめ)に話して、助けてもらおうと思っていると、夜(よ)の明け方になって、そっと女(むすめ)が入って来て、黙って私の手に鎖の附いた小さな袋のような物を握らして、
(これは私の父の持っている靺鞨(まっかつ)の玉(たま)です、もし、危険なことがあれば、これを揮(ふ)ってくだされば宜いのです、これさえあれば、何事でも思うとおりになります、これを持っとれば、もう父も姉も、あなたに害を加えることはできないのです、帰ってください、もう、これっきりお目にかかりません)
 と、云ってから、女(むすめ)は泣きだしたのです、私は心に余裕があれば、何か云ってやったのですが、まだ恐ろしさが除(の)かないものですから、そのまま急いで戸を開けて舳(みよし)に出たのです、気が注(つ)くと老人の呻(うな)るような怒る声が聞えていたのです、もう黎明(よあけ)で東のほうが白くなっているのです、私はそれから家に帰ったのですが、女(むすめ)のことが気になるし、老人のこともうすきみがわるいので、五六人の壮(わか)い男に銃を持たして、入江の岸へ往ってみると、逃げたのか舟はもういなくなっていたのです、私はそれでも女(むすめ)のことが気になるので、その後(のち)も人を頼んで詮議をさせたのですが、とうとう判らなかったのです、その玉は木の葉の形をした瑠璃紺(るりこん)の石です、その玉を手に入れた私は何をしたのでしょう、私には金がたくさんあったので、強盗の真似(まね)をする必要はなかったのです、私はそれを女に用いたのです、私は知事の奥さんとも、公使の奥さんとも、市長の姉女(あねむすめ)とも、歌妓(げいしゃ)とも、女優とも関係したのです、そして、それが世間の問題になりかけた時、マニラ生れの日本人だと云う歌劇の一座が来たのです、私は性懲(しょうこ)りもなくまたその座頭(ざがしら)だと云う女優に眼をつけて、それに関係をつけたのですが、その女優のために、その玉を盗まれてしまったのです、私は世間の攻撃が煩(うる)さいし、その玉が惜(おし)いので、一切の財産を金にして、それから十年あまり……」
 洋服の男がそれまで云いかけたところで軽いゴム裏(うら)の音がした。謙作はふと顔をあげた。前の隅のテーブルにいた女が帰りかけているところであった。長手(ながて)な重みのある、そしてどこか艶(なまめ)かしいところのある顔を見せて、洋服の男の背後(うしろ)の方から出ようとする容(ふう)で、長い青っぽい襟巻(えりまき)の襟を掻(か)き合せていた。謙作は背後姿(うしろすがた)も好(よ)かったが、好(い)い女だなと思ってちょっとその容貌(きりょう)に引きつけられた。と、洋服の男が顔をあげた。洋服の男は女の顔を見ると驚いたような眼をして、じっと眼を見据(みす)えるようにしたが、いきなり飛びあがるように起(た)ちあがった。
「おい、天華(てんか)じゃないか」
 謙作は夢から覚めたように洋服の顔と女の顔を見くらべた。女は冷然とした顔をしていた。
「うむ、天華じゃ、天華」
 洋服の男は女の肩のあたりに手をやろうとして、体の向きを変えて背後向(うしろむ)きになった。女は見向(みむき)もせずにその前をつかつかと通ろうとした。
「待て」
 洋服の男の手は女の左の肩のあたりに往った。
「なにをなさるのです、失礼な」
 女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に仰向(あおむ)けに倒れてしまった。と、ガラス戸が開(あ)いて女の姿は外へ出てしまった。
「この盗人(ぬすっと)」
 洋服の男は跳ね起きるなり女の締めかけにしてあったガラス戸を開けて走りでた。
「もし、もし」
 謙作と洋服の男のテーブルを受持っていた女給(じょきゅう)は、急いで洋服の男の後(あと)から追って往った。謙作はもしかすると今の女が、あの男の玉を盗んだと云う女優ではあるまいかと思った。しかし、それにしてもあまり現実にかけ離れている荒唐無稽(こうとうむけい)に近い話であるから、その話と今の女をいっしょにすることはできなかった。謙作はふとあれは狂人(きちがい)ではあるまいかと思った。
 もう時間はどうだろう、謙作はふと時間のことが気になった。彼は急いで手首の時計に眼をやった。時間は四時十分になっていた。
 まだ二時間はあるが、ぐずぐずしていては、またどんな係(かか)りあいが出来るかも判らない、いっそ船へ往って船で飲もうと思いだした。謙作は勘定(かんじょう)をして出ようと思って顔をあげた。朋輩(ほうばい)の出て往ったのを気にしていた、三人の女給が、開(あ)いたガラス戸の側(がわ)に立って外の方を見ていた。
「おい、姐(ねえ)さん」
 謙作が右の指節(ゆびふし)で軽くテーブルの上に音をさすと、一人の女がすぐ来た。
「勘定をしてもらいたい、いくらかね」
 女は皿と銚子を眼で読んでいたがすぐ価(ね)を云った。それは二円と少しのものであった。謙作は小銭を三円出した。
「後はさっきの姐さんにやって貰おう」
 謙作は女が金を持って往くのを見て煙草を出し、それにマッチの火を点(つ)けて、一吸(いっぷく)してから腰をあげた。
「大変よ、大変よ」
 おびえたような声をしながら出て往っていた女が、ガラス戸の処に姿を見せた。
「どうしたの、どうしたの」
「どうしたって、大変よ、今のお客さんが、己(じぶん)で首を突いたのよ、私、もうどうしようかと思ったわ」
 謙作は煙草をとり落した。
「あの横町(よこちょう)の水菓子屋(みずがしや)の前まで走ってって、いきなり短刀を出して首を突いたのですよ、おっそろしい」
「どうしたと云うのでしょう、あの女の方(かた)を追っかけて往ったのじゃないこと」
「そうなのよ、でも女の方は見えなかったわ」
「いったいどうしたと云うのでしょう、狂人(きちがい)でしょうか」
「まあ狂人(きちがい)だ、わ、よ、女の方に怨みがあるなら、女の方を殺したら好いじゃないの」
 謙作もその詞(ことば)を聞くとあの男はたしかにどうかしていたのだ、だからあんなことを云ったのだと思った。そして、己が今その男の対手(あいて)になっていたことを思いだして、係りあいになって出発が出来ないようなことがあっては大変だと思いだした。
「そいつは豪(えら)いことになったものだ」
 謙作はすこしも心にかけていないようなことを云い云い女の傍を通って外へ出たが、横街(よこちょう)のほうは見ずにそのまま初めの街路(みち)を逃げるように歩いて往った。

※(ローマ数字2、1-13-22)


 何時(いつ)の間にか電燈が点(つ)いていた。謙作は洋食屋を出る時の物に追われているような気もちは改まって、ゆっくりした足どりになって微暗(うすぐら)い黄昏(ゆうぐれ)の街路(まち)を歩いていた。
 天気が変ったのか重(お)んもりした空気が酒のある頬(ほお)にそそりと触れて暖かった。彼の頭には自殺したと云う怪しい洋服の男の印象が残っていたが、それは何年も昔のことのようなまたちがった世界の出来事のような気がしていた。
 ふと煙草のことを思いだした。彼はちょと立ち止まってステッキを左脇(ひだりわき)に挟(はさ)み、衣兜(かくし)に入れた煙草の袋から一本抜いて口に喞(くわ)え、それからマッチをだして火を点けながら燃えさしのマッチの棒を地べたに捨て、ひと吸いしてから歩こうと思って、顔をあげて右側につらつらと眼をやった。
 そこには電燈の明るい洋館の二階があって、その窓から長手(ながて)な顔の女が胸から上を見せていた。女の顔はにっと笑った。謙作はその女の顔に見覚えがあるようであったからじっと眼を止(と)めて見た。それは今のさき洋食屋にいた女であった。謙作は怪しい洋服の男が口にした天華(てんか)と云う名をちょと思いだした。女は頭をさげて見せた。
「今、失礼いたしました、ちとお立ち寄りくださいまし、お茶でもさしあげましょう」
 謙作は時間のことは心配しなかったが、女の素性(すじょう)が判らないうえに、一度位それも洋食屋などで顔を合せた位の人の内へ慣れなれしく入って往くのも気が咎(とが)めるし、また壮(わか)い女があまり慣れなれしくするのもうす鬼魅(きみ)がわるいので躊躇(ちゅうちょ)した。
「おあがりくださいまし、よ、他に何人(たれ)も御遠慮なさる者はいませんから」
 謙作はふと考えた。この女の物ごし風体(ふうてい)はどうしても良家(りょうか)の子女じゃない、女優のあがりか歌妓(げいしゃ)のあがりである、それに一人でおると云うのは、旅にでも来ているのか、それともと考えて、金のある男を待っているある種の女の群に思った。彼は船にはまだ時間があると思った。
「さあ、どうぞ」
「では、ちょっと失礼しましょうか」
 謙作は煙草の喫(の)みさしを捨てて入口の方へ注意した。門燈(もんとう)のぼんやりと燭(とも)っている入口のガラス戸がすぐ見えた。
「そこの入口を入って、右側の階段をおあがりくださいまし、四つ目の室(へや)でございます」
 謙作はちょと女の顔を見てから入口の方へ歩いて往った。そこには磨(す)りガラスのように埃(ほこり)の白く附着したガラス戸が彼の来るのを待っているように、ハンドルがはずれて口を細目に透(す)けていた。彼はそのガラス戸を軽い気もちで開(あ)けた。
 見附(みつけ)に受附のような出っぱった室の窓ガラスが見えて、中に肥った頬(ほお)ペタの赧(あか)い老婆が鼻眼鏡のような黒い紐(ひも)の附いた玉の大きな眼鏡をかけて、横向になって表紙の赤茶けた欧文の小本(こほん)を覗(のぞ)いていた。その室の右にも左にも微暗(うすくら)い板(いた)の間(ま)があって、その前(さき)に梯子(はしご)の階段が見えていた。謙作は右の板の間の端(はし)についた棕櫚(しゅろ)の毛の泥拭(どろぬぐ)いで靴の泥を念入りに拭ってからゆっくりと階段をあがって往った。
 彼はそうして白い煉瓦(れんが)の階段を一段一段あがりながら、うっかり女の誘惑に乗ると帰りの旅費まで無くする恐れがあるので、めんどうと見たなら茶代(ちゃだい)に相当する物を置いてさっさと逃げだそうと思った。彼はそうして宜(い)い考えの浮んで来る己(じぶん)の頭に、快(こころよ)い満足を感じながら二階の廊下に出た。
 微暗(うすくら)い窟穴(ほらあな)のような廊下の前(さき)に一処(ひとところ)扉が開(あ)いていて、内から射した明るい燈(ひ)が扉を背で押すようにして立っている者を照らしているところがあった。謙作はそれがあの女であろうと思ったので、その方へ歩いて往った。それはたしかに彼(か)の女であった。
「ようこそ」
「失礼します」
 謙作は曖昧な返事をしながらちょと頭をさげるようにした。
「ひどい処でございますわ、さあどうぞ」
「失礼」
 謙作は中へ入った。雲母(きらら)のようにぎらぎら光る衝立(ついたて)が立っているので、それを左によけて通った。そこは室(へや)の中程に角(かく)なテーブルを据(す)えて、薔薇(ばら)のような花の咲いた鉢(はち)をのっけ、そのまわりに真紅(まっか)な天鵞絨(びろうど)を張った椅子(いす)や安楽椅子を置いてあった。窓のほうには緑色のカーテンが垂れていた。その窓の下にも真紅な天鵞絨を張った寝椅子(ねいす)をはじめ種種(いろいろ)の椅子が※(「女+朱」、第3水準1-15-80)(きれい)に置いてあった。
 謙作はそれを見ると外套(がいとう)を脱がなくてはすまないように思った。彼は帽子掛けはあるまいかと思って左の方に注意した。三段になった小さな棚がそこにあった。彼はその傍へ往って下の段にステッキと帽子を置き、それから外套を脱ぎかけた。ふわりとした暖かい手が背後(うしろ)にあった。
「おとりいたしましょう」
 外套はそのままするりと脱がされてしまった。謙作はきまりがわるかった。
「これはどうも」
「では、どうかおかけくださいまし」
 女はそう云い云い外套を畳(たた)んで二つに折って棚の上に置いた。謙作はテーブルの方に往きながら手首の時計に眼をやった。時計は四時四十分になっていた。
「私は、すぐお暇(いとま)します、船に乗ることになってますから」
「それでも、まあ、すこしお話しくださいまし」
 女はもう傍へ来ていて廻転(かいてん)椅子の口をこっちに向けて勧めた。謙作はそれに腰をかけて鉢の微白(ほのじろ)い花に眼をやった。
「さっきは失礼いたしました、私は独(ひと)りこうやっておりますものですから、淋しくなると、つい独りであんな処へ出かけてまいりますの、でもさっきは、変な男に係り合って、びっくりいたしましたわ、どうしたと云うのでしょう、私に天華とかなんとか云いましたの、ね」
 女は右横の椅子に腰をかけていた。
「そうですよ、ありゃ狂人(きちがい)ですよ、あれから豪(えら)いことがありましたよ、あなたは御存じないのでしょう」
「ちっとも存じません、私を追いかけて来るようでしたから、変な巷(ろじ)を抜けて逃げてまいりましたわ、何かありまして」
「あなたの後(あと)から、追っかけるようにして出て、あの前(さき)で咽喉(のど)を突いて死んだと云うのですよ、私は見なかったが、婢(じょちゅう)が後(あと)から往って、見て来ての話でしたよ、どうも狂人(きちがい)ですね」
「ま、咽喉を突いて、どうしたと云うのでしょう、可哀そうでございますの、ね」
「可哀そうですよ、私のテーブルへ来て靺鞨(まっかつ)の玉(たま)と云うのを人に盗まれたから、それを探して、東洋の港から港をさまようていると云ったのですよ、へんな夢のようなことを云ってましたから、どうしても狂人(きちがい)ですね」
「そうでしょうか、それにしても、可哀そうじゃございませんか、どこの方(かた)でしょう」
「さあ、どうも支那人らしいです、ね」
「そうでございましょうか」
 謙作はこの時、この女は思ったような女でないと思って軽い失望を感じた。彼はすぐ切りあげようと思って衣兜(かくし)から煙草をだした。
「今、何か持ってまいりますから、どうぞ御ゆっくり、独(ひと)りで淋しくって淋しくって困ってるところでございますから」
 女は隻手(かたて)をテーブルにかけて縋(すが)るようにしていた体を起して、鉢の陰からマッチを擦(す)って出した。謙作はその火に煙草をだした。
「すみません、お茶を一つ戴(いただ)いて帰りましょう、六時の船に乗ることになってますから」
「でも、すこしはおよろしゅうございましょう」
 その途端(とたん)に扉の軋(きし)る音がして入った者があった。それは白い前垂(まえだれ)をした壮(わか)い女が盆の上に瓢箪(ひょうたん)の形をした陶品(せともの)のビンを載せ、それに小さな脚(あし)の長いコップを添(そ)えて持って来たところであった。
「ここへ持ってらっしゃい」
 白い前垂の女は島田(しまだ)に結(ゆ)うていた。彼女はその盆をテーブルの隅へ置いてからお辞儀(じぎ)をして出て往った。
「つまらんものがありますから、さしあげましょう、そのうちに何か出来ましょうから」
 女はビンを持ってそれをコップに注(つ)いで謙作の前へだした。謙作はここでぐずぐずしていては船に遅れるから、一ぱい飲んだらすぐ帰ろうと思った。
「それでは折角(せっかく)ですから、一ぱい戴(いただ)きましょう」
 謙作はちょとお辞儀をして、煙草を前の灰皿に置いて微青(うすあお)く見えるその液体を口にした。それはウイスキーの薄いような味の物であった。と、その液体の匂いであろうかそれとも鉢の花の匂いであろうか、快(こころよ)い牛蒡(ごぼう)の匂(におい)のような匂が脳に浸(し)み徹(とお)るように感じた。
「如何(いかが)でございます、お口にあいまして」
 謙作はふた口にそれを飲んでしまってコップを置いた。
「たいへん甘(うま)い物ですね、……では、遅くなりますから、これで失礼いたします」
 謙作はそう云って体を起そうとした。柔(やわらか)な女の足端(あしさき)がその右の足首にふわりと触(さわ)っていた。謙作はその足をのけるのが惜しいように思われた。謙作はそうして鉢の花に眼をやった。今まで微白(ほのじろ)いように見えていた花は鮮(あざやか)な真紅(しんく)の色に染まっていた。彼は驚いて女の顔を見た。女の濃艶(のうえん)な長目(ながめ)な顔が浮きあがったようになっていた。
「およろしければ、二三ばいつづけておあがりくださいまし、宜(い)い気もちになりますから」
 女はビンを持って二度目の酌(しゃく)をした。それと同時に女の二つの足端(あしさき)が右の足首に絡(から)まるのを感じた。謙作はまぶしそうに眼を伏せた。
「お婆さんのお酌で、お気のどくですけれど」
 謙作は隻頬(かたほお)で笑ってコップを持った。
「私も戴(いただ)きますわ」
 謙作がその方を見た時には、女はもうコップを赤く火照(ほて)った口元に持って往って艶(なまめ)かしい笑(えみ)を見せていた。謙作のまわりには華(はなやか)なかがやかしい世界が広がっていた。
「あなたの名はなんと云うのです」
「わたし名なんかありませんわ、そうですわ、ね、天華とでもして置きましょうか」
 謙作はテーブルの端(はし)にやった己(じぶん)の右の手に暖かな手の生(なま)なましく触れたのを感じた。彼はもどかしそうにその手を握ったのであった。

※(ローマ数字3、1-13-23)


 謙作は呼苦(いきぐる)しい眠りから覚めた。それは花園(かえん)の中を孔雀(くじゃく)か何かのようにして遊び狂うていた鳥の翅(つばさ)が急にばらばらと落たような気もちであった。彼は二三度大きく呼(いき)をしてから眼を開けた。白い暖かな裸の体が草色の羽蒲団(はねぶとん)に被(おお)われていた。
 謙作はびっくりした。それと同時に奇怪な詩のような印象が頭に蘇(よみがえ)って来た。しらじらと明け離れた朝の光がその印象の隙(すき)から射(さ)して来るように感じた。彼は船に乗り遅れたことを思いだした。
「これは」
 謙作は腹這(はらばい)になった。彼はひどく後悔した。昨日(きのう)の船に乗って帰ると云う電報を打ったことを思いだした。彼はこの瞬間、八つになる女の子と五つになる男の子が己(じぶん)を待って母親と噂をしている容(さま)を眼前(めさき)に浮べた。彼はたまらなく苦しかった。彼は寝てはいられなかった。彼はいきなり起(お)きようとして、己も裸になっているのに気が注(つ)いた。
「まだお早いですよ、もすこし休んでいらっしゃい」
 女はうす目を開けていた。謙作はじっとしてはいられなかった。
「いや、こうしてはいられない、洋服はどこにあるのでしょう」
 榻(ねだい)の枕元(まくらもと)の台の上に乱れ箱に入れて洋服やシャツが入れてあるのが見えた。彼はすらりと羽蒲団を横に脱(ぬ)けだして下におりた。
「今から何をなさるのですよ」
「これから汽船会社へ往って来るのです」
 謙作はシャツを着ながら云った。
「だって船はないのでしょ」
 女はすまして云った。謙作はそれが忌(いま)いましかった。
「今日はないが、三日目にありますからね、ちょと往って来るのです」
「そう」
 女は冷笑を含んだように云った。謙作はこせこせとワイシャツを着、ズボンを着(つ)け、靴もあるので靴も穿(は)き、それから上衣(うわぎ)に手を挿(さ)しながら見ると、時計も紙入(かみいれ)もちゃんと箱の中に入れてあった。彼はふと金がどうかなっていはしないかと思ったが、そこで検(しら)べることも出来ないので、それを上衣の内兜(うちかくし)に入れ、時計を手首に着けた。
「そんなにせかせかしたって、会社なんかが見つかるものですか」
 女はもとの枕で寝ていた。
「なに、海岸通りへ往ったらありますよ、ちょと往って来ます」
「御飯は」
「どこかで喫(く)いましょう」
「そう」
 謙作は入口と思われる方へ往ってそこの扉を開けた。そこは宵に見たままの室(へや)であった。彼はその室を横切って衝立(ついたて)の立っている方へ往った。そこの右側の棚には外套(がいとう)も帽子もステッキも宵に置いたままであった。彼はそれを持って急いで外へ出た。
 廊下は明かるかった。謙作は廊下へ出ると内兜(うちかくし)に手をやって紙入を出してみた。金にはすこしも異状がなかった。彼は幾等(いくら)か女に置いて往かなくてはならないと思ったが、なんだかばかばかしくもあった。彼はそのまま階段をおりた。
 戸外(そと)へ出ようとして扉に手をかけた時、ふ、ふ、ふと笑うような声がした。揮(ふ)り返って見ると、見附(みつけ)の窓の中に宵のままの老婆が大きな眼鏡(めがね)を見せていた。謙作は気もちがわるいので、宜(よ)くは見もしないで戸外(そと)へ出た。
 朝陽(あさひ)がむこう側の屋根瓦を寒く染めていた。労働者が群をして狭い街路(まち)を往来していた。謙作は海岸の方角が判らなくなっていた。彼は人に訊(き)こうと思った。
「しょうしょう伺(うかが)います、海岸の方へ往くには、どう往ったら宜(い)いでしょう」
 三人伴(づれ)の道具箱を肩にした大工の一人を見つけて訊いてみた。
「俺達も海岸へ往くところだが、海岸はどこかね」
「台湾航路の汽船の会社のある処ですがね」
「それじゃすぐだ、俺達に跟(つ)いて来るが宜い」
 謙作は三人の後(あと)から跟いて往った。狭い街路(とおり)から電車通りへ出て、線路を横切ってむこうの広い街路(とおり)へ入ったところで、三人の大工はどっかへ往ってしまった。
「しょうしょう伺います、海岸の、台湾航路の汽船会社のある方へは、どう往ったら宜いのでしょう」
 謙作は海員のようなマドロスパイプを啣(くわ)えて来た男に訊いた。
「それは、この横町(よこちょう)を往って、それから三つ目の街路(とおり)を、右へ折れてけば宜い」
 マドロスパイプはすぐ左の方に折れている横町に指をさした。謙作はその方へ歩いて往った。そして、三つ目の街路(とおり)を見つけて、それを右へ折れて往ったが、海岸へも来なければ会社らしい建物も見つからなかった。
「海岸はまだでしょうか」
 謙作は鰌汁(どじょうじる)の荷をおろしている老人に訊(き)いた。
「ここは山(やま)の手(て)じゃ、有馬(ありま)の温泉ならそう往っても好いが、海岸はあべこべだよ」
 老人はもと来た方へ指をさした。謙作はしかたなしにとぼとぼと引返した。そして、歩いているうちに路(みち)が判らなくなった。
「海岸はどう往ったら宜(い)いでしょう」
「これから、右の方へ往ったら宜いが、よっぽどありますよ」
 謙作はまたその方へ往った。しかし、依然として海岸は来なかった。
「このあたりに食事をする処はないでしょうか、どこでも宜いのですが」
 謙作は空腹のことから旅館(やどや)へ入って、旅館(やどや)から電話をかけるなら宜いと思いだした。彼は旅館(やどや)を尋ねて往った。
「旅館(やどや)ならこの前(さき)にあるよ」
 謙作は教えられた方へ往ったが、旅館(やどや)は見つからなかった。
 謙作はへとへとになって黄昏(ゆうぐれ)の街路(とおり)を歩いていた。
「まあ、今まで何をしていらしたのです、奥様がどんなにお待ちしているか判りませんわ」
 謙作は不思議に思ってその方を見た。そこには洋館の入口の扉を半ば開けて島田髷(しまだまげ)の女が半身(はんしん)を露(あら)わしていた。それは昨夜(ゆうべ)飲み物を搬(はこ)んで来た女であった。謙作は昨夜(ゆうべ)の家の前に帰っていることに気が注(つ)いた。
「あ、君か」
 謙作はしかたがないので二階へあがって往った。室(へや)の中はもう燈(ひ)が点(つ)いていた。彼(か)の女は室の中のテーブルに寄りかかって、彼の入って来るのを笑って見ていた。
「汽船会社へいらしって」
 謙作は判らなかったとは云えないので、曖昧(あいまい)な返事をしながらその前へ往った。
「お疲れになったのでしょう、おかけなさいまし、お腹(なか)も空いたのでしょう、すぐ何か持ってまいります」
 女は始終笑顔をしていたが、なんだか皮肉に見えるところがあった。謙作は煙草を飲もうと思って衣兜(かくし)に手をやった。煙草は無くなって内には敷島(しきしま)の袋ばかり残っていた。彼はしかたなしにじっとしていた。
「今まで会社にいらしったのですか」
「いや、そうでもないのです、あっちこっち歩いていたのですから」
 謙作はその日のことが奇怪でたまらなかった。彼は海岸も旅館(やどや)も見つからないと云うのは、己(じぶん)がどうかしているためかも判らないと思った。彼は恐ろしかった。
 島田髷の女が広蓋(ひろぶた)に入れて料理を搬(はこ)んで来てテーブルの前に置いた。
「私はとうに戴(いただ)きましたから、あなたがあがってくださいまし」
 謙作は空腹(ひもじ)いのですぐ箸(はし)を持った。それはパンまで添えた洋食であった。
「昨夜(ゆうべ)のお酒をおあがりなさいまし、気がせいせいしますわ」
 陶品(せともの)のビンから注(つ)いだ飲み物が女の手から渡された。謙作は箸(はし)を置いてそれを口にした。と、謙作の前には華(はなやか)な世界が来た。
 朝になった。謙作は昨日(きのう)と同じ状態の下(もと)に体を置いていた。謙作は今日こそ車に乗って会社に往こうと思った。彼はまた起きて洋服を着た。
「またどこへいらっしゃるのです」
 女は寝たままであった。
「ちょっと往って来る」
「そんなつまらないことはおよしなさいましよ」
 謙作はそれでも出かけて往った。老婆の、ふ、ふ、ふと云うような笑声が嘲(あざけ)るように聞えた。外へ出たところで空車(あきぐるま)が来た。彼はまずその事で旅館(やどや)へ往って朝の食事をしてから会社へ往こうと思った。
「どこか海岸通りの宜(よ)い旅館(やどや)へ伴れて往け」
 車は謙作を積(つ)んで走りだした。街路(とおり)から街路(とおり)を休みなしに往ったが、旅館(やどや)がないのかちっとも止まらなかった。
「おい、旅館(やどや)はまだかい、旅館(やどや)がなければ、台湾航路の会社へでも宜(い)いぞ」
 それでも車は止まらなかった。謙作はしかたなしに車を代(か)えて走らしたが、その車もまたどこにも止まらなかった。車の上を一日照らしていた陽(ひ)が何時(いつ)の間にか掠(かす)れてしまった。
「もう宜い、おろしてくれ」
 謙作は車からおりて車賃(くるまちん)を払って歩こうとした。
「おや、お帰りなさいまし」
 二階の窓からあの女が顔を出していた。謙作は内へ入りながら俺はどうかしていると思った。
 翌日になって謙作は己(じぶん)の身が恐ろしくなったので、警察の保護を願おうと思って、警察を尋ねて往った。
「警察はこの前(さき)ですよ」
 いくら前(さき)へ往っても警察はなかった。警察署がなければ交番でも宜(よ)いと思った。
「交番ならこの街路(とおり)を抜けたところにありますよ」
 しかし、交番も見つからなかった。謙作はがっかりして歩いていると、何時(いつ)の間にか洋館の前へ来ていた。二階の窓にはあの女の顔。
 その翌日、謙作はその町を逃げだすつもりで三ノ宮駅へと往ったが、三ノ宮駅も見つからなかった。気が注(つ)いてみると女の顔が二階の窓から覗(のぞ)いていた。
 その夜、彼(か)の女は謙作の頭を己の胸のあたりに持って来さして、その耳に何か囁(ささや)いていたがなんと思ったのかその体を起さなかった。
「うちの坊ちゃん、宜(い)いことをして見せてあげようね」
 女はそう云ってから右の手を左の袖口(そでぐち)に入れて、何か握ったものを引出した。
「その花が生意気(なまいき)だから枯らしてみましょうよ」
 謙作の夢のようになっている頭にぴんと響いたことがあった。謙作はうっとりとなっている眼を務(つと)めて開(あ)けた。
「こんな花は枯れってしまえ」
 女が右の手を鉢の上にさしたが、みるみるその花は萎(しお)れて花弁がぼろぼろと落ちだした。
「うちの坊ちゃん、どう」
 謙作はそれをちょと見た後(のち)に、眼をつむってしまった。
「おや、睡(ねむ)っちゃったのだよ」
 謙作は彼(か)の女と島田の女で己(じぶん)を寝室に伴(つ)れて往くのを知りながら睡ったふりをしていた。夜の明け方になって一夜中(やじゅう)睡らずにいた謙作の手は、女の左の腕に往った。
「なにをする」
 女は急に起きあがろうとした。と、同時に女の腕に鎖(くさり)で附けてあった袋が謙作の手に移った。
「あ」
 女は叫ぶなり兎(うさぎ)のように下へ飛び下りて寝室の外へ逃げた。
 謙作はその袋を口に啣(くわ)えて、手早く洋服を着て外へ出たが、彼(か)の女はもう姿も見せなかった。
 夜はもう明けていた。謙作の頭ははっきりしていた。彼は一丁(ちょう)ばかり往ったところで、一軒の旅宿(やどや)を見つけたので入って往った。

 謙作はその日の夕方出帆(しゅっぱん)した高雄丸(たかおまる)と云う台湾航路の船に姿を見せていた。





底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
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